From Darwin to Derrida その82

 
ヘイグによる本書も第9章に入った.第9章のテーマは至近因と究極因だ.これについてよくある説明は,まずそもそも「なぜ:why」という問いかけには異なるレベルでの回答が可能だという話*1をし,その後生物学における有名な例として「ティンバーゲンの4つのなぜ」を説明し,このうちメカニズムについての問いを至近因,機能的(適応的)理由を究極因と呼び,この他に発生的理由と系統的理由があるとするものだ.
ヘイグがどのように深く裁くのかが本章の読みどころになる.果たしてヘイグはこの至近因(proximate cause)と究極因(ultimate cause)という言葉の出所がマイアであるとし,さらにそのはるか昔の言葉の起源から語り始める.
 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その1

 

ヒトの本能的な行動の理由を問うには,自然が奇妙にみえるようなプロセスの実践を学ぶことによって解放された心が必要である.

ウィリアム・ジェイムズ (1887) Scribner's Magazine「本能とは何か」

 

  • アダム・スミスの道徳感情についての議論は進化生物学の現代的テーマに反響する.彼が行った私たちの理性(our reasons)とその理性がある理由( the reasons for these reasons)の区別は,進化生物学者の行うメカニズムの説明となぜそのメカニズムが進化したのかの説明の区別を思い起こさせる.

 
「理性がある理由」というのはまさに究極因的な概念だが,理性があること自体は至近因とは少し異なるだろう.とはいえ確かにアダム・スミスが究極因的な思考をしていたのは確かだ.
 

  • この区別は通常エルンスト・マイア(1961)による至近因(proximate cause)と究極因(ultimate cause)の区別が嚆矢とされる.(サイエンスに掲載された論文「Cause and effect in biology」が参照されている)

science.sciencemag.org
 

  • しかし私はこの解釈はマイアのテキストを誤読した結果だと考えている.本章は至近因と究極因の区別についてのコメントを求められたときに書いたものが元になっている.この区別が進化プロセスの理解を明確にするものか曖昧にするものかという問題は生物学の哲学の熱い議論の的となってきた.

 
生物学の哲学でこれについての熱い議論があったとは知らなかった.至近因と究極因を区別するのは,今いったいどのようなレベルの物事を取り扱っているかを明確にするものだから,この区別が進化プロセスの理解の曖昧にすることがあるとは想像もつかない.どのような議論があったのかには興味が持たれる.
 

  • 本書にこの章を含めた私のねらいは,「原因(cause)」という概念はほとんどの生物学者が考えるほど簡明なものではなく,多くの生物学者が目的論的用語を避けようとしているために生まれた用語の曖昧さによって混乱が生じていることを示すことだ.

 
確かに目的論的用語をことさらに避けようとするとかなり持って回った言い方を繰り返さざるを得なくなる.そこに原因という概念の奥深さがややこしい影響を与えるというわけだ.ヘイグはこのあと「究極因」という用語が人によって異なる意味に用いられて混乱のもととなってきたことを解説していくことになる.

*1:これについてはリチャード・ファインマンの解説が思い起こされる.ファインマンは「ある女生徒が今日遅刻をしたのはなぜか」という例を出し,それが出がけにけがをした母親を介抱するためだった.けがをしたのは氷の上で滑って転んだからだ,なぜ氷の上では滑るのか,その分子的な仕組みの謎という具合に解説のレベルを変えていく.