From Darwin to Derrida その196

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.大学の文理に関する蘊蓄を披露したヘイグは,ドイツの哲学者ディルタイの「自然科学は部分から全体を理解するもの(これを「説明」と呼ぶ)で,人文科学はまず全体を経験し,部分を区別するのだ(これを「理解」と呼ぶ)」という議論を紹介し,しかし進化史を持つ生物を理解する問題には,人文科学的な解釈学の問題が内包されているという指摘を行う.
   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その4

 

ナメクジであるとはどういうことか

 
この節題「What is it like to be a slug?:ナメクジであるとはどういうことか」はもちろん哲学者ネーゲルの論文「What is it like to be a bat?」から来ている.
 
https://warwick.ac.uk/fac/cross_fac/iatl/study/ugmodules/humananimalstudies/lectures/32/nagel_bat.pdf

 
またネーゲルの論文を集めたこのような邦書もあるようだ

 
ここからヘイグはニーチェの引用を行っている.神を失った世界でヒトが頼らざるを得ない「意識」は誤謬に満ちたものだということをいっているのだろうか.ヘイグの「魂」はもっとポジティブな内容を含意しているので,なぜこれを引用したのかはややわからない. 

  • この新しい世界の中で,彼等は過去のガイド,つまり彼等を規定する無意識で無謬の動因を失っている.彼等はそれに代えて思考,推測,記述,因果を使わざるを得ない.不運な生き物たちよ.彼等は「意識」,つまり最弱で誤謬に満ちた機能に頼らざるを得ないのだ.

フリードリッヒ・ニーチェ

 

 
そしてヘイグはここから「意識」の問題に取り組み,まずディルタイの理解には全体から部分へという側面と,それを内的経験からアクセスする主観性の側面があるとし,この主観性の問題に移る.
 

  • 部分と全体の関係はディルタイの「Verstehen(理解)」の1つの側面であり,もう1つの側面は主観性だ.内的経験に直接アクセスし,それがその他の主観性や客観的世界とどう関連するのかという側面だ.全ての意味は解釈者のためにあるが,内省はリボスイッチの主観性は厳密には隠喩だと告げている.私たちはリボスイッチになることに主観性があるとは考えない.私たちはリボスイッチに共感しない.しかしチンパンジーになることとかナメクジになることには主観性があるのだろうか? 私たちはナメクジよりもチンパンジーに共感を持つ,それはチンパンジーの立場に立ってみる(to put ourselves in a chimpanzee’s shoes:チンパンジーの靴を履く)想像の方がたやすいからだ.ナメクジの靴を履くことを想像するのは難しい.しかしナメクジに詳しい私の知人はナメクジにも何からの主観的知覚があると示唆する.雌雄同体の2体のナメクジが配偶のために互いに巻き付いて抱擁しているとき,私はそこに歓喜の身震いがあると憶測することができる.

 
なかなか面白い.私たちはヒトについては他者であってもそこに意識があると容易に感じることができる.そしてチンパンジーについてもそれほど難しくはない.これがナメクジあたりになるとかなり難しくなるが,それでも不可能ではない.しかしリボスイッチの意識は想像しがたい.これをどう整理するのかということだろう.ここでヘイグはまた語源の蘊蓄に入り込む.
 

  • 共感的経験から知るヒトの魂の様相は意識と呼ばれる.意識,自覚,注意,専念,関与(consciousness, awareness, attention, concentration, and engagement)は機能する魂について限定的に知りえたことについての相互に関連する概念だ.
  • 「conscious」はラテン語の「知る」というルートから派生した語で,同系の「conscience」と同じく「罪」の含意がある.「aware」は「cautious」を意味する古英語の単語由来だ.「attend」はラテン語の「伸ばす」というルートから来ており,同系の語に「tension」がある.「concentration」はラテン語の「共通の中心に運ぶ」というルートから来ている.「engage」はフランス語の「約束する」というルートから来ている.これらの語源は「知ること」「危険」「方向」「責任」「中心性」「コミットメント」との関連を示唆している.