From Darwin to Derrida その202

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.ヘイグは文理の学問の違いを扱い,物語というテーマに進む.そして進化生物学には歴史ナラティブの構築だというマイアの考察がまず紹介される.マイアは進化生物学には判断と解釈が含まれ,厳密な科学よりも精神科学(the Geisteswissenschaften)よりだと論じた.そしてここからグールドのジャストソーストーリー批判が取り扱われる.
   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その10

  

物語を語る その2

 

  • 適応主義に対する科学的批判にも耳を傾けるべきところがある.進化的ナラティブはハードサイエンスの基準を満たさない.それは精神科学の手法と共通する部分を持つのだ.スティーヴン・ジェイ・グールドはその構築主義的なヘルメットをかぶりながら機能主義的ナラティブをこうあざけっている.

 

  • ラドヤード・キプリングは,「ヒョウになぜ斑点があるのか」,「サイの皮膚になぜしわがあるのか」という質問への回答を「ジャストソーストーリー」と呼んでいる.
  • 進化論者たちが個別の適応を調べるとき,彼等が形態や行動を,歴史の再構築と現在の効用から説明するとき,彼等もまたジャストソーストーリーを語っているのだ.・・・説明の受容性の基準として,でっちあげの技が検証可能性に代替された.・・・何か特定の適応についての好みのお話の歴史を吟味するのであれば,ある説明から別の説明に乗り換える際に真実性が増すことはない.それは単に流行の変化を反映するだけだ.

スティーヴン・ジェイ・グールド

 
ここで引用されているのは,社会生物学論争たけなわのときに開かれたシンポジウムにちなむアンソロジー「Sociobiology: Beyond Nature/nurture? : Reports, Definitions And Debate」にグールドが寄稿した「Sociobiology and the theory of natural selection.」というエッセイだ.いかにも有名な “just so story” という嘲笑の言い回しはここから始まったということのようだ.
 

https://www.researchgate.net/publication/334504961_Sociobiology_and_the_Theory_of_Natural_Selection


 
キプリングの子ども向け読み物の代表作といえば「ジャングルブック」だろう.「Just So Stories」の邦題は「その通り物語」とか「なぜなに物語」とされることが多いが,最近訳された童話集では「動物と世界のはじまりの物語」と題されている.岩波少年文庫では「ゾウの鼻が長いわけ:キプリングのなぜなに話」となっていて,こちらの方がこなれた題という感じだ.

  
  

 

  • パングロス的適応主義批判の一斉攻撃の際,グールドとルウォンティンは1979年のスパンドレル論文において構造の厳格さを進化的自由に対する制約として高く評価した.しかし1990年の「ワンダフルライフ」においてカンブリア爆発を語る時には,グールドのナラティブは不可逆性(運命)よりも予測不可能性(偶発性)を好むようになった:「歴史の解明は,過去の出来事それ自体を,その固有の現象のナラティブ的証拠に基づいて,それ自体の言葉で再構成することに根ざさなければならない.」彼は物語の叙述自体に反対せずに,特定の物語が語られることにのみ反対したのだ.

 
この部分のヘイグのグールドへの批判はなかなか鋭い.当初グールドは構築主義的だったが,後に偶発性重視論者になった,偶発性を語る以上はそれはナラティブ的になり,自らも「ジャストソーストーリー」的な批判を受けなければならないはずだが,いかにもグールド的ご都合主義で,そこをするっと無視しているというわけだ.
 

  • 適応主義者は,通時的な「どのようにして来たのか」ではなく,共時的な「何のために」の物語を語ることを熱望する.適応主義者のナラティブの時間は,あらかじめ決まっている目的の目的論的時間でもなければ,純粋な偶発性にかかる無方向性の時間でもない.それは変異とともに繰り返す再帰的な時間,生誕から生誕へ,遺伝的テキストのコピーと再コピーのサイクルだ.過去の実践において何が有効だったかのテキスト記録が将来への永続性を可能にする.ある物語は別の物語より,良いものなのだ.

 
そしてヘイグは同じナラティブでも適応主義的ナラティブは再帰的な構造を持ち深いと主張する.
  

  • 歴史的ナラティブは情熱をかきたてる.なぜなら何が強調され,何が消去されたかが,現在の党派的傾向を促進すると受け取られるからだ.
  • 客観的歴史なるものは可能だろうか? 歴史家はこの問題に少なくとも19世紀以来取り組み続けてきた.歴史家が同意できる歴史的事実はある.そしてその解釈が議論の対象になる.歴史家は証拠を扱い,理解を深めるための基準を開発してきた.
  • ある歴史は別の歴史より過去の解釈として優れているということがあることは一般的に認められている.しかし「何であったのか:what has been」は常に再解釈の対象になる.進化の歴史家も全く同じ状況にある.

 
そしてヘイグはどのようなナラティブがよりすぐれているのかの基準もあると論じる.またその基準を見るには歴史学が参考になるというということになる.