From Darwin to Derrida その40

 

第5章 しなやかなロボットとぎこちない遺伝子 その5

 
ヘイグは赤ちゃんの微笑みと寒いときの体温調節の詳しい仕組みから(ドーキンスの利己的な遺伝子に対するよくある誤解である)「私たちは遺伝子の単なる操り人形である」というストーリーがどのようにおかしいのかを丁寧に説明した.ここから本題である個体内の遺伝子間の利害コンフリクトの話に進む.
そのような場合個体は指令を受ける「機械」というより,異なる指令が飛び交う「社会」というメタファーで捉えた方がいい場合があるというのがヘイグの最初の指摘になる.

 

混ぜ合わされたメッセージ

 

  • 私たちは機械を共通の目的のために協調して働く統合体と考える.本書で何度も登場するテーマの1つは「遺伝子たちはそれが同じ個体にあっても異なる目的を持っているかもしれない」というものだ.だから生物的「機械」は時に互いにコンフリクトする異なるアジェンダの追求を同時に行おうとして一貫しないことがある.このような内部的コンフリクトを考えると,生物のメタファーとしては「機械」だけでなく(内部アクターは共通の目的のために協調すべきだが時に意見が食い違うという)「社会」というのもいいだろう.これらの異なるメタファーは生物について異なる洞察をもたらす.

 
こかららヘイグは信号の進化の話に入る.
 

  • 細胞生物学者と行動生態学者は共に「コミュニケーション」や「信号」という用語を用いる.しかし信号がどのように進化するかについては全く異なった考えを持っている.細胞生物学者は通常,細胞の中あるいは同じ個体にある細胞間で受け渡される信号に興味がある.この場合送信者と受信者の利害は一致することが前提とされており,信号が信用できるのかは問題とされない.
  • これに対して行動生態学者は送信者と受信者が異なる利害を持つ異なる個体である場合に興味がある.受信者は信号が信用できるかどうかを決めなければならない.

 

  • もちろんこの2つの状況は深く関連している.個体は内部で数多くの信号の複雑な交換を経てはじめて外部に信号を出すことになる.信号の受信と解釈も同じだ.それでも問われるべき問題は大きく異なったものになる.
  • 個体内のコミュニケーションにおいては問題は生物=機械のアナロジーに基づいた信号エンジニアリングの問題になる.どのようにノイズや干渉を乗り越えて正確な情報を効率よく送受信するかが問われる.個体間のコミュニケーションにおいても効率の問題がないわけではないが,行動生態学者は信号の信頼性を特に問題にするのだ.この信号は信用できるのか,送信者の動機は何か,何か隠していないか.ここではコミュニケーションは社会的に捉えられる.

 
どのように個体間の信号が進化しうるのかをはじめて深く考察したのはクレブスとドーキンスになる.彼等は信号は発信者がなんらかの形で有利になる場合に進化するので,(受信者と完全な利害の一致が無い限り)それは操作や騙しを含むはずだと指摘した.そして利害が対立する場合に信号が正直であるためにはそれにコストがかかっている必要があると最初に見抜いたのがザハヴィになる.
ヘイグはここでこれまで個体内の細胞間では利害が一致しているという前提で物事が考えられていたことを指摘する.しかし個体内に異なる利害を持つ遺伝子があるなら信号は操作や騙しを含みうることになるのだ.

 

  • 細胞生物学者も行動生態学者もゲノム内コンフリクトのインプリケーションについてはあまり考察していない.遺伝子間のコンフリクトで信号がどのように影響を受けるかについての理論は提示されていない.
  • おそらくこれについての一般的な答えはないのだろう.そして個別の問題についても答えを出すには細胞内の詳細な知識が必要になるだろう.ゲノムはあまり組織化されていないが戦略的な決定をそこかしこで行っている.
  • この視点は新しい問題を提示する.個体内での騙しは可能だろうか.個体内の異なるパーツが信号を送るかどうかで合意しないことがあるのか,そのような信号は送信されるのか.

 
「遺伝子間のコンフリクトで信号がどのように影響を受けるかについての理論」という表現でヘイグがどんなことを考えているのかには興味が持たれる.単に個体間の信号と同じく「利害が一致しない場合でコストを賦課できなければ信号は信頼性を失う」というだけではなく,発信側の細胞と受信側の細胞でどのような形で利害の判断と信号の信頼性が進化するかということについての理論なのだろうか.そうだとするとヘイグのいうようにそれは個別の問題により異なり,細胞の行っている仕事と信号のやりとりについての詳細に強く依存するだろう.
ともあれヘイグは最後にやや一般的な形でテーマを設定している.ここからゲノムックインプリンティングについての詳細な考察が始まることになる.