From Darwin to Derrida その75

 

第8章 自身とは何か その15

 
少し間が開いたが,ヘイグに戻ろう.第8章はヘイグによるアダム・スミス読解.ここまで道徳感情論のキーになる「sympathy」について,1人称,2人称,その反射が議論された.そしてここから第3者からの視点,3人称「sympathy」が取り扱われる.
 
 

3人称「sympathy」と間接互恵

 

これらの相反する利益主体についての適切な比較ができるようになる前に,私たちは自分たちのポジションを変えなければならない.私たちはこれらについて,自分の地点からでも彼の地点からでもなく,自分の視点からでも彼の視点からでもなく,第3者の地点と視点から見なければならない.そしてその第3者は私たちのどちらとも関連がなく,偏りなく判断できるものでなくてはならない.

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • 私たちの他者についての2人称イメージの特に重要な機能については,少し前にほのめかされている.あなたと私は,私たちの相互作用において,互いの2人称イメージを持ち込む.その2人称イメージは過去の第3者との相互作用についての観察や伝聞から作られている.さらに現在の私たちの相互作用を観察してる第3者は私の2人称イメージを作り,それにより将来の彼の私に対する対応が変わってくる.そして彼はそれは私の知らない誰かと共有するだろう.

 
相手についてのイメージは自分と相手の相互作用だけでなく,第3者との相互作用の影響を受ける.言い回しは難しいが,これは噂や伝聞のことを考えると当然ということになろう.だからこの節題には「間接互恵」と書かれているのだ.
 

  • だから私はあなたと相互作用するに際して,第3者が形成するであろう2人称イメージ(そしてそれには私の2人称イメージが含まれる)をメンテナンスおよびモニターしなければならない.私は彼の目を通して自分を観察し,彼の私に対する賛否に対して「sympathize」しなければならない.私は彼の判断に合わせた私の公開セルフを作らなければならない.そしてこの場合の第3者は誰か特定人物ではなく,一般的な観察者になる.この場合の最も顕著な特徴は,観察者に呈示するのが反射的イメージ(reflected image)であることだ.

 
ここは誰かと相互作用するときには,それを観察している第3者の眼からどう見えるかを気にする方がいい(そしてそのためには第3者の意見に「sympathize」したほうがうまくいく)ということをいっている.それは評判のことを考えるとよくわかる.
 

  • 私たちは異なる観察者に向けて異なる3人称イメージを構築する.オバマの就任式で涙を流す年取った黒人女性は,オバマが国家から受け入れられていることを感じ,そして彼女も国家から受け入れられている気配を感じている.彼女は過去の不当な仕打ちを再び感じ,おそらく彼女の反射的イメージを白人観察者に向けて調整している.あるいは,彼女の構築した私のような観察者の3人称イメージに対する彼女の1人称的反応について,私の白人観察者の2人称イメージはそう判断されたということかもしれない.

 
オバマ大統領の就任式のスピーチには「60年前にはレストランに入ることもできなかった黒人の息子が大統領になった」というフレーズがあり,テレビの中継画面ではそのフレーズと同時に涙を拭っている黒人女性が大写しになったということがあったようだ.これはアメリカ人にとってはかなり印象的な一場面だったのだろう.そして(大写しになることを事前に知っていたわけではないだろうから)ここで彼女が行っているイメージの調整は無意識的になされている.私たちは無意識的に自分のイメージを再帰的な相互作用の中で調整しているだろうとヘイグは示唆しているのだろう.
 

  • ヒトは社会の中で生きるように作られている.彼は仲間との相互作用から多大な利益を得ることができる.だから仲間はずれにならないためには大きなコストも支払うだろう.
  • 彼は仲間を搾取して短期的な利益を得ることもできるが,誰も見てないことを滅多に確信できない.評判が傷つくことの将来的なダメージは目先の利益を非常に小さいものにする.だからヒトの第3者的観察者の判断に対するメンタルモデルは,アダム・スミスのいう「心のなかの自分」,つまり自分自身を公正に判断する観察者に非常に近いものになるだろう.直接互恵性はここで間接互恵性にステージアップする.
  • スミスはこう書いている.「自然はヒトに社会を与え,喜びへの欲望と仲間を傷つけることへの忌避を植え付けた」

 
このヘイグの説明に従えば間接互恵性の至近的な心理メカニズムの1つには第3者的視点から見える(つまり公正な判断としての)自分のイメージのメンタルモデルがあるということになる.自分の評判を保つためには自分勝手な理屈だけではダメで,公正な第3者的判断が不可欠ということになる.ある意味当然だがなかなか難しいところで,それに失敗している例はよく見かけるというところだろうか.
 

  • 本章では私は「Man(ヒト)」と「He(彼)」を両性を表す用語として用いた.それはスミスの時代の慣習だ.これは女性読者への「sympathy」の欠如のように感じられる.私はスミスへの敬意からこの用語を用いたが,それが読者の私への2人称イメージにどう影響を与えるかについて不安を感じてもいる.

 
このコメントはキャンセルカルチャーにいるアカデミアの1員としての不安ということになるだろう.単にそういう意図はないと書かずに回りくどい言い方をしているのがいかにもヘイグらしい.
 

  • 最後に,スミスは3人称イメージが腐敗しないものだとは考えていなかったことを指摘しておこう.「彼がそこにいるとき,自分の利己的な動機に基づく暴力や不正についての心のなかの自分の判断は,真実を元にした公正な判断とは大きく異なることがある」

 
この最後のコメントは自己欺瞞にかかるものということになるだろう.