書評 「Adaptive Markets 適応的市場仮説」

 
本書は金融学者で自身クオンツファンドに関わる経験もしているアンドリュー・ローによる効率的市場仮説についての本である.本書の中に進化心理学的な議論もあるというので読んでみた一冊.原題は「Adaptive Markets: Financial Evolution at the Speed of Thought」.邦書としては珍しくアルファベットそのままの題がついている.
 
効率的市場仮説というのは株式市場などの金融市場の性質についての仮説であり,基本的に市場で決まる価格が合理的であるということを主張する.効率的市場仮説には強いバージョンと弱いバージョンがあり,強いバージョンは「どのような市場価格も合理的だ」と主張し,弱いバージョンは「市場価格は時に合理的な価格から外れることはあるが,誰もそれを用いて長期的継続的に利益を上げることはできない」と主張するものになる.時に生じるバブルなどを見ても強いバージョンが成立しないことは明らかであり*1,実務的にはこの弱いバージョンが成立しているかどうかが議論されることになる.
そして一般的には,市場は数多くのエージェントが参加する競争的な環境であり,市場価格になんらかのアノマリーがあるならそれはそのうちに誰かに発見されてなくなってしまう(正確には取引コスト以下になる)ことが予想されることから弱いバージョンは多くの場合成立しているとされることが多い(バブルのような場合も,市場価格が合理的でないことは認識できてもいつ破裂するかの予測は困難で,空売りコストを長期にわたって耐えられる投資家が少ないことによりビジネスとしての収益化は難しいとされる).ここを著者がどう扱うかが本書の読みどころということになる.
 
序章では金融市場を考えるには単純な経済的合理人モデルに従うだけでなく人間行動を生物学的センスで捉えるべきだということが主張されている.そしてそのうえで効率的市場仮説は(近似的なモデルとして誤りではないが)不完全であり,本書では人間行動と環境の視点を取り入れた「適応的市場仮説」を提示することが予告される.またここではリーマンショック以降の金融学界の雰囲気が紹介されている.そこでは自由市場派と行動経済学者の溝が深まっているそうだ.
 

第1章 今や私たちはみんなホモ・エコノミクス

 
冒頭はスペースシャトルチャレンジャー号の悲劇的な事件と,それが(後に原因とされた)Oリングの製造会社の株価に織り込まれたのは(事故の報告書の公表やファインマンの委員会での実験よりあとではなく)事故の数分後だったという逸話から始まる.これは集合知(群集の叡智)と効率的市場仮説を支持するように見える.ここからローは学説史を解説する.

  • 投機市場が参加者を集めるためには公平な条件が必要で,そこでは誰が勝つかを正しく予測できないことが必要だという数理的議論を最初に行ったのはルネサンス期のイタリアの数学者カルダーノだった.
  • 20世紀初頭のフランスの数学者ルイ・バシュリエは株価はランダムに動くと主張した.これは後に株価のランダムウォークモデルと呼ばれることになる.この研究は一旦忘れられたが,1954年に再発見される.
  • ポール・サミュエルソンは物理学の概念を経済学の分野に持ち込み,経済学を数理的な学問に仕立て上げた.彼は小麦の先物市場が天候や季節の影響を受けて動くこととバシュリエのランダムウォークモデルを統合的に説明した.彼は数学的帰納法を用いて既に知られている情報はすべてその資産の今の価格に織り込まれていることを示した.だからその後の価格変化は今ある情報を使って予測できないことになる.
  • 同時期にユージン・ファーマはデータを核にした統計分析からやはり株価がランダムウォークする証拠を見つけた.さらにそのリターンの分布は正規分布よりも外れ値が多い(ファットテイルである)ことも見つけた*2.そして1965年の論文で「効率的市場」という用語を金融業界に導入した.
  • ファーマは効率的市場について弱いスタイル,やや強いスタイル,強いスタイルの3つに分類した.(これは私が冒頭に紹介した強いバージョン弱いバージョンとは少し異なった分類で,弱いスタイルでは株価の過去の価格推移から将来の株価の動きを予測できないこと,やや強いスタイルでは公開情報を加えても予測できないこと,強いスタイルではインサイダー情報を使っても予測できないことを意味する)そして実証的分析を続け,3つの型すべての意味で効率的市場が成り立っていると主張した.最も有名な論文は1969年のFFJR論文であり,そこでは株式分割ニュースが株価に与える影響が分析されていた.
  • サミュエルソンとファーマは全く異なるアプローチから同じ結論にたどりついたことになる.これは主流の考え方になり,後に最適ポートフォリオ理論,資本資産価格モデル(CAPM),オプション価格評価モデルに進展し,インデックスファンド産業の興隆につながる.

 
ここでローはここでランダムウォークに見えない市場価格の動きを紹介する.豚肉の市場では価格がサイクル的に動く.それは高値を見た豚生産農家が生産量を増やし,しばらくすると成育した豚肉が豊富に出回り価格が下がる.そしてそれを見た豚生産農家生産量を減らすというメカニズムで生じている.

  • ジョン・ミュースはもし市場参加者が合理的経済人であれば,このような非効率的な価格形成は生じないことを示した.これはロバート・ルーカスの「合理的期待」理論につながり,一世を風靡した,そしてこの考え方は効率的市場仮説の基礎のひとつになる.
  • 効率的市場仮説は群集の叡智を認めていることになる.それは予測市場の効率性を説明する基礎になる*3

この最後の部分は叙述の流れがわかりにくい.豚肉農家は(様々な経済的な制限などにより)合理的に行動できないが,株式市場にはそのようなサイクルが観察できないから合理的であることが推測され,参加者も合理的経済人に近いとミュースが議論したという流れなのだろう.
 

第2章 そんなに頭いいならそんなに金持ちじゃないのはどうしてだ?

 
株式市場が効率的なら,何故市場にバブルが生じたり,リーマンショックのようなことが起こるのだろうか.ローは自分が株価のランダムウォーク仮説を検証する学会発表をしたときの逸話からはじめている.

  • 私はクレイグと一緒に株価が本当にランダムウォークしているのかどうかを検定するために(ランダムウォークであれば数理的に予想されるように)リターンの分散が期間と正比例するかどうかを調べた.20年のデータは2週間のリターン分散は1週間のリターン分散の3倍になることを示していた.これは興味深いと思って1986年の学会で発表したのだが,私たちは大御所たちから集中砲火を浴びることになった.それは理論的には市場のアノマリーの発見であり,効率的市場仮説に疑問を投げかけるものになっていたからだ*4
  • 同時期に行動経済学者たちは合理的経済人の仮定の視点から市場の合理性を否定し始めていた.ダニエル・エルズバーグはヒトのリスクの理解に深刻な欠陥があることを示し*5,カーネマンとトヴェルスキーは数々のバイアス(限定合理性)を示した(損失回避,確率マッチング,少数の法則,代表性ヒューリスティックなどが説明されている).
  • プロのギャンブラーはこの限定合理性に気づいている.優秀なポーカープレーヤーはプレイの仕方に厳しい制限を自分で自分に課していることが多い.ウォール街のトレーダーたちの格言にもそれは表れている.
  • このような非合理性を効率的市場仮説信奉者が知らないわけではない.彼等は個々の人間の行動に非合理性があってもより合理的な参加者がそれを利用して利益を上げようとする過程で市場全体としては非合理性が消えていくはずだと考えている.だから私たちが発見した市場のアノマリーの発表に対して批判的に反応したのだ.本当に頭がいい人はアノマリーを見つけたら否定から入るのではなくそれで儲けようとするだろう.そしてヘッジファンド業界にはそういう人がいるのだ(これが章題の意味になる).

 

第3章 そんなに金持ちならそんなに頭悪いのはどうしてだ?

 
ここからローはヒトの非合理性を前提にした仮説の組み立てに進む.まず市場参加者の行動に特に関連する非合理性が取り上げられる.

  • 市場参加者が非合理的に行動し,参加者同士がそれを強めてしまうことも起こりうるだろう.しかし行動経済学者はそれを理論化して効率的市場仮説信奉者に対抗できていない.それは心理学には行動に関する仮説がありすぎるからだ.
  • 新しい枠組みはどうやって作ればいいか.まず脳の基本的機能(恐れ,痛み,喜び)から考えてみよう.
  • 恐れは火災報知器のようなもので私たちに危険を知らせる.それは脳の高次の機能を通らずに素速く働き,リスク認識と関連する.私たちは難局ではリスクを何倍にも過大評価し,うまくいっているときには楽観的になる.痛みも不利な状況を私たちに知らせる.
  • 喜びは快楽中枢によるもので報酬系を形成する.お金を勝ち取ることは強い報酬となる.
  • 投資家はリスクを痛みや恐れを感じる脳部位で,儲かりそうな状況を快楽中枢で処理することになる.つまり損が続くとリスク回避的になり,儲けが続くとリスク選好的になりやすい.
  • 私は(会社の許可を得て)ウォール街のトレーダーたちに参加してもらって証券価格とトレーダーの心理状態の関係を調べた.経験の浅いトレーダーは証券価格の上下に感情的に過敏に反応したが,ベテラントレーダーはすぐに抑制した.そして感情反応のコンロトール能力はトレーダーの成績と相関した.お金については理詰めだけで判断することは難しいが,その方がうまくいくのだ.
  • よく知られた非合理性の1つが(資産の将来価値についての)双曲割引問題だ.脳には複数の神経系があって期間割引率が異なるようだ.前頭前野の合理的思考と報酬系の回路では異なる割引率になり,さらに報酬系の中にも複数の割引率があるかもしれない.このような考えは神経科学によって次々に裏付けられつつある.

 

第4章 物語の力


第4章では前章の非合理性の説明として脳科学的なアプローチから脳がどのように構成されているのかをとりあげる.ローは冒頭でダマシオの「デカルトの誤り」を引いて,理性的思考ではなく,感情が意思決定について大きな役割を果たしていることを語る.

  • 感情は意思決定の内的な賞罰の体系を支えるものであり,価値の基準を定める.
  • 恐れなどの特定状況において現れる感情的な反応はそういう状況下の「第1反応者」になり,論理的な思考を行う前頭前野をバイパスする.「非合理」な行動が起こるのはこのような状況依存の感情が効果的に対応できない環境に置かれたときになる.
  • アイオワギャンブル課題(リスクリターンの異なるゲームのどれをプレイするかを試行錯誤で選ぶ課題)の実験によると,普通のプレイヤーは何十回かの試行錯誤のあとでリスクリターンが良いものにたどり着けるが,扁桃体損傷患者はリスクを正しく判断できない*6.これはある種の感情がないと合理的に行動できないことを示している.
  • 市場価格を発見する過程が良く機能するには,参加者が原因と結果の筋道を推し量れないといけない.このためには「心の理論」が役に立つだろう*7
  • 心の理論について調べると普通の人は5次の信念過程あたりから大きく間違うようになる.つまりそこには制限があるのだ.これは効率的市場仮説にとって深刻な問題になる*8
  • また私たちは自分の行動の理由の説明を求められると後付けで筋が通っているような理屈を語る(有名な脳梁切断術を受けた患者の例が説明される).これは脳の前頭皮質の「知的」な部分が物語を生みだす部分でもあることを示している.最適な行動を選ぶ私たちの能力は,ありそうな物語を作り出す能力と結びついている.
  • さらに自制能力は前頭前皮質,衝動的行動は線条体の活性と関連する.線条体は学習過程の費用便益分析を行い習慣の形成を担っている.
  • つまり私たちの「合理的な」頭は感情の海と物語の絡み合った筋に浮かんで揺らいでいるということだ.ヒトの思考が複雑なのは構成要素間で多数の相互作用が及んでいるからだ.そしてそれは自然淘汰の産物だと考えられる.

 

第5章 進化の革命

 
第5章でローはまず進化についてそのよくある誤解も含めて簡単に説明をおいている.ダーウィンの洞察とその実証,環境の重要性,ヒトの進化,行動遺伝学,文化進化,社会生物学,進化心理学が扱われている.大きな破綻はなく*9それなりにちゃんとした解説になっている.
 

第6章 適応的市場仮説

 
脳の仕組み,進化の役割を概説したあと,ローは効率的市場仮説に対する対立仮説「適応的市場仮説」を提示する.

  • 神経科学や進化生物学はホモ・エコノミクスという前提は人間の行動の一部しか捉えきれないことを明らかにしている.もちろんその一部は決して小さいわけではなく,効率的市場仮説や合理的期待仮説は多くの金融市場の動きを見事に近似的に説明したものであって無視はできない.しかしだからといって完璧とはいえない.とはいえ,当てはまらない事例を挙げるだけではこれらの仮説を打ち破れない.それには理論的な代案が必要だ.
  • 合理的行動モデルに対する最初の経済学的な代案はハーバート・サイモンによる「限定合理性」と「充足化」の議論だった.彼は多くの意思決定は完璧ではなくとも十分に合理的であれば良く,それをヒューリスティックスで行っていると主張した.主流派はこの考え方を「意思決定が十分に満足できるかどうか知るためにはそもそも最適解を知っている必要があるのではないか」と批判した.
  • 私たちは最適解を知らなくとも過去の意思決定からフィードバックを受けて意思決定過程を改善していくことはできると考える.ヒトがヒューリステックスを使っていることは神経科学や進化生物学が明らかにした.さらに私たちはヒューリスティックスを経験に基づいて思考の速さで改善できる*10.この適応プロセスをモデル化したものが「適応的市場仮説」になる.
  • 適応的市場仮説は,「私たちは常に合理的でも,常に非合理的でもない.私たちの意思決定にはバイアスがあるが,過去の経験からヒューリスティックスを見直すことができる.さらに抽象的思考や予測を行うこともできる.金融市場のダイナミクスはこのような参加者たちと(社会や文化を含む)環境の相互作用により形成される.」と主張する.これにより市場参加者の近似的にしか合理的でない行動,完全に非合理な行動も説明できる.
  • 市場参加者が行動バイアスに陥っているのは,金融以外での環境で培われたヒューリスティックスを金融環境下でそのまま(誤って)適用したものだと説明できる*11.行動の理解のポイントになるのは過去の環境や淘汰圧になる.そして実際に合理的な行動が適応的である場面が多いことから効率的市場仮説が近似的に成り立つことも説明できる.重要なことは適応的市場仮説は参加者が合理的であったり非合理的であったりする条件を提示できることだ.また適応的市場仮説は参加者の行動が個人の経験によって決まることも認め,それが経路依存であることを説明できる.

 

  • ポール・サミュエルソンは経済学の数理的基礎を作り,それは一般均衡,ゲーム理論,経済成長理論,マクロ計量経済学,ポートフォリオ理論,資本試算価格モデル,オプション価格決定理論として花開いた.経済学者たちは物理学的理論への羨望を植え付けられ,「悪しき方法論的先入観」に閉じ込められ,内部状態を現実的に表現することに興味を失ってしまった.彼等の観点からは効率的市場仮説や合理的期待形成理論の方が「充足化」などより美しかったのだ.
  • しかし実際には物理学より生物学の方が経済学に近い.生物学には競争,協力,個体群動態,生態系,行動についての奥深い研究が山ほどある.近年一部の経済学者たちは生物学との結びつき(社会生物学の経済学的拡張,進化ゲーム理論,経済変動の進化的解釈,複雑適応ケイトしての経済など)を模索しはじめているのだ.(いくつか方向性が紹介されている)

 

第7章 金融界のガラパゴス諸島

 
ローは第7章から実際の金融市場状況からの解説を行う.

  • 効率的市場仮説が完璧なら,投資家は(できるだけコストの低い)インデックスファンドのようなパッシブ投資のみを行うべきであり,ヘッジファンドなどのアクティブ投資は短期的には成功し得ても,長期的平均的には(コスト分だけ)インデックス投資に負けていくはずだということになる.しかし実際には勝ち続けているアクティブ投資家が存在しているように見える.
  • そしてすべての投資家がパッシブになれば,そもそも効率的市場仮説が前提としている「投資家は情報を分析して価格発見に努めて投資行動を行う」という条件が満たされなくなる.
  • 仮説の提示する「効率的市場」は「摩擦のない」理論的な仮定の下での極限状態に過ぎず,理論的にも市場はこの極限には決して到達しないはずだ.そして多くの金融市場は実際にこの最終状態からほど遠い.
  • 適応的市場仮説は市場が直線的に効率的になっていくとは予測せず,もっと複雑なダイナミズムを予測する.そして実際に金融市場の歴史は崩壊,パニック,熱狂,バブルにあふれており,ヘッジファンド業界の隆盛と合わせて適応的市場仮説の方を支持しているように見える.

 
ここから適応的市場仮説の支持証拠ともいうべきヘッジファンド業界の歴史が語られる.

  • ヘッジファンドは規制をあまり受けず,市場の状況にいち早く適応できる.ファンドマネージャーの報酬は高額で有能な人材が熾烈な競争を繰り広げている.そこでは利益を生みだす新しい戦略への情け容赦ない素速い適応がある.ヘッジファンドの歴史は出だしの失敗,種分化,多様性,大量絶滅,適応,革新にあふれている.
  • アルフレッド・ジョーンズが1949年に始めた株式のロングショート戦略*12ファンドが現代的ヘッジファンドの嚆矢とされる.ジョーンズはこの手法で20年近く好成績をあげ続けた.この戦略が1966年のフォーチュン誌に紹介されると最初のヘッジファンドブームが起こった.当時は空売りが難しく,相場が上げ相場だったこともあり多くのファンドは買いポジションを基本にした.この手のファンドの多くは60年代終盤の下げ相場で絶滅した.その後多くのヘッジファンドはよりロングショートのヘッジをきちんと行うようになった.
  • 80年代モルガンスタンレーで大規模なブロックトレードが引き起こす株式価格のアノマリーを用いたロングショート戦略が好成績をあげるようになった.モルガンスタンレーのテクノロジー部門にいたコンピュータ科学者だったデイヴィッド・ショーはこのことを知り,市場のアノマリーを徹底的に調査分析して収益化するクオンツ戦略組織を立ち上げ成功させた.その投資の歴史を見るとクオンツ的な分析により見つけたアノマリーは収益化に伴って縮小し,また別のアノマリーが発見されるという市場ダイナミズムが観測された.
  • アノマリー発見収益化手法を債券市場に応用し極めて高いレバレッジ*13をかけて大規模にアービトラージ戦略を用いたファンドがLTCMになる.LTCMは当初好成績を上げたが,1998年のロシア国債のデフォルトにはじまる「質への逃避」から生じたクレジットスプレッドの拡大によるマージンコール(追加証拠金差入要求)に応えきれずにその巨大ポートフォリオは崩壊した.この後大半のヘッジファンドはリスクモデルの見直しを行い,流動性リスクにも備えるようになった.
  • 最近の市場ダイナミクスの変化の例は高頻度取引の盛衰になる.この手法の流行に伴い,発注から成約までのタイムラグは当初の数秒から10億分の1秒まで短縮化された.高頻度トレードの収益性は大きく低下した.一部の市場には高頻度取引禁止の動きがある.これはテクノロジーが市場の効率性に大きく影響を与えることを示している.
  • そしてこのヘッジファンドの歴史は市場の動きは効率的市場仮説ではなく適応的市場仮説でより良く説明できることを見事に示したいる.

 

第8章 機能する適応的市場

 
第8章では投資の実践面からの解説がなされる.

  • 効率的市場仮説が正しいなら実践的な投資行動はどうあるべきだろうか.それは「リスクリターンのトレードオフと資本資産価格モデル(CAPM)を認め,自分のとるリスクを定め,それに沿ってポートフォリオを最適化し(その結果は分散化されたロングオンリーのポートフォリオになる),長期的にパッシブに投資する」ということになる.ここでは市場価格の統計的性質は時間や市場環境によって変わらず,投資家が合理的であり,市場価格は均衡価格になっていることが前提とされている.
  • 実際のデータはこの前提が成り立っていないことを示しているが,問題はその差異が近似として無視できるほど小さいかどうかだ.私は適応的市場仮説を元に「こうした差異はかつては小さかったが近年どんどん大きくなっている」というシナリオを提示する.

 
ここからローは1930年から2000年までのアメリカ株式市場は効率的市場仮説で近似できる市場であったが,2000年以降そうではなくなっているという主張を展開する.

  • データ的には2000年頃からヴォラティリティが上昇している.これは金融の規制緩和が大きく進んだことと世界市場の中でのアメリカ市場の相対的地位低下により世界的な金融資産価格が不安定になったことの結果だと考えられる.
  • リスクとリターンの関係も不明確になっている.これは株式市場のヴォラティリティが急上昇したことで投資家が急落時にパニクることから来ているのかもしれない.また日本の株式市場はリスクリターンのトレードオフが20年以上成り立っていないように見える.

 

  • 効率的市場仮説が浸透し,投資家の世界はパッシブな時価総額加重平均型インデックス投資が基本になった.適応的市場仮説の視点からはリスクについてより戦略的に行動することにも意味があることになる.その一例はリスクを積極的に管理しインデックス投資のβ*14を機動的に変更させる戦略(動的ヴォラティリティコントロール戦略)になる.
  • 適応的市場仮説に基づく新しい投資パラダイムは,「リスクとリターンのトレードオフは極端な下げ相場では成り立たないことがある,2000年以降CAPMは優れた近似とはいえなくなっている,アセット間の境界は曖昧になっておりアロケーションによるリスク分散効果は減っている,現実的な投資期間においてはリスクは十分に高いことがある,だからパッシブ投資であってもリスク管理を行うべきである」というものになる.

 

  • ではこの適応的市場仮説を採れば,インデックスに勝てるのか.それはあなたが誰で(他の参加者を出し抜いて)どのぐらい適応的な戦略を生み出せるか,今現在の市場のダイナミクスが新しいリスクを作っていないか(それを探知して回避できるか)に依存する.(新しいリスクの例としては多くのヘッジファンドが類似戦略を採ったためにマージンコールが集中して流動性スパイラルが生じたメルトダウン事例が詳しく説明されている)

 

第9章 恐れ,欲,そして金融危機

 
第9章は適応的市場仮説からリーマンショックを説明する試みになる.

  • 効率的市場仮説は2008年の金融危機を説明できない.
  • 金融危機を分析するには適応的市場仮説に立ち,金融システムを物理系ではなく生態系として捉えなければならない.金融市場は思考の速さで変化するのだ.
  • (まず2008年の危機の現象面からの説明がある)このリーマンショックの原因についてはウォール街のボーナス文化や規制当局の機能不全の問題がよく指摘される.これらの説明は物語として私たちに訴えかける力を持っているが,データで検証すると真実だとはいえない(インセンティブ報酬の体系は金融機関と他のS&P大企業ではあまり変わらなかった.SECが2004年までに規制を緩和しているという事実はない)
  • 金融リスクの大きさは金融環境の変化により変わる.住宅用不動産も元々流動性が低い資産だが,そこに多くの投資家が殺到したために利益幅が下がった.利益水準を確保するためにレバレッジを高くすることになった.そしてこの流動性の低さとレバレッジの高さがシステミックリスクを空前の高さに引き上げたのだ.ブームの初期には欲が恐れを圧倒する.ある戦略が当たるとそこに参加者が殺到して密集合を作り,新しいリスクが生まれる.しかしリスク管理行動は過去環境に適応したままなのでシステミックリスクが高まる.そして破裂の影を見ると皆恐怖に駆られて我先に市場から流動性を引き出そうとし,金融危機に陥るのだ.

 

第10章 金融が悪さを

 
ローはリーマンショックを説明して見せたあと金融業界全体を取り扱う.

  • アメリカでは1940年代から今日まで全産業に占める金融業界の比率が大きく上昇している.これは政策的にも金融市場の性格を把握することが重要になっていることを意味する.適応的市場仮説からはより参加者の行動,金融市場の環境,それらの相互作用に注意すべきことになる.
  • リーマンショックとともにメイドフ*15の巨額詐欺ネズミ講ファンドも崩壊した.そしてファンド業界,金融業界の道徳律は一般と異なっているのだという批判が巻き起こった.これは私たちが金銭面で痛みを感じたことへの感情的な反発であり,私たちの公平性に関する道徳観に現代金融の世界が完全に適応できていないことも示している.(グリーンやハイトなどの道徳に関する議論が紹介されている)
  • 金融市場は常にありとあらゆる詐欺行為に振り回されており,それに対応するため思考の速さで進化して,道徳観の代用になる慣習,規制,法律が作られている.とはいえ市場にはなお脆弱性があり,それを私たちの公平性の道徳観に合わせるように適応させられるかというのが課題になる.
  • そこで重要になるのは,文化,そして市場参加者と環境の相互作用だ.リーマンショック直前の規制当局にはリスク回避的でタコツボ的な文化がはびこっていた.金融機関の文化はとても流動的で正直さとインチキの間を揺れ動き,(リーマンショック直前のような)景気のいいときにはインチキに傾く.テクノロジーの進展はシステムの複雑性を高め,知識を持つものと持たないものの分断を呼び,様々なインチキの技巧を可能にする.(いくつか具体例が紹介されている)
  • 金融システムのような複雑系を解明し,管理するのはどんどん難しくなっているのだ.

 

第11章 金融の立て直し

 
ではどうすればいいのか,ローは適応的市場仮説からの処方箋を示す.

  • 次の危機を防ぐには新しい物語が必要だ.金融システムは物理系より生態系に近く,そういうものとして管理する必要がある.
  • 金融システムを1種の生態系としてとらえ,それが持続可能か,様々なショックを乗り越えて与えられた条件の下で効率よく稼働するかが問われなければならない.
  • 金融システムにはポジティブフィードバックがかかりやすい性質がある.だからシステムにもっとネガティブフィードバックをかける仕組みが必要になる.その1つの方法が適応的規制だ.うまく適応的規制をかけるためにはシステミックリスクをうまく測れる指標の開発が必要だ.
  • 金融システムの制御を行うためには既存の規制体系全体の理解も必要になる.現行の規制体系はソフトウェアでいうスパゲッティコードになっている.解きほぐすには法体系にオブジェクト指向を持ち込み,一つ一つの要素をコアとして扱い,そのネットワーク構造を見ることが効果的だろう.現行の規制体系には驚くほどの密結合が見つかっている.
  • システミックリスクをフィードバックするにはシステムが「痛がる」能力が必要だ.金融破綻事例を分析し,金融機関に「物語」として提示するのも1つの方法だ.これには航空機事故に対応するNTSBのやり方が参考になるだろう(ただし航空機事故よりも金融危機の方がはるかに複雑で現在進行形で進むので限界はある).
  • またプライヴァシーに触れずに金融機関から情報を提供させる方法も重要になる.これには暗号化技術が応用できるだろう.(詳しい説明がある)
  • 金融機関内のリスク管理で最も難しいのは行動リスクの評価だ.これができれば金融機関の文化のリスクを把握できる.1つの方法は報酬,キャリアリスク,報酬,競争,同調圧力,規制環境などの要因からリスク選好回帰モデルを作ることだ.金融機関にリスク管理を指向させるための制度的な手当(リスク担当役員設置の義務化,リスク管理を怠った際の損害賠償責任・刑事責任の法制化など)が有効だろう.

 

第12章 金融未踏の地に果敢に挑む

 
最後にローは適応的市場仮説の見地から望ましい未来の金融の姿を語る.

  • 個人資産の運用はどのようなものであるべきだろうか.個人投資家には単純なインデックスファンドに加えて動的にリスクを管理するタイプのインデックスファンドが提供されるべきだろう.
  • 現在の金融市場の問題点の1つに(将来的に小さな確率で巨大な恵みをもたらす可能性がある)研究開発プロジェクトに投資がなされにくいことだ.これを改善するには証券化やデリバティブなどの金融技術を用い分散投資をする仕組みを作れば良い.このような武器は使い方を誤るとリーマンショックのような金融危機を引き起こすが,住宅市場ほど巨大な市場でなければ,注意深く制度を設計することによりうまく機能するだろう.(ガン治療薬開発プロジェクトについての具体的な提案が解説されている)
  • 世界の貧困を大きく減らしたのは最近の経済成長であり,それにはグローバルな政治状況に加えて金融技術革新の影響が大きい.なお残る世界中の貧困層を豊かにするための解決策にもさらなる金融技術革新が不可欠だろう.
  • 地球温暖化と気候変動問題をめぐって交わされる論争は,突き詰めると将来割引率が何%であるべきかになる.ここでも革新的な金融技術を用いて技術的に可能な(炭素固定などの)巨大プロジェクトを後押しすることが可能だ.
  • 要するに大きな問題の解決には集合知が有効であり,金融技術はこれまでに見つかった中で集合知を得る最も効率的な手段なのだ.効率的市場仮説に立ってしまえば,今現在の資金配分が最も効率的になっているはずだというところから一歩も抜け出せない.適応的市場仮説の立場なら市場の資金配分が人類全体の善に向かっているとは限らないと考えることができ,そして社会問題の解決に向けて工夫を凝らして制度を構築することに意味があるとわかるのだ.

 
以上が本書の内容になる.私の感想を記しておこう.

  • 学説史やヘッジファンドの歴史の叙述は楽しい.興味深い話がわかりやすく書かれていて読みどころだ.
  • 進化心理学は本書の中ではあまり重要な部分をなしていない.下げ相場でのパニックを捕食者に襲われた際の心理的適応で説明できる部分,金融機関を説得するには「物語」の提示が有効かもしれないという部分ぐらいが直接関連するところで,ヒトの性質にかかるそれ以外の部分は神経科学による至近的な説明が多い.本書の「適応的市場仮説」の中心的な部分は「経験によるヒューリスティックの改善」といういわばミーム進化,文化進化の部分になる.そしてそれはその通りだと思う.
  • 本書の効率的市場仮説への批判はその強いバージョン(市場価格は常に合理的だ)に対するもので,基本的に弱いバージョン(誰も長期的平均的に市場を打ち負かすことはできない)に対するものにはなっていない*16.弱いバージョンの効率的市場仮説論者は市場価格が時に非合理で,バブルが発生したり,下落局面で投資家のパニック売りが生じたり,流動性リスクなどにより市場価格の下落にポジティブフィードバックがかかりうることを認めている.だから著者の推す適応的市場仮説はむしろ効率的市場仮説の弱いバージョンの中で価格が常に合理的でないことをどう説明するかという補足仮説とみることもできるだろう.実際に著者が説明する適応的過程でアノマリーがつぶされていく様子は弱いバージョンの効率的市場仮説論者が考える姿に近く,その中でより具体的に様々な現象を説明するものになっている.また著者が勧める個人投資の方針が「リスク管理は能動的に行うが,銘柄はインデックスが基本」になっているのも弱いバージョンの効率的市場仮説と整合的だ.
  • 著者はヘッジファンドなど一部の投資家が平均的に市場に勝っていると主張しているが,それが偶然以上であるという定量的なエビデンスがない.通常のアクティブ株式ファンドでは市場に勝つマネージャーの存在が基本的に偶然で説明できる以上のものではないというデータがしばしば提示されている.ヘッジファンドのデータは公開されていないので定量的な吟味が難しいということだろうが,アクティブの銘柄選択とロングショート戦略の銘柄選択の困難さは基本的に同じなので,ここは納得感のないところだ.
  • 高頻度トレード戦略がマーケットにおける戦略の進化の一例として紹介されているが,これはテクノロジーを使ったチート戦略(フロントランニング*17)であり,むしろ規制当局の機能不全(そこには効率的市場仮説が「高頻度取引は市場に流動性を与えて効率性に寄与している」という思い込みを通じて影響を与えている可能性がある)として説明すべきであったと思う.
  • 2000年以降リスクリターンが資本資産価格モデルが想定するものから離れているという指摘がある.しかしこのモデルによるリスクリターンの関係性はある程度長期的なものなので,これはまだ時系列データが足りないと評価すべきではないだろうか.
  • ローはインデックス投資に動的ヴォラティリティ管理を行うことを勧めているが,なぜそれが有効と考えるのかの根拠ははっきりしない.動的ヴォラティリティ管理が有効であるためには過去データを用いて後ろ向きに測定したヴォラティリティが将来的なヴォラティリティの予測に有効でなければならないが,ほぼ効率的な市場であればそれは成り立ちにくいだろう.1926年からのデータを使って動的管理を行った方が投資成績が良かったというグラフが一点添えられているが,過去何日分のヴォラティリティデータを使うかをチェリーピックしている可能性,動的管理でβを1.3まで増やせるようになっているので単に平均でβが1を超えていたからである可能性があるように見える.
  • リスク管理については投資家のライフステージに合わせた管理も勧めているが,これは市場の性質ではなく投資家個人のリスクリターン選好の話であり,効率的市場仮説とCAPMのもとでも推奨されるものだろう.
  • あるべき金融規制に関しては詐欺の防止とポジティブフィードバックの危険性が説かれている.規制をコード化してリスク面の構造解析しようという試みは刺激的で興味深い.最後の楽観的な希望はいかにもアメリカの金融業界の関係者だとおもわせるものだ.

 
適応的市場仮説の本質は様々な投資戦略の成功失敗を通じたミーム進化であり,その議論は説得的だ.そしてそれは弱いバージョンの効率的市場仮説の補足仮説として見ることができると思う.株式市場や投資に関心のある読者にはなかなか楽しい読み物だと思う.
 
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原書
 

 

*1:とはいえ,本書の記述によるとなおそれに近い主張する学者はいるようだ

*2:であれば,それはランダムウォークではなくレヴィウォークではないかという疑問が生じるが,本書ではそこは取り扱ってくれていない

*3:ここでローは自身で行った予測市場の効率性実験を紹介している.詳細は面白い

*4:ある批判者からは,それはプログラムのバグに違いないとまで言われたそうだ.後に追試して結果を確認して論文になったあとで「この発見はとても重要だ」という手紙(この業界における謝罪に最も近いもの)をもらったそうだ

*5:エルズバーグのパラドクス:ヒトは数理的なリスクが同じでもより深いレベルで不確実性があるとよりリスクがあるように感じる

*6:勝ったときのリターンが大きいが,時に大きな損が出て平均利得がマイナスのゲームから離れられなくなる傾向があるそうだ

*7:ローはこの心の理論をミラーニューロンに単純に結びつけている.ややナイーブだろう

*8:この議論は均衡価格を推論するには無限に読み合うことが必要という議論に基づいている.しかしなんらかのショートカットによって均衡価格が推論できる可能性は残るように思う.なおこの問題は「市場価格は常に合理的だ」という主張に対するもので,「長期的に市場を出し抜ける戦略がない」という主張にとっては問題とならないだろうと思われる

*9:ヒトの進化についてはタッターソルに頼りっきりでやや薄いとか社会生物学はウィルソンだけ取り上げて行動生態学の豊富な内容には触れていないとかの若干の不満がないわけではないが,金融学者が書いたものとしてはちゃんとしていると思う

*10:ここでローは自分自身の「朝何を着ていくかをどう決めるか」にかかるヒューリスティックが変化していった経緯を語っていて面白い

*11:ここで確率マッチングについて具体的に説明がある.ローは確率的な利得が(ある選択肢で絶滅するように)相加的ではなく相乗的に効く場合には,確率マッチング的なリスクヘッジ戦略が有利になるからそのようなヒューリスティックが進化したのだと説明している

*12:割安銘柄の買いと同じ業種銘柄の売りを組み合わせて株式市場全体の変動リスクをヘッジする投資戦略

*13:借金や借債などを用いてファンド規模より大きなポジションをもつこと

*14:市場全体の上げ下げに関するポジション,この場合はファンドの中のインデックスへの投資額を意味することになる

*15:Bernard Madoff:日本では一般にマドフとして知られるが正しい発音はメイドフに近いようだ

*16:厳密に言えば「他の投資家より先にアノマリーを発見して適切な戦略を組み,その利益率の推移を注視して,利益率が下がればすぐに別のアノマリーをやはり他の投資家より先に発見して新たな戦略に切り替える」ということを継続的に行えるなら市場に勝てると言っていることになるが,それは実際上極めて難しいと考えられ,事実上弱いバージョンは成り立っているという風にも解釈可能だと思う.この困難さはある意味銘柄選択の困難さと同質だと感じられ,もしこれが偶然以上に可能だと主張するならデータの裏付けが必要だろう.

*17:典型的には顧客からの買い発注をなんらかの方法で前もって知り,その時点の最安値ビッドを叩いて入手しておき,発注を受け取ったあと顧客にそれより少し高い値段がその時点のベストプライスだとして売り抜くやり口.高頻度取引は注文の事前入手を通信の速度差を使って行う手口