書評 「生物学者のための科学哲学」

 
本書は生物学にかかわる科学哲学の主要トピックについて科学哲学者や科学史家たちが解説したもの.編者は科学哲学者のカンプラーキスと生物学者のウレルで,書名にもあるように想定読者としては生物学者が念頭に置かれている.
これまでの生物学の科学哲学の入門書だと「種とは何か」「自然淘汰の単位は何か」「系統樹の推定はどのような営みか」「利他行動の進化とマルチレベル淘汰」「発生システム論」などの個別の各論のトピックが主要テーマになっているものが多いが,本書が取り上げるものは必ずしも「生物学の科学哲学」に限らないということで,「説明」「知識」「理論とモデル」「概念」などの基礎ブロック的なテーマが数多く取り上げられていてなかなかハードな内容になっている.原題は「Philosophy of Science for Biologists」.
 

第1章 なぜ生物学者は科学哲学に目を向けるべきなのか?

 
冒頭には生物学者向けの本書のプレゼンが置かれている.生物学者も(種とは何か,実験の価値とは何か,生物学が満たすべき基準とは何かなどの)哲学的な問題に(しばしば無意識に)踏み込んでいること,生物学者によく知られている科学哲学者はポパーとクーンだが,流布されているのそれぞれ戯画化された内容でありがちなことをまず押さえる.
そこから科学の目的は何かを論じ,記述,分類,予測,説明などの営みで,それを通じて理解することだとする.そしてこの中の「説明」とは何かを取り上げる.ここではさまざまな因果性と結びつくメカニズム的説明のほかに歴史的説明があること,因果性を意識することにより抽象化や理想化の役割を考察できること,複数の説明の中から最善の説明を選ぶ基準が問題になることなどが解説されている.
次に科学の「方法論」を取り上げ,生物学が厳密な反証の方法からはみ出しているように見えること,データが仮説を支持しなくとも科学者は稀にしか自説を放棄しないことをどう考えるべきかを解説し,方法論の原理は反証不可能だと指摘している.
最後に「概念」を取り上げ,概念分析により科学が発展しうることを「遺伝子」概念を例にとって解説している.
「説明」や「概念」については後でじっくり取り上げられることになるが,本章は導入章としてはなかなかスリリングだ.
 

第2章 生物学における説明は何から構成されているのか?

 
第2章は「説明」を取り扱う.ここでは因果との関係,構成要素や過程との関係,異なる説明が複数ある場合の問題が以下のように解説される.

  • 因果:多くの哲学者は科学的説明の中心は因果だと考えてきた.ヘンペルは初期条件と法則(法則的説明)を重視した.私(ポトチュニック)は因果パターンの描写を重視する.因果的依存関係の本性とその依存関係の射程を把握することが世界の因果構造を決定する鍵であり説明の最終目的だと考えるからだ.
  • 構成要素と過程:生物学的説明は構成要素や過程に基づくものだけでなく,より広範囲な原因や構造的原因など多岐にわたる.これについてのいくつかの考え方があるが,私は環境的文脈に関する因果パターンを特徴とする説明もあると認める立場をとる.メカニズム的立場のみを認める立場では世界についての不正確な還元主義的な見解を招き寄せかねないと考える.
  • 複数の説明:複数の説明がすべて正しい場合がある.至近因と究極因はこの例になる.これはしばしば研究関心がどこにあるのかに関連する.

 

第3章 生物学的知識とは何か?

 
第3章は「知識」を取り扱う.
まず知識と事実の区別,命題的知識と方法的知識の区別,命題的知識の3要件(真理,信念,正当化*1)が整理され,命題的な生物学的知識について論じられる.
そこからは直接的(観察的)知識と理論的な知識の区別をふまえ,理論的知識がどのように得られるのかが扱われる.著者はそれは観察的知識を説明しようとして得られるのであり,最善の説明への推論(IBE: inference to the best explanation)が鍵になると説く.そしてIBEを定式化する試み,「最善」とは何か(単純性,説明能力,保守性,予測能力などについての議論が解説されている),十分良い説明であるための基準はあるのかが扱われる.さらにIBEに対する哲学的批判(競合する説明が複数ある可能性,最善の説明と真であることに関係はあるのか)を取り上げ,それに対する反論が解説される.
最後に生物学的知識に関する2つの誤解(知識は個人による発見だ,知識には確実性が必要だ)を取り上げ,それがいかに誤っているのかが解説されている.
 

第4章 生物学における理論とモデルとは何か?

 
第4章は理論とモデルを取り扱う.
モデルは現実の複雑な因果プロセスをより容易に取り扱えるように抽象化,理想化,単純化するために構築される.ここから理論とモデルの関係を論じ,さまざまなモデルのあり方,法則と理論の関係.モデルはフィクションなのか,モデルと世界の関係,理想化の役割,モデル生物はモデルなのか,実験とモデルはどう違うのかが論じられる.ケーススタディとしてレンスキの大腸菌進化実験が取り上げられていて,抽象的な説明についてわかりやすく解説がある. 
 

第5章 生物学の概念はどのように使用され,どのように変容するのか?

 
第5章から第8章までの4章で「概念」が扱われている.第5章ではその変容がテーマ.
概念とは何か,その特徴が何かが簡単に解説され,そこから概念が生物学の実践においてどう機能するかが論じられる.研究アジェンダを設定する機能,分野に学問アイデンティティを与える機能などが取り上げられる.例として「進化的新奇性」概念が取り上げられ.説明アジェンダ,問題アジェンダ,分野横断型研究の促進などが説明されている.
続いて概念の変化と変容が論じられる.ここではまず「遺伝子」概念が取り上げられ,古典遺伝学,分子遺伝学におけるそれぞれの概念,概念の定義が異なってきた理由と学問の目的の関係,知見が深まることにより変容することがあること,それぞれの遺伝子概念はそれぞれの文脈で使い続けられることが解説される.
続いて「種」概念が取り上げられ,概念の多様性には存在論や認識が関連することを具体的なさまざまな種概念を上げて説明し,このような多様な種概念には正当性があり,生物学の実践に役立つと指摘されている.
 

第6章 なぜ多くの生物学の概念がメタファーであることが問題になるのか?

 
第6章は生物学的(そして科学一般の)概念のほとんどがメタファーであることについて.
まずメタファーであることはその概念の理解を容易にする一方で,メタファー元の概念(起点領域)とメタファーで表象される概念(目標領域)が混同される恐れがあること,目標領域の中のメタファーが効果的なものだけに焦点が当たってしまうことなどのいくつかの問題があることが解説されている*2
また哲学におけるメタファーの置換説,比較説,相互作用説が説明された後,メタファー構造のスキーマとその機能の議論が解説され,「生物は機会である」「自然淘汰(自然が選択する)」というメタファーについて,それがどういう構造を持ちどう機能したのか考察されている.
この章はハードな哲学的議論が前面に出ている割りには,最終的な含意が「メタファーは理解や発見に役立つが,限界もあり,明確な定義が重要だ」という極く常識的なものに止まっており,やや肩透かし的な印象だ.
 

第7章 概念はいかにして科学を前進させるのか?:進化生物学を例として

 
第7章では科学がどのように進んでいくのが論じられる.
まずベーコン的経験主義が深く刷り込まれていると,クーンの主張は相対主義的で社会構成主義,あるいは科学懐疑論にたっているように受け取ってしまうが,クーンはもっと深いところを議論していると指摘し,概念的枠組み,メタファー,モデルが科学の営みにとって不可欠であることを示すと宣言する.

そしてここからまず「自然淘汰」概念が例として取り上げられる.
そしてダーウィンと同時代の哲学者,ミル,ハーシェル,ヒューエルが「自然淘汰」をどのように(誤って)理解したか*3,ウォレス,スペンサー,ハクスレーが「最適者生存」の概念をより推したこと,スペンサーは「最適者生存」を用いて自然淘汰を自身の誤った進化理論に結びつけてしまったことがまず紹介され,ダーウィンの議論にとって自然淘汰と人為淘汰のアナロジー(そして特に両者の違いの認識)が不可欠であり,自然淘汰がメタファーから誕生し,理論として確立する基礎となったことが解説される.
次にネオダーウィニズムはダーウィンの概念的議論だけでは解決できなかった問題*4を統計学のシステム動態モデルを使って解決したものであることが示される.さらに分析哲学が自然淘汰がトートロジーではないこと,種を歴史的個物と考えれば種の転成が矛盾ではないこと,適応に目的論を持ち込むことが正当化されることを示したと解説される.
そして「自然淘汰」「突然変異」「遺伝的浮動」「種」「適応」「機能」などの数々の概念の明確化と再定義により進化学者たちが抱いた数々の難問が解決されたのであり,ダーウィンの「漸進的な自然淘汰による進化」は概念枠組みのセットとしてクーンのいうパラダイムの一例とみなせるのだと主張されている.
 
続いて「遺伝子」が例にあげられる.
そしてネオダーウィニズムの集団遺伝学者たちの「遺伝子」とワトソンとクリックの発見以降の分子生物学の「遺伝子」の関係,ドーキンスの「利己的な遺伝子」というメタファーが果たした役割,「〜のための遺伝子」概念と分子遺伝学の遺伝子操作技術の関連,「遺伝子中心主義」の方法論的問題点などが議論されている.
なおこの部分は難解で.一部ドーキンスについての誤解*5も含まれ,やや牽強付会的な印象がある.
 
最後に概念は科学的発見において,メタファーとして,モデルとして,概念的枠組みとしての大きな役割を持っており,科学において実験や観察と同じぐらい概念は重要なのだとまとめられている.
 

第8章 概念分析は科学の実践にとっていかなる貢献があるのか:文化進化学を例として

 
第8章は概念分析.文化進化学者が「文化」「累積的文化進化」などの概念をどのように理解して使ってきたかが分析される.

  • 文化進化学の基盤:集団遺伝学者はさまざまな要因が遺伝子頻度に与える効果をを統計的に議論する.文化進化学者は集団がどのように変化するかを統計的に明らかにしようとする.彼等は文化を可能にする能力の起源だけでなく,技術,習慣,信念などの蓄積がどう変遷していったかに興味を持つ.哲学的には説明の目標,「文化」という概念,「蓄積」という概念が問題になる.
  • 文化進化学者のおおまかな第1の動機は文化の領域で自然淘汰理論を使ってより魅力的,より役立つアイデアが生き残り蓄積していくことを説明しようというものだっただろう.そしておおまかな第2の動機はその営みをより事実に即した足場に建てることだった(メスーディ,リチャーソン,ボイド,フェルドマンがどのような議論をしたかが紹介されている).しかし彼等の立場はそれぞれ微妙に異なっている.懐疑論者に批判の隙を与えないためには説明の目的に注意を払う必要がある.
  • その例の1つが文化と遺伝子の関係についての社会人類学と文化進化学の間の対立だ.文化進化学者は乳糖分解酵素活性持続症は遺伝的形質だが,牧畜と飲乳習慣は文化的形質だとコメントし,社会人類学者は酵素活性の現れ方に習慣や文化は影響すると批判した.しかし文化進化学者が意味していたのは,片方が垂直伝播のみ,片方が水平伝播も生じるというモデルにおける扱いについてだったのだ.

 

  • 「社会的学習」や「文化」にはさまざまな定義があり,時に混乱や論争を引き起こす.ある定義は特定の研究プログラムに由来することがあり,その研究コミュニティの中では問題がないが,異なるコミュニティの学者からは問題視されうる.
  • 「累積」については,生態「ラチェット」的効果が重視され,社会的学習と有益な結果の繰り返しから条件づけられるのかが議論された(詳しい説明がある).

最後のまとめとしては,研究者は研究目的に沿って用語の使い方を適宜選択するのであり,学問をまたぐと誤解を招く余地があること,通常は用語の用法の明確化と標準化をすれば解決できること,生産的な科学研究(特に特定の狭い疑問に答える研究)を進めるためには一般的な用語をすべて正確に定義する必要はないこと,しかし「累積」のような一般的な問題を解くためには鍵になる概念には明確な定義を与える必要があることが指摘されている.
 

第9章 生命科学者はどのような方法を用いるのか:略史と哲学的含意

 
第9章では生物科学で用いられるべき方法についての哲学的議論が扱われる.これについての標準的な立場は科学の方法は理想化された単一のものである(科学の統一性)というものと,科学の諸分野は個人主義的でただ1つの共通の方法はない(アナーキズム)というものになる.ここではまずアミロイドβとアルツハイマー病についての曲がりくねった発見物語*6が例として提示され,著者の「生物科学ではいくつかの限られた方法がある」という主張に沿って解説される.

  • 広く流布している科学の方法は,観察→仮説→実験→検証→理論(仮説演繹)と説明される.そしてこれはポパーの反証主義とともに説明されることがしばしばある.
  • アミロイドβの物語はこの描写に一致しない*7.科学史家や哲学者は昔からこの見方が科学の実践にうまく当てはまらないことに気づいていた.ファイヤーベントは唯一の統一的な科学の方法などないとし,アナーキズムを論じた.以上が標準的な二つの立場になる.
  • 確かに実践はしばしば仮説演繹とは異なる方法を採る.しかしアナーキズムにも問題がある.科学者たちに共通の方法がなければ他の研究グループの研究の信憑性を評価できないし,申請された研究費の決定や論文の査定も出来ないことになる.

 

  • 西洋哲学では科学の方法論としてまず帰納と演繹の分類がなされた.ベーコンは帰納を,デカルトは演繹を重視した.そこから実験と道具の重視,微粒子や原子による還元的説明への潮流が生じた.
  • ベーコン主義は先入観的な仮説を認めず,これが生物学に大きな影響を与えた.18世紀の動物学や植物学はベーコン主義的に標本を収集,保存,分類*8したのだ.
  • その中で解剖学者や生理学者は18世紀に機械のアナロジーを用いるようになった.これは厳密なベーコン主義からの最初の転換だった.次の転換は顕微鏡が発明され,生体観察から,固定した薄い組織片観察が行われるようになったことだった.
  • 片方で物理学は17世紀から粒子論*9を取り入れえデカルト的になっていき,観察に基づいて一般的原理を記述することから,理論的対象に関する推測をテストする実験考察に向かっていった.
  • このような仮説演繹が生物学に取り入れられるようになったのは19世紀後半になってからだった.ダーウィンは自身の立場をベーコン的に捉えていた*10.生物学は病原体や遺伝子を扱うようになり,20世紀のはじめには推測を立ててテストするという演繹に向けて展開した.
  • 帰納と演繹はスペクトルの両端であり,このスペクトル全域こそが知識獲得の一般的方法だといえる.さらにここでは副次的な方法も取り上げて暫定的な分類を提示する.(知識獲得として帰納〜演繹,実験観察としてフィールド〜試験管〜シミュレーション,干渉の有無として干渉〜非干渉,焦点距離として全体〜部分とする分類が提示されている)

 
略史のところは楽しい.結論としてはさまざまな方法があり,それぞれ役に立つが,何でもよいわけではないというある意味常識的なものが提示されている印象だ.ただここでは帰納と演繹に焦点が当たっており,もっともよい説明を与える仮説を選ぶというアブダクションについては触れられてなく,ちょっと物足りない印象だが,それは次の章で語られることになる.
 

第10章 地球上の生命の歴史を科学的に復元することは可能なのか?:生物科学と太古の歴史

 
第10章は歴史科学の方法論を扱う.例えばKPg絶滅隕石衝突説や生物の共通祖先性などの歴史科学と実験科学の方法論の違いを過小決定と過大決定から解説する.

  • 制御された実験によるテストは実験物理学で行われていることの一部分に過ぎない(探索的実験や興味深い量の測定などが例にあげられている)
  • 古典的な実験研究によって検証される仮説は「すべての銅は加熱すると膨張する」のように一般化された法則という形をとることがほとんどだ.しかし科学者は全宇宙のすべての銅片の事例を確認できるわけではないから,実験による支持は仮説を「過小決定(事例をいくら集めても一般法則が真であることは保証されない)」している状態になる.
  • ポパーは一般法則が真であることは証明できないが,偽であることは証明できると主張した.確かに「全てのスワン*11は白い」という言明は黒いスワンが1羽でも発見されれば偽であることになる.しかしその黒い鳥がスワンとした同定が間違いであったり,人為的に黒くされたものである可能性は常に残る.科学的仮説はテストの実施の条件や仮定と独立して経験的に調べることは出来ない.偽陰性を完全に排除することは不可能であり,古典的実験研究は科学的仮説を偽だとも証明することは出来ないのだ.
  • これは古典的実験研究は仮説の真偽を論理的説得的に判定できるが,歴史研究には出来ないという歴史研究批判が成り立たないことを意味する.

 

  • 歴史研究では過去の個別の事象が興味の対象になることが多い.時間構造は非対称であるので,現在において見いだせる事象は過去の原因を「過大決定(現在の事象の一部でも過去の原因を決定できる)」し,未来の結果を「過小決定(現在の事象だけから未来を完全に予測できない)」している.このため歴史科学者は競合する仮説のうちある仮説が他の仮説より優れた説明である「決定的証拠」を探す.証拠の性質によっては最善の仮説が見つかるまで時間がかかることもあれば,新しい仮説が提示されることもある.いずれにせよ過大決定の非対称性が歴史科学の方法論を下支えしているのだ.

 
ここからは具体例がとりあげられ,まずKPg絶滅隕石衝突説が取り上げられ,デカン高原の溶岩という証拠,KPg境界より前に恐竜が減少していたという仮説とノースダコタで発見された衝突後数時間内の破局的現象を捉えた化石という証拠の意味,隕石火山複合説の排除可能性などが議論される.また生物の最終普遍共通祖先(LUCA)仮説と既知の生物の分子的構成単位の共通性という証拠の意味(圧倒的な過大決定),リボザイムの発見と実験結果が偽陰性かどうかの判断(追加実験の必要性)が解説されている.
最後にまとめとして,歴史科学の実践が実験科学の実践より劣っているとはいえないこと,両者とも偽陰性の問題に直面し,どちらにも決定的な証明はあり得ないこと.両者の偽陰性に立ち向かう方法論が異なるのは,過小決定性と過大決定性の違いであることが述べられている.
 

第11章 生物分類の基盤は何か?:自然の体系の探索

 
冒頭で「地球上の生命の多様性」の推定値を得るのが難しい理由の1つに哲学的な問題があることを指摘し,ここで生物分類の実践をめぐる哲学的・概念的問題を扱うことが宣言される.

  • 生物の体系学的探求においては,「地球にどれほど多くの種類の生物がいるのか」「それらをどんな基準で種や高次分類群に分けるのか」の2つが問題にされてきた.前者は形而上学的問題(世界はどのようであるのか)で,後者は認識論的実践的問題(どうすればいいのか)だ.
  • 哲学では分類について自然分類体系と人為分類体系を区別する.リンネ体系のような生物分類体系は自然分類体系であると想定されている.であるので生物分類は自然界のあり方に関する仮説や理論とみなされる.そしてそれは限られたサンプルから全成員への推論がなぜ成立するかを説明する原因があり,それが自然の中で見いだされることを前提にしている.つまり自然分類とはその種類の成員が多くの属性において互いによく類似するようになる自然要因の痕跡をたどらなければならないという考えが指針となっている.
  • ではこの自然要因とは何か
  • アリストテレスは動物の形相に着目し,共有する本性を見いだし,その本性によって類似性を説明した.本性は自然要因とみなせるかもしれないが,そうではなく単に比較のための道具だとする批判もある.
  • リンネは「自然の体系がある」という信念を持ち,それに従って分類した.背景にはこの自然の体系はキリスト教の神によって創造されたものだという仮定があった.リンネの信念は宗教上の信念に根ざしており,現在の自然科学との相性は良くない.アリストテレスの見解も突き詰めると世界のあり方に対するかなり疑わしい思弁的な形而上学の考えが編み込まれていることになる.
  • ダーウィンは自然の体系の基盤を由来の共通性に見いだした.片方で生物間のつながりは連続的であるということになるので,分類に関してはこの連続性をどう分割して離散的にするかという問題が生じた.
  • ダーウィンは種が(変種や属などのほかの分類群に比べて)何か特別であるとはしなかった.つまり種や高次分類群への分類は人為分類体系だと考えたことになる.しかし多くの生物学者はこれを支持せず,種は実在するか,少なくとも恣意的ではないとする.このため種問題が生じる.
  • 種問題には,いかなる基準によって個々の生物は種に属するのか(分類問題),種は実在するのか分類のための道具に過ぎないのか,ある生物群が変種や属ではなく種とする基準は何か(ランキング問題),さまざまな系統における種には共通点があるのか,ないとするとなぜ同一のラベルに位置づけられるのか,といういくつかの問題を含んでいる.そして数多くの種概念が提唱され,それらは相いれないという状況が生まれた.この問題は現在でも解決する見通しが立っていない.

 
この後著者は「遺伝子の分類」の問題に進む.遺伝子概念に複数あること,古典遺伝学においてはそれが機能的に定義されていること,分子生物学では特定の巨大分子の産生に関与する分子的存在とされていることをまず説明し,遺伝子の自然分類はおそらくないであろうことを主張する.
そして最後に,種問題の困難性は進化理論が生物分類を過小決定しているためだとコメントされている.
 

第12章 生物科学における科学論争とはいったいどのようなものなのか?

 
第12章では生物学者たちがいかに意見を違え,それをいかに解決するのかが扱われる.ここでは例として進化遺伝学における古典説(自然淘汰は有害遺伝子を取り除くので遺伝的変異(そしてヘテロ接合)はわずかだろう)と平衡説(ヘテロ接合の方が有益な場合があるので変異は取り除かれず,多くの接合がヘテロ接合だろう)の論争が取り上げられている.

  • 長く続く論争はある見解に異議が申し立てられ,双方に利点がある場合に生じやすい*12
  • 論争は,事実についての論争,理論についての論争,原理についての論争に分類されてきた.
  • 事実についての論争の解決ヘの試みにはしばしば再現実験が含まれる.このタイプの論争では現象,実験,データ,証拠の構造などが争われる.
  • 理論についての論争は同じデータや結果を説明する複数の理論間での論争だ.古典説と平衡説の論争はこのタイプだった.そして争点はヘテロ接合の方が有利になる遺伝子座の頻度と重要性になった.そして両当事者の課題はこの問題に答えを出す実験データの産出だった.
  • 原理についての論争の解決は難しい.例としては初期メンデル遺伝学者と生物測定学者の間の論争,現在の再現性の危機をめぐる論争がある.このタイプの論争はゆっくり紆余曲折を経て実践的に解決されることになる.

 

  • 論争が長引く要因としては構成的理由(論争を解決する基準についての問題)と文脈的理由(社会的政治的信念によるバイアス)がある.基準が過小決定であれば(例えば両説とも同じデータをうまく説明できるなど)論争は長引く.
  • 古典説と平衡説の論争においては一連の重要な実験に問題があったために論争が長引いた(放射線を大量に浴びせたショウジョウバエ集団の適応度がどうなるかといういくつかの実験とその解釈をめぐる混乱が解説されている.結局のところ放射線の正確な効果を突き止めることが不可能であったために多くの実験結果があっても対立は解消されなかった).またこの論争は(核兵器の使用をめぐって)社会的政治的な含意を持つと考えられたために注目が集まり証拠の基準が厳しくなった.
  • なぜ論争が長引くのかという問題は,結局「なぜ合理的な人々が互いの論証の受け入れを拒否するのか」を説明する問題だ.共同体の中で異議を唱え続けるのは(ある意味不合理に見えるが)革新的な発想や方法が発展するための観点の多様性を育むという利点があるかもしれない*13

 

  • 論争の終わり方にはいくつかのパターンがある.典型的な例は,関心が失われる(片方の当事者が死去することを含む)ことによる決着,力による決着(例:ルイセンコによるメンデル主義への攻撃),コンセンサスによる決着,健全な論証による決着(例:デボン紀大論争),交渉による決着だ.事実,証拠,理論,方法論をめぐる論争は健全な論証による決着が望ましく,政治,倫理,政策をめぐる論争は交渉による決着がなされることが多い.
  • 科学論争には1か0かではなく相対的重要性を争うタイプのものがある.古典説と平衡説の論争はこれに当てはまる.このタイプの論争は二極化とその解消という変遷過程をたどることが多い.(古典説と平衡説の論争が最終的にどうなったかが詳しく解説されている.論争はヘテロ接合性の頻度が精度高く測定されるようになって収束しそうになったが,そこに木村の中立説が現れて,論争の中身が根本的に変容した)

論争のダイナミクスが淡々と記述されていてとても面白い.なお健全な論証による決着と片方の当事者が死去することによる決着はほぼ同じ(意固地な老学者がいるかどうかだけの違い)のような気もするところだ.
 

第13章 生物科学において事実と価値はどのような関係にあるのか?:社会の中の生物学

 
第13章は事実と価値がテーマ.一般的に事実と価値は異なり区別できると考えられているが,そうではないというのが著者の主張になる.
著者はこのことを示すために優生学,生体解剖,エピジェネティックスティックス,インターセックスの例を挙げ,優生学はよい人生とは何か,理想的な人々や市民はどのような特質を持つべきかについての前提を映し出すし,その実践である政策方式も地域や時代の価値観を反映していること,動物実験のやり方が時代とともに政策的に規制されてきたこと,エピジェネティックス研究が進展した一因には遺伝的決定論が差別を正当化するのではないかというイデオロギー的懸念もあったこと,医学の実践のあり方はジェンダーをめぐる価値観と性自認には生物学的基盤があるという思い込みから規定され続けていることを指摘する.
そしてよい科学とは何かという認識,実際の科学の実践のやり方が時代によって変遷してきたこと(ここでは再現性危機の問題も論じられている)に触れ,「よい科学」の実践は正確さ,進歩,健康,公正さなどの実質的価値と透明性,再現可能性などの手続き的価値と結びついていると論じる.
 
この章の内容はイデオロギー臭がつよく,いろいろ違和感がある.結局著者の主張は科学の実践は価値観に左右されることがある(そしてそれは科学が社会の中の営みである以上当たり前だ)といっているだけであり,事実と価値が分離できないことを示していることにはならないのではないだろうか*14
 

第14章 創造論の時代の哲学者:生物学の哲学に携わった50年で学んだこと,生物学者に伝えたいこと

 
本書はデイヴィッド・ハルと並んで生物学の哲学の大御所であるマイケル・ルースによるいわば自叙伝であり,内容は圧倒的に面白い.

  • キリスト教は当初から聖書をメタファーとアレゴリーにより字義を離れて解釈してきた.カトリックはその伝統を守っているし,宗教改革者たちも(カトリックより直解主義的ではあるが)さまざまな象徴としての解釈を行っている.しかしアメリカのファンダメンタリストたちは例外になる.彼等は20世紀の初めに進化論を教えたとして教師のスコープスを訴え(裁判には負けたが)アメリカの公教育に大きな萎縮効果を与えることに成功した.1950年代にスプートニクショックでアメリカの理科教育は進化論を取り入れたが,ファンダメンタリストたちは巻き返しを図ってさまざまな活動を行うようになった.そして緊張は1980年ごろに頂点に達した.

 

  • 片方で戦後の英米圏の科学哲学は物理学の分析に基づくものが主流で,ラッセルやホワイトヘッドの数学の形式化の影響を受け,科学とは仮説演繹的な体系であるとされていた.このような状況の中1960年代に私とハルは進化生物学に目を向けた.そして10年にわたりこの分野で働き,進化論者にとっての集団遺伝学の重要性を指摘し,現代生物学は問題の規模ゆえに物理科学系より緩いことはあるものの理論と実践において物理学と同じような思考をすると結論づけた.1973年に生物学の哲学の入門書を書き上げ,1985年には分野の専門誌を立ち上げた.
  • 私の知的発展において重要だったのはクーンの「科学革命の構造」だ.私はクーン主義者だったことはないし,今も違うが,科学に備わる文化的側面やメタファーの重要性,そして科学史の重要性の指摘に大きな影響を受けた.私は1973年ごろ生物学の哲学から生物科学史に転向した.
  • 私は哲学では論理経験主義者だが,科学史においては構成主義(社会的要素や文化的要素も重要だと考える)をとる.そして1979年には「ダーウィン革命」を書き,ダーウィンの理論形成に外部の要素がどう影響したのかを記述した.そこではダーウィンの理論とキリスト教は単なる正反対の関係ではなく,もっと複雑な関係にありそうだと主張した.

 

  • 1981年にファンダメンタリストたちはアーカンソー州で「公立学校では進化教育とともに創造論を教えなければならない」という法律を成立させることに成功した.アメリカ自由人権協会はすぐさま反撃を開始し,法律の違憲性を主張して訴訟を起こした.そこでは専門家証人として神学者のギルギー,遺伝学者のアヤラ,古生物学者のグールドが呼ばれた.そして創造論者たちが創造論は反証可能か,パラダイムかという論点とポパーやクーンの名を持ちだしたので,哲学者の私も呼ばれることになった.
  • 私の証言はこの訴訟の核心となった.私は科学の本質的特徴をあげ,創造論はそれに当てはまらないと断言した.法律は違憲とされた.
  • その結果,創造論者は法律を作る戦術から個別の教育委員会に圧力をかける戦術にシフトし,よりライトなインテリジェントデザイン論を標榜するようになった.そして一部の哲学者たちは私の証言に怒り狂った*15.片方で私は創造論を批判するだけでは不十分だと気づいた.私は熱心なダーウィニストとしての世界観の表明を行うことに決め,ダーウィニズムは(それ自体の価値により自然淘汰を受けてきた)特定の規則や命法により形作られた人間精神をもたらしたと論じた(その一部が「暴露論法」として知られる一種の道徳非実在論になる).

 

  • ある意味創造論をめぐる話はいったん終わりだが,私はダーウィン以後のリベラルなキリスト教はどうすべきかを考えるようになった.道徳非実在論と神は調和するのか,アダムとイブ,原罪とキリストの贖罪に何の意味があるのだろうか.私は何年も考えた.私は出自が論理経験主義者だったので安易な解決(グループ淘汰よりの見方,全体論など)を受け入れなかった.
  • 私は「ダーウィニストはキリスト教徒たりうるか」(2001)を書き,最善の科学と最善の宗教は調和可能だと示そうとした.そのすぐ後にドーキンスたちは新無神論を表明し,私に対し(貶める意味を込めて)「妥協派:accommodationist」というレッテルを貼った.しかし私はこの名に誇りを持っている.
  • 重要な論点は生物学的進歩という概念にあった.ダーウィニズムは最終的な人間の出現を保証しなさそうであり,キリスト教徒にはそこが重大な問題になる.著書の中では神が人間の出現を望んだのであればそれは出来ただろうとこの問題を取り繕った.そして批判者は(正しくも)これはインテリジェントデザイン論への接近だと指摘した.
  • 進化による進歩を説明しようとする議論にはドーキンスの軍拡競争を重視する立場などいくつか*16あるが,いずれも(人間の出現を必然と認めさせるには)うまくいかないと思う.私は現在,ためらいを持ちつつもマルチバースを持ち出す議論に傾いている.

 

  • 前掲書を書いたあと私は思想史に向かった.そこで私は「目的論」「目的因」に取り組んだ.目的因は(自然淘汰によってもたらされ,適応にとって鍵となる概念であり)生物学には本質的だが,物理学ではご法度になる.当初私はなぜなのかうまく説明できなかったが,時が経つにつれ,目的論にプラトン以降の長い歴史があることがわかってきた.議論は錯綜していたがそのゴルディアスの結び目を断ち切ったのがダーウィンになる.ダーウィンは目的因を残したが,自然淘汰によりデザイナーを不要にした.デザインはメタファーなのだ.
  • 私は「生物学と物理学は異なる営みであり,(論理経験主義の大望である)物理学への演繹は失敗する.それは深い意味で生物学が目的論的だからだ」という哲学的な答えを得た.論理経験主義という保守的な哲学への信念は歴史についての私の見解に直面して崩れ去ったのだ.また私は自分が徹底した構成主義者でもないことにも気づいた.科学がすべて文化的に作られるわけではなく,そこには普遍的なものがあるのだ.

 

  • 私は自分の中の論理経験主義と構成主義が分けられないことに気づき,科学における価値の問題をより考えるようになった.論理経験主義が正しいなら成熟した科学から価値は追放される.構成主義が正しいなら科学は価値にまみれていることになる.
  • 私は「進化は生物学的進歩をもたらす(そして人類を生み出す)」という(19世紀の文化的価値にまみれた)主張をケーススタディにすることにした.論理構成主義が正しいなら(自然淘汰のメカニズムは無方向性であることから)科学は進歩を必然的に排除するだろう.構成主義が正しいなら進歩が排除されたとしてもそれは別の文化的価値によってそうなったということになる.私は文献をあさり,進化学者にインタビューをして調べた.その結果彼等はいまだに生物学的進歩を信じているが,それは優れた科学者像と対立するので,その信念を専門の科学と切り離しているということがわかった.科学の内側に(科学者仲間で共有されている「優れた科学者的な振る舞いをすべし」という)価値があるのだ.
  • 進歩という概念は宗教に関する議論にしばしば現れる.それはしばしばキリスト教への深い帰依に対抗するために用いられる.ドーキンスは自分は宗教を信じていないと主張するが,その考えの根底には実に進歩主義的な進化論的ヒューマニズムが潜んでいる.
  • そして私は創造論者たちがなぜあれほど進化論に敵意を向けるのか*17を考え始めた.そしてそれは「進歩」と「摂理」の対立の問題のように思えてきた.「摂理」なら神が全てをなすのであり,私たちは信仰していればいい,しかし「進歩」なら私たち自身で世界をどうにかしていかなくてはならない.多くのキリスト教徒にとってはダーウィニズムが対抗(世俗)宗教として推し進められている(そしてそれがフェミニズム,中絶,LGBTなどを推し進めているように見える)ので我慢できないのだろう.宗教としてのダーウィニズムにおいては進歩への信仰によって信念が強化されることになる.

 

  • 創造論者とのやり取りは個人的に知的に重要だった.私はクウェーカーとして育てられたが,キリスト教徒ではない.「摂理」も拒否する.仏教などのほかの宗教にも懐疑の目を向けている.また私は世俗的ヒューマニスト(つまり宗教としてのダーウィニズム信者)でもない.しかし宗教にもよい点があることはわかる.
  • 私は「ダーウィン的実存主義者」を自任している.大切なのは人生において自身に与えられた機会と才能を活用することだ.

 
大御所の回顧であり,いろいろと面白い.(自身はキリスト教徒でもないのに)ダーウィン以後のリベラルなキリスト教徒がどうすべきかを真剣に考察したのいうのはクウェーカー教徒として育てられたアメリカ人という背景があるからなのだろう.個人的には必然的な進歩を信じていなくともダーウィニズムを信じるには何の問題もないような気もするところだ. 
 

第15章 生物学者に科学哲学を教えるにはどうすればよいか?

 
最終第15章では,生物学を専攻する学生に科学哲学を講義する時にはどういうことに気をつけた方がよいかについての実践的なガイドになっている(ここだけ想定読者がどちらかといえば哲学者になっているのが面白い).以下の点について注意した方がよいということが豊富な具体例を挙げながら主張されている.

  • 哲学的な話題について事細かに掘り下げない.重要な点に焦点を絞る.
  • 概念の定義は単純で理解しや吸うものを用いる
  • 歴史の話をする時も時系列順にしない方がよい(彼等は哲学史には全く興味がない)
  • 哲学的な話題は,文脈から離れた単純な例からはじめる.そしてその後文脈に置かれた数多くの例を使って詳しく提示する
  • 普通の生物学の講義でも科学哲学の話題を議論しよう

 
以上が本書の内容になる.難解な哲学的なもの,ややイデオロギー臭のするものも含まれていて,読みにくい部分もあるが,基礎的な解説や面白いトピックを扱ったものも多く充実している.個人的にはマイケル・ルースの自叙伝がボーナス的に付随しているのが気に入った一冊になる.
 
 
関連書籍
 
原書
 

 
マイケル・ルースの本
 
マイケル・ルースの本はあまり訳されていないが,訳されたものとしてはこれがある.今この14章を読んでみてこの本にあるテーマがより深く分かるようになった気がする.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20080429/1209457599
 
同原書 
生物学の哲学の教科書 
ダーウィン革命 
ダーウィニストはキリスト教徒たりうるか 

*1:なぜ信念や正当化が要件として必要なのかについて,知識とは当てに出来る情報のことだからだと説明がある

*2:ここでは遺伝子についての「遺伝的プログラム」「自律的な能動主体」としてのメタファーによる悪影響が指摘されているが,いかにもこじつけめいた説明であり,あまり納得感はない

*3:ミルは自然淘汰は創造主のいない創造説に過ぎないのではないかと疑問を持ち,ハーシェルはダーウィンの自然淘汰の議論は仮説の演繹から独立した観察に基づいていないと否定的であり,ヒューエルは種の転成が自己矛盾であると考えた

*4:定向進化論,平均への回帰を使った自然淘汰否定論,個体発生と系統発生の反復説など

*5:例えばドーキンスは「遺伝子中心主義的解釈の説明能力によれば唯物論と無神論は必然の結果だ」と主張しているとされるが,そんなことはないと思う.彼の新無神論の「無神論的」主張の中心は,「確かに神の非存在を証明することは出来ないが,確率論的に議論すれば世界に神のいる確率は非常に小さい」というもので,そこに遺伝子中心主義が何かの役割を果たしているわけではない

*6:長らくアミロイドβはアルツハイマーを引き起こす原因物質とされてきたが,それではアミロイドβがあるだけでは発症しないことを説明できなかった.モイアとタンジはここでアミロイドβは本来脳の機能的免疫システムとして有益に作用する物質ではないか(システムが加齢により制御を失うことにより発症する)という大胆な仮説を考えた.大御所たちからは批判を受けるが,彼等はそこから出発してそれを粘り強く実証していった.

*7:このケースは突然の着想→議論→直感→議論→実験検証→論文となる

*8:分類の基礎に先入観的仮説があるかどうかについての論争があった

*9:目に見えない対象を論じることはベーコン主義とは相いれない

*10:ここでヒューエルとミルによる機能主義の議論,演繹への展開の嚆矢としてゴールトンがパンジェネシス仮説についての検証実験を行ったことが解説されている

*11:通常は「すべての白鳥は白い」と訳されるところだが,日本語だとオーストラリアの黒鳥はそもそも白鳥ではないといわれかねないことを考慮した苦心の訳だと思われる

*12:ここでその分野の共同体に含まれていない研究者からの異論は無視されやすいという問題も取り上げられている

*13:ここで著者はグールドのスパンドレル論文を「適応主義以外の説明を追求する人々もいてしかるべきだ」という主張して意味があったと評価している.イデオロギー的な動機に基づく彼の主張の藁人形論法性については吟味がなく,ややグールドに甘すぎるというのが私の印象だ

*14:確かに優生学や保全生態学は価値と結びついた学問なのかもしれないが,その中でも事実と価値は分離できる(「人々がどのような特徴を持つのが望ましいか」「生物多様性は望ましい」というのは価値で「こうすればその(望ましいとされる)状態に近づく」というのが事実になる)と考えるのが普通であり,著者の議論ではそこは否定できないだろう.

*15:著名な哲学者たちはルースの科学の境界設定に怒り,創造科学が悪い科学であると主張すべきだと批判した.ルースは悪い科学を教えることは違憲ではなく,宗教を教えるのが違憲なのだと反論したそうだ

*16:コンウェイ=モリスのニッチに向かって進むという議論,マクシーとブランドンの複雑になれば意識が生まれるのは当然の帰結だという議論などが紹介されている

*17:単に聖書に反するというなら,天文学(地動説)や化学(カナの奇跡では水がワインに変化したことになっている)も同じだがそれらはあれほど敵意を向けられない