From Darwin to Derrida その87

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その6

 
究極因と至近因についてのヘイグの探求.マイア論文後の状況を語る.
 

マイア以降の至近因と究極因 その1

 

  • マイアの至近因と究極因の区別は進化生物学者に広く受け入れられたが,機能生物学者からはほとんど無視された.進化生物学者にとっては「究極」と「至近」という言葉の含意に魅力があったのだろう.確かに究極の方が至近より重要そうだ.しかし至近因に興味を持っている機能生物学者には受けが悪かった.フランシスは「『究極因』とはいかにもうぬぼれたラベルだ」と書き,デューズベリーは「懲罰的熱狂」だとこき下ろしている.ビーティは1994年に「マイアの究極因/至近因の区別に対するちょっとした不同意も異端とされる」と書いている.

 
進化生物学を分子生物学に圧倒されることから守ろうと「究極」の言葉を使ったマイアはしかし至近的メカニズムの研究者からは受けが悪かったということになる.それはある意味当然だろう.
そしてここから本エッセイが書かれた真の背景が説明される.それは最近の究極因/至近因に関する哲学的論争ということらしい
 

  • しかしながら生物学の哲学者によると最近この教義的な問題について論争が勃発しているということだ.教皇の権威は現代のルターにより挑戦され,当代の十字架のヨハネにより擁護されているそうだ.(現代のルターについてラランド,シエリーが,当代の十字架のヨハネについてディッキンズ,バートン,ガードナーの名が挙げられている)

 

  • この「究極因/至近因の区別は有用なのか,時代遅れなのか,あるいは有害なのか」にかかる最近の論争は行き違い,ねじれている.なぜなら究極因,至近因の区別について2つの基準がごちゃまぜに議論されているからだ.その1つは直近の原因と歴史的原因の区別,もう一つはメカニズムと適応的機能の区別だ.1961年のマイアは第1の基準を示しているが,ほとんどの進化生物学者は第2の基準を強調する.マイアの批判者の多くは第1の基準で議論し,マイアを擁護する生物学者は第2の基準を用いて反論する.これが議論を意味論的泥沼に引きずり込む.そして論争は「正しい」区別は何かをめぐるものになる.片方は歴史的にマイアが何を言ったかを問題にし,片方は多数決(多くの人がどう使っているか)を支持する.そして何が正しい基準なのかが食い違うのだ.

 
ヘイグの解説によると2013年ごろのこの論争はマイアが曖昧にした2つの究極因の意味が論争の当事者によって異なっているからということになる.ちょっと興味深いし,あまり聞いたことのない論争だったので,ヘイグが引用している論文のアブストを読んできた.ちょっと読んだだけだが,いかにも筋悪の科学哲学者の議論に生物学者が反論批判している論争のような印象だ.
 
おそらく論争の口火を切ったと思われるラランドたちの論文.PDFで全文公開されている.アブストではマイアの用語について至近因を生理的要因、究極因を自然淘汰的要因と扱っており,さらにこれでは個体発生要因や周辺分野が進化生物学から除かれるとか,(マイアのような区別をするのではなく)「相互的因果」を考えるべきだあたりについて(やや筋悪気味の)議論しているように見える.アブストだけからだとややヘイグの解説とは趣が異なっているように感じられる.
https://edisciplinas.usp.br/pluginfile.php/4270853/mod_resource/content/1/More%20on%20how%20and%20why%20cause%20and%20effect%20in%20biology_%20Laland%20et%20al%202013.pdf

 
それに先立つシエリーの論文.アブストを読む限り,ランダム過程,種淘汰,エピジェネティックスあたりを強調する筋悪の議論に見える.
www.researchgate.net


ディッキンズとバートンによるラランドへの反論論文.ラランドたちのいう「相互的因果」なるものは標準理論にすでにあると手厳しく批判している様子だ.
www.springer.com

 
数理進化生物学者として有名なアンディ・ガードナーによる論文.これも全文公開されている.このアブストを読むと少なくともガードナーは,自分が考える究極因(適応的理由)とラランドが考える究極因(歴史的理由)の意味が異なっていることに気づいてそれを指摘した上でラランドたちの「相互的因果」が進化生物学の生産性には寄与しないものであることを主張するものになっている.(これも定義が異なったまま論争が生じたというヘイグの説明とはやや趣が異なる印象だ.とはいえ,どちらの定義がより生産的かという議論になっているというあたりはヘイグの説明通りということになる)
https://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.387.2624&rep=rep1&type=pdf

   

  • この「究極因」の曖昧性はwhyの曖昧性から生じる.ティンバーゲンは1968年にこの曖昧性を避けようと生存価の問題と進化史の問題を区別した.マイアは目的因論的な「何のために」を明確に拒否して歴史的な「どのようにして来たのか」を持ち上げた.しかし多くの進化生物学者は(適応機能的な)「何のために」をメカニズム的な「どのようにして」に対して擁護したいと考えたのだ.

 
そして(おそらく当初からこの曖昧性に気づいていた)ティンバーゲンは適応的な機能の問題と歴史的な系統的理由の問題を区別した.だから哲学者たちもマイアのみによらずにティンバーゲンを持ち出して概念整理して考察すべきだったのだし,そうすれば激しい論争になるはずもなかっただろう.そして(少なくとも日本では)今日的に究極因と至近因を説明するときには(特に入門書などでは)ティンバーゲンが引かれて解説されることが多いのもこの曖昧性を考えると当然ということになる.
 
なおヘイグはティンバーゲンのもともとの論文も引用している.
www.science.org