From Darwin to Derrida その106

 

第10章 同じと違い その15

  
相同をめぐる考察から,生物学における形相因,そして遺伝子単位の淘汰の再帰的なプロセスへとヘイグの考察は進む.
 

形相因 その2

 

  • もしほとんどの遺伝的差異(突然変異)が差異の排除(ネガティブ淘汰)を生み出すような表現型効果を持っているなら,ゲノムの特徴は高度に保存されるだろう.これらのゲノムの「強く保存された」特徴,それらが決定する身体の形態は,より保存されていないゲノム部分にかかる淘汰の淘汰環境となる.そのようなゲノム特徴や身体形態は,しばしば外部環境より固定的であり,タイプの統一性のメカニカルな基礎になる.これらの特徴は「複雑なシステムが進化的な運命を決める因果的な役割を負っている」という構造主義者の直感を裏付けるものだ.

 
難しい言い回しだが,変異が有害になりやすければ,その遺伝コードは保全されやすく,進化制約に見えるようになり,そしてそれは他の遺伝子の淘汰環境になるというほどの意味だろう.ここからその具体例が議論され,遺伝子と淘汰が再帰的なプロセスであり複雑に絡み合っていることが協調される.
  

  • 2対の付属肢を持つ脊椎動物が水中から陸上,空中に進出し,また水中に戻ることを繰り返し,多くのハビタットを3対の足を持つ昆虫と4対の足を持つクモ類と共有している.そもそもなぜ水中の脊椎動物が2対の,昆虫が3対の,クモ類が4対のヒレや脚を持っていたかのそもそもの理由は進化的時間の彼方で見えなくなっている.そしてこの「もともと」の理由は,なぜネガティブ淘汰の中で2対,3対,4対の脚が保たれてきたかの理由とは異なる.
  • 2対の胸と腹の付属肢は脊椎動物が適応放散を遂げてきた環境下で最も強く保存されてきたものだ.後から振り返れば,この脊椎動物,昆虫,クモ類のボディプラン(Baupläne)は進化的な発展のための安定的なプラットフォームだったということになる.
  • 進化とは,特にそれをトークン因果(個別の例で因果を考える)ではなくタイプ因果(あるタイプと別のタイプの間の因果を考える)として考えるなら,伝統的な因果の概念を溶解させるような再帰的なプロセスなのだ.遺伝子は身体の創造のための原因としての役割を持ち,身体はどの遺伝子が自然淘汰で選ばれるかの原因としての役割を持つ.形態は遺伝子ネットワークにより形作られるが,片方で形態は淘汰制約の元にあって激しくネットワークが変化する中で安定していることもある.

 

  • 作用因が流転する中で形態の安定性はどのように継続できるのか? ワグナーはその継続性を形態アイデンティティネットワーク(CHINs)に帰するだろう.彼は「(これらは)形態の発達にかかる遺伝子制御ネットワークの中で最も保存された領域であり,明白な形態アイデンティティと最も一貫して結びつけられている.」と書いている.しかし,長い時間の中では形態が保たれたままCHINsが変化することもありうるだろう.

 
このように考えてくるとワグナーのように特定の遺伝子制御ネットワークを相同の基礎に置くのは適当ではないということになる.しかしヘイグの考察はここからさらに深くめぐらされる.
 

  • 様々なウイルスのカプシドタンパク質は構造的な類似性を示している.そのアミノ酸配列には類似性は見つからないが,この類似性が収斂で説明できるということはありそうもない.これらのタンパク質は,10億年以上前に祖先DNA配列から由来したDNA配列によってエンコードされている.この構造は,これらのカプシドタンパク質が(配列の由来による定義から)相同であることを示唆しているが,塩基やアミノ酸配列にはなんの類似性もない.ここで我々は比較形態学の世界に引き戻される.共通祖先は配列ではなく,「ダブルバレルトリマー」や「ジェリーロール」などの3次元的形態により認識されるのだ.何が保存されたかを明らかにするのは形態なのだ.物語があまりにも多く口伝され,脚色や省略や用語変更が積み重なった結果,共通祖先の存在はテキストには残されておらず,プロットの構造にのみ残っているのだ.

 

  • エイサ・グレイは形態学と目的論の結婚を宣言したが,カップルは互いに相手が自分の言うことを聞かないと不満を持ちながら口論を続けている.
  • ダーウィンはこう言って目的論に別れを告げようとした,「存在条件の法則(the Law of the Conditions of the Existence)は原型一致の法則(the Law of the Unity of Type)より上位にある.なぜならそれは獲得された適応形質の遺伝を通して原型一致の法則を含んでいるからだ」.
  • しかし形態学者たちはこうつぶやき続ける,「原型一致の法則はより上位にある.なぜなら存在条件の法則は既往の形態の修正によってしか新しい適応を作り上げることができないからだ」.

 
この複雑な再帰的なプロセスこそが議論の収束を困難にしているというのがヘイグの見立てになる.再帰的プロセスはヒトの認知能力にとって扱い難いのだ.
 

  • 論争が続くのは,ヒトが再帰的なプロセスを考察することが苦手だからだ.カントいわく「身体は,その内部の可能性に従ってそれ自体が自然の目的であると判断される.そのような身体は,その部分部分がその形態と組み合わせに関して相互に形成しあい,そしてそれ自体の因果からすべてが形成される必要があるのだ」.
  • 本章はワグナーと私自身の間におけるこの夫婦喧嘩の続きのようなものだ.どちらも和解を申し出てはいる.ワグナーは生命を構造主義者のレンズで解釈している.私は機能主義者のレンズで解釈している.もし私たちのレンズのクリスタリンが白内障にかかっていないのであれば,私たちは合意できるはずではないのだろうか? いやできないのだ.なぜなら知覚は網膜上のイメージよりはるかに複雑であり,入ってくる光から論文に現れる文章までの間に数多くの解釈レイヤーがあるからだ.

 
最後にその認知の限界を超えることの難しさに対する諦念が現れていて,なかなか味がある.そしてこの深いエッセイはこう結ばれている.
 

  • 深く保存された構造は,間違いなく生命世界の重要な要素であり,進化の軌跡に深遠な影響を及ぼしてきた.生命体とそのゲノムは異なる進化時間の特徴のモザイクなのだ.古い特徴はネガティブ淘汰により保存され,ポジティブ淘汰による新しい特徴の創出のための進化環境の一部となる.ボディプランとその部分は新しい突然変異がテストされる淘汰環境の中で最もよく保存されたものだ.よく踏み固められた発生経路は進化的変化を導き,そして制限する.形態は形態を修正するための淘汰的役割を持つ.これらの結論は適応主義者が保存された構造の説明のために自然淘汰を放棄することなく認められるものだ.構造主義も機能主義もともに正しいのだ.

そして最後に(he who shall not be named)からの言葉が引用されている.

  • 自分自身の中に力を理解する力がなくなったときに形態は魅力的になる.それこそが創造するということだ.これが文芸批評がいつの時代もその本質と宿命において構造主義的である理由なのだ

 
誰のことなのか気になって調べてみると,どうもこれはジャック・デリダのようだ.なぜ名前を出すべきでないのかは全く謎だ.ともあれ,本書の書名にあるポスト構造主義者がついに名前を伏されたまま登場ということになる.