書評 「ダーウィンが愛した犬たち」

 
本書は「イヌとのかかわり」という視点にフォーカスして書かれたダーウィンの伝記になる.原書の出版は2009年で,生誕200周年,「種の起源」出版150周年に合わせた企画ものの1つだったようだ.
ダーウィンは大の愛犬家であったし,「種の起源」「人間の由来」「人間と動物の感情表現」「飼育栽培下における動植物の変異」という進化を正面から扱った主要著書にはいずれもイヌが数多く登場する.「人間と動物の感情表現」の挿し絵に多くのイヌの姿が描かれているのは特に印象的だ.だからそこからダーウィンの人生を眺めて見るのも面白いだろうという企画の上で書かれた本なのだろう.著者はサイエンスライターのエマ・タウンゼント*1.原題は「Darwin's Dogs: How Darwin's Pets Helped Form a World-Changing Theory of Evolution」.
 

はじめに

タウンゼントはイントロダクションをイヌと一緒に写ったダーウィン家の写真と「人間と動物の感情表現」に登場するダーウィンの愛犬ボブの「温室顔*2」の話から始めている.そしてダーウィンが最も長く観察した動物がイヌであり,その研究もさまざまな面でイヌに刺激を受けていたのだと指摘する.
 

第1章 はじまり

第1章から伝記となり,ダーウィンの人生がたどられていく.1809年の生誕,家系図,と示したあと,シュルーズベリで暖かな家庭に育ち医学のためにエジンバラへ移ったあとの家族(特に姉たち)との手紙のやり取りの中心がイヌの話題だったことが語られる.この個別のやり取りも詳しく紹介されていてイヌ好きにはたまらないエピソードが並んでいる.
ここで当時の英国社会の動物愛護精神の高まりつつある様子*3や農業分野における育種改良熱,そしてもちろんイヌについての育種熱*4も紹介されている.
ダーウィンはエジンバラ,そしてケンブリッジで狩猟に熱中することになる.ダーウィンにとってイヌとその育種はきわめて身近にあったのだ.
 

第2章 仕組み

ダーウィンはビーグル号で世界に旅立つ.ビーグル号航海中の5年間は愛犬とあうことはできなかったので物語は英国への帰還後に進む.この部分の面白いエピソードはダーウィンは愛犬が5年の後自分を覚えているかどうかに興味を持ち調べようとしたというところだ(ちゃんと覚えていたようだ).
航海から戻ったダーウィンは進化学説を考察していく.タウンゼントは,ここでイヌと人間に(感情表現を始めとした)多くの共通点があること,ダーウィンフィンチの共通祖先からの多様化とイヌの品種の多様化が本質的に同一であることの認識がダーウィンにとって重要だったと指摘している.そしてダーウィンはさまざまなイヌや家畜の育種についての情報を集める(ダーウィンに情報提供した育種家たちのエピソードが数多く収録されている).そしてライエルとマルサスのヒントにより進化のメカニズムについての考察が進み,自然淘汰説が生まれる.
 

第3章 起源

1842年ごろ自説をいったんまとめたあと,ダーウィンはその公表を見送り(タウンゼントは信心深い妻エマを慮ったことが理由として大きいとしている),ダウンハウスに引きこもる.そしてフジツボの研究が一段落した1954年ごろからまた進化の大きなテーマに戻って「種の大著」の執筆にかかる.そして有名なウォレスからの手紙,リンネ協会での共同発表,(「種の大著」の簡略版としての)「種の起源」の執筆と話が進む.
「種の起源」が家畜と栽培植物の話から始まっていることは有名だ.タウンゼントは,ダーウィンがなぜそういう構成を採ったのか,何を訴えようとしたのかについて詳しく語っている.このあたりは第1章「飼育栽培下における変異」の重要性にフォーカスしたユニークな「種の起源」の解説になっている.
 

第4章 類似性

「種の起源」の執筆後,ダーウィンは論争の表に立たずに植物の研究に引きこもる.そしてしばらくして1868年に「飼育栽培下における動植物の変異」1871年に「人間の由来」を発表する.
前者は「種の大著」の構想の一部でもあり,集めていた進化の裏付けとなる事実が盛り込まれている.この第1章は「家畜化されたイヌとネコ」だ.
後者は「種の起源」では避けていた「人間」を扱うもので,人種,心,倫理,性的魅力にまで踏み込んでいる.「人間の由来」のいくつかある大きなテーマ*5の1つは「ヒトは特別な存在か,それとも単なる動物の1種か」だった.ダーウィンはヒトとその他の動物の連続性を強く主張し,そしてそれを裏付けるためにさまざまな例を引いている.イヌとの関連では,(一部の)ヒトも耳を動かせること,イヌには明らかに忠誠心があること,イヌがヒトの言葉を理解して対応すること,イヌの遠吠えは原始的な宗教心の発露ともとれること*6,風で揺れ動く日傘に向かって吠えるイヌは「原因がなさそうな動きは何かのエージェントによるもの」と推測しているのでありこれは迷信につながりうること,イヌは時に異なる本能の間で葛藤することなどが書き込まれている.タウンゼントはダーウィンは動物にも(道徳を含む)抽象的な思考と自意識があると考えていたのだと指摘し,「人間の由来」の前半部分は「この本は人間はペットよりことさら優れているわけではないと論じた本だ」という印象を抱かせるものだと評している.
 

第5章 答

「人間の由来」出版後のダーウィンは平穏に暮らし,最後には庭のミミズを研究し,1882年に逝去する(愛犬ポリーはダーウィンの死の翌日に亡くなったそうだ).
タウンゼントはきっとダーウィンが知りたかっただろうと,イヌについての最新の知見をここにおいている.ダーウィンはイヌはオオカミだけでなくコヨーテやジャッカルなどの複数の種の交雑を起源とすると考えていたが,現在ではオオカミの単一起源であることがはっきりしている.タウンゼントは「オオカミに似た祖先」から家畜化されたという言い方をし,家畜化の過程の推測(ヴィレッジドッグからの2段階説),ベリヤエフのキツネ実験,純血種と遺伝病,イヌの認知心理学などの最新の知見を紹介して本書を終えている.
 
本書はダーウィンの伝記としても(ビーグル号航海の時期を除いたものとして)コンパクトにまとまっており,その上にダーウィンやその家族とイヌたちとのかかわり,ダーウィンとイヌの育種家たちの情報交換の様子,ダーウィンの学説の中の特にイヌがからむ部分の詳細が付け加わった面白い書物だ.イヌ好きのダーウィンファンには楽しい贈り物というべきだろう.
 
 

関連書籍
 
原書

 
ダーウィンの「飼育栽培下における動植物の変異」.私が知る限り邦訳はない.一度通読したがなかなか面白い.ダーウィンは(誤って)イヌはオオカミからの単一起源ではないと考えていたが,ハトはカワラバトからの単一起源と(正しく)推測していたので,特にハトについて非常に丁寧に扱っている.そして隔世遺伝などの現象から遺伝が粒子的であると(正しく)推測した経緯や「獲得形質が遺伝されることがある」という報告を(誤って)信じてしまったことから,苦労してパンジェネシス理論を構築したことがよくわかる.

*1:ケンブリッジで歴史を学び,科学史の博士課程まで進んだが,音楽活動のため中退し,一時シンガーソングライターをやっていたそうだ.本書が初の著作ということらしい

*2:ダーウィンが散歩に行くルートと研究のために温室に向かうルートは家から温室まで共通しているため,散歩かと思って喜んでついてきたイヌが,実は温室ルートかと悟ってがっかりする様子の顔

*3:当時「人間の子どもを救助するイヌ」というのは絵画の人気のテーマの1つだったそうだ.

*4:19世紀半ばまでよく知られた犬種は数種類だけだったそうだ.そこから爆発的に犬種が増える

*5:このほかの特に大きなテーマは性淘汰であり,そして人種に見られる違いは性淘汰産物であり表面的だというものだが,タウンゼントは(執筆動機に奴隷廃止があるとだけコメントしているが)そこは扱っていない.

*6:これは初版にはなく第二版から収録されたもので,ベルギーのウーゾーの説だそうだ.