書評 「進化心理学」

 
本書は進化心理学者大坪庸介の手になる進化心理学の教科書だ.今2023年度から放送大学で「進化心理学」が開講され,その教材として出版されたものだ.放送大学なら(BS視聴環境があれば)誰でも視聴でき,このようにテキストも出版されているので,初学者にとってはとてもうれしい学習環境になったというべきだろう.
 
冒頭の「まえがき」でいきなり,「進化心理学について学びすぎないようにしてください」とあって驚かされるが,教科書に書いてあることを鵜呑みにするのではなく自分で考えることによって理解が深まるのだという趣旨のようだ.そして進化心理学は「進化・適応」という大原則から統一的な理解が得られるという面白さがあること,進化的な説明が現代の倫理観とかけ離れたものであることが多く,誤謬のリスクがある反面,価値中立的に事実を評価することに慣れるというメリットもあると指摘している.そして進化心理学は実証研究中心で数理モデルを用いることもあり,まさに文理融合的な学問であるとコメントしている.
 

第1講 進化とは

 
最初の講義は進化の概説.進化とは遺伝子頻度の変化であること,ガラパゴスフィンチの進化の実例,自然淘汰による累積的漸進的な変化,心の働きも自然淘汰の対象になること,進化的適応環境,研究手法としての表現型ギャンビットなどがオーソドックスに説明されている.最後に特にボールドウィン効果を取り上げているのが目新しいところだ.
 

第2講 ヒトの進化

 
第2講ではヒトの進化が概説される.(ホモ・サピエンスを含む)大型類人猿の系統樹を解説し,チンパンジーとの分岐,直立二足歩行,脳の増大(高価な組織仮説,社会脳仮説が解説されている),生活史の特徴(特に長い幼少期と父親・祖母による子育てサポート)が解説されている.
 

第3講 進化心理学とはどのような学問か

 
第3講で進化心理学という学問の全体像が示される.まず進化心理学が生まれてきた背景が説明されている.行動主義心理学,ブランクスレート説,SSSM,優生学と(社会科学者の)生物学嫌い,自然主義的誤謬が解説されている.
続いてよくある進化心理学の誤解を正す形(遺伝的決定論ではないこと,行動遺伝学との差異,反証不可能な体系ではなく仮説と検証の学問であること)でこの学問のフレームが説明されている.
またここで至近要因と究極要因を説明し,近親相姦忌避とウェスターマーク効果,心理メカニズムが無意識的に働きうることなどが取り上げられている.
ここでは自然主義的誤謬についてヒュームの議論とムーアの議論の両方(そしてその違い)を,そして至近要因と究極要因についてマイアの議論とティンバーゲンの議論の両方(そしてその違い)を取り上げていて,初学者が迷いやすい微妙な点をきちんとフォローしているところが特に印象的だ.
 

第4講 進化論は利他行動を説明できるか

 
第4講からが各論になる.まず利他行動が取り上げられている.利他行動の定義とそれが進化的な謎であること(相利状況で容易に協力が進化することについてきちんと断り書きがある),グループ淘汰(および種の保存のための進化)の誤謬がまず指摘され,そこから利他行動の進化の行動生態学が示される.
ここではまず利他行動の進化条件をプライス方程式*1のフレームワークからグループ間淘汰とグループ内淘汰のどちらが強いのか(グループ間淘汰の方が強くなる条件*2)を考える形で説明されている.続いて血縁淘汰の考え方を説明し,それがやはりプライス方程式から導き出せることが解説されている.
 

第5講 性と進化

 
第5講ではヒトの配偶行動を議論する前段階として,進化生物学における有性生殖の問題が概説される.
まず有性生殖の2倍のコストの問題を赤の女王仮説*3で解説している.冒頭でウェデキンデのTシャツ実験の話を持ってきて受講者の興味をつないでいるのが工夫というところだろう.
続いて性淘汰,性的二型がランナウェイ仮説,ハンディキャップ原理仮説から説明される*4.なおここではヒトにも性的二型があり,行動的にも男性がよりリスク追求的であることにも触れている.
最後に子育て投資の問題が取り上げられている.ここでは哺乳類においてメスの方がより子育て投資する傾向があることについて,卵や妊娠時にすでに投資をしているからという説明がコンコルド誤謬(サンクコスト誤謬)であること,機会費用からの説明も誤謬であることをきちんと解説し*5,父性の不確実性や(メスの配偶者選択の結果としての)オスの繁殖成功の分散から解説している.
 

第6講 配偶者選択

 
第6講ではヒトの配偶者選択が扱われる.まず配偶者選択基準のリストを表示した後で,ヒトの配偶システム(伝統的社会では一夫多妻も認められているが,配偶システムとしては基本的にペアボンドを作る連続的単婚に近いと説明されている)が解説され,次に配偶者選択基準の性差が扱われる.個別トピックとしては身体的魅力度*6,ウェストヒップ比*7が詳しく取り上げられている.
 

第7講 短期的配偶

 
第7講ではヒトの配偶戦略が取り扱われる.まず鳥類を例にペアボンドで子育てする長期的配偶戦略と,ペア外で交尾する短期的配偶戦略の両方があることを説明し,続いてヒトの場合を扱う.最初に婚外子の比率について(アンダーソンの推定では0.4%~11.7%で中央値は1.7%)説明があり,そこから配偶戦略の性差を取り扱う.男性の方が短期戦略に積極的であること(有名なキャンパス実験が紹介されている).女性の短期戦略の適応上のメリットについていくつかの仮説があること*8,男性の相手の性的意図の過大推測傾向*9が解説されている.
 

第8講 子育て

 
第8講は子育て投資を扱う.まずトリヴァースの親子コンフリクト理論が解説され,ヒトにおいても離乳時期をめぐる対立があることが説明される.続いてヒトの生活史戦略(短い出産間隔)とそれが協同繁殖を含むものであること,子育ての至近要因としてのベビースキーマ,親の投資判断,父性の不確実性への対処,継子と虐待リスク,養子の説明*10などが取り上げられている.
 

第9講 認知と進化

 
第9講ではヒトの認知の特徴が適応的に解説される.まずヒトにあるヒューリスティックスとバイアスが説明される*11.具体的トピックとしては再認ヒューリスティックがあげられている.続いてエラーマネジメント理論から予測される相対的に損失の小さい方への間違いのおかしやすさが説明され,第7講で取り上げられた相手の性的意図の推測傾向の性差が例としてあげられている.最後に4枚カード問題が取り上げられ,認知の領域固有性が説明される*12.また最後に領域固有性は適応的に説明できるが,一般的知性(領域一般性)の適応的説明については未解決問題であるとコメントされている.
 

第10講 感情と進化

 
第10講は感情がテーマ.冒頭で進化心理学では「感情」はフィーリングだけでなく身体状態の変化や行動傾向の変化も含むとされ,その機能は行動傾向の変化だとされていることが説明される.例として「恐怖」による闘争・逃走反応がが進化環境で平均的に有利だったと考えられることが指摘されている.
ここから「嫉妬」が取り上げられ,それが行動生態学でいう配偶者防衛機能を持ち,配偶者保持行動を引き起こすものと考えられることが解説される.
最後に感情を示す表情がユニバーサルであることが説明され,その適応的意義が考察される.ここではもともと直接的な機能(恐怖で目を見開くのはそれで視野が広がるという機能と関連するなど)があったものが,コミュニケーションに外適応したとされ,それが相利的状況で目立つシグナルに進化しうること,それぞれの表情シグナルに具体的にどのような適応的なメリットがあったのかは未解決問題であることが解説されている.なおコミュニケーション全般については第13講で取り上げられている.
 

第11講 協力の進化

 
第4講では利他行動の進化をプライス方程式からみちびかれたマルチレベル淘汰と血縁淘汰の枠組みを使った説明があった.この第11講と第12講では互恵的利他を扱う*13
第11講はこのうち直接互恵性が解説される.最初に非血縁個体への利他行動の謎を提示して,互恵的利他主義を説明し,そこからチスイコウモリの例,囚人ジレンマゲームの構造,繰り返しゲームにおける応報戦略(Tit for Tat)の進化安定性,ヒトにおける最後通牒ゲームの振るまい,感謝感情の適応的説明が扱われている.
 

第12講 大規模な集団における協力

 
第12講は間接互恵性.評判情報を使う間接互恵性が理論的に進化安定性を持ちうること,ヒトには実際に他人の評判に敏感で,自分の評判を気にする傾向があることがまず解説され,そこから社会的ジレンマとその解決の難しさ,一つの方法としての罰と利他的罰の問題,ヒトの罰あり公共財ゲームでの振るまい,オストロムによる社会的ジレンマの解決事例分析が解説される.
最後にボウルズとギンティスの(利他罰をグループ淘汰と文化との共進化により説明する)「強い互恵性」仮説が(なお論争中であることを指摘しつつ)紹介されている.
 

第13講 コミュニケーション

 
第13項のテーマはシグナルの進化と言語.まずシグナルについての経済学における議論が紹介される.それは(利害が一致せず)情報の非対称性がある場合にはシグナルが信用されないが,不正直ものには負担できないコストがあると信用される*14というものになる.ここから生物学における正直なシグナルの進化の理論が概説される.
まず利害が一致していればシグナルは正直になる.そして利害が一致していなくともシグナルが正直になる条件をインデックス,ハンディキャップ,利益の非対称性,分不相応なシグナルが高い代償をもたらす場合(バッジ),評判という5つに整理している.
ここから言語の問題が考察される.そしてここでは言語で話される内容にある程度正直さが保たれているのは評判の効果だと説明されている.そしてそもそも言語がなぜ進化したのかについては複数の仮説(ゴシップ説,狩猟説,性淘汰シグナル説,赤ちゃんの世話説など)があるが,まだよくわかっていないのだと締められている.また「学習課題」において(非常に興味深い問題として)謝罪の言葉の正直性の問題が取り上げられている.
 
なお利害不一致の場合のシグナルが正直になる条件について,本書のようないくつかに分ける説明はよくみかけるものだが,評判以外の4つはすべて「シグナルが送信者の質(受信者にとっての価値)にかかるもので,シグナルコストがあり,それが質の低い送信者にとってより大きい場合,正直なシグナルが進化する」という(広義の)ハンディキャップ原理で統一的に説明する方がすっきりとすると思う(そしてこの広義のハンディキャップ原理はグラフェンによって数理的に検証されているので理論的にもすっきりする).
(大きな身体しか低い音を出せないという)インデックスは大きな身体の発生発達コストまで考えるとハンディキャップと考えられるし,利益の非対称性はコスト負担能力に引き直すことが出来る(餌をねだる大声は親に対する給餌効率という価値のシグナルと考えることができ,これには被食リスクというコストがかかり,空腹時には餓死リスクが大きいためそれを負担しても引き合うが,満腹時には引き合わない).バッジにかかるコストはまさにハンディキャップコストそのものであり(他個体からハラスメントとして賦課されるからという理由で)区別する意味はないと思う.
ヒトの言語における評判は言語内容が送信者の質にかかるシグナルとは限らないのでこれに完全には当てはまらない(だから基本的に言語内容には正直さが保証されない)が,嘘つきにより高い評判コストがかかるという意味ではハンディキャップ原理の要素を含んでいる(だからある程度正直になりうる)と考えることが出来ると思う.
 

第14講 文化と進化

 
第14講では文化進化が扱われる.まず文化の定義,文化的価値観・信念がヒトの行動に影響することを抑える.そこから基本的にミーム論のスタンスになって文化進化が解説される.そこから動物の文化,ヒトの特殊性としての模倣傾向を説明し,さらにヒトの社会学習の特徴として,伝達意図が重要な要素となる意図明示・推論コミュニケーションにより高度な社会学習が可能になっていること(ナチュラル・ペダゴジー説)が説明される.ここではヒトが他の大型類人猿と比較して社会的知性が特に高くなっていることにも触れられている.
最後に遺伝子と文化の共進化が取り上げられ,乳糖耐性の例が説明される.また人口転換は進化適応的には説明できず,そこには文化を取り入れた説明が必要なのかもしれないと説明されている.
 

第15講 進化心理学の限界と展望

 
最終講はこれまで進化心理学に対して寄せられてきた批判を取り上げ,また再現性危機の問題にも触れている.
まず進化心理学はジャストソーストーリーだという批判に対しては,確かに進化環境は確定的にはわからず,適応仮説はそれを都合よく想定するようなものになるリスクがあることを認めるが,きちんと仮説検証の体系になりうるものであることをいくつかの具体例*15を挙げて説明したうえで,検証が難しく代替仮説としての副産物説を否定しきれないような適応仮説もあり*16,慎重な検討が重要であることが指摘されている.
最後に再現性の危機問題が紹介され*17,一見もっともらしい実験結果でも健全な懐疑心をもって眺めるべきこと,本書やその他の進化心理学の教科書事例も鵜呑みにするのではなく,よく検討して自分で考えてほしいことが最後に述べられている.
 
以上が本教科書の内容になる.非常に正確かつ端正な書き振りで,初学者が誤解に陥りやすいところが特に丁寧に解説されている(特に自然主義的誤謬が生じやすいところではその都度繰り返し注意喚起がなされている)のが特徴になる.利他行動の進化についてプライス方程式から説明するところ,文化進化についてミーム論から説明するところも理論的な一貫性・統一性に気を配っている部分で好感が持てる.また最後に再現性の危機問題について触れているのも誠実な態度だと思う.初学者がまず読むべき書物の一冊だと評価したい.
 
 
関連書籍
 
初学者がまず読むべき一冊としてはこれも重要.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/05/15/170915

 

*1:なおここで説明されている式はプライス方程式をハミルトンが拡張して得た方程式であり,本来ならハミルトン方程式とでも呼ぶべきものだ.プライス方程式自体は進化速度が遺伝的形質と適応度の共分散により定まることを示しているだけだ.そしてそれを再帰的に代入することにより全体の進化速度をグループ間淘汰の進化速度とグループ内淘汰の進化速度に分けて記述することが出来るようになったのだ.本書のさまざまな説明は非常に正確だが,ここだけはとても残念な例外になっている.

*2:集団内の遺伝分散と集団間の遺伝分散がどうなっているかが重要であることが強調されている

*3:解説においてマット・リドレーの説明は引用されているが,ハミルトンが登場しないのには私的にはちょっと不満だ

*4:ここではこの両仮説が排他的ではないことだけが指摘されている.より深い解説はここでは手に余るということだろう

*5:これらは進化生物学者たちも長年誤解していた部分でもあり,初学者にはなおさら迷いやすいところだと思われる

*6:このうち性的二型については男性性はハンディキャップから女性性は繁殖度の指標との関連が示唆されている.

*7:狩猟採集民のデータの解釈について,先進国よりウェストヒップ比が高い方(あまりくびれていない)が好まれるが,それは正面からの場合で,横から見た場合には先進国と同じく臀部の膨らみが好まれたと解説がある.またその適応的意義はそれ以降生む子どもの数の指標とも考えられるが,必ずしも自明ではなく未解決問題であることも指摘されている

*8:物質的利益説,遺伝的利益説,パートナー交換準備説,スキル向上説,配偶者操作説があるが,検証はこれからだとされている

*9:これがセクシャルハラスメントや強制わいせつと関連する問題であることが指摘されている

*10:伝統社会では血縁者が養親になることが多いこと,現代社会の全くの他人の養子は利他行動で進化しえないこと.それは子育ての至近要因として働く子育ての満足感が大きいための副産物と考えるべきことが解説されている.

*11:多くの場合はヒューリスティックスは役に立つものであるのにこれらの研究はヒトが間違いを犯すことを示す内容になっていることについて,それは推論内容が合理的推論と異なることによってヒューリスティックスの存在を示せるためにそうなっているのである(研究方略の意図せぬ副産物)と説明されている.このあたりは初学者が誤解しやすいところということだろう

*12:伝統的な進化心理学の解説スタイルだとここで「モジュール」が登場するところだが,本書では「モジュール」という用語は使われていない

*13:なぜこのような講義順になっているかはよくわからない.講義としては並べておき,互恵利他は短期的には利他行動だが,長期的には相利関係になりうることを説明する方がわかりやすいのではないだろうか

*14:これは基本的にはハンディキャップ原理で説明できるが,ここでは特にそれについてコメントはない

*15:甘味嗜好性の現代環境とのミスマッチ説について,大型類人猿の嗜好,ミツオシエとの共進化,狩猟採集民における栄養的な適応価から検証を行っている例,グループ淘汰の誤りなどについて数理的に検証できる例,男性同性愛の適応価についての血縁淘汰説が検証の結果否定された例などが紹介されている

*16:左右対称顔や平均顔の魅力についての仮説が例示されている

*17:進化心理学分野で再現性がないと判断された例として,「子どもは実際に母親よりも父親に似ている(父性を確信させて父親から投資してもらいやすくなる)」という研究結果が1995年のnature誌に載ったが再現できなかったという例が紹介されている