From Darwin to Derrida その33

 

第4章 違いを作る違い その8

 
ここまで遺伝子概念を深掘りしてきたヘイグはここで,遺伝子淘汰主義をめぐる論争の1つを取り上げてその込み入った結び目をほぐそうと試みる.これまで遺伝子淘汰主義とマルチレベル淘汰主義(階層淘汰主義)との論争が取り上げられてきたが,ここでは遺伝子淘汰主義と発生システム理論との論争がテーマになる.
この発生システム理論との論争はマルチレベル淘汰主義との論争ほど激しくなされていたわけではないようだが,やはり互いの議論のすれ違いが目立つ論争だったようだ.ヘイグはこの論争における代表的な発生システム論者としてグレイ,グリフィス,オヤマの名を挙げている.
  

発生システムフレームワーク

 

  • 発生システム理論は遺伝子中心的な発生のとらえ方,そしてさらに遺伝子中心的な進化の考え方に対する革新的な挑戦として提示された.(グレイ1992,グリフィス1998,オヤマ2000)

  • 発生システムのフレームワークにおいては,遺伝子は発生マトリクスの多くの構成要素の1つに過ぎず,発生についてなんらかの特権的な因果的要素ではないとされる.そこでは遺伝子淘汰主義は「遺伝子がどのように表現型を実現するかを決める主体であり,環境は二次的受動的な役割しか持たない」と考える点で間違いとされる.
  • 発生システム理論の擁護者からみると,自然淘汰による適応は発生にかかる問題についてバックシートにいるに過ぎないが,遺伝子淘汰主義は適応はフロントシートにいると主張するのだということになる.
  • 簡単な解決は,それぞれの主張は別の問題に答えているものだというものだ.しかしこの解決策は党派的に受け取られるだろう.というのはある現象について発生の問題と進化の問題はそれぞれ異なる答えを持つという考え方は,片方(ドーキンス,ウィリアムズ)からは受け入れられているが,もう片方(グレイ,オヤマ)には受け入れられていないからだ.遺伝子淘汰主義者は発生と進化の説明についての概念的な区別が考察を明晰化すると信じているが,発生システム論者はその区別は物事を曖昧にするだけだと信じているのだ.

 
ヘイグはそれぞれの主張が別の問題に答えているという解決を党派的に見られるかもしれないとしているが,しかしそれはまさにこの論争の実体そのものだろう.それぞれ異なる問題に取り組んでいるだけで,遺伝子淘汰主義がおかしいという主張自体が何か勘違いした批判であるようにしか思えないというのが私の感想だ.ともあれヘイグはさらに解説を試みる.
 

  • 私はここでは遺伝子淘汰主義の擁護を行いたいのであって発生システム理論の膨張振りを攻撃するつもりはない.発生システム理論は「遺伝子が発生の因果的な役割において特権的な要素ではない.表現型は遺伝子と環境の複雑で非相加的な相互作用により構成される」と主張する限りにおいては確固たる基盤を持っている.実際に発生過程における個別の遺伝子の効果を(環境の効果から)分離することはできない.
  • しかし問題は数多くの世代において様々な遺伝的背景や環境要因の中で自然淘汰が働いてきたということだ.自然淘汰は(環境が表現型を選ぶような形で)遺伝子の平均的効果を引き出しているのだ.

 

  • オヤマの「Ontogeny of Information」第二版の序言でルウォンティンはこう書いている.
  • 現代生物学の歴史を通じて生物にかかる2つの基本的な問題に関する混乱がある.『違いの起源の問題』と『状態の起源の問題』だ.最初この2つは同じ問題に見える.そして正しい方向に進めればそうなる.結局私たちが,個別の生物がなぜそのような形であるのかを説明できれば,同時にその違いも説明できることになる.しかし逆は真ではない.2つの生物がなぜ異なるかの十分な説明は,彼等の本質を知るためのすべてのことを尽くしているとは限らない.

 

  • このルウォンテインのコメントには,違いの起源の理解は状態の起源の理解の中に含まれるという含意がある.ルウォンティンとオヤマは2つの党派間の概念的な非同意を鋭く示している.

ここでヘイグは脚注にこう記している.

  • イザドール・ナビはこう言い返した.「もし私たちが,違いに対して効く自然淘汰に基づいて,各生物がそれぞれの形態に進化したことを説明できたなら,その帰結として,なぜ各生物がそのような状態にあるのかを説明できるだろう.しかし逆は真ではない.ある生物がどのように発達するかの十分な説明は,なぜその生物がそもそもそのような形態になっているのかの説明にはならない.」

この脚注に出典は記されていない.イザドール・ナビというのは社会生物学論争でグールドとルウォンティンが用いたグループの代表者としての架空の学者の名前であり,それを語ってヘイグ自身が皮肉っているというということらしい.
なおこのやりとりについてはトリヴァースが後年のルウォンティンの(イデオロギーを優先させ,自ら研究内容を制限したことによる)驚くべき生産性の低さと無内容振りを示す典型としてあげている.(おそらくこのイサドール・ナビの皮肉はヘイグが以前どこかで使ったのを脚注に再録したということなのだろう)
 
shorebird.hatenablog.com

 

  • 発生システムフレームワークでは遺伝子は発生マトリクスにおいて特権的な要素ではなく,表現型効果を(マトリクス全体でなく)遺伝子に結びつけるのは概念的誤謬になる.このマトリクスは世代ごとにエピジェネティックに構成される.本章の定義ではある遺伝子についての環境には(環境には遺伝子が含まれないと特に断らない限り)ほかの遺伝子の存在も含まれる.すると遺伝子の効果があり,それ以外は環境ということになる.
  • 効果とは差異だ.自然淘汰は表現型の差にかかる.我々がある特定の発生システムを観察するのは,数多くの世代の中で表現型の差,そして遺伝的な差異メーカーに自然淘汰がかかったからだ.差異にかかる自然淘汰が深遠な状態変化をもたらす.淘汰は差異の原因に対してかかり,状態の原因となるのだ.

 
ここは少しわかりにくい.遺伝子が差異メーカーがあることは確かだが,発生システム論者は環境もそうだというだろう.淘汰が深遠な影響をもたらすのは,次世代に伝わる差異メーカーが(環境ではなく)遺伝子だからということではないのだろうか.
ヘイグはさらに問題に対する取り組み方のところを議論する.それは包括適応度理論や遺伝子淘汰主義が,個別のメカニズムの詳細は一旦ブラックボックスして平均的な予測を行おうとする部分になる.
 

  • 遺伝子淘汰主義者は統計,変異,相関,平均などの用語をよく用い,発生システム論者は因果的な用語を好む.物理におけるメカニズムと熱力学の対比は良いアナロジーになる.熱力学は統計的理論であり,因果的な理論ではない.それは平均的に正しい予測を行う.原理的には熱力学による考察は完全なメカニカルな考察により置き換え可能だ.しかし多くの状況では完全にメカニカルな説明を行うのは実際的ではないし,しばしば不可能であり,仮に可能であっても熱力学的な予測に多くを付け加えることがない.
  • 同じように原理的にはすべての進化的な変化を(自然淘汰,情報,平均などの概念なしに)至近的な物理的因果で説明可能だろう.しかし私は実務的で予測可能な世界にとどまりたい.ソーバーはこういっている「文脈を越えて平均するという戦略は遺伝子淘汰主義の魔法の手だ.それはユニバーサルなツールであり,すべての淘汰過程をその因果構造によらずに単一の遺伝子のレベルで記述できる」.私はこれに賛成だ.(ソーバーはこれを遺伝子淘汰主義の弱点として指摘しているが)私はこれを遺伝子淘汰主義の弱みではなく強みだと考えている.

 

  • 発生システムはトゲハシムシクイが巣の中で育っているときに働いている.このシステムは各世代において生活史の一部として構築される.巣は各世代で構築される鍵になる発生リソース(そして発生マトリクスの1つ)だ.トゲハシムシクイの巣の中で育つカッコーのヒナには別の発生システムが構築されている.このシステムはトゲハシムシクイ・カッコーの共生系の中で各世代ごとに構築される.双方のシステムで発生リソースはよく似ている.鍵になる違いはカッコーの卵の托卵であり,その中になるカッコーの遺伝子だ.
  • 発生システム論者はこの2つの発生システムをよく似ていると考え,遺伝子淘汰主義者は全く異なると考える.両方とも正しい.適応の起源(平均的相加的な差異への淘汰)と発生過程(状態の因果にかかる非相加的相互作用)はどちらも基礎的な問題なのだ.

 
この結論は結局「それぞれの主張が別の問題に答えている」という(ヘイグが最初に党派的に受けとられるかもしれないとした)解決になっているように思う.実際にそういうことなのだろう.