From Darwin to Derrida その83

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その2

 
ヘイグによる至近因と究極因の読み解き.最初に至近因(proximate cause)と究極因(ultimate cause)を区別したとされるマイアの論文に入ることになるが,その前にかなり詳しい前史を置いている.
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究極因についての遙かに古い起源

 

  • マイアの1961年の論文は生物学における「歴史的説明」を強く擁護している.そこでは「究極因は「歴史を持つ原因」だ」とされている.彼は生物学的な過程を理解するにはその進化的な歴史の理解が欠かせないと信じていた.

 
冒頭からこれはかなり驚く.歴史を持つ原因ということであればティンバーゲン的には機能的(適応的)理由より系統的理由の意味に近くなるだろう.そしてヘイグは究極因の意味はその言葉の使用者により異なり変化していったのだとほのめかす.
 

  • 似たような議論は単語の意味について行うことができる.意味は突然変異,意味論的浮動,代替的意味の競合の結果により進化する.ある一時点において異なる個人は,あるいは同じ個人でも異なる文脈では,同じ単語について異なる変異した定義を持ち,それらの変異の頻度は移り変わる.どちらの意味が広がるのかが科学的哲学的な議論の方向や結果を決めるだろう.(ある変異についての)支持者は世界が自分たちに従うことを望むだろう.このように問題を捉えることの利点は,単語の「真の」「正確な」「正しい」意味をめぐる議論から一歩下がることができることだ.

 

  • 進化生物学における「至近因と究極因の区別」は,現在の原因と進化的過去の原因の区別,あるいはメカニズムの説明と適応的機能の説明の区別などと様々に解釈されてきた.
  • 皆「至近因とは何か」について合意しているようだ.これらはアリストテレス的な作用因になる.意見の相違は究極因の理解のところに生じる.この究極因の意味の曖昧さは何世紀も前に存在する.「究極因」は作用因の一連のシリーズの最初のものとも,イベントの一連のシリーズの最後に現れると考えられる最終因(a final cause すなわち目的因)とも捉えられていた.現在見られる究極因の曖昧さ(歴史的説明か機能的説明か)はこの古い曖昧さの子孫と見ることもできる.最近の論争はこれらの究極因についての異なる意味を区別することによって明確にすることができる.

 
そしてこの究極因(ultimate cause)の意味の多元性は何世紀もさかのぼると畳みかけ,ここから語源のラテン語にまでさかのぼる思い切りディレッタントな解説となる.
 

  • オックスフォード辞典は始めるのにいいポイントだ.形容詞「proximate」と「ultimate」はそれぞれラテン語動詞の「近くに引き寄せる」「最後に存在する」から派生した語だ.「proximate」についての最初の項目は「因果の連鎖の前あるいは後に最初に現れる・・・しばしばproximate cause(至近因)という形で使われる.反対語はremote, ultimate」になる.「ultimate」についての最初の項目は「最後の,その他のすべてを越えてある,最終的な目的を形成する」になる.両方とも最初の用法は17世紀の半ばにさかのぼる.ここで重要なことは,「ultimate cause」は長い間「final aims」と共起され,「proximate cause」は「remote cause」「ultimate cause」と対比されてきたということだ.

  • 「proxima causa」と「ultima causa」は共に英語で「proximate cause」や「ultimate cause」が使われるようになるより何世紀も前に学問的ラテン語として使われてきた.トマス・アキナスは(アリストテレスの註解の1つである)「自然学註解」においてアリストテレスにおける「prior cause」と「posterior cause」の区別を説明している.
  • 私たちは「proximate cause」が「posterior cause」と同じ意味で,「remote cause」が「prior cause」と同じ意味であることを理解しなければならない.これらの2つの原因の違い(つまりpriorとposteriorの違い,あるいはremoteとproximateの違い)は同じものだ.さらに私たちはよりユニバーサルな原因はいつもremoteと呼ばれてきたことを,より特殊な原因はproximateと呼ばれてきたことを知るべきだ.たとえばヒトのproximate形態はその定義つまり「合理的な死すべき動物」だが,動物のそれはよりremoteであり特殊なものがそぎ落とされる.それは特に優秀なものは,劣ったものの形態を持っているからだ.同様に銅像のproximateな材質はブロンズだが,remoteな材質は金属であり,さらにremoteな材質は物質になる.

 
なかなか深い,近接と遠隔(究極)がもともとは事後と事前だったというのはなかなか驚かされる.そしてユニバーサルであるものは事前であり遠隔だということになる.さらに近接と遠隔(究極)に特殊と一般という意味が加わる.そこからより高いレベルの目的が遠隔(究極)ということになる.
 

  • remoteな原因はproximateな原因を説明するが,逆は説明できない.アキナスはproximateな原因とremoteな原因の区別を,一般性が上位階層に来る形相因と質料因の階層を使って,一般的な原因はremoteで特殊な原因はproximateだとして説明しようとしている.しかしながら階層が時間的に決まる場合にもこの区別は適用可能だ.先立つ出来事は後に来る出来事の原因となる.そして同じくこの区別はproximateな目的がより高い目的の手段であるような目的因にも適用可能だ.
  • どのような因果連鎖や因果階層においても,最もremoteな原因つまり先立つ(prior)原因を持たない原因は,ultimate causeになる.アキナスは「対異教徒大全」において,ultimate causeの必要性を示すためにアリストテレスの無限の因果連鎖を否定する議論を使っている.アキナスは作用因の連鎖においては不動の動者が必ず存在し,目的因の連鎖においてはそれ自体が目的であるfirst causeが必ず存在するのだと主張している.アキナスにとって不動の動者と究極の目的は1つにして全なるものなのだ.始まりにおいて目的があるのだ(In the beginning is the end. ).
  • スピノザも同じようにproximateな原因とremoteな原因を区別している.彼は「短論文」においてこう主張している.
  • 神は,神が創造したと私たちが考える無限で不変の物事のproximateな原因だ.しかしある意味において神はすべての個物のremoteな原因だ.
  • またスピノザは「エチカ」において,個物の世界における作用因の無限の連鎖を議論している.その部分の注釈において彼はこう書いている.
  • すなわち,まず神は直接創造したものについてのproximateな原因だ.・・・そして次に神は個物のremoteな原因であるということはできない.・・・ここで「remoteな原因」というのはその効果と連結しない原因のことだ.しかしすべての物事は神の中にあり,神なしに存在しえないという意味で神に依存している.
  • 神が個物のremoteな原因になれるかどうかについてスピノザは意見を変えたらしい.「エチカ」においては神は永遠に存在し,proximateであり,remoteではない.スピノザは目的因については強硬に否定し,「すべての目的因は人間の創造の断片に過ぎない」と書いている.スピノザの目的因の否定は神にも適用される.なぜならすべては神の中にあり,そしてもし神が目的を持つとするなら,そこには欠けているものがあることになるからだ.

 

  • proximateな原因は法律,特に不法行為法において昔から議論されている.フランシス・ベイコンの最初の法格言は「In jure non remota causa sed proxima spectatur. :法においてはproximaな原因のみが考慮され,remotaな原因は考慮されない」だ.すべての原因にそれに先立つ原因があるとしても,法は(延々とremoteな原因を探索したりせずに)実践的に直接的な原因のみを考慮する.
  • 結局のところ,原因は(比喩的なものを含めて)時系列的(prior, posterior)あるいは距離的(proximate, remote)に順序づけられる.これらの軸は作用因,質料因,形相因,目的因という区別の軸とは直交している.究極因(ultimate cause)はこのアリストテレスの4つの原因のすべてにおいて現れうるのだ.

 
スピノザの神学的議論やラテン語法格言まで登場する.ヘイグの博覧強記ぶりにはただ畏敬の念を覚えるのみだ.