From Darwin to Derrida その98

 

第10章 同じと違い その7

 
ヘイグの「相同」の考察.ヘイグは遺伝子のコピーこそが相同と定義されるべきであるという立場に立っている.ここで機能主義者と構造主義者を和解させようとし,その中で形態的相同を復活させようとするワグナーの「相同,遺伝子,進化イノベーション」の議論が批判的に取り上げられる.

 

特徴と状態 その2

  

  • ワグナーは「複雑な生命体/システムはユニークで歴史的偶然に由来する制約やバイアスを持ち,それが機能主義者と構造主義者の統合への道を開く」と考えていた.ワグナーの統合においては,保存された構造的特徴は,進化的な時間の中でどのように構造が異なったり,異ならなかったりするかについての因果的な役割を持つ.
  • ワグナーはこうして両者に統合のためのオリーブの枝(和解の印)を差し出してはいるが,実際にはこの本は適応主義者の近視かつ乱視眼的態度をただすために書かれていた.ワグナーは適応主義者たちは構造主義者を過小評価し,誤解しており,統合(和解)は(被害者である)構造主義者の用語によって進められるべきと考えていたのだ.

 
このあたりも難解だ.歴史的偶然による制約が相同を形作るのであり,そういう制約があることを認めれば構造主義と機能主義が和解できるという話だが,そもそも両者がどこで食い違っているのか(物事を見る視点が異なっているだけなら,そもそも食い違っていることにはならないだろう),そしてそれが制約を認めればなぜ和解できるのか,それと相同が自然種であるという主張とどう結びつくのかは私にはよくわからない.
 

  • ワグナーはある特徴の発達にかかる遺伝子ネットワークがどのように進化したのかの探索を支持したが,しかし彼の目的は古典的な形態的相同を遺伝的相同に置き換えることではなかった.そうではなく彼はある特徴のアイデンティティのメカニカルな基礎を形成する遺伝子コントロールの様相を特定しようとしたのだ.彼は「相同は生命体の発達組織化を反映している」と書いている.身体の相同器官の境目は生命体を(しばしば文字通り)刻み形作るのだ.彼の見解によれば身体パーツは進化的連続性を示しており,その連続性はその発達の遺伝的コントロールの様相の変化を超越しているということになる.
  • ワグナーは特徴の「アイデンティティ」と特徴の「状態」を区別した.ある単一の特徴のアイデンティティは複数の状態をとりうる.彼は形態的特徴のアイデンティティと状態の関係を「遺伝学における遺伝子のアイデンティティとアレルの関係と同じ」と見ていた.彼の「特徴のアイデンティティ」はオーウェンの相同の定義における「同じ器官」に相当し,「特徴の状態」は「形態と機能のすべての多様性」に相当している.
  • ワグナーは「新規性」を「新しい特徴のアイデンティティの起源」と定義し,「適応」を「特徴の状態の進化的変更」と定義した.
  • 彼の特徴の発達のモデルは3段階の遺伝的コントロールを想定している.第1段階は位置のキューを担当し,第3段階は特徴の状態を担当する.そして重要な第2段階は「特徴アイデンティティネットワーク(ChIN)」とされる.ChINは相互に排他的な機能的ユニット群で,その他の段階より強く保存される.そのため特徴の位置や状態が変化したとしても,特徴のアイデンティティの連続性とその他の特徴からの擬自律性が生じる.彼は,新規性を生む遺伝的変化と新規ChINは,既往のChINの変更による適応を生じさせるものとは本質的に異なるとした.これが彼の「自然淘汰は適応を説明できるが新規性は説明できない」という議論の基礎となっている.

 
このあたりはワグナーの議論の核心ということのようだが,いかにも発生学者らしく難解だ.この特徴のアイデンティティが相同の自然種性を示しているということなのだろうか.
 

  • 脊椎動物の眼のレンズは種をまたがる相同器官の例になる.ワグナーの用語法に従うならレンズは異なる場所に異なる状態を進化させた特徴アイデンティティということになる.ワグナーはヤモリの眼の再生の例を用いて,相同器官が全く同じ発生起源を持つ必要も全く同じ発生過程を経る必要もないことを示した.ヤモリの眼のレンズは通常胚の眼杯の外胚葉由来細胞から発達する.しかし実験的にレンズが除去されると周辺の虹彩細胞からレンズが形成されるのだ.元のレンズと再生したレンズは連続相同と見ることができるのかもしれない.
  • 成熟したレンズの細胞は核を欠き,タンパク質を30~50%含んだ水溶液からなる.最も多いタンパク質はクリスタリンと呼ばれ,光を屈折させる機能を持つ.異なる分類群ではクリスタリンを合成するために異なる酵素が使われている.たとえばカモノハシではυ-crystallinをつくるためにLDH-Aが,ワニや鳥類ではε-crystallinをつくるためにLDH-Bが使われている.LDH-AやLDH-Bをエンコードする遺伝子は脊椎動物の進化の初期段階で生じた遺伝子重複の後に分岐したのだ.
  • クリスタリンとして機能するために必要なことは,タンパク質が水溶液内で絡まって曇りをつくることなく透明のまま高濃度を保つことだ.レンズが機能し続けることはその生物にとって重要なので,この性質はきわめて安定的であったに違いない.LDHのこのように保存された性質(たとえば水溶性やコンパクトな構造)は「独立した」コオプションによってLDH-AとLDH-Bに分岐する前から備わっていたのだろう.

 

  • 特徴と状態で本質的な違いがあるのだろうか.υ-crystallinやε-crystallinはレンズの特徴の状態だ.しかしクリスタリンとしての酵素のコオプションは新しい特徴を作り出すのではないのか.これは単なるマイナーな制御の変更でありレンズの表現型を微妙に変えるだけなのか,それとも酵素が構造を持つタンパク質として新しい機能を持つようになった新規性なのか.
  • レンズには数多くの特質があり,それは共通祖先や共有していない祖先の意味ある状態を作り上げている.ワグナーは歴史的「相同」概念が特徴と状態を明確に区別していないことをその弱点と考えた.なぜならそれは「同じ」ということを「残存する類似性」と置き換えてしまうからだ.しかし特徴と状態を明確に区別しようとすると,相同は単に個別の刻み込まれた特徴アイデンティティネットワーク(ChIN)に関するもの限られてしまう.

 
要するにワグナーの難解で観念論的な議論を「眼のレンズ」という具体的な例に当てはめて考えてみると基本的にナンセンスではないかというのがヘイグのいいたいことのようだ.続いて自然種を持ち出した議論への批判が行われている.