From Darwin to Derrida その30

 

第4章 違いを作る違い その5

ヘイグによる遺伝子概念の掘り下げ,環境や表現型を整理し,なぜ違いを作るものとして遺伝子を捉えるのかを解説したあと,いよいよ遺伝子の概念の深掘りに入る.まず遺伝子がcountableかどうかがテーマとなる.
 

遺伝子はカウントできるか

 

  • ジョージ・ウィリアムズとリチャード・ドーキンスは遺伝子を「世代を重ねても滅多に組み換えられないDNA配列」とした.この定義はステレルニーとグリフィスによる「文脈に敏感な差異創造者」という定義を含んでいるがより広い.

 
この定義はそれぞれウィリアムズの「adaptation and natural selection(適応と自然淘汰)」,ドーキンスの「the selfish gene(利己的な遺伝子)」ステレルニーとグリフィス「sex and death(性と死)」から引かれている.「適応と自然淘汰」は最初にウィン=エドワーズ的なナイーブグループ淘汰の誤謬を明確に指摘した古典的名著というべき本だが,残念ながら邦訳はない.「性と死」についての私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100204/1265280633

Adaptation and Natural Selection (Princeton Science Library)

Adaptation and Natural Selection (Princeton Science Library)

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

  • 効果を持たないDNA配列の存在は(それが淘汰にかからないことになるため)進化的遺伝子概念の問題点とされてきた.しかし進化的遺伝子がすべて淘汰を受ける必要はないと考えると問題ではなくなる.そして同じ効果を持つ異なる遺伝子を(配列の違いに基づいて)認めることもできるようになる.これらは淘汰にはかからないが,ドリフトあるいはドラフト(遺伝的ヒッチハイキング)によって頻度が変化しうる.同様に効果が不安的で平均的には効果がゼロであるような遺伝子も淘汰にはかからない.
  • これらは違いを生まない違いということになる.

 
異なる配列領域が自然淘汰に対して中立でも浮動で頻度が変わるのであれば,当然これは進化的な遺伝子として考えてよいことになる.中立説からみると重要なポイントだろう.
 

  • 進化的遺伝子の1次元の長さは,遺伝的な違いと相関が生じるような染色体上の長さということになる.染色体上に隣接するXとYというセグメントがあり,(Pが頻度だとしたときに)もしP(XY)≠P(X)P(Y)であれば,XとYの頻度は統計的には独立ではないということになる.この場合,Xの存在はYの存在についての情報を与える.これは連鎖不平衡と呼ばれる.
  • 組換えのホットスポットがあって,それにより緊密に連鎖したブロック間が分離されていることもあるが,多くの場合連鎖不平衡は染色体上の距離に応じて緩くなっていく.この場合には染色体を明確に進化的遺伝子として区切ることはできない.実際には形質ごとに進化的遺伝子と呼ぶべき緊密な連鎖不平衡領域は異なっていて,時にオーバーラップしていると考えるべきだろう.

 
このあたりがはっきりと排他的に遺伝子を区切れないという難しい部分になる.ここを捉えた様々ないちゃもん的批判が多いのでヘイグの説明も丁寧だ.
 

  • XとYが完全に結びついているなら自然淘汰はその効果がどちらに起因しているのかに無関心になる(この場合も実験的にはどの遺伝子がどういう効果を持つかを調べることはできる).これに対して,XとYがランダムに共存するのならXの存在はY遺伝子にとって1つの環境になり,その逆も成り立つ.そして完全に結びつくかランダムに共存するかのあいだには連続した連鎖状態がある.連鎖不平衡が高くなればXとYを同じ進化的遺伝子を扱う方が便利になる.不平衡が低いならそれぞれを遺伝子とその環境と扱う方が便利になる.

 

  • ピーター・ゴドフリー=スミスは進化的遺伝子に非恣意的な境界を引くことができないことを遺伝子淘汰主義の致命的な欠点だと主張した.彼によるとダーウィニアン個体群は明確にカウントできる集合からなるはずであり,進化的遺伝子はきちんとカウントできない以上,周辺的な存在以上にはなり得ないということになる.彼はグループや個体や細胞も時にカウンタビリティに問題があることは認めるが,進化的遺伝子の問題は特に大きいとする.それはダーウィンが記述したような実体ではなく,それは小さかったり大きかったりし,伝達についての因果的役割を持つ遺伝的物質として扱う方がいいというのだ.

 
ここからのヘイグの反論は鋭い.読みどころだ.
 

  • ゴドフリー=スミスは2種類のカウントを混同している.まずかれはバクテリア内の遺伝子の数(数千)を数えている.そして次に個体群内のバクテリアの数(百万)を数えている.そして個体群内の遺伝子の数をこの両者を掛け合わせて得ている(数十億).最初のカウントは異なる遺伝子の数を数えているが,ここで遺伝子の境界を定めていないので,遺伝子はうまく定義されていない.さらにそのように数えられたものはダーウィニアン個体群を構成しない.二番目のカウントはそれぞれの遺伝子がいくつあるかだ.これはダーウィニアン個体群のサイズを表す.しかしそれは遺伝子の境界をどう決めるかに影響されない.
  • 似たような問題は有性真核生物の進化的遺伝子の数を数えるときに生じる.染色体上の遺伝子の数は(境界が曖昧なので)うまく定義できていないが,しかし個体群内のX染色体のコピーの数はそれに影響されない.個体群の大きさを決めるのは後者の数だけだ.もし特定の個体群が異なるアレルにより構成されていれば,淘汰はこのアレルの頻度の変化により計測できる.連鎖不平衡はあるサイトのアレル頻度が近くの別のサイトのアレル頻度によりどの程度まで推測できるかを示すものだ.

  

  • 多くの重要な物事には正確な境界がない.ロッキー山脈がどこから始まるかのラインが地面にあるわけではないし,(何が山頂かについての)恣意的な選択なしにコロラド州にいくつ山頂があるかを決めることはできない.北アメリカがどのような地形の集合からなっているかを,地形のトポロジカルな特徴についての曖昧な境界と恣意的な名前付けなしに決めることはできない.
  • ウィリアムズとドーキンスにとって進化的遺伝子は中核的な概念だった.それはそのようなDNA配列は世代を越えて存続するが,個体や細胞やグループは短くはかないものだからだ.彼等の概念フレームワークにとっては,明確な境界に大した重要性はなく,存続こそが重要なのだ.これに対してゴドフリー=スミスの概念フレームワークにとってはダーウィニアン個体は明確に定義されるべきもので,存続は本質的ではないことになる.
  • 強い連鎖不平衡で定義されるDNAブロックはタンパク質コード領域の境界にとらわれる必要がない.それはコード領域より大きいことも小さいこともある.ウィリアムズは様々な組換え抑制メカニズムが働くことによって,非常に大きなブロックや,時に染色体すべてが世代を越えて受け渡される可能性を認識していた.そのような場合にはそのブロックや染色体が「遺伝子」となるのだ.このような視点から見るとミトコンドリアゲノムや組換えの生じないY染色体,そして無性生物のゲノム全体は単一の進化的遺伝子と見ることができる.

 
ここからのヘイグの論理の展開は素晴らしい.
 

  • P(XY)≠P(X)P(Y)という連鎖不平衡の定義はXとYについてのすべての依存関係に拡張できる.このような視点からは種の障壁は連鎖不平衡の重大な要因ということになる.例えば英国郊外のアカリスと(侵入種である)ハイイロリスのことを考えてみよう.ほとんどの英国の森の中では,アカリスのDNAからハイイロリスのDNAへ(すべてのアカリスのゲノムをすべてのハイイロリスのゲノムに置換するという形式で)猛烈な速度で置き換わりが生じている.アカリスのDNA配列の一部はハイイロリスの中で有利性を持つだろうが,交雑できないためにそのような機会はない.自然淘汰は遺伝子プールのなかの表現型の差に働くが,小さなDNA配列の独立の効果を「見る」ことはできない.つまり生態的な置換というのは.組換えの生じない遺伝単位からなる(競合種をあわせた)遺伝子プールにおける淘汰プロセスと見ることができるのだ(ウィリアムズ1986).進化的な遺伝子という視点を持つと,遺伝子プール概念を広げることにより種間競争を扱うことができるし.遺伝子プールを有性の組換え個体群に限定することで種間の問題を避けることもできるのだ.

 
遺伝子淘汰主義の遺伝子概念は明確な境界のない連続的である意味曖昧なものだが,それを採ることにより視点を大きく拡張し,物事の本質により迫れるということが示されている.この生態的置換にかかる見方についてはウィリアムズの1986年の「Comments on Sober’s The Nature of Selection」が引かれている.当時の遺伝子淘汰主義者とエリオット・ソーバーの論争に関連するトピックでもあったということだろう.