War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その10

 
イブン・ハルドゥーンの考察をまとめたあと,ターチンはアラブ民族によるイスラム帝国の興隆を扱う.  
  

第4章 砂漠のアサビーヤ:イブン・ハルドゥーンによる歴史の鍵の発見 その3

 

  • ハルドゥーンの理論から導かれる洞察は,紀元1千年紀のローマ帝国の砂漠地帯の辺境の歴史を理解するのに役立つ.
  • 1世紀から6世紀まで,中東の地政学的な配置は安定していた.地中海の西岸はローマ帝国およびビザンチンの領域で,ユーフラテス川流域は3世紀までパルチアそしてその後はササン朝ペルシアの領域だった.
  • この2つの強国の間にはアラビア半島の南に延びる楔状のステップ・砂漠地帯があった.この北部はシリア砂漠と呼ばれたがアラビア砂漠とのはっきりした境界はなかった.
  • ここに住む人々はアラブと呼ばれ,ラクダを飼いならした遊牧民であり,またラクダに乗り砂漠を越える隊商を組む商人たちだった.彼等の砂漠を超える能力は当時の革新的な技術であり,ローマとペルシアの間の通商に携わった.そして彼等は肥沃な三日月地帯にパルミラ,エデッサ,ヒーラなどの都市をまさにハルドゥーン的に建立した.
  • アラブは言語と文化を共有したが,ムハンマド以前に政治的に統一されたことはなかった.彼等は部族に分かれ,部族間でいつ果てることもなく争い合っていた.部族内のアサビーヤは高かったが,それが統一を阻害した.そのままだったら彼等は決して統一されなかっただろう.そして部族間抗争は実際にイスラム帝国成立後も繰り返された.

 

  • しかしながら1世紀から6世紀までベドウィンが孤立していたわけではない.彼等は常にローマ〜ビザンチンとパルチア〜ペルシアの辺境の軍事的圧力を受け続けていた.ここに3世紀に南にエチオピアが興り,アラブ人は3方を強国に囲まれるようになった.
  • この帝国の圧力はゲルマンに対してライン川辺境が与えたのと同じ効果をアラブに与えた.例えばビザンチンは外交と助成により彼等に同盟を促し,それがガッサーン朝につながった.ガッサーン朝は砂漠の略奪からビザンチンを守り,ビザンチンの対ペルシア戦争には補助騎兵部隊を供出した.しかしこれはアラブに団結の政治的技術を与えることになった.似たようなことはペルシア辺境でも生じた.
  • もう1つの影響は奢侈品交易の需要だった.文明社会は南アラビアの乳香と没薬を欲し,ラクダ隊商の交易は大きな利益を生むようになった.

 

  • さらにこの地政学的な配置で重要だったことは,周りの帝国が異なる一神教宗教(キリスト教とゾロアスター教)を持っていたことだ.シリアの多くのアラブはネストリウス派のキリスト教に改宗し,一部はユダヤ教を信じたが,ムハンマド以前のほとんどのアラブ部族は多神教部族カルトの世界にとどまっていた.
  • この多神教アラブ部族においては部族の軍事リーダーと宗教リーダーは分かれていた.ガッサーン朝では軍事リーダーの家系がトップに立ち,クライシュ族では宗教的指導者がトップに立っていた.しかし真に強力な統合をなすには全ての権力を握る必要がある.(ゲルマンでは軍事リーダーが宗教のお墨付きをもらう形で2つの権力が統合されたが)イスラムでは宗教リーダーが軍事権力を握る形で権力の統合が生じた.

 
歴史叙述は楽しい.パルミラはアラブの隊商による富により建設された都市として有名で,その絶頂期は2〜3世紀頃とされる.この都市がハルドゥーン的に「内乱により弱り砂漠の民に侵略を受ける」があったという話はあまり聞かないので,ちょっと違和感もある.通常はローマ帝国内に位置して隊商交易により莫大な富を蓄え,3世紀に帝国の弱体化に乗じて独立したが,帝国の皇帝アウレリアヌスの侵攻を受けて陥落し,没落したという話がよくでるところだ.またこの都市の壮麗な遺跡が近年のシリアの内戦で破壊されたことも報じられているところだ,
エデッサはセレウコス朝期に建設されたヘレニズムの(つまりギリシアの影響の強い)都市で,その後オスロエネ王国の首都となったとされる.この王国がアラブによるものだということらしい.その後王国はアルメニアの属国となり,さらにローマ帝国に服属し,3世紀には完全に併合されローマの属州となる.
ヒーラはアラブのラフム朝により建設された都市で,ペルシアの属国となり,ビザンチンとペルシアの争いにおいて,ガッサーン朝と代理戦争を行ったこともあるようだ.その後ペルシアに併合されることになる.
このあといよいよイスラム勃興に話になる.