From Darwin to Derrida その161

 

第X章 差延よ,万歳 その4

 
ヘイグは人文学者が「テキスト」について何を語っているか知るためにデリダを読み始める.すると意外なことにデリダは「私たちが存在するものとして意識に提示される外部のものについて直接アクセスできるというアイデアを否定している」と主張しているように読め,それはデネットの意識についてのデカルト劇場の否定に似ていると感じることになる.そしてそれはヘイグの「適応概念をオリジナルな機能に限定し,補完的機能を外適応と呼ぶ」グールドの主張への嫌悪感に関連する.
 

デリダを脱構築する その2

 

  • 私が「オリジナルな機能を「適応」と呼び,補完的な機能を「外適応」と呼ぶ」用語法を嫌悪するのは,デリダのオリジナルな意味の拒否に似ている.デリダは「痕跡について熟慮すれば,世の中に単純なオリジンはないことがわかる.オリジンについての問題は現在の形而上学とともにあるのだ」と書いている.オリジナルな意味への探索は,ニワトリと卵の問題について決定的な答えがあるという固執の上にある.それは詩を単一の意味でのみ解釈するものであり,復讐の連鎖について「あいつが始めたんだ」として誰かを罰して正義を回復しようとする欲望なのだ.

 
(ヘイグの読みによると)デリダは脱構築を進めるに当たってオリジナルな意味などないと主張した.そしてそれは自然淘汰においてはオリジナルよりもその後に積み重ねられた淘汰による差分の累積の方が遥かに重要だというヘイグの主張に少し似ていると感じられたということだろう.
 

  • 私の本の最終稿に近い段階で,私は私がデリダの文章に(そのようなものがあるとして)生物学的なサブテキストを見いだした最初の人間ではないことに気づいた.フランチェスコ・ヴィターレの「生物的脱構築(Biodeconstruction)」はデリダが1975年に行ったフランソワ・ヤコブの「生命の論理(The Logic of Life)」についてのセミナーがもとになっている.そして生命についてのヤコブの解釈についてのデリダの熟読についてのヴィターレの熟読には敬意を払うべきだ.

 
ここではヴィターレがどのようにヤコブの解釈についてのデリダの熟考を読み解いているのかについては触れられていない.いずれにせよなかなか難解な議論が繰り広げられているのだろう.

 

  • 読者の中には私がデリダを誤読していると批判するものもいるだろう.しかし私はデリダは私に同意するだろうと思う.デリダのテキストを読んでできた私のテキストはあなたが読むときに書き換えられる.失礼ながら,「ジャック・デリダ」はこのテキストに現存しない,しかしその痕跡は至る所にあるのだ.

 
そしてこの短いX章の最後は以下の再帰的な文言で締められている.なかなか小粋だ.(私には日本語の語順で再帰的構造を保ったまま訳すことはできなかった)
 

  • (Genes (Memes (Memories (are inscriptions of the) personal) cultural) evolutional) past.(記憶は個人的な過去の刻印であり,ミームは文化的な過去の刻印であり,遺伝子は進化的な過去の刻印なのだ.)