From Darwin to Derrida その26

 
ヘイグによる遺伝子淘汰主義を語る本書は,生物学における目的論を語り,利己的な遺伝子を語り直し,ミームを扱った.第4章は「違いを作る違い」と称してさらに行動生態学が用いる遺伝子の概念を掘り下げる.表現型,環境との関係性,何を語るためにどのような遺伝子定義を用いるかあたりが深く語られていく.
 

第4章 違いを作る違い

 

  • 私の「遺伝子」の多義性にかかる考察はその用法の曖昧性を明らかにした.「古典的」な遺伝子は観察できる違いから推測される仮説的実体だった.遺伝子は遺伝的な差から特定され,暗黙的に「違い」から定義された.片方で遺伝子は物理的実体としても捉えられた.「違いとしての遺伝子」と「ものとしての遺伝子」というライバル概念は両方とも使われるが,適応や自然淘汰を考えるときに適切なのは「違いとしての遺伝子」だ.自然淘汰は代替選択肢から「違い」に基づいて「淘汰」を行う.これらの代替選択肢は違いを作る違いなのだ.そしてこの違いの原因が遺伝的でなければ累積的な進化は生じない.

 

  • 遺伝子淘汰主義は,遺伝子が淘汰の受益者であり個体やグループは遺伝子の目的のための手段だと見做す.これに対してマルチレベル淘汰主義は,遺伝子を最下位レベルの陶太単位と見做す.
  • 同じように発達システム理論は,発達や進化について遺伝子の特権的地位を認めない.このフレームワークでは遺伝子以外の多くのものが遺伝され,発達の原因となる.ある世代から次の世代に,発達システム全体が再構成されると考えるのだ.
  • 異なるフレームワークのメリットをめぐる議論はしばしばヒートアップした.しかしそのほとんどは意味論的なものだ.異なるフレームワークは基本的な用語を異なる意味で使っている.ここをきちんと踏まえないと相互に相手を理解できない状況に陥るだけだ.

 
まずは行動生態学における遺伝子は「表現型の違いを作るもの」として捉えられているというおさらいから始まっている.ここから遺伝子淘汰主義の批判セクトであるマルチレベル淘汰論者や発達システム理論擁護者の視点についても解説されている.彼等との論争は遺伝子の定義の多義性から来る意味論的な袋小路に陥りがちだというのがヘイグの偽らざる感覚なのだろう.そして本章では「違いを作るもの」としての遺伝子が深く語られていくことになる.
  

  • 本章では,遺伝子,表現型,環境について遺伝子淘汰主義者である私の定義を用いる.定義には正確性を与えようとするつもりだが,どんな定義も難攻不落にはできない.自然淘汰は常に定義を侵食する.その過程は物事を変化させ,定義自体が進化し,異なる文脈で異なる意味を持つようになるからだ.どのような言語も敵対的な読み手による(異なる)解釈を妨げられない.相互理解は用語がどう用いられているかの明確化によって可能になるが,定義を統一するのは不可能であり,望むべきでもないのだ.
  • 私の意図は,一貫した遺伝子淘汰主義を得るための中心的な概念がどう定義されるべきかを明確化することであり,遺伝子淘汰主義が他のフレームワークより優れていることを示すことではない.私は極端な遺伝子淘汰主義者だが,マルチレベル淘汰理論をリスペクトしているし,時に使うこともある.それは一貫した理論だ.さらに私は発達システム理論も(特にそれが発達に関する場合に)リスペクトしている.これらのフレームワークは私にとって進化的な疑問を考えるためのヒューリスティックスなのだ.この代替的フレームワークも特定の問題についてはうまく扱えるのだ.

 
最後のリマークも味がある.理論は最終的にリサーチや理解のための道具なのだから,使えれば何でも使うという(実践的な行動生態学者によくある)プラグマティックなスタンスがよく現れている.