第X章 差延よ,万歳 その2
第X章でついに登場したデリダ.なんとデリダは「グラマトロジー」において分子生物学に言及している.「知の欺瞞」で暴露されたような知ったかぶりの曲解的な言及かどうかが気になるところだが,ヘイグは割りと真正面からこの言及に向き合うようだ.
ヘイグはデリダの読解の前にまず前段として自然淘汰についての情報論的な記述を行う.
- 遺伝子は進化するテキストだ.ここでそれをXと表記しよう.その最新のバージョンはになる. はが選ばれ,が消去された自然の選択になる.(ここで は一世代前の同じ(平均)であり,は一世代前の違いになる.)
- は反復的に分解できる.自体が直前の選択(が選ばれ,が消去された)の結果であるから,はに分解でき,それはさらにに分解でき,これを続けるとn次レベルで以下のように分解できるからだ.
普通のやり方と逆に時間が遡るにつれて添え字が多くなるのでちょっと戸惑うが,現在の状態は過去からの選択の累積であるということを示している.
- このn次レベルの分解式においては,オリジナルテキストのの重要性は,その後に積み上げられた差分に比べて小さなものになっており,それはさらに高次の分解において差分に分解されていく.テキストはハンマーと鉄床の間の空白になり,ハンマーと鉄床には過去の選択すべて()と消去すべて()の刻印が打たれている.この違いの痕跡()がコインの価値となる.
自然淘汰を累積的に積み重ねてきた結果の形質のほとんどは淘汰による効果成分で説明でき,遠い過去の祖先形質からは大きく隔たるということになる.そしてその形質には淘汰の痕跡が刻まれている.次の一文は校正の痕跡を明示的に表記した文ということになるが,あまりわかりやすい表現とはいえないかもしれない.
この数学的モデル文これは遺伝子の意味の統制のないメタファーだ.進化するテキストに終結はなく,毎回の執筆読解において異なる意味に解釈される.選択と消去は直線上にある価値ではない.テキストの時制,現在進行形のbeing writtenは,過去完了形has been rewrittenと未来形will be rewrittenの間に来るものだ.テキストのセンスは読まれていくにつれて(as being read)展開する.
そしてデリダの「グラマトロジーについて」からの引用がある.
- Le champ de l’étant, avant d’être déterminé comme champ de présence, se structure selon les diverses possibilités―génétiques et structurales―de la trace. (Derrida 1967)
- The field of
the entitybeing, before being determined as the field of presence, is structured according to the diverse possibilities―genetic and structural―of the trace. (Spivak translation of Derrida 1976 2016)- 現在のフィールドとして決定される前の,
実体存在のフィールドは痕跡の - 遺伝的で構造的な - 多様な可能性に従って構築されている.
この2段目にあるスピヴァクによる英訳には取り消し線で消された「痕跡」が残されている.これは訳語に迷ったということを示しているのだろうか.そして本当に英訳には原文にないはずのこの痕跡があるのだろうか.このあたりはよくわからなかった.いろいろ不思議な章だ.
(8/8追記)
上記の取り消し線の意味についてliber studiorumさんにお教えいただいた.それによるとこの取り消し線はSous Ratureと呼ばれる「戦略的哲学デヴァイス」で,取り消し線で消された文字列が「完全に適切ではないが必要」であることを示すものなのだそうだ.これはハイデッガーがはじめて用い,デリダが多用した表現形式らしい(脱構築の場合にはキーとなる概念が逆説的あるいは自己破壊的なものであることを示すために多用されたらしい).
ということで,ヘイグの表現はデリダなどの脱構築ポストモダニストたちの伝統芸を踏まえて,現在の文章が過去からの選択を積み重ねたものであることを示しているということになるようだ.スピヴァグの英訳の場合にはフランス語から英語に訳す際に「完全に適切ではないが必要な」語ということを(脱構築文学表現として)表しているということになるのだろう.いろいろ難しい.