14世紀末のフランスの第2の転落.貴族層の過剰人口問題は解決せず,前回の転落の悲惨さを知らない若い層が台頭し,彼らは二派に分かれて争う.そしてそこに英国が介入した.アジャンクールの戦いはまさにクレシーの戦いの再現となり,フランスは大敗した.ここに至ってもブルゴーニュ派とアルマニャック派は抗争をやめず,英国軍は進撃を続け,オルレアンを包囲する.そこが15世紀フランスのどん底地点になる.
ターチンはここでフランスの第二の崩壊過程を整理する.
第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その6
- 前章ではなぜフランスの人口が14世紀後半に増えなかったのかを扱った.大飢饉と黒死病により人口のマルサス圧が緩和された後,人口増加が生じるはずだった.しかし実際にはそうならなかった.次の百年間,人口は一時的な増加ののちまた減少した.15世紀半ば時点でフランスの人口は1300年ごろのピークの約半分だった.人口が継続的に増加するようになるのは1450年以降だ.
- この歴史家を長期間悩ませてきた「後期中世期の長い人口停滞」を説明するには,厳密なマルサス理論から離れなければならない.14世紀初めにフランス社会に影響を与えはじめたエリートの人口過剰は,1400年になっても解消されなかった.その直接の結果は1350年代と1410年代に生じた内乱だ.内部抗争は人口過剰,外国の侵入,法と秩序の崩壊によって悪化した.1350〜1440年はルーティエとエコルシェールの黄金時代だったのだ.
ターチンの説明は,本来マルサス過程では人口回復に向かうはずだったフランスは,貴族層の人口過剰が解消されていないために生じた内乱によって荒廃し,人口回復が遅れたというものになる.
- この政治的社会的混乱の最も明白な結果は死亡率の上昇だ.農民たちは軍,傭兵団,ならず者たち,犯罪集団に殺されし,口げんかが殺人に至ることも多かった.軍や傭兵団や山賊たちは疫病をばらまきながら移動し,それも死亡率を高めた.中世後期は皆のすぐそばに死に神がいたのだ.これは15世紀に死についての奇妙なカルトに結びつき,死の舞踏(La Danse Macabre)と呼ばれる美術様式が生まれた.
「死の舞踏」様式の絵画とは例えばこんな感じらしい.
- 混乱は出生率にも影響を与えた.女性の結婚は遅くなり,少ししか子を生まなくなった.望まれない子は捨てられたり殺されたりした.人口は流出によっても減少した.農民は厳しい領主の領土や戦争地域から逃げ出した.これらにより人口は減少した.
- さらに重要なことは.内乱が社会の生産力をそいだことだ.継続的な農業生産には最小限の社会の安定が必要だ.しかし百年戦争時のフランスにはそれがなかった.例えばノルマンディでは戦争が繰り返され,農地は荒れ果てた.(その様子を描いた同時代の資料が引用されている)
- 戦争や盗賊たちは,単に直接の死をもたらすだけでなく,いわば「恐怖の風景」を埋め込むのだ.要塞で守られた場所だけが生産に使われ,それ以外の農地は放棄された.
- パリはもう1つの戦闘頻発地域だった.その近郊住民は1/4に減少した.そこはフランダースやノルマンディに近く英国軍がたびたび侵入し,さらに首都であったためにアルマニャック派とブルゴーニュ派の戦闘がしばしば行われた.
- フランスには減少した人口の食料を賄える素晴らしい農地があったが,平和的に耕作できる土地は不足していたのだ.農民は村を捨てて要塞の近くの町に移り住んだ.アルザスには死んだ村がつながったベルト地帯が形成された.
- 絶えることのない戦争はインフラも破壊した.ラングル地方では排水システムが破壊され,洪水に見舞われ,荒廃した.歴史家ル・ロワ・ラデュリは10百万エーカーの土地が1350〜1440年の間に放棄されたと見積もっている.
- この結果フランスでは15世紀前半に飢饉が慢性化した.パリとルーアンでは1421年,14632年,1433年,そして特に1437〜39年に食糧危機が発生した.本質的な問題は人口過剰ではなく,安全の不足だった.これは15世紀に実質賃金がどのように変動したかを見ることでわかる.14世紀の人口減少は労働者にとっての賃金上昇につながった.15世紀00年代のパリでは建設労働者は1日の賃金で穀物25キロを購入できた.しかし1420〜30年代の戦争の時代には10キロしか買えなくなった.これはパリに平和が戻るとすぐに元に戻り,1440〜1500年には25キロ購入することができるようになった.15世紀後半は一般の人々にとっての黄金時代となった.
なかなか細かいデータが掲載されていて迫力がある.戦争による中世ヨーロッパの荒廃としては後の三十年戦争の時のドイツの惨状が有名だが,百年戦争時のフランスの荒廃もかなりのものだ.