書評 「招かれた天敵」

 

本書は進化生物学者千葉聡による天敵を利用した生物的防除の歴史を扱う大作.千葉は「歌うカタツムリ」でカタツムリを題材に淘汰と浮動の進化観をめぐる壮大な進化学説史を語ってくれたが,本書では生物的防除の成功と失敗の歴史を滔々と語り,そのストーリーテラーの才能をまたも披露してくれている.
 
序章にあたる「はじめに」では,「自然」という著しく複雑で多様な系に対して科学の手法であるモデル化で対応することの限界とリスクが指摘され,より良い解決を望むなら歴史を知ることが有益ではないかと示唆されている.本書は有害生物防除についての歴史を知るために書かれているのだ.
 

第1章 救世主と悪魔

 
冒頭はレイチェル・カーソンの「沈黙の春」から始まる.

  • 1939年に殺虫効果が発見されたDDTは人体への危険がほとんどないと認識され,マラリア撲滅の切り札として,農薬として大量に使われ,大きな効果を上げた.しかし1950年代後半より,鳥類の大量死を始めとする弊害が現れはじめた.カーソンは1962年の「沈黙の春」においてDDT汚染の人体への,そして生態系へのリスクに警鐘を鳴らした.
  • カーソンはDDTの様な強力な化学物質の大量散布は「自然のバランス」を崩すと指摘し,いくつかの天敵導入の成功例を持ち出して代替的害虫防除としての生物的防除を検討するように示唆した.
  • 「沈黙の春」はベストセラーになり,激烈な論争を巻き起こしつつ,その主張は大衆文化に根付いた.ハクトウワシを危険に晒していること,人体の発ガンリスクを高めることも実証され,活発な反DDT運動が展開された.その結果米国では1972年にDDTは使用禁止農薬になり,ほとんどの先進国も追従した.応用昆虫学はそれまでの化学的防除研究から生物的防除研究に軸足を移さざるを得なくなった.
  • この流れにおいて議論は「DDTか生物的防除か」の二項対立的なものとして展開された.しかしカーソン本人はDDTの使用を全否定したわけではなかった.彼女は農薬の使いすぎを問題にしており,代替防除法を組み合わせて農薬の使用量を減らそうと主張していた.そして世間が見落としたカーソンの重要なメッセージは,安全と思い込んでいるものが安全とは限らない,我々は自然や生物についてなおよく知らない,有害生物と天敵以外の生態系を無視してはならないというものだったのだ.

 

  • 生物的防除自体の歴史は古い.中国では1700年前から柑橘類の害虫防除にツムギアリが使われていたし,欧州でも13世紀にアリマキ防除のためにテントウムシを使っていた例が知られている.防除しようとする有害生物の外来の天敵を導入する手法は「伝統的生物的防除」と呼ばれる.(現代ではこれに加えて,天敵を大量放飼する,天敵繁殖を促す環境を設営する,誘引物質で天敵を誘引する,遺伝子組み換えやゲノム編集を使うなどさまざまな生物的防除の手法が使われている)
  • 伝統的生物的防除の最初の華々しい成功例として知られるのは1880年代のカリフォルニアで行われたイセリアカイガラムシに対するベダリアテントウの導入だった.(防除事業を主導したライリーの奮闘が紹介されている.ライリーはいくつかの失敗の後このカイガラムシの原産地であるオーストラリアでこのテントウムシを見つける)これは大成功し,同じカイガラムシに苦しんでいた日本統治下にあった台湾でも実施され,成功した.
  • その後日本ではさまざまな生物的防除法が実施されるようになった.(日本での別のカイガラムシに対する生物的防除の成功例,その後の放飼増強法,天敵微生物の利用,不妊化オスの大量放飼法の実施例,総合的病害虫管理への取り組み事例などが紹介されている)1970年代に書かれた安松京三の「天敵:生物制御へのアプローチ」は日本の天敵研究の集大成と呼べる一冊だ.
  • 安松はその本の中で,アフリカマイマイに対する捕食性陸貝の天敵導入についても触れている.安松はあまり効果は見込めないと結論していたが,(庭にはびこる茶色く汚いカタツムリにうんざりしていた)当時の私は残念に思っていた.私は安松の「天敵を表面だけの理解で扱うと,世間に誤解を与え,天敵過信に陥らせかねない」という警句を見逃していたのだ.

 

 

第2章 バックランド氏の夢

 
第2章では19世紀欧米における「外来生物をどんどん導入しよう」という動きがテーマになっている.それは人類の幸福と進歩を願う全くの善意によるものだった.

  • 自然や動植物には長い進化の歴史があるが,かつて人々がこれを意識することはなかった.そして自然や動植物に対する価値観も現在のそれとはずいぶん異なっていた.
  • 有害生物は19世紀以降爆発的に増える.それは世界各地で外来生物が急増し始めた時代と一致する.外来生物が有害化するプロセスは単純ではなく,不明な点も多いが,進化的な新奇環境に連れ出されたことが鍵になった点は共通している.
  • 19世紀に急激に外来生物が増加したのはグローバル化の進展と関連しているが,当時の自然に対する歴史観と価値観による要因も大きい.

 

  • 地質学の基礎を築いた大家の1人であるウィリアム・バックランドはそのあまりにエキセントリックな振る舞いでも有名だった(いくつもの逸話が紹介されている)
  • バックランドは創造主が自然の中にバランスの仕掛けを備えたと信じており,動物界に痛みや苦しみが満ちあふれていることも功利原則的に説明できる*1と主張していた.バックランドはやはり博物学の高い見識を持つ夫人と共に,ありとあらゆる動植物を食べることに取り組んでいた.一部の歴史家はそれは貧しい人々の食糧問題を解決するために有用な新食材を見つけるためだったかもしれないと推測している.
  • 夫妻の英才教育を受けた息子フランクは長じて医者となり,さらに英国で最も人気のある科学コミュニケーターとして名を成した.「食べられる動物は何でも食べ,飼える動物は何でも飼う」という教義を父から受け継いだ彼は1860年に「順化協会」を設立し,英国の生物相を豊かにし,資源としての動物の利用価値を高め,自然の景観を美しくするという目的で.あらゆる動植物の英国への導入,順化,定着を目指した.英国に呼応し*2,オーストラリア,ニュージーランド,そしてアメリカでも順化協会が設立され,動植物の導入・定着が試みられた
  • アメリカ,オーストラリア,ニュージーランドに持ち込まれた動植物の多くは定着に失敗するか恐るべき有害生物となった.英国の順化協会が導入した生物の大半は定着に失敗し,1970年代には活動を停止した*3が,外来生物を世界に拡散させる上で核心となる役割を果たしたのだ.そしてフランクや順化協会の自然観はあくまで人間中心主義であった.

 

第3章 ワイルド・ガーデン

 
第3章ではこの外来性物導入増加期とその後の外来生物を脅威とみなすようになる時期の人々の価値観,およびその変遷がテーマになる.

  • アメリカ,英国,コモンウェルス諸国,フランスでは天敵を使った防除が盛んだった.それはこれらの国の外来生物が多かったからであり,その外来生物の積極的な導入は順化協会設立前から始まっていた.その背景には当時の欧米社会の自然に対する価値観と歴史観があった.
  • 英国においては18世紀後半以降産業革命とともに都市化が進み,工業化以前の時代への憧憬を持つロマン主義思潮が広がった.当時の英国は世界最強の帝国国家であり,エキゾティックな動植物は「帝国の恵み」となり,台頭した中産階級を魅了した.海外の植民地から戻ってくる船にはさまざまな動植物が積み込まれていた.中産階級市民はまた(貴族の広大な庭園とは異なる)ささやかな庭園を造るようになり,園芸が人気になった.彼等に対して造園家たちはそれまでの貴族庭園と全くコンセプトを異にする庭園アイデアを提示した.そこでは(人工的な景観ではなく)自然の植物が作る景観に価値が見いだされていた(これがいわゆるイングリッシュガーデンのコンセプトになる).
  • その中で最も有名になったのはウィリアム・ロビンソンだった.ロビンソンはサセックス州のグレイヴタイ荘園を購入し,その広大な敷地に自然と一体化した庭園「ワイルド・ガーデン」を築いた.そこにはロマン主義的な価値観に加え,植物が最も美しく見えるのはその植物が進化の歴史を経て適応した環境に生きるときだという審美観があった.(庭園の様子が詳しく紹介されている)

 
gardenstory.jp

 

  • ロビンソンは英国の在来植物に最も高い美的価値観を与えた.ただし彼のいう「在来植物」は,英国の野生化で生育繁殖する植物を意味し,英国に帰化し十分定着している外来植物を含んでいた.彼は英国に定着する見込みのない熱帯植物には価値を認めなかったが,定着可能な外来植物は積極的に取り入れたのだ.そして都市化で破壊された自然修復のために野外に積極的に植栽するように主張した.彼の支持者によって広く植栽された外来植物のいくつかは20世紀以降爆発的に増殖し制御できなくなった.
  • ロマン主義は自然への憧憬とともに,共通の神話と精神を抱く民族の意識を呼び覚まし,移民の増大とともに20世紀初頭には排外主義にもつながった.英国において外来生物の危険性がはっきり語られるようになるのはこの頃になる.そしてそれは一部の外来生物が実際に大きな経済的社会的被害をもたらしたからでもあった.
  • その1つが日本原産のイタドリだ.これはもともとシーボルトが日本から持ち出し,ライデンの圃場で栽培して欧州各地に販売したものだ.キュー植物園で1850年に売り出されたイタドリはよく生育し見栄えもよく1870年ごろにはロビンソンのお気に入りになった.しかしその後イタドリは生育の制御が困難であることが明らかになり,ロビンソンも1920年には取り除きの難しい雑草とみなすようになった.

 

  • 外来生物への否定的な価値観が第二次大戦後の英国に定着し,1958年にはエルトンが「侵略の生態学」を出版する.エルトンは進化が作り出した生物地理的パターンの価値と重要性を理解し,独自の適応進化から切り離されることが外来生物の有害化の原因だと考えた.つまり地質学的な時間スケールの歴史観において生態系の価値を認め,外来生物がそれを損なうと主張したのだ.この本を契機にして英国では外来生物の脅威という認識が広まり,生態学者も外来生物の問題を意識するようになる.1990年代以降は政治的にも外来生物は生物多様性に対する脅威であると認識されるようになった.

 

 

  • この様な外来生物脅威論に対して2000年代以降には「有害さが過度に強調されている」「自然がどうあるべきかのイデオロギーの反映だ」「コストとメリットの考察がない」などの懐疑論も聞かれるようになった.保全生物学者は外来生物対策は生物多様性を守る取り組みだと反論している.*4
  • では生物多様性の持つ価値とは何か.伝統的な保全生物学者は,生態系と野生生物には人類の利益や幸福と無関係に本質的な価値があるという立場(生態系中心主義)をとる.この考え方は19世紀のロマン主義にまで遡ることができる.この考え方は途上国や地域住民や文化に対して冷淡になりがちで,しばしばイデオロギー的とか排外主義的だと批判される.
  • 最近の保全生物学者は二項対立ではなく人間中心の価値観も取り入れて,多面的に生物多様性の価値を考えるようになっている.それが「持続可能であるべき資源」という捉え方だ.
  • ではこれはすべては人間のためというバックランドの人間中心主義とどう違うのか.進化か創造かという点を除けば両者に本質的な違いはないのかもしれない.バックランドの失敗に陥らないためには生態系中心主義の価値観を取り込み,進化の歴史を資源にふくめることが重要だろう.そうであるなら多様性保全の取り組みは社会的な利害と必ずしも一致しないことになり,価値のすり合わせや社会的合意が重要になる.

 

  • イタドリは20世紀後半に英国中を混乱に陥れた.根から他の植物の生長を抑制する化学物質を放出させて枯死させることにより英国中の草地,森林,牧草地,公園などに大群落を造ったのだ.景観を破壊し,水辺では洪水リスクを増やし,インフラにも大きなダメージを与えた.英国政府は駆除に巨額な財政支出を余儀なくされ,土地の所有者にはイタドリの侵入を防ぐ義務が法的に課せられた*5.英国では現在日本から天敵を導入する対策が真剣に検討されている.これは素晴らしい解決策になるのだろうか.

 

第4章 夢よふたたび

 
第4章ではアメリカとオーストラリアで行われた初期の伝統的生物的防除の歴史が語られる.

  • チャールズ・ライリーはアメリカの代表的な昆虫学者で当初は基礎研究を行っていた*6.彼はその後アメリカ農務省昆虫局長の職に就き(第1章で紹介した)ベダリアテントウによるイセリアカイガラムシ防除を主導した.この防除は大成功だったが,彼自身はこれは僥倖の産物だと感じており,これを機に天敵導入を加速することには消極的だった.
  • ベダリアテントウに救われたカリフォルニアの果樹園芸農業者は別の害虫防除のために海外からどんどん天敵を導入することを望んだ.カリフォルニア州園芸協会は天敵探索プロジェクトを進めるようにワシントンのライリーに政治的な圧力をかけた.その結果ライリーの部下だった農業技師ケーベレは州園芸協会の支援のもとで1891年にオーストラリアに渡航し天敵を探すことになった.ケーベレはライリーと異なり天敵導入に積極的で,天敵らしい虫をどんどん導入していけばよいという実践主義だった.ワシントンとカリフォルニアの間には深い確執が生まれ,最終的にケーベレもライリーも1893年と1894年にそれぞれ職を辞することになる.
  • ライリーの後任ハワードも天敵導入慎重派だった.州園芸協会は独自に昆虫専門官ジョージ・コンペアを(ケーベレの推薦により)雇い,コンペアは精力的に海外各地からさまざまな昆虫を導入した.ハワードは冷ややかにこれを見ていた.このワシントンとカリフォルニアの対立関係は1913年ごろまで続いた.

 

  • オーストラリアの生態系は6万5千年前の人類の侵入により大きなインパクトを受けるが,18世紀後半からの英国による入植はさらに破壊的なインパクトをもたらした.入植者はヨーロッパからさまざまな動植物を持ち込み,順化協会も設立され,さらに大量の動植物の定着が試みられた.極く初期の生物的防除の試みにはホシムクドリとマングースの導入があるが,ホシムクドリは侵略的外来種として有害生物となり,マングースは定着しなかった.
  • イセリアカイガラムシ防除の成功例はオーストラリアでも注目された.しかし東部諸州では過去の天敵導入の失敗や外来生物の問題に直面しており,天敵導入には消極的だった.逆に順化協会の設立が遅れた西部諸州では(ちょうどオーストラリア統合期であり東部諸州への反発もあり)天敵導入に前向きだった.彼等は天敵探索のため1899年にオーストラリアにやってきたコンペアに接近し,彼を引き抜いた.コンペアは1901年に西オーストラリア州農務省昆虫専門官に就任し,「自然のバランス」の回復を旗印に海外を回り寄生蜂,寄生バエ,テントウムシ類などの農業害虫の天敵を次々に導入した.東部諸州はワシントンとカリフォルニアの対立を知り,コンペアの活動に懐疑的だった.コンペアはこれに反発し,マスコミを利用した東部諸州への批判キャンペーンを行った.この対立は(天敵導入を慎重に進めている東部諸州の実情が報道されなかったため)「自然のバランス派と農薬派の対立」という図式で捉えられた.コドリンガの被害に悩む東部の農業者は積極的に天敵導入するように州政府を突き上げた.東部諸州はニューサウスウェールズ州の昆虫専門官フロガットを世界における天敵導入効果の調査のために海外に派遣することにした.
  • 片方で,派手にマスコミで宣伝するコンペアの天敵導入が,実は効果を上げていないことが露見し始めた.世界各地を回って調査を終えたフロガットは,天敵導入がマスコミの報道するような効果を上げていないことを報告する.コンペアが喧伝したコドリンガの寄生蜂は効果がなく,はっきりした成功例は世界でもイセリアカイガラムシ防除だけだというのだ.片方でフロガットは天敵導入メリットを認め,より深い研究とリスク評価の必要性を強調した.
  • この結果コンペアは1910年に職を辞してオーストラリアを去り,西オーストラリアの害虫防除は農薬中心のものに戻った.

 

第5章 棘のある果実

 
第5章は(イセリアカイガラムシ防除以来の)第2の伝統的生物的防除の成功例となるウチワサボテン防除の物語

  • 19世紀末のオーストラリアでは外来生物であるウチワサボテンが猛威を振るっていた.かつてケーベレと接触のあったヘンリー・トライオンは1899年,クイーンズランド州農務省の昆虫専門官として,州にウチワサボテンの天敵導入を提案した.当初トライオンの頭にあったのウチワサボテンにつくカイガラムシだった.
  • ウチワサボテンの原産地であるアメリカでは,アステカ帝国がこれにつくカイガラムシの1種コチニール種を使って目の覚めるような赤の染料コチニールを作っていた.アステカを征服したスペインはこの製法を秘密にして莫大な利益を得ていたが,18世紀にそれは英国やフランスに知られることになった.英国はウチワサボテンの農場を作ろうとしてウチワサボテンとコチニール種をインドに持ち込んだ.しかしアステカで染料のために育種改良されたコチニール種を入手することができなかったので,やむなく中南米に広くいる野生種を持ち込んだ.染料は取れたものの量は少なく品質も悪く,農場は放棄され,ウチワサボテンと野生コチニール種(セイロニカス)はインドに定着して広がった.
  • 同時期オーストラリアでも同じ試みがなされ,同じように放棄されたが,こちらはコチニール種が定着せずに,ウチワサボテンのみが定着し,恐るべき速度で増殖し,畑や牧草地を飲み込んでいった.ウチワサボテンには鋭い棘があり,伐採しても切り端から再生し,燃やしても焼け残りから再生する.これに占領された土地は放棄するしかなかった.
  • トライオンはインドの状況を調べた.インドではセイロニカスがウチワサボテンを加害しており,減少させた記録もあった.ただし調査時点ではセイロニカスは減っており,ウチワサボテンがまた増えてきていた.トライオンはともあれセイロニカスをオーストラリアに導入しようとしたが,輸送と繁殖に失敗した.失敗を受けてトライオンは課題を洗い出し,世界中の状況を調査しその他の天敵の探索や化学的防御法の可能性を調べるためにジョンストンとともに海外に渡航した.
  • セイロンの調査で,セイロニカスは特定のウチワサボテン(タンシウチワ)しか加害しないことが明らかになった(オーストラリアにはタンシウチワのほかセンニンサボテンも持ち込まれていた).また彼らは欧州で広がらないのは気候要因であるらしいこと,ウチワサボテンにはさまざまな有益な用途もあることも調べ上げた.そして文献から天敵利用に有望だと考えられた謎の蛾をアルゼンチンで発見する.それはカクトブラスティスという名の蛾で,その幼虫はむさぼるようにウチワサボテンのみを食べるのだ.最終的に10種以上の天敵候補を見つけて彼等は帰国した.
  • 帰国後彼等は天敵候補についてさまざまな調査を行い,まずセイロニカスをタンシウチワの多いクイーンズランドに放した.タンシウチワの大群落は瞬く間に縮小した.これはオーストラリアでの対ウチワサボテンの戦いのはじめての勝利だった.彼等はタンシウチワ以外のウチワサボテン防除のためカクトブラスティスを利用しようと考えていたが,ここでこの幼虫の蛹化に失敗し全滅させてしまう.さらにおりしも第一次世界大戦が勃発し,1916年に実験所は閉鎖されてしまう.
  • 戦後の1921年にウチワサボテン防除事業は再始動する.ウチワサボテン対策連邦委員会が立ち上がり,ジョンストンたちは改めて米国産の天敵候補150種をテストして最終候補を12種にまで絞り込んだ(このほとんどはトライオンとジョンストンが1914年に選んだ候補と重なった).まずテキサスとカリフォルニアのコチニール野生種オプンティアエがセンニンサボテンを激減させた.ただしオプンティアエには宿主を好む程度に種内変異があり,駆除効果には放飼した系統ごとにばらつきがあった(効果的な系統を選び出すのには時間が必要だった).それ以外の導入天敵にはあまり効果がなかった.
  • 連邦委員会はカクトブラスティスに目を向けた.ジョンストンが1921年にアルゼンチンを再訪して探索したが見つけることができなかった.さらに1924年若い研究員アラン・ドットがアルゼンチン北部一帯を探索しついに発見する.彼は繁殖にも成功し3000個の卵をオーストラリアにもたらした.オーストラリアではテストのうえ大量飼育し,1926〜27年に各地に放飼された.
  • 野に放たれたカクトブラスティスはすさまじい破壊力を発揮した.1933年にクイーンズランドの最大の群生地が消滅し,2〜3年のうちに乾燥地帯や北部の高温地域以外のウチワサボテンはほぼ死滅した.残された地域にはオプンティアエが放たれとどめを刺した.

 
ウチワサボテン(Wikipedia)
ja.wikipedia.org


調べてみると日本でもウチワサボテンが野生化して群落を作っているところがあるようだが,有害生物扱いではなく,県の天然記念物指定を受けている.
www.kamisu-kanko.jp

 

第6章 サトウキビ畑で捕まえて

 
第6章はサトウキビの害虫防除と天敵導入の失敗例オオヒキガエルの物語

  • ワシントンとの軋轢で1893年にカリフォルニアを去ったケーベレは天敵専門家としてハワイに招聘された.当時ハワイは白人入植者が先住民の王政を倒して臨時政府を樹立していた.彼等は米国併合を望んでいたが,労働者の白人比率が低いために認められていなかった.そこで白人労働者の入植を図るためには,白人入植者が好む柑橘類,小麦,コーヒーなどの害虫問題の解決が必要と認識されていたのだ.ケーベレは早速オーストラリア,日本,中国を周り,テントウムシ類を中心に200種以上を天敵としてハワイに導入した.
  • その後米国併合が成立すると精糖業者たちの関心はサトウキビ害虫の防除に移った.ケーベレはその事業に従事し,とにかく害虫の原産地で役に立ちそうなものを見つけたら片端から導入するというスタイルを続けた.非標的種や生態系への影響は考慮されておらず,後の分析によればこの時期に導入された天敵の45%は駆除対象以外も攻撃する種だった.
  • 当時学術調査で英国からハワイに派遣されていたパーキンスはケーベレの手当たり次第に導入した天敵の負の影響を懸念していたが,いつしかそのやり方に引き込まれ,ハワイ農業局に昆虫専門官として雇われ,ケーベレとともにサトウキビに壊滅的な被害を与えるウンカの防除に取り組むことになる.彼等はこのウンカ(クロフツノウンカ)の原産地がオーストラリアであることを突き止め,オーストラリアでいくつかの天敵候補を見つけハワイに導入したが,うまくいかなかった.ケーベレとパーキンスはその後相次いで健康が悪化し,事業はミューアとペンバートンが引き継いだ.
  • ミューアはオーストラリアで新たな天敵を探した.狙っていたオサムシは見つけられなかったが,小さなカメムシ(ホソムナグロキイロカスミカメ)がこのウンカの卵を食べることに気づいた.ミューアはこのカメムシを持ち帰り,それが植物を害することがないかテストした(このカメムシの仲間は環境条件によって容易に餌を変更する可能性があることが知られていた).一種の賭けであったがペンバートンはゴーサインをだし,このカメムシは大量飼育されて1920年にハワイに放たれた.結果は大成功でこのウンカによる被害は1923年までに消滅し,ハワイの製糖業界は窮地を脱することができた.ミューアは後に「食性変化のリスクを考えて何日も眠れぬ夜を過ごした」と語っている.

 

  • 1908年にオアフ島ではじめて発見されたサトウキビ害虫セマダラコガネに対してミューアはいくつかの失敗の後フィリピンから導入した寄生蜂で対処した.これで被害はいったん収まったかに見えたが,1920年代末からセマダラコガネは大量に再出現し,ハワイの製糖業界の新たな脅威となっていた.ミューアは健康を害して英国に帰国し,ペンバートンが対処にあたることになった.
  • ヒキガエルによる防除はヒキガエルが何でも捕食すること,家畜や人に対する毒があることから問題含みだが,プエルトリコでテキサスから中南米にかけて分布するオオヒキガエルを導入して大成功したという講演を聞いた(研究資金の大スポンサーでもあった)オアフ精糖会社社長はペンバートンににオオヒキガエルを導入するように強く要求した.ペンバートンはこれが一種の賭けであることを意識しながらも導入を決めてハワイ中に放した.
  • 一方オーストラリアでもグレイバックと呼ばれるコガネムシがサトウキビの脅威となっていた.グレイバックは本書に登場したこれまでの害虫と異なりオーストラリアの固有種だった.サトウキビモノカルチャーという単純な系に餌を変更した在来昆虫が大量に発生したのだ.オーストラリアの砂糖試験場局は物理的手法,化学的手法を含むさまざまな手法を試したがうまくいかず,1933年の大発生により収穫は激減し,農家も精糖産業も窮地に陥った.砂糖試験場局は短期間で成果を挙げるよう強いプレッシャーをかけられ,試験場局の次席である植物学者ベルはハワイ砂糖生産者協会の年報に注目し,オオヒキガエルの導入を部下の反対にも関わらず決定した.そして1935年にオオヒキガエルはオーストラリアの地に放たれることになった.
  • (第4章で登場した)フロガットはそれを聞きつけその巨大なリスクに気づいてすぐに大規模な放飼を中止するように働き掛けたが,試験場局は猛然と反撃し,新聞やメディアを巻き込んでフロガットを「守旧派」として批判した.ウチワサボテンの生物的防除が成功していたこともあり,最終的にオオヒキガエルは何千匹もクイーンズランド北部の農場に配布された.
  • サトウキビ農場はオオヒキガエルであふれたが,グレイバックは一向に減少しなかった.グレイバックのうち極くわずかの割合しかオオヒキガエルに捕食されないことがすぐに明らかになった.後の研究でこの導入は砂糖生産量の増加にはほとんど寄与しなかったことが明らかになっている.そしてそれはハワイでも同じだった.これらのコガネムシは結局1940年代後半からのDDT,BHCなどの農薬により対処されることになる.
  • オオヒキガエルはクイーンズランドの農場からあふれ出しありとあらゆるところに住みつき,群をなして南下した.1949年にブリスベン市街に到達,1970年代にニューサウスウェールズに到達,現在北側の前線が西オーストラリア州に到達し,オーストラリア北西部の100万平方キロ以上の地域に定着した.定着した地域ではその毒によりそれを捕食した在来の爬虫類や有袋類が中毒死して激減し,生態系に深刻なダメージを与えている.オオヒキガエル自体も新奇環境で長距離分散能力を高めるなどの進化を起こしている.

 
オオヒキガエル(国立環境研究所 侵入生物データベース)
www.nies.go.jp


 

第7章 ワシントンの桜

 
第7章ではこの英米世界の生物的防除の物語と日本の関わりが描かれる.

  • 1895年にケーベレは日本を訪れ,箱根や横浜で天敵探索を行い,大量のテントウムシ類をハワイに輸送した.
  • 当時米国農務省にいて周期ゼミやカイガラムシ防除を研究していたチャールズ・マーラットはこのケーベレの日本訪問に強い関心を持った.当時全米でナシマルカイガラムシが果樹園に大きな被害を与えていたのだ.ナシマルカイガラムシは1870年ごろ米国西海岸に持ち込まれ,その後ロッキー山脈を越えて東部諸州に定着していた.このカイガラムシの由来は不明だったが,1897年以降日本から持ち込まれる苗や果実に見つかるようになり昆虫学者は日本由来だと考えるようになっていた.
  • マーラットはケーベレの調査記録を読み,ケーベレがナシマルカイガラムシは日本にいなかったと報告していることを知る.マーラットはナシマルは米国から日本に持ち込まれたのだとする論文を1899年に書いた.しかし翌年日本原産だとする論文がスタンフォード大学にいた桑名から出される.マーラットは日本に行って確かめることにした.
  • マーラットは新婚旅行もかねて日本に自費で渡航し,各地を回った.日本側は大歓迎でマーラットをもてなした.(調査と観光をかねた楽しげな旅の様子が詳しく語られている)マーラットは最近米国から苗木を導入した種苗場や果樹園にはナシマルがいるが,古くからの庭園や果樹園にはいないことを確かめ,ナシマルが日本原産でなく米国から持ち込まれたものであることを確信する.日本の後に天津と北京を訪れたマーラットはナシマルの原産地が中国東北地方であることも突き止めた.

 

  • マーラットの少年時代からの親友だったデイヴィッド・フェアチャイルドは植物学に進み,順化運動に取り組んだ後,1898年に農務省外国植物導入局長に就任する.マーラットと入れ替わるように1902年に日本を訪問したフェアチャイルドは桜の美しさに魅せられ,ワシントンのポトマック河畔に桜を植えるというプロジェクトを進める.ニューヨーク領事館から連絡を受けた東京市長尾崎行雄は1909年に日米友好の証として2千本の桜を米国に送りだした.
  • ワシントンでこの桜の検疫にあたったのはマーラットだった.日本から帰国した後のマーラットは有害昆虫の輸入禁止と検疫の制度作りの責任者になっていた.マーラットにとってこれは輸入苗木の危険性をアピールできる最高の場だった.彼は徹底的に検査を行い,ナシマルカイガラムシ,クワシロカイガラムシ,未知のスカスバ類,線虫.菌類の寄生感染を認め,全株の焼却を勧告した.頑として譲らぬマードックの勧告にタフト大統領も同意し,桜はすべて焼却された.
  • 米国側は大統領夫妻の心情と農業被害を防ぐ政策の必要性を日本側に説明した.友好の証として送られた桜を焼却することで日米関係の悪化が,場合によっては戦争さえも懸念されていたのだ.しかし日本側は意外にも「大切な贈り物に欠陥品を届けてしまい誠に申し訳ない」という姿勢をとった.2回目の桜の出荷に際してエース級の昆虫学者,植物学者,農業技師を動員し,徹底的な殺菌,殺虫,薫蒸が行われたうえで,1912年に6千本の桜が米国に輸送された.そしてワシントンの検疫を無事にくぐり抜けてポトマック河畔に植樹された.
  • この騒ぎはマーラットの望んだパフォーマンスとして十分だった.マーラットは植物検疫の必要性を説く雑誌記事を寄稿した.フェアチャイルドは反発し,両者は互いに激しく批判し合った.しかし政治的にはマーラットが勝利した.1912年に植物検疫法が制定され,1918年にはさらに厳しい検疫第37号(ほぼ全面的な苗木と球根の個人輸入の禁止)が公布された.

 

  • ここで米国の害虫防除対策の推移をみておこう.
  • 1904年にマーラットが薬剤による防除事業を担当,局長ハワードは1905年から天敵導入によるマイマイガの防除事業を開始.これは30種200万個体の天敵を放つ大事業だった.ハワードはここで天敵による害虫個体数調節の「密度依存」概念をみちびいた.これは一種の「自然のバランス」の議論であり,生物的防除の理論的基盤となった.しかしマイマイガの制御はできず,結局殺虫剤の開発利用に移行する.
  • 同時期にハワードはテキサスで綿花の害虫ワタミハゾウムシの防除事業も展開した.輪作と天敵導入を組み合わせた対策を試みたが,農業者の反対にあい,結局殺虫剤の散布を用いた駆除法が普及した.
  • 1917年に米国が第一次世界大戦に参戦すると兵士の感染症への即効的な対策が求められ,ハワードは化学的防除への傾斜を強めていき,若手の研究者も生物的防除よりも殺虫剤の開発研究に熱中するようになる.米国の害虫対策は,マーラットの水際の阻止(検疫,早期発見,早期駆除)とハワードの化学的防除が中心になった.そして1940年代のDDTの時代を迎えることになる.

 
著者はこの章の最後に,日本由来の大害虫マメコガネを取り上げ,外来有害生物問題と移民への排外主義の関係を論じ*7,マーラットとフェアチャイルドの対立は二項対立的に理解すべきでなく,メリットとリスクのバランスから合理的に害虫防除を考えるべきだと説いている.
 

第8章 自然のバランス

 
第8章では,総合的病虫害管理の台頭,その基礎になる天敵による生物的防除の理論,捕食者と被食者の個体数変動が扱われる.

  • カリフォルニアでハワードの後任となったスミスはハワードとは逆に天敵による防除を進めた(これに生物的防除という名を与えたのもスミスになる).彼は従来の試行錯誤的なやり方を改め,情報を集め,仕組みを理解し,理論をベースにした防除計画を立てるべきだと主張した.天敵で防除することが有望な害虫を選び出そうとしたのだ.カイガラムシはその候補だった.
  • そしてスミスは1927年,(第4章で登場した)ジョージ・コンペアの息子ハロルド・コンペアを調査のためにオーストラリアに派遣した.コンペアはイセリアカイガラムシとその天敵を調べ,イセリアカイガラムシはパッチを作って分布し,そのパッチには天敵の多いものと少ないものがあることに気づいた.それはカイガラムシにはまず新しいパッチに分散しそこで増殖し,その後天敵に見つかり減少するというダイナミズムがあることを示していた.コンペアはそこでカリフォルニアで問題になっているガハニコナカイガラムシとその天敵である寄生蜂を発見し.現地で養殖し,カリフォルニアに輸送した.放飼された寄生蜂2種は見事にガハニコナカイガラムシを抑え込んだ.これはカリフォルニアではイセリアカイガラムシ防除以来の鮮やかな成功例となった.
  • スミスはアカマルカイガラムシの防除にも取り組んだ.その寄生蜂を放飼してみたわかったのは,それまで種内変異と思われていたアカマルカイガラムシの黄色の個体が別種(キマルカイガラムシ)であり,有効な寄生蜂が異なる(そしてこの異なる寄生蜂は隠蔽種だった*8)ことだった.スミスは伝統的な「種」の考え方(形質で定義され同一種は同じ性質を持つ)は害虫防除の障害になると考えるようになり,進化の総合説を受け入れるようになった.1944年にはハクスレーの著書の書評に「自然淘汰により変化し適応し続ける集団としての種という考え方は応用生物学者にとって非常に重要である」と記している.
  • 天敵導入のもう1つの問題は寄生昆虫の飼育方法の改善だった.そのためには繁殖と宿主選択の仕組みの理解が必要だった.当時クロヤドリココバチ属の寄生蜂を飼育すると世代を経るとすぐにオスばかりになったりメスばかりになったりすることが問題になっていた.飼育担当のフランダースは実験を繰り返し,その驚くべき繁殖様式を解明した.彼等はオスとメスで宿主が異なり,オスがメスに寄生していたのだ.(このほか宿主の卵の選択,フェロモンによる情報伝達などの解明物語も語られている)

 

  • スミスが生物的防除を打ち出したときに,それを支える原理として「自然のバランス」が念頭にあった.前任者のハワードは密度依存効果が「自然のバランス」の本質だと考えており,スミスもそれを継承した.自然状態では密度依存で昆虫は低密度平衡になるが,単一作物農場のような餌があって天敵がいない状況では大発生して害虫化すると考えるのだ.スミスはその理論から最適な天敵の性質を導き出した.それは「宿主となる害虫を見つけだす能力が高いもの」だった.またより多くの天敵種を導入した方が効果が高いと推測した.
  • 捕食,被食と種間競争による集団の個体数変化は1920年代にロトカ=ヴォルテラのモデルにより定式化されていた.オーストラリアにいたアレクサンダー・ニコルソンは独自に個体数変化のモデルを着想し,1933年に「動物集団のバランス」という論文を発表した.これはハワードとスミスの「自然のバランス」の数学的記述だった.そのモデルでは寄生昆虫の生活史や生態の特殊性(産卵と次世代の出現にタイムラグがあること,特定の宿主のライフサイクルにあわせる必要があること,探索範囲の重複があると増殖率が下がること)を組み込み,競争による密度依存と寄生による密度依存を記述するものだった.
  • このモデルでは世代間のズレがあるために宿主と寄生蜂が局所的なパッチで増減を繰り返すパターンを予測する.これはスミスやコンペアにとってなじみのある分布パターンであった.そしてこのモデルはスミスの「自然のバランス」の理論的根拠となり,モデルから防除に最も効く要因が「メスの探索効率」であることが裏付けられた.またスミスはイエバエとキョウソヤドリコバチの系の実験でモデルの予測と整合する結果を得た.

 

  • ニコルソンの理論は「自然のバランス」をめぐる論争を引き起こした.ニコルソンとスミスに鋭く対立したのは(ハワードの元部下でスミスの同僚だった)ウィリアム・トンプソンだった.
  • トンプソンのモデルはニコルソンモデルと寄生蜂のメス1匹が生む総産卵数についての仮定が異なっていた.ニコルソンはメスの探索効率と宿主密度により変化すると考えたのに対し,トンプソンは一定とした.トンプソンの仮定はメスが宿主を容易に発見できる状況(そして寄生率は総卵数で制限される状況)を想定しているといえる.トンプソンモデルでは卵数が閾値以上で宿主と寄生蜂がともに絶滅,閾値以下で宿主が無限増殖するという結果になる.このモデルでは防除の有効性に最も効く要因は寄生蜂の増殖率になる.そして野外で宿主と個体数が一定内に抑えられるのは温度変化や気候変化などの環境要因によるもので,天敵効果はこの環境要因の1つであり補助的なものに過ぎないということになる.このモデルは暖冬の翌年に天敵個体数が変わらなくとも害虫が大発生するような現象をよく説明する.
  • 1950年代には論争はさらにヒートアップした.デイヴィッド・ラックは鳥類の研究成果から密度依存的な調節の普遍性を訴え,ニコルソンは実験研究に着手して密度依存を強く主張した.アンドリューアーサとバーチはトンプソンに与した.
  • 1960年代にはヘアストンたちが「なぜ世界は緑なのか」と問いかけ,自然のバランスをめぐる問題を多種が存在する群集レベルに拡張し,新たな論争に火をつけた.エルトンは元素量や植物生産量を強調し(ボトムアップ論),ヘアストンたちは捕食者,寄生者,病原体を強調した(トップダウン論).ペインは海岸の生物群集で実験を行い,トップダウン論を支持した(その後この実験結果は環境次第で異なることがわかっている).
  • 現代群集生態学の祖とも呼ばれるキャリントン・ウィリアムズは栄養段階という縦の関係ではなくよりフラットな関係において「自然のバランス」を多種集団からなる群集レベルに拡張した.彼は種数や種ごとの個体数の関係やパターンに統計学的規則性を見いだし,それを多種間の平衡状態を示すものだと解釈した.フランク・エガートンはこれを単なる憶測だと批判した.

 

  • ニコルソンモデルは1970年代以降により現実的な仮定を組み入れたモデルに修正され,その挙動が詳しく研究された.そしてその振る舞いは探索効率や繁殖率などのパラメータの値に敏感で,カオスを含むさまざまな挙動をとることがわかってきた.そして種数が増えるほど不安定化しやすいという意外な予測も得られた.
  • 片方で野外の集団・群集は常に自然撹乱の影響を受けていてほとんど定常状態や平衡状態にならないこと,幅広い群集で撹乱による個体数抑制により密度依存的競争が緩和されていることもわかってきた.
  • 生態系が必ずしも平衡でないという認識が広がっても密度依存調節をめぐる論争は続いた.議論が膠着した理由の1つは「密度依存」「調節」概念の多義性にあり,また別の理由には「密度依存の存在は論理的演繹からもたらされるものかどうか」に関する哲学的な問題にあった.そして最大の理由は野外で得られたデータで「密度依存的調節」の証拠を検出することの難しさにあった.
  • この論争は現在でも決着していない.そして現在の一般的な考えは2つの立場の中間である「個体数は密度依存的に調節される場合とされない場合がある」「密度依存的調節にはトップダウン,ボトムアップのどちらのプロセスもある」というものになる.
  • この理解を害虫防除に引き直すと,害虫の抑制には伝統的生物的防除が効果的な場合もあれば,それでは対処できない場合もあると考えるべきだということになる.生物的防除は役に立つが万能ではないのだ.

 
ヘアストンたちによる「なぜ世界は緑か」の論文
http://www.rpgroup.caltech.edu/aph150_human_impacts/assets/pdfs/Hairston_1960.pdf

 

第9章 意図せざる結果

 
第9章は第二次世界大戦前後から現在までの生物的防除の失敗の歴史がまず語られ,そして19世紀以降の防除の歴史の総括がなされる.

  • (前章で見たように)1960年代から世界的に生物的防除の生態学的基礎についての理論研究が盛んになった.どのように害虫を低密度で安定させるか,低密度平衡状態は密度依存で実現できるか,などがテーマとなった.
  • しかし(第二次世界大戦後化学的防除に傾いていた米国の中で)生物的防除を死守していたカリフォルニアで防除の実務にあたっていた昆虫学者たちは,理論より実践に傾いていた.彼等は基本的にはニコルソンの「自然のバランス」を基礎としていたが,単一種の天敵より多種の天敵を導入した方が効果が高いと考えていた.これはニコルソンの理論(天敵間の種間競争により防除効果が下がる)とは相いれない.そのような矛盾じみた立場になったのは,彼等が天敵間の種間競争はいずれ最も強い天敵を残すだろうと考えたからだし,彼等に1種ずつ試すような時間的余裕が与えられていなかったからだ.
  • 彼等が仕事を続けられたのは地元農業者の支持があればこそであり,支持を失わないように常に研究の進捗をアピールする必要があった.このため彼等の仕事は次第に場当たり的になっていった.理論の研究をあまり行わず,理論と矛盾する実務を行いながらなぜ事業の基礎に「自然のバランス」を使い続けたかは謎である.あるいはイデオロギー的なものだったのかもしれない.

 

  • これに遡る1940年代にカリフォルニアの柑橘類生産者はこれまで駆除できなかったカンキツカタカイガラムシを防除しようとDDTを用いた.するとそれはベダリアテントウを死滅させ,イセリアカイガラムシの大発生を招いた.カリフォルニア大にいたスミスはDDTの使用制限とベダリアテントウの再導入を勧告し,事態を収拾した.スミスは薬剤による防除はそもそもコストが高く,「自然のバランス」を崩すリスクに加えて薬剤耐性の問題を抱えることをよく認識していた.
  • スミスの流れを汲むデバックやスターンたちは化学的防除と生物的防除の相互補完プログラム(1951)や総合的病害虫管理(1959)の考え方を打ち出した.
  • 同時期にカナダ農林省のアリソン・ピケットも総合的病害虫管理の考え方を打ち出していた.この流れを汲むカナダの応用昆虫学者たちは理論構築に注力した.彼等は森林で行った防除の経験から「自然のバランス」理論を疑問視していた.そして農地は人工的な生態系であり,昆虫の大発生は異常ではないと考えた.彼等は農地の害虫に対し生物的防除は限られた効果しかないと考え,化学的防除を主体として害虫の生態に応じて異なる手法を取り入れて殺虫剤を減らしていくという手法を推奨した.しかし1960年代に防除事業の進捗の遅れを問題視したカナダ政府が研究を実務に限定すると彼等はそこを去り,カナダの総合的病害虫管理は雲散霧消してしまった.

 

  • 1962年にカーソンが「沈黙の春」を出版したときには米国の害虫対策はカリフォルニアを除くと化学農薬一本槍だった.化学農薬に頼り切ることの危険性に警鐘を鳴らしたカーソンの功績は大きい.ただしカーソンは全面禁止を主張していたわけではなく,使いすぎを問題にしており,残留基準を作ると同時により安全な農薬への代替を提案していた.カーソンは出版から2年後に急逝してしまい,マスメディアやポップカルチャーは感情や情緒を優先し,問題を「DDT使用か禁止か」という二者択一の問題にしてしまった.
  • またカーソンはその時点で実証されていない生態学的仮説に過ぎなかった「自然のバランス」を強調していたが,それに頼りきる生物的防除は化学農薬に比べるとあまりに力不足だった.カリフォルニアの有望な一部の害虫を標的にした生物的防除でさえその成功率は3割程度に過ぎず,カナダの試みは農業者に支持されず数年で途絶え,欧州全体での成功率は5%以下とされていた.
  • DDTを禁止するなら,農作物の減少による貧困と飢餓のリスクをどうすべきかが課題になるはずだが,当時の社会運動は現実的な代案を示さなかったのだ.結局DDTが禁止になった後農業者は毒性の強い有機リン系農薬に頼るしかなくなり,多くの中毒事故と野生動物の死滅を招いた.
  • その後関係者の努力により低リスクで環境負荷の少ない化学農薬が開発されて普及し,新しい生物的防除や遺伝子組み換え技術の応用などの多彩な技術が生み出され,収穫量の問題は解決された.無謀な社会運動の賭けは成功したことになるが,それは幸運がなせる技だったというべきだろう.
  • 振り返って考えると防除をDDT一択にするということが失敗だった.それは安全性への過信が招いたともいえる.

 

  • オーストラリアでウチワサボテン防除の切り札となったカクトブラスティスは,ウチワサボテンに悩む各国の注目を浴び,1950年までに,南アフリカ,ニューカレドニア,モーリシャス,ハワイに導入され,大成功を収めた.
  • さらにカクトブラスティスはカリブ海の島々にも(1957年ネイビス島に,1960年にさらに近隣の2島に)放たれ,耕作地に繁茂するウチワサボテンを撲滅した.しかしこれらの島のウチワサボテンは在来種でもあった.そして1970年代にはケイマン諸島,プエルトリコ,ジャマイカ,ドミニカに導入され,定着した.
  • そして1974年にはカクトブラスティスはキューバに現れ,1989年にフロリダで発見された.米国本土に上陸したカクトブラスティスはメキシコ湾岸沿いに分布を拡大し,(固有種,有用種を含む)在来ウチワサボテンに猛然と襲いかかった.分布は現在も拡大を続けており,2008年にミシシッピ,2009年にルイジアナ,2017年にテキサスに侵入している.現在多様なウチワサボテン生態系を持ち,有用種ウチワサボテンの経済規模の大きいメキシコへの侵入が憂慮されている.夢の天敵は最も恐ろしい害虫となったのだ.

 

  • 全世界の伝統的生物的防除事例の動きを見ると,まず1930年代に最初のピークが来て,1950年代にはその半分になったが.(「沈黙の春」以降の)1960年代に再び急増し,1970年代には1930年代と同じ程度になった.しかし成功率は必ずしも高くなく,悪影響が目立ち始めた(夢の天敵が害虫に変じた別の例として日本から米国に導入されたアブラムシ防除のためのナミテントウ,フランスからカナダに導入されたジャコウアザミ防除のためのゾウムシのなどの事例が解説されている).
  • 欧米では在来生態系に悪影響を与えるリスクがあるとして伝統的生物的防除への批判が巻き起こった.生物的防除はその頃学問分野として成立した保全生態学の学者たちの懸念の的となった.
  • 生物的防除の支持者たちは悪影響を与える事例は少ないと反論したが,事例が少ないからといって破局的なリスクを無視していいことにはならない.問題は非標的種への影響の有無を評価できる過去のデータがほとんど存在しないことだった.
  • さらに過去に導入されたカダヤシやマングースが与えた生態的な悪影響が次々と明らかになり,FAOは1996年に外来生物的防除資材の導入に関する行動指針を定め,導入の前にリスク評価するように求めた.
  • 伝統的生物防除は急速に人気を失い,導入事例数でみると2000年以降はピークの1/5になった.これは防除効果重視から安全性重視へのパラダイムシフトと見ることができる.また評価コストのために生物的防除の経済的メリットも下がってしまった.
  • 現在では増強型生物的防除や保全型生物的防除という新しい手法が開発され,遺伝子組み換えや遺伝子編集を用いた手法も研究されている.しかし新しい手法にはより多くの知識と配慮が必要になり,費用便益比率が伝統的生物的防除より大幅に悪化することは避けられない.

 

  • 現在の伝統的生物防除には素朴な「自然のバランス」への信仰はなく,害虫を低密度にする条件を人為的な操作により作りだそうとする試みになる.しかし依然として未知の部分が大きく応用科学としては道半ばだ.
  • 理論研究は盛んになされたが,あまり実務の役には立たなかった.ミルズやマックエヴォイは「遷移状態」を想定したモデルの必要性を指摘している.
  • 新しい動きとしては保全生物学の手法としての伝統的生物的防除ヘの注目がある.生態系を脅かしている外来生物の駆除のために利用できないかが検討されるようになった.現在メキシコ政府はカクトブラスティス侵入阻止のために原産地での天敵(寄生蜂)の利用を検討している.ガラパゴスでも生態系を守るために慎重にこの手法を用いている.

 

  • 生物的防除と化学防除のどちらが優れているかという問いは無意味だ.どちらにも一長一短がある,防除手法は,そのおかれた状況において,貧困,飢餓,過酷な労働を減少させるメリットと生態系へのリスクなどのデメリットを比較考量して選ばれなければならない.さらに地球温暖化問題が貧困のリスクを上げること(温暖化は害虫や災害の発生リスクを上げる)や生態系の生物多様性自体が価値ある資産と考えられるようになったことにより,問題は複雑化している(効果的な化学的防除は貧困を減らすだけでなく,耕作地拡大を防ぐことで生物多様性の維持に役立つかもしれない).解決にはブレイクスルーとなる技術が望まれるが,新しい技術のリスク評価は難しい.
  • 19世紀以降の防除の歴史は誤りと大失敗の積み重ねだった.成功した事業の大半は幸運の産物で次の失敗の源になった.多くの試みは善意からなされており,失敗は「意図せざる結果」だった.それは,無知,誤謬,目先の利益の優先,特定のイデオロギー,自滅的予言,集団思考などの要因により生じたが,特に不可避の要因は予測の限界だ.
  • 我々は常に想定外の失敗を起きる可能性を想定しておくべきであり,そのためにも常に失敗の歴史から学び続けるべきなのだ.

 
第9章までに生物的防除の歴史とその総括と教訓まで書かれており,おそらく本書はここで終わっていても全く問題ない重厚な一冊として成立しているだろう.しかし著者はさらに2章加えている.それは著者の専門である島嶼性カタツムリをめぐる物語になる.
 

第10章 薔薇色の天敵

 

  • ハワイの生物的防除はケーベレ以来の「あれこれ考えるよりまず実践」という方針の伝統を守り続けた.そこには事後評価の仕組みがなく,成果の実態は不明で,失敗という概念もなかった.
  • 1938年ペンバートンはオアフ島とマウイ島にアフリカマイマイが侵入したことに気づいた*9.すぐ早期駆除に動いたが,失敗し,アフリカマイマイは大発生して島中に蔓延し深刻な農業被害を引き起こすようになった.またミクロネシア一帯の島々にもアフリカマイマイは広がっていた*10
  • 防護網や毒薬や人力による駆除などが試みられたが効果はなく,第二次世界大戦後ミクロネシアの統治にあたっていた米国海軍肝いりで対策が練られることになった.そこではハワイとカリフォルニアの昆虫学者の影響が濃く(当時の米国農務省標準とは異なった)生物的防除が検討されることになり,ミードとコンドウが実務にあたった.
  • 彼等が最初に注目したのはアフリカの肉食カタツムリであるキブツネジレガイだった.コンドウはハワイの在来カタツムリを攻撃しないか心配していた.彼等はマリアナのアギガン島で実験し,このキブツネジレガイにあまり効果はないこと,アフリカマイマイは大発生のあと急速に減る傾向がある(未知の病原体のためだと思われたが確かめられなかった)ことを見いだし報告した.
  • しかしハワイ島民から強い突き上げを受けた農林委員会は焦りからこの報告を無視し1952年にキブツネジレガイのハワイへの放飼を決めてしまった.
  • ミードは「この決定は効果が見込めないばかりか在来の貴重なカタツムリに深刻な打撃を与えるリスクがある」と厳しく批判した.これに対してペンバートンは「天敵導入前に安全を証明するのは不可能であり,証明が必要というなら天敵導入は出来ないことになる.それは敗北主義だ」と反撃した.
  • キブツネジレガイは放飼され,島々に定着した.委員会はさらに世界中から貝食のカタツムリと昆虫を次々に導入した.まもなくハワイやその他の島々の地表性固有カタツムリは激減し,多くが絶滅に追い込まれた.しかし委員会は誤りを認めず,批判に一切耳を貸さなかった.
  • 1955年に委員会はさらに薔薇色の美しい貝食性のカタツムリであるヤマヒタチオビをオアフ島に導入した.この種は樹上性であり,ハワイの森林地帯に入り込めば,多様な適応放散の代表例である樹上性のハワイマイマイ属が大きな被害を受ける可能性があったが,委員会の昆虫学者たちは誰一人そのリスクに目を向けなかった.
  • ヤマヒタチオビは導入されると小型のカタツムリを狙うようになりアフリカマイマイを駆除することはなかった.しかし導入時期とハワイにおけるアフリカマイマイの減少時期が重なったために農業者や一般市民はヤマヒタチオビを救世主と考えるようになり,善意の市民の手で諸島内に広範囲にばらまかれた.
  • ヤマヒタチオビは森林地帯に入り込みハワイマイマイをむさぼり食った.1970年代までにはハワイマイマイ属の半数の種が絶滅し,現在では9割が絶滅していると推定されている.

 

  • フランス領ポリネシアではポリネシアマイマイが島ごとに固有種を進化させていた.1967年アフリカマイマイが食用としてタヒチ島に持ち込まれ大発生し,物資や農作物に付着して付近の島々に広がった.当時ミードや多くの貝類学者はアフリカマイマイは大発生後しばらくすれば激減すること,ヤマヒタチオビには防除効果がないことを確信していた.しかしポリネシアの行政官も住民もそう考えず,貝類学者たちの抗議を無視し,ハワイの標準的防除手段とされていたヤマヒタチオビを導入した.そしてやはりアフリカマイマイの減少をヤマヒタチオビの効果だと思った住民たちの圧力で多くの島々で次々に導入された.現在ポリネシアマイマイ科61種のうち56種が野生絶滅している.同じことはサモア,バヌアツ,トゥブアイでも繰り返された.

 

  • 1962年ニューギニアでアフリカマイマイを捕食するプラナリア,ニューギニアヤリガタリクウズムシが発見された.キブツネジレガイやヤマヒタチオビにアフリカマイマイ防除効果がないことに気づいていた生物的防除研究者たちはこれに注目した.
  • 1977年グアムにこのウズムシが突然現れた(現在もどのように持ち込まれたかわかっていないが駆除のため非公式に持ち込まれたという説もある).これはすでに減りつつあったアフリカマイマイをさらに減少させたと評価された.
  • 1981年にアフリカマイマイ防除のためこのウズムシはサイパンに放飼され,近隣の島々に物資に付着して広がった.サイパンでアフリカマイマイの個体数が一気に減ったことが認められ,フィリピンのバグサック等,モルディブなどの島々に放飼された.これらの事業はこのウズムシの基本的な生態も未解明のまま行われた無謀なものだった.
  • 1992年にグアムではヤマヒタチオビの捕食に絶えてかろうじて残っていた固有カタツムリがヤマヒタチオビごと消滅していることが発見された.
  • なおも公式,非公式の放飼が続き,さらに物資に付着した拡散も生じ,このウズムシは太平洋諸島から東南アジアにかけての広い地域に拡散定着している.

 
ニューギニアヤリガタリクウズムシ(国立環境研究所 侵入生物データベース)
www.nies.go.jp

 

第11章 見えない天敵

 
前章で太平洋諸島の貴重な固有カタツムリ群が無思慮で無謀な天敵導入とそこからの拡散により軒並み絶滅の危機にあることが語られた.では著者のフィールドである小笠原のカタマイマイたちにはどのような運命がまっていたのかがこの最終章で語られることになる.

  • 小笠原に英国海軍の帆船がはじめて訪れ,カタツムリを含む動植物の採集を行ったのは1827年のことになる.1853年にはペリーも訪れている.定住者はいなかったが徳川幕府が17世紀から探検隊を送って地図にも記していたこともあり,その島々は明治初期に日本領として認められた.
  • 明治政府はすぐに小笠原の本格的な開拓に乗り出した.当初はウチワサボテンを導入してコチニールの生産をもくろんだが,うまくいかなかった.幸運にもウチワサボテンは小笠原の気候には合わず,野生化して大激増することはなかった(なお造林用として導入したオーストラリアのモクマオウと南米のギンムネは戦後激増して生態系に大きな影響を与えている).
  • 1890年代以降は主要産業としてサトウキビ生産が行われるようになった.島民は1920年代に6000人を超えた.自然は改変されて大きく損なわれた.太平洋戦争の戦況が悪化した1944年島民は本土に強制疎開となり,そのまま終戦を迎え米国統治下に入った.
  • 1968年までの米国統治下では,米国が認めた130人の欧米系島民だけが帰島を許されたこともあり,人口は非常に小さいままだった.かつての畑知には森林が再生し,島は緑で覆われた.しかし戦前に持ち込まれたアフリカマイマイや米国が持ち込んだオオヒキガエルが増殖し生態系を破壊していた.さらに米国はアフリカマイマイ対策として1965年にヤマヒタチオビを父島に放飼した(もちろん他の島々と同じく効果はなかった).
  • 日本に返還され,帰島した小笠原島民たちの悲願は航空路の開設だった.東京都は1990年代の初め兄島に空港建設する計画を立てたが,そこは手つかずの自然が残されていたので島民の一部と多くの生態学者から強い反対運動が巻き起こった.いろいろもめているうちにバブルが崩壊し,計画は2001年に白紙撤回された.
  • 2003年空港計画と入れ替わるように,世界自然遺産登録を目指す運動が始まった.今度は小笠原固有の生態系を資源として利用してエコツーリズムを中心とした観光産業を育成しようとすることになった.登録のための切り札となったのは手つかずで残されていた兄島の生態系,固有植物,そして小笠原固有のカタツムリ,カタマイマイだった.2011年に登録されると観光客数は倍増し,周辺産業も潤うようになった.
  • 小笠原の100種を越える在来カタツムリの90%以上が固有種だ.その代表格がカタマイマイ属で小笠原で適応放散した20以上の種からなる.在来カタツムリは明治時代の開拓で17%ほど絶滅したが,太平洋のほかの島々(平均絶滅率40%)に比べるとかなりよく保たれてきたといえる.父島の北端から東部は戦前の皆伐を逃れており,固有のカタツムリが数多く生息していた.1986年夏に小笠原を訪れた私は父島でその豊富なカタツムリ相に出会っている.樹上にはおびただしい数の多様なカタツムリが鈴なりになっていた.(中央部と西側はヤマヒタチオビが分布して固有カタツムリの姿はなくなっていた.父島東側はヤマヒタチオビにとって気候的に適していないらしい)

 

  • この固有カタツムリ群の存在は2011年の世界自然遺産登録の決め手の一つになったが,その時にはその裏側で由々しき事態が進んでいた.私が最初に異変に気づいたのは1990年のことだ.父島北部にある三日月山で固有カタツムリが消滅していたのだ.その後その消滅地帯は南下し,固有カタツムリが次々に消え始めた.
  • 当初その理由は不明だったが,環境庁から調査を請け負っていた昆虫学者大河内は小笠原亜熱帯農業センターの昆虫学者大林とともに調査を進め,1995年に三日月山北嶺で(太平洋の島々でカタツムリを次々に絶滅させたことで有名な)あのニューギニアヤリガタリクウズムシを発見する.カタツムリ消滅地域はこのウズムシの分布域と一致し,室内実験でも旺盛な捕食が確かめられた.大林はウズムシの恐るべき生態(ほぼあらゆるカタツムリを攻撃し,切断された断片からクローン再生する)も飼育実験により明らかにした.
  • 大河内は対策しなければこのウズムシが20年程度で父島のカタツムリを全滅させると予測し,拡散防止,父島から他島への移入抑止,防除法の研究,カタマイマイ類の人工飼育を提案した.当時私はウズムシを甘く見ており(いずれ餌不足でクラッシュするはずと考えていた),人工飼育には反対だった.大河内は駆除に失敗したときのBプランとしての重要性を主張した.大河内は環境省から推進費を得てウズムシ防除のための研究が開始された.私は断りきれず貝類専門家として人工飼育の計画に参加した.
  • 防除事業は2000年代の半ばから始まったが,実効性のある対策はなかなか進展しなかった.研究すればするほど相手の底知れぬ手強さが見えてきた.ウズムシはカタツムリに限らずミミズやほかの扁形動物も食べることが明らかになった.餌不足によるクラッシュは望めない.誘引は難しく,薬剤もウズムシが地中や材に深く潜没するために効果が薄い.不妊個体の大量放飼はコスト的にとても無理だった.結局防除対策の重点は物理的防衛ラインの構築に絞られた.
  • 片方で人工飼育の技術開発と事業化が急がれた.私の研究室にいた森はさまざまな難点を克服し繁殖技術を確立させマニュアル化することに成功した.森はさらに人工飼育事業の成功には島民の理解が欠かせないと考え,島民の間に入り小中高校の理科教育を支援しこのカタツムリの価値を伝えた.森が本土に引き上げる2016年までにはカタマイマイ類の飼育は環境省事業として島民主体で行われるようになった.
  • 防衛ラインは防護壁にソーラーパネルを付けた通電装置を設置する形に決まった.すでにウズムシは父島の中央部から西側にかけて広く拡散しており,すべてのカタマイマイを救うのは難しい状勢だった.私は南部をあきらめ東部の防衛に絞ることを提案し受け入れられた.ウズムシはモクマオウの林でいったん南下速度を鈍化させていたが,その後それを突破して速度を増していた.当初の東部を守る防衛ラインは2011年その防壁工事着工の直前に突破されていたことがわかった.急遽その南側に第二次防衛ラインを計画したが2013年に速度を増したウズムシにここも突破され,瞬く間に想定していた第3次防衛ラインも越えられた.そして南端と南東端の半島部分以外のすべての父島のカタマイマイ類は死滅した.私たちは南東端の鳥山半島に最終防衛ラインを引いた.2015年今度は工事が間に合い,350メートルの防護壁が完成した.
  • 3ヶ月後ウズムシの最前線が防衛ラインに到達した.防壁はウズムシを電撃で難なく焼き殺し,侵入を許さなかった.私たちは万一に備えさらに内側に第二防壁を計画していた.しかし完成から10ヶ月後,十数年振りという大型台風が父島を直撃し,ソーラーパネルが予備も含めてすべて壊れ,3日間通電が停止した.ウズムシは防壁を乗り越えたちまち増殖した.2017年に半島内のカタマイマイは全滅,父島の固有カタマイマイ類は野生絶滅した.

 

  • 人工飼育事業は軌道に乗っており,いまだ父島以外へのウズムシの移入も抑止できているとはいえ,この防除事業は失敗と評価せざるを得ない.私は,失敗の実質的な責任は,環境省の小委員会で専門家として対策の判断,立案,実施に至るまで助言提案を行ってきた私自身にあると考えている.ここで失敗の理由を分析しておきたい.
  • 第1に基礎知識が不足していた.第2に私が当初リスクを過小評価していた.第3に計画が常に想定通り進むわけでなく,最悪の事態に備えるという戦略の徹底がなされていなかった.
  • そして最後にあらゆる防除手法を試さなかったということがある.天敵導入による生物的防除は研究も検討もしなかった.有害生物防除には本来総合的病害虫管理の考え方が望ましく,その中には生物的防除のメニューもある.それなのになぜ検討もしなかったのか.それはまず陸棲ウズムシの基礎研究が少なく捕食者や寄生者の情報が乏しかったからだが,おそらくより本質的な理由は私を含む生態学者や保全の専門家にとって小笠原での伝統的生物的防除はタブーになっていたということにある.すでにオオヒキガエルの失敗があり,このウズムシ自体(小笠原への侵入経緯は不明とは言え)太平洋に広く拡散したのは天敵導入の失敗が契機になっているのだ.
  • しかし失敗を繰り返さない方法は,その技術を二度と使わないことだけではないはずだ.同じ失敗をしないためには失敗の理由と過程を学び,適切に対処するという方法もある.メリットがリスクを上回ると評価されても拒否するのは,イデオロギーや感情的な反応でしかない.
  • そして現在飼育下にあるカタマイマイを父島に戻すにはこのウズムシを根絶(あるいは極く低密度化)させるしかない.そしてもし生物的防除もメニューに入れるなら情報収集,基礎研究,予測と実験,リスク評価などやるべきことは多い.私はこれからどうすればいいのかを読者にも考えてもらうためにも本書を執筆したのだ.

 
以上が本書の内容になる.まず外来生物導入,その弊害,それに対する天敵導入による防除,その失敗の歴史が実によく練られた物語として語られる.そこにあるのは善意と無知が作り出した巨大な厄災,極く一部の劇的な成功,そして誤解と政治的圧力が作り出す無謀な人災の物語だ.有害生物への対処にはただ1つの普遍的正解はなく,状況に応じた対処をするしかない.そこではさまざまな選択肢のその状況におけるメリットとデメリットを徹底的に調査し,総合的に判断するしかないが,未知のリスクの問題は常について回る.さらに行動選択(つまりトレードオフのどこを選ぶかの決定)には価値の問題が絡み,社会的な合意が必要になる.本書の重厚な歴史を読むと,これが合理主義と科学,そして意思決定と政治がからむ複雑な問題だということがひしひしと伝わってくる.
そして最後の2章が実に重い.太平洋の島々で繰り返される愚かな人災の物語があり,小笠原で著者が何よりも大切に思っていただろう多様な固有カタマイマイが目の前で死滅していくのだ.責任者でもあった著者の心の痛みはどれほどだっただろうか.「私はなぜ生物的防除を検討すらしなかったのか」という心の叫びが本書を書かせたといってよいだろう.外来種問題,保全に関心のあるすべての人に強く推薦したい.
 
 
関連書籍
 
進化における「偶然と必然」「浮動と淘汰」をめぐる壮大な学説史をカタツムリを通して語る名著.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170719/1500417023

 
千葉が出会ってきたさまざまな研究者の研究物語集.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/03/10/201021

*1:肉食動物の食う楽しみは大きく,食われる側の死は一瞬で痛みは比較的少ないなどと主張していたようだ

*2:世界初の順化協会は英国ではなくフランスで設立されたそうだ.しかしその規模は英国のものがはるかに大きかった

*3:フランク自身は,その失敗を受け入れて,その後水産資源の保全と資源管理に大きな役割を果たすことになる

*4:懐疑論者の論点の1つに「まだ有害とわかっていない生物まで警戒対象にすること」がある.これに対して保全生物学者は不確実性とリスク管理から反論することになる

*5:罰金は2500ポンド.駆除費用は高く私有の土地にイタドリが見つかると不動産価値は大きく下落する.

*6:彼は1870年代という早い時期にユッカとユッカガの絶対的共生の例を見いだしたことで有名だ

*7:マーラットを排外主義的と考えるべきではないことを強調し,マーラットは職務や合理的な判断に忠実でありたいと念じそのために一切の「私情」を排除した気骨ある人物だと示唆し,そしてそれには鹿児島を訪れたときに聞いた西郷隆盛と川路利良の逸話が影響していたかもしれないとほのめかしている.

*8:これは後に生態的種分化が研究されるきっかけになった

*9:台湾の貧困問題を解決するために当時の日本政府が台湾に導入.飼育場から逃げ出して野生定着したものを台湾旅行中のハワイ島民がペットとして持ち帰ったことがきっかけであることが説明されている

*10:やはり(信託統治を行っていた)日本による食料としての利用がきっかけになっている