From Darwin to Derrida その107

 
ヘイグのエッセイ集も第11章に来た.ここでは説明とは何か.そこに形相因や目的因を持ち込むことの正当性が考察される.
 

第11章 正しき理由のために戦う その1

  • 4歳児は大喜びで「なぜ?」と問いかけ,誰かが説明するとさらに「なぜ?」と問いかけ,これは説明者が疲れ果てるまで続く.アリストテレスとトマス・アキナスはこのような原因の無限後退の脅威を用いて「不動の動者」の実在を論じた.しかし子どもはこのゲームに終わりがないことをよく知っている.

 
「なぜ」という質問には様々なレベルで答えることができ,次々に根源にさかのぼっていけば終わりはない.これについてとても啓発的だったのはファインマンの議論で,なぜアリスは昨日学校に遅れてきたのか→おばあさんの介抱をしていたから→おばあさんがけがをしたから→氷の上で滑って転んだからときて,なぜモノが氷の上で滑るのかを分子的な仕組みを交えて解説していく(さらにその中でどんどんレベルが深くなる)というものだった.ここではヘイグは,基本的に歴史的な出来事は先行する無限にあるささいな出来事の上にあるということに注意を促す.
 

  • ローレンス・スターンの小説「トリストラム・シャンディ」の中心になる仕掛けはこうだ.物語は主人公の人生を語る形をとって始まるが,彼を取り巻く環境を提示し性格形成の原因を描写するために,文章は因果の逆行を含みながら脱線に脱線,さらに脱線を繰り返し,結局読者は主人公トリストラムのことをほとんど知ることができない.トリストラムの受胎の瞬間,母親は父親に「ああ,あなた,時計のねじを巻くのを忘れてない?」と尋ねる.この質問は「ホムンクルスと一緒に彼を受け入れる場所に安全に連れて行くべき精霊たちを蹴散らしてしまった」.トリストラムの性格の多くの奇妙さは,この取るに足らないが重大な逸脱に起因するのだ.

 
この小説のことは知らなかった.英文学の中では有名なものなのだろうか.いかにも実験文学的で私にとても楽しめそうにない感じだ.
 

  • 私の父母が受精を行わせる行為の中で何を考えていたかが,彼等の姿勢に影響を与え,どの精子が受精を行うかの結果に影響を与えたということはありえなくはない,というかむしろおそらくそうだろう.「生命のテープを再生する」ということは,原因が全く同じ中ですべての詳細を繰り返すことだ.しかしテープが最初にかけられるときには,どの精子が受精を行うかを事前に知ることはできない.ささいな原因が大きな結果を左右することがある.予測より説明の方が簡単なのだ.
  • 受精より前に話を移すと,精子形成における減数分裂の際に複雑な分子的な事象が交叉のキアズマの位置に影響を与えただろう.30以上あるキアズマのたった1つが1メガベース動いただけで,産まれてくる子どもは私と異なる遺伝子セットを持つことになる.そして私の祖先系列のすべてで同じことが言える.私の祖父は第二次ヴィレル=ブルトヌーの戦い(第一次世界大戦の戦いの1つ)で救急車ドライバーだった.同僚の多くが死んだ中で彼が生き残ったことは,数えきれないほどの多くのその後の出来事の説明に必要になるだろう.そして決して決着の付くことのない論争の種になっている第一次世界大戦の原因についても同じことが言えるのだ.
  • この帰謬法(背理法)の話のポイントは,「原理的にはすべての進化的プロセスは物理的原因に帰すことができるが,完全にそれを行うことはほぼ不可能だ」ということだ.どのような話もスタート時点を決める必要があり,それは多くのことを語らないことを意味する.そして多くの科学的な説明も,その時々の目的のために,説明なしで受け入れているアイテムを含むのだ.

 
要するに「説明」は非常に広範囲な共通前提を認めあった上でないと生産的に行うことができないということだ.ここからヘイグはアリストテレスの議論に進む.