From Darwin to Derrida その54

 
 

第6章 個体内コンフリクト その9

 
個体内コンフリクトを扱う本章もいよいよ最後.コンフリクトが異なる遺伝的利益を持つ主体間による場合があることを指摘したヘイグはその最もめざましい例としてゲノミックインプリントをとりあげる.まさに真打ち登場というところだ.
 

  • インプリント(刻印)された遺伝子は片方の性から由来する場合に発現し,もう片方の性から由来する場合には発現しない.このことにより遺伝子はどちら由来かという過去の環境が現在の世代の遺伝子の表現に影響することになる.

 

  • インプリントされた遺伝子は脳の発達と機能に影響を与える.2種類の細胞からなるマウスを利用した実験では,母方遺伝子を欠いた細胞は脳の視床下部で多くみられ,新皮質にはみられない.父方遺伝子を欠く細胞はその逆になる.これらの観察は,母方遺伝子と父方遺伝子はマウスの脳の通常の発達において異なった役割を果たしており,父方遺伝子は視床下部的な意思決定機能に,母方遺伝子は新皮質的な意思決定機能に関連していることを示唆している.
  • 極端に単純化すれば視床下部は直感的(visceral)な動機,新皮質は知性的(cerebral)な動機を司る.霊長類の中では新皮質と視床下部の大きさは社会グループの複雑さと相関し,特に典型的なグループ内のメスの数と相関する.

 
哺乳類においては父方遺伝子が直感的感情的な動機を強化し,母方遺伝子が理性的遺伝子を強化していることになる.ここからなぜそうなっているのかの解説になる.
 

  • 霊長類の社会グループにある2つの非対称性が,母方遺伝子と父方遺伝子のバイアスをうまく説明する.
  • まず,(第1の非対称性である)父性の不確実性と母親に偏った子育て投資量は,母のみを共通する兄弟の方が(父のみを共有する兄弟より)絆が強いことを意味する.
  • 次に,(第2の非対称性である)性成熟後の分散がオスに偏っていることは,大半の霊長類の社会的グループは母系的であることを意味する.ただしこの意味ではヒトは例外になる.

 
この部分はややわかりにくいが,母系的ユニットが集まったグループの方がより強い絆でむすばれて複雑な社会的関係が生じやすく,それを処理するために視床下部や新皮質がより大きくなる淘汰圧を受けたということだろう.
 

  • ここでは心に与えるインプリント遺伝子の影響を考えよう.個々の遺伝子は個別の行動をマイクロマネージするのではなく行動傾向やパーソナリティに影響を与えるように働くだろう.イシュマエルが父への裏切りに誘惑されるとき,彼の遺伝子が彼のジレンマの詳細を知っているわけではない.そうではなく過去の似たような選択の結果を踏まえて本能的に裏切りと良心のウエイト付けをレコメンドするのだ.ここで母方遺伝子が裏切りに傾けようとするなら父方遺伝子は逆に傾けようとするだろう.
  • これらの内部的緊張は発達の過程において現れ,遺伝子はそれぞれ別の脳の部位を成長させようと競うだろう.また脳機能において.あるシグナルを強めるか弱めるかをめぐって競うだろう.

 
この説明ははっきり言って物足りない.なぜイシュマエルの裏切りが理性的でそれに対抗するのが感情なのか.イシュマエルはアブラハムの妾の子であり,後に本妻に子ができたので妾であった母と一緒に砂漠に追放される.(追放したのは本妻だったようだが)父に復讐したいというのが感情で,そういうことをすべきでないと抑えるのは理性ではないのだろうか.
インプリント遺伝子間の基本的な利益コンフリクトは母からどこまでリソースを引き出すかの量の多寡にかかるものだ.もっと自分にかまってと母にせがむのは直感的感情的な動きであり,(弟や妹のために,あるいはお母さんがだめといっているから)我慢しようねというのが理性的な判断だというのがあり得る説明になるだろう.
 

  • 私たちの選択を決める内部要因は何だろうか.明らかに私たちの行動傾向は両親から受け継いだ遺伝子の特定セットに強く影響される.しかしそれは人生において積み重ねられた信念や記憶によっても影響される.そして私たちの選択は遺伝子と同じぐらいアイデアに影響される.ほとんどの選択は単純だが,時に遺伝子もアイデアも良いガイダンスにならないような状況や内部の異なる声が異なるアドバイスをささやくような状況で選択を迫られる.コンフリクトは遺伝子間にもアイデア間にも遺伝子とアイデアの間にもある.
  • そのなかで自分自身(self)は自分の選択に責任を持つ主体と見ることができる.私たち自身は,少なくとも「なんらかの単一の利益主体が排他的に選択を決定していない」という意味で自由だ.そしてまた「自分自身も含めて誰も自分があらゆる状況下でどのような選択するかを完璧に予想できない」という意味でも自由なのだ.

 
このヘイグの最後のリマークは味わい深い.一般の人々から進化生物学や進化心理学に対してしばしば向けられる懐疑や非難の1つには「そういう議論を認めると人生の意味がなくなってしまうではないか」とか「結局私たちは遺伝子の手の平の上で踊らされているというのか」というものがある.かつてドーキンスはこれに対して「ヒトは理性と自由意思によって遺伝子が望まない結果を望み,実行できるのだ」と論じたが,ヘイグはさらに深い.私たちは確かに遺伝子やミームの影響を受ける.そして異なる利益を代表する遺伝子たちやミームによって異なる方向に引っ張られていることもある.そしてそのどれかが絶対的に優先するわけではなく,どれが最後に勝つのか事前には予想できない.それは最後に人生において経験を積んできた自分自身が選択したものであり,そういう意味で私たちは自由であり,行動に対しての責任主体であると考えていいのだというわけだ.