From Darwin to Derrida その70

 
 

第8章 自身とは何か その10

 
ヘイグによるスミスの道徳感情論の読み込み.前半は行動のガイドとして本能,理性,文化を扱った.本章後半はアダム・スミスの議論の軸になっている「sympathy」を深掘りしていく.最初の分析レベルは1人称「sympathy」つまり自分自身のイメージになる.
 
 

1人称「sympathy」

 

  • 私たちは自分の各部分についての現在の状況の1人称メンタルイメージを持つ.これは運動をプランニングするのに重要だ.このセルフイメージのポイントは過去のパフォーマンスをフィードバックさせて将来のプランを作れるというところだ.何かものを投げてターゲットを外したら,次に投げるときにフォームやリリースポイントを調整する.ある行動を実行することと知覚することを同時に行い,予測した行動知覚と実際の行動知覚を比較し,経験から学び完璧を目指すことができる.
  • このようなメンタルセルフイメージは自分の(腕の位置だけでなく)様々な生理的感情的な状態を追いかけ,自分自身の行動を調整し,理解し,予測することを可能にする.私たちは自分自身についての「sympathy」を感じ(これは第1レベルの再帰になる),自分の望みや恐れを「分かち合う」ことができる.
  • 私たちが(バスケの)ジャンプシュートを自身に向けた努力により自分で(完璧にはできないにせよ)改善していけるように,私たちは道徳的なゴールやなりたい人になるように自分自身を変えていく能力をある程度持っている.

 
自分自身についてのセルフイメージが「sympathy」だというのはやや意外な用語法だ.ともあれ他者の行動や内面を理解するためには,まず自分自身がどうなっているのかのイメージをシミュレーションのベーシックモデルとして持つことが有用になるということだろう.
ヘイグはこのようなセルフイメージは最初は行動調整のための身体的な適応として始まったのではないかと考えているようだ.そしてヘイグはそれは身体的な感覚だけでなく生理的感情的な状態を含むようになり,それを使って自分自身の行動パターンを変化させていくことができるようになったと主張している.これは行動パターンを自分に有利になるように変化させるのもやはり適応的だ(だから身体だけでなく生理や感情もモニターできるように適応した)という趣旨なのだろう.