書評 「進化でわかる人間行動の事典」

 
本書は進化視点にたったヒトの行動の事典になる.さまざまなヒトの行動のなかから「遊ぶ」「争う」「歩く」から「恋愛する」「笑う」まで(50音順)43項目を選び出し,それぞれの行動について機能(究極因)と進化史に焦点を当てながら(事項によっては至近的メカニズムや発達についてもカバーされている)現時点での知見を解説するものだ.編者は小田亮,橋彌和秀,大坪庸介,平石界という日本の進化心理学界の中心メンバー,執筆陣はそれぞれの項目に関連するリサーチを行っている研究者39名が担当するという豪華なものになっている.
 
どこから読んでも良いし,必要に応じて参照するという使い方が基本的に想定される種類の書物だが,もちろん頭から通読しても大変面白い.多くの執筆者が総説的な叙述スタンスをとっていて大変勉強になる.
全体的な感想としては,まだまだ特定の行動についてそれがどのような機能として自然淘汰されたかについてさまざまな仮説が並列して決着していないことが多いことが印象的だ.また昨今の「再現性危機」についての問題意識も執筆陣に共有されており,追試により頑健な知見になっているものについては注記がなされていることが多い*1
 
個別の項目で興味深かったところをいくつか紹介しておこう.

  • 遊びについては練習仮説の他,恐怖制御仮説,不測事態訓練仮説,紐帯維持機能仮説が提唱されており,論争中である
  • ヒトの2足歩行はほかの動物の歩行と比較してきわめてエネルギー効率が良い.歩行速度が1.1〜1.4m/sで最も効率が良くなる.2足歩行の究極因については現在暴露面積最小化仮説より,食料運搬仮説の方が有力とされている.
  • 歌うことの機能については性淘汰(求愛)説,社会の結束説,子育て(子守歌)説のほか娯楽・リラックス,歴史の記録などの機能もあると説明されている.
  • 歌う動物は節足動物から脊椎動物まで多く,求愛などに用いられている.しかし霊長類では少なく,10%程度の種のみ歌う(類人猿ではヒトとテナガザルのみが歌う).これらは系統的には近縁ではなく,独立して何度も進化したと考えられている.
  • 踊ることの機能については性淘汰(求愛)説,社会の結束説に加えて,(対外的アピールとしての)社会的集団シグナル説*2が紹介されている(歌うことについての説明との微妙な違いが興味深い).なおチンパンジーでも聴覚刺激による全身のリズム運動が観察され,オスの方が反応が大きい.
  • ヒトの配偶システムの(多様な生業形態を含む)社会文化差(一夫一妻と一夫多妻)の決定要因として大きいのは,(閾値モデルにより予測される)男性の資源コントロールの強さと男性間の資源格差の大きさではなく,(ハーレム防衛を可能にする)男性の攻撃性の価値の高さだった(ただし同一生業形態内では資源コントロールが要因として大きい).
  • 多くの化石人類のリサーチの結果,チンパンジーと分岐後のヒト系列における配偶システムは,一直線に乱婚性から一夫一妻傾向が進んだのではなく,乱婚性,一夫多妻,一夫一妻を行きつ戻りつしてきた可能性が高くなっている.
  • 外集団メンバーに対する敵意は進化的に説明が可能だが,障害者差別のような集団内の差別については進化的な起源を見いだすことが(現時点の知見からは)難しい.
  • ケニアの農耕牧畜民のリサーチによると,経済的に豊かな母親は息子に対してより脂肪分が多い母乳を与え,経済的に貧しい母親は娘に対してより脂肪分が多い母乳を与えていた.
  • ニシコクマルガラスはカラスの中では珍しく白い虹彩を持っている.巣穴の中にすでに誰かいるかどうかについての手がかりとして機能しているようだ.
  • イヌやウマが自分で解決できない問題についてヒトに助けを求めるように見つめることは知られており,伴侶動物として家畜化されたために進化したコミュニケーション能力だと解釈されていた.しかし近年ヤギやカンガルーまで同様のことが可能であるという報告がなされており,ごくわずかな時間で習得可能であるのかもしれない.

 
また以下の項目については,非常に充実した内容になっており,大変勉強になった.

  • 産む(出産時の回旋),噂をする(間接互恵性との関連),老いる(老化の進化),飾る(選り好み型性淘汰シグナルとハンディキャップ),考える(思考の二重過程理論と4枚カード),仲直りする,まねる(ミラーニューロンや新生児模倣に関する総説)

 
執筆者は多いが,フォーカスされるべきところがしっかり共有され,さらにそれぞれの執筆者の得意分野を担当していることもあり,粒のそろった事典となっていると思う.レファレンスとして手元に置きたい一冊だ.

*1:物事の性格上やむを得ないと思われるが「かつて報告されて多くの書物や論文に引用されていたが現時点で再現性に疑いが生じているもの」についてはあまり扱われていない.個人的にはそのような事項も積極的に取り上げてもらっていればありがたかったという感想だ

*2:合わせて音楽についての副産物としてのチーズケーキ説も紹介されている