「進化心理学を学びたいあなたへ」 その14

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ


第5章 文化と知性を進化から考える その1

 

5.1 文化の進化抜きにはヒトの進化は語れない ピーター・リチャーソン

 
リチャーソンはロバート・ボイドとともに文化進化についての分析フレームを提示していることで有名な生態学者だ.進化心理学者とは言い難いし,そのナイーブなグループ淘汰擁護論やヒトの利他性をグループ淘汰と文化との共進化で説明しようとする議論には首をひねらざるを得ないところがある.ここでは文化進化研究の第一人者として寄稿を依頼したということだろう.寄稿の中身も文化進化についてのものになっている.

  • 文化については「個体の行動に影響を与えうる情報のうち,教育や模倣,あるいはその他の社会的伝達を通じて同種個体から獲得されるもの」という操作的定義を用いる.この定義によると動物にも広く文化が見られる.
  • ヒトは最もうまく社会的学習を行う動物種だ.連続的な革新を積み重ねて農業をはじめとする複雑な文化的適応を築き上げた.
  • 文化人類学者はヒトの文化に多様性を見つけた.認知心理学者たちはこのような多様性の多くが比較的表面的なもので,生得的な認知メカニズムに還元でき,文化的な説明は不要だと主張した.チョムスキーの言語の「原理とパラメータ」に関する議論,トゥービィとコスミデスによるユニバーサルな認知法則の議論もそういう枠組みで捉えることができる.
  • しかしここ20年で多くの証拠から文化的多様性は確かに重要だと認識されるようになった.多くの言語学者(エヴァンズとレビンソンが引かれている)は生得的原理とパラメータだけで言語多様性を説明できないと考えるようになった.チョムスキー自身もミニマリストアプローチにより生得的な統語構造の影響は最小限だと主張を変えた.
  • 人間行動の集団間差異のかなりの部分は遺伝ではなく文化に由来すると考えられる.加えて興味深い遺伝的多様性の発見が相次いでいる.これは遺伝子の文化の共進化の産物だと思われる.

 

  • 多くの進化心理学の仮説は,淘汰と認知能力と社会的適応が直接つながっていることを仮定している.これに対して文化進化的な説明は通常集団レベルの文化の性質に基づくものになる.模倣や教育という心理的プロセスが継承システムであり,単純な前駆体から文化的多様性を作り上げるのだ.ドゥアンヌは間違いなく文化進化産物である読字能力は脳の物体認識システムを利用したものであることを示し,ケアリーは子どもたちが文化の足場を利用して独自に複雑な概念を獲得することを示している.
  • 文化進化にはいくつかのプロセス(文化的変異,文化的浮動,意思決定の力,伝達バイアス,自然淘汰)があり,集団レベルで働く.これらのプロセスが協調してもたらす最終的な結果が文化の変化になる.この中で自然淘汰の効きは遅く,意思決定の力の方がより重要だ.
  • なぜヒトでのみ累積的文化進化が生じたのか.この問題は複雑な文化に必要な巨大な脳がそのコストの大きさにもかかわらずなぜ進化できたのかという問題とつながる.それは新生代最後の数十万年の間に生じた気候変動の大きさが意思決定能力に有利に働いたからだろう.
  • いくつかの証拠が数千年前の農業の開始に伴って多くのヒトの遺伝子進化が始まったことを示している.文化進化の進み方の速さを考えると,文化進化は遺伝子進化を先導したのではないかと考えられる.遺伝子と文化の共進化仮説は複雑な言語,宗教,社会システムの進化の道筋を説明する傑出したアイデアだ.
  • EOウィルソンやランスデンは「遺伝子の文化の共進化プロセスにおいては文化は遺伝子の鎖でつながれている」と主張しているが,文化が遺伝子を先導しているならこの主張は自明とは言えない.
  • 集団レベルでの文化の性質を考慮せずにヒトの進化を理解しようとすることは重力を考慮せずに惑星の動きを理解しようとするようなものだ.

 
 
(筋悪のグループ淘汰擁護がなかったのは幸いだが)恐れた通りかなり強引な主張が入り交じった寄稿になっているというのが第一印象だ.トゥービィとコスミデスの主張は,文化的多様性の基礎にユニバーサルな心があるというもので,多様性が重要ではないとか表面的だとか主張しているわけではないだろう.行動の集団間差異は確かに文化間に存在するが,それは生得的な条件付き行動戦略パターンに対して,デフォルト戦略のパラメータが文化ごとに異なるとしてかなり説明できるように思う.
議論の中では特にヒトの累積的文化について脳の大きさのみを問題にし,その要因を気候変動に求めるのはかなりずれているのではないだろうか.新生代の気候変動の時代に生息していたほかの動物に巨大な脳が進化しなかったことを全然説明できないだろう.
農業以降の文化との共進化は,(乳糖耐性など)食べ物と消化系作用の間には確かにあるだろうが,それ以外は主に(寒冷適応,高地適応などの)単なる地域的環境適応,地域的流行があった感染症耐性が見つかっているだけで,ここのリチャーソンの主張も強すぎるように感じられる.

とはいえ,これで彼等の文化進化分析の枠組みの概要は知ることができる.最初のとっかかりとしては意味のあるものだろう.


リチャーソンとボイドの本


文化進化についての一般向けの解説書

Not By Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution

Not By Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution


より専門的に書かれた本

Culture and the Evolutionary Process

Culture and the Evolutionary Process


彼等の分析フレームを日本語で読める本としてはこれがある.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160614/1465901048

文化進化論:ダーウィン進化論は文化を説明できるか

文化進化論:ダーウィン進化論は文化を説明できるか


同原書

Cultural Evolution: How Darwinian Theory Can Explain Human Culture and Synthesize the Social Sciences

Cultural Evolution: How Darwinian Theory Can Explain Human Culture and Synthesize the Social Sciences

 
 

5.2 制度という環境の中でヒトは生きる 山岸俊男

 
次の寄稿は今年の5月に逝去された日本の社会心理学者山岸俊男だ.比較文化研究と社会における信頼をテーマに研究を続け,信頼,不公平現象,内集団びいきなどについて多くの業績を上げている.本章冒頭の紹介文では好意と敵意が異なるドメインにあることの発見,囚人ジレンマや最後通牒ゲームの選択に見られる文化差はその社会が社会的相互作用において採用しているデフォルト戦略の差が効いていることを明らかにしたこと,同じ集団主義とされる日本と中国の文化差が所属集団を基本にするか人的ネットワークを基本にするかの差であることの解明などが主要業績として紹介されている.

  • 進化も文化も適応という観点から理解できる.
  • 私は個人の心理と社会構造との間のミクロ・マクロの動的関係に関心を持つ社会学的社会心理学者としてスタートした.この関心は現在においても私が研究を進める原動力になっているし,私を進化心理学に引きあわせたと言える.
  • ヒトが周囲の世界を知覚し,解釈し,相互作用する方法には奇妙な生得的特性が見られる.それは大半が社会的環境への適応として選択されてきたものだ.
  • 私は文化心理学にも興味を持った.進化心理学はヒトの心理はEEAによって形成されたと考える.同様に文化心理学はヒトの心理はECA(現在適応環境)によって形成され続けていると主張する.これは1種のニッチ構築とも考えることができる.
  • ヒトは様々なニッチ構築を行っているが,適応として最も重要な環境は社会的ニッチだ.私はこれを「制度」と呼んでいる.制度はヒトが作り上げたものだが,同時にヒトの行動を抑制したり促進したりする.制度は制約や誘因の安定的な集合体なのだ.文化心理アプローチではヒトの文化特異的な心理や行動を社会的ニッチへの適応として分析する.
  • 現在の社会的ニッチつまりECAへの適応は社会的に賢い行動(生存や繁殖という適応度を高める行動)として表れる.制度アプローチの核は何がある行動を社会的に賢いものにするのか(適応価を上げるのか)を分析することだ.そして適応価はその行動に対する他者の行動に左右される.
  • 私は文化心理学に,進化心理学で用いられているリバース・エンジニアリングの手法を導入した.それはまず,素朴な観察者にはその適応価が明らかでないようなヒトの行動や認知的傾向の特定から始まる.
  • ここで,例として私自身の一般的信頼の日米比較の研究を紹介しよう.アンケート調査によると,一般的に集団主義的だと思われている日本人の方が,見知らぬ人を信頼せず,協力もしないことが明らかになった.これをリバース・エンジニアリングの点から一般的信頼の高低がどのような社会的環境で適応的になるのかを明らかにしようとした.その結論は集団主義的なECAは強固な個人的つながりの範囲を超えて信頼が発達し拡張するのを妨げるというものだった.
  • 集団主義社会においては,社会秩序の維持は強固な個人的つながりによる相互監視と相互統制によってなされるのだ.私はこのような社会を「安心社会」と名づけた.このような社会ではただ乗り発覚のリスクが高く他者が裏切らないことを確信できるために,他者の信頼性を評価しようという誘因がなくなり,その結果一般的信頼が不要になる.そして社会的相互作用を強固なネットワークの中だけで行うようになり,外側の他者に対しては安心を失い協力できなくなる.
  • こうした集団主義的社会を構築し維持する根本的な原動力は,公正で効果的な法体系の欠如だ.法体系がないと社会は緊密な人間関係の中で互いに監視制裁するシステムによって構築され維持される.このようなECAは(公正で効果的な法体系のあるECAよりも)EEAに似ているだろう.これは集団主義的な文化の特徴としてこれまで考えられてきた行動傾向や心理が,普遍的なヒトの適応を反映していることを意味している.私は自分の評判に敏感であることが集団主義的文化に特有な心理的機能の核であると考えている.
  • 現在(日本を含む)東アジアの社会の集団主義的性質は,法体系を基礎にする社会に急速に転換しようとしている.このような社会の変化はそれぞれの社会で異なる形で推移している.私の現在の興味は東アジアの異なる社会間での変化の違いが心理的機能にどう影響するのかを明らかにすることにある.例えば中国の「グアンシイ」と日本の集団志向的心理にはいくつかの重要な違い(例えば中国の方が,「自分は信頼できる」というシグナルをより積極的に発信する)があることが明らかになっている.
  • もう1つの私の興味は,EEAに起源を持つ心理がどのようにしてECAの形成やそれに伴う現代社会での知覚,認知,行動上の奇妙な特性の形成に寄与しているのかを明らかにすることだ.


山岸のアプローチの姿勢が明確に説明され,有名な安心社会と信頼社会の知見についてもコンパクトで見事な解説がある.また集団主義社会の方が,EEAに似ているだろうという指摘は面白い.
将来的なテーマとして挙げられているものも興味深いものだ.同じ公正で効果的な法がない世界でも,日本のような集団主義的な社会になるのとアメリカ南部のように自力救済的な社会になることの差はどこから来るのだろうか.


山岸の本


安心社会と信頼社会についての本

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム



同じテーマで一般向けに書き下ろされたもの

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)



長谷川眞理子との対談集 私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170115/1484477256

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」

訳書情報 「魂に息づく科学」

魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言

魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言



依然私が書評したリチャード・ドーキンスによる「Science in the Soul」が邦訳出版された.これはドーキンスがいろいろなところで寄稿したり発表した小文を集めた論考・エッセイ集であり,2003年に出された「A Devil’s Chaplain(邦題:悪魔に仕える牧師)」から久々に編まれた2冊目ということになる.
内容的には多岐にわたっており,科学とはどのような営みかに関するもの,進化理論について解説したもの,世界観や未来予測についてのもの,新無神論関係のもの,ヒトの認知の歪みと差別に関するもの,自然史についてのエッセイ,ユーモアエッセイ,追悼文がそれぞれいくつかずつ収められている.冒頭の科学についての見解や,ダーウィンの洞察の本質的な解説などは素晴らしく明晰な解説であり,読みどころだ.その他にも火を噴くような新無神論の主張,楽しいナチュラルヒストリー,思いっきり英国式のユーモアエッセイなどドーキンスファンには堪えられないものが多い.


なお邦題「魂に息づく科学」は原題の味わいを残していてとても素晴らしいと思う.ただし副題は「ドーキンスの反ポピュリズム宣言」となっていて,これはブレクジット国民投票とトランプの大統領当選にショックを受けたドーキンスが,もう一度科学的啓蒙主義の重要性を主張したいと本書を出すことにしたという趣旨の序文を書いているので,それを受けてのものだろうと思われるが,実はそういう内容は冒頭の3つの寄稿に限られていて,本全体の副題にするにはややミスリーディングな気もしないではない.なお原書の副題は「Selected Writings of a Passionate Rationalist」となっている.


原書

Science in the Soul: Selected Writings of a Passionate Rationalist (English Edition)

Science in the Soul: Selected Writings of a Passionate Rationalist (English Edition)


原書の私による書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170908/1504863547



2003年のエッセイ集

A Devil's Chaplain: Selected Writings (English Edition)

A Devil's Chaplain: Selected Writings (English Edition)



同邦訳

悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その13

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ


4.7 ビジネスとマネジメントに進化心理学を導入する ナイジェル・ニコルソン

ナイジェル・ニコルソンは,ウェールズで心理学を学び,シェフィールド大で社会応用心理学を教えたあと,ロンドン・ビジネススクールに移り組織行動学の教授となっている.ビジネスにおける協力,リーダーシップ,組織変革,リスクマネジメントなどがリサーチエリアで,そこに進化的な視点を取り入れているということになる.

  • 1995年以降,進化心理学のアイデアをビジネスの世界に紹介することが私の使命になっている.
  • この試みは賛否両論の反応を巻き起こした.組織行動学と産業・組織心理学の大部分にはSSSMが依然として君臨し続けていたのだ.特に社会構成主義学派は進化的な見方を素朴な生物学的決定論として誤解して激しく抵抗してきた,しかしこの15年で進化的視点も大分受け入れられるようになり,新たな学問的統合が起こりつつある.
  • 1998年にビジネス誌(Harvard Bisuness Review)向けの記事を出すと,一部の実業家から強い反発を受けた.彼等は自分たちは事業遂行についての無限の自由と裁量を持っていると感じており,ヒトの本性や生得的バイアスなどの不都合な真実に邪魔されたくなかったのだ.しかし同時に多くのポジティブな影響も与えられた.あるコンサルタント会社はこれを飯の種にして繁盛したし,ある会社(Australian Flight Centre)は進化心理学の知見にあわせて組織を再編成*1した.
  • これにより私の仕事はよく知られるようになり,学会で進化心理をテーマにしたシンポジウムも開かれるようになったが,なお組織行動学の主流にはなれず,少数派に止まっている.


<家族企業>

  • 2000年頃,血縁関係を基盤にする家族的経営には多種多様な葛藤や問題が生じるが,同時に強みもあるはずだと考え,文化や気風,リーダーシップ,企業内対立についてリサーチを始めた.そして以下のことがわかった.
  • 家族企業は世界のあらゆるところで存続している.これは血縁関係と企業が自然で相性のよい組合せだからだ.家族はその献身と活力を中心に柔軟で実利的な会社を作ることができる.
  • 家族企業は強力な企業内文化を創ることにより,しばしばそうでない会社をしのぐ業績を上げる.これによる強みは家族性が企業内に浸透することにより,家族の一員だという感覚が家族以外の社員にも共有されることによって作られる.
  • そのような家族意識を浸透させる際にはリーダーが重要な役割を果たす.特に重要なのは家族とそれ以外のメンバーを差別し身内びいきに陥るリスクを回避することだ.
  • 血縁関連の対立は家族企業特有の問題であり,予測し,抑制する必要がある.家族は外部からの役員と対立しがちだ.父と息子の対立,兄弟間の対立はしばしば生じる.姻戚間の対立も無視できない.


<進化心理学をビジネスリーダーたちに紹介する>

  • ビジネス界に進化心理学を紹介すると,年齢の上下や役職の高低によって異なる反応が見られた.若い人や役職の低い人は,自分は何でもできると信じたがり,反発しがちだ.年を重ねた上級職の人は状況の制約,ヒトの本性,自分自身のバイアスにより自覚的だ.
  • 近年の不況(リーマンショック後の不況を指すと思われる)は進化心理学の浸透を後押しした.ヒトの本性(特にアニマルスピリット)が市場や経済を動かし,従来の理論では予測も制御も困難だという認識が広がったためだ.
  • 企業幹部と一緒に行う研究では次の3つのテーマを扱ってきた.
    • リーダーシップの共進化:共通目的のためにグループの行動を指揮・調整する権利を1人(または少数)の主体に付与するというのは,ヒトが特に好む方法だ.その基礎は順位制にある.多種多様なリーダーシップのあり方は二重継承理論に基づく文化進化の枠組みで理解できる.(狩猟採集時代以来のリーダーシップの歴史,リーダーに女性が少ないことの理由*2が概説されている)
    • 個人差,自己制御と適応:これまでのリーダーシップの研究は個人差研究に終始してきたが結論は出ていない.それは(文化との共進化産物であるため)オールラウンドなリーダーなど存在しないからだ.リーダーの失敗は主に(1)柔軟性の失敗(自己制御の失敗,自己欺瞞に起因する文脈への適応の失敗)(2)十分なインパクトを生み出せないことにある.自己制御理論はこのような過程の分析をするための枠組みを提供してくれる.
    • ヒトの本性とグローバルな課題:現在世界は気候変動,エネルギーをはじめとするリソース枯渇問題,戦争やテロという問題を抱えている.進化的分析からは多くの社会病理や脅威は「世界的な共有地の悲劇」問題に起因するものであると考えられる.歴史はヒトの創意工夫がほとんど無限であることを示している.マット・リドレーは「繁栄」の中でこれに基づく楽観論を唱えている.この見方には説得力があるが,進化心理的に考えるとヒトの自己制御に関する最も危険な特徴は「自己欺瞞」の能力であり,これの克服こそが我々の最大の課題なのだ.


ビジネス世界では最近行動経済学の人気が高く(ビジネス書もたくさん出ている),進化心理学はなおマイナーな認知に止まっているだろう.しかしビジネスもヒトが行う試みであり,当然進化心理的な知見が有用な状況があるだろう.家族企業についてはまさにそういう場面なのだろう(もっとも個別の知見は長年の経験的な智恵として知られていたものが大半なのだろうが).そしてビジネスはやってきたことの是非が利益や財務諸表を通じてすぐにフィードバックされる世界(そしてイデオロギーや権威が役に立たない世界)であり,一旦有用性が周知されると一気に浸透する可能性を秘めている.今後面白いエリアだと思う.


ニコルソンの本


Harvard Bisuness Reviewへの寄稿が元になった一般向けの本

Executive Instinct: Managing the Human Animal in the Information Age

Executive Instinct: Managing the Human Animal in the Information Age


家族企業を扱ったもの

Family Wars: Stories and Insights from Famous Family Business Feuds

Family Wars: Stories and Insights from Famous Family Business Feuds


最新刊.リーダーシップを扱っている.

The

The "I" of Leadership: Strategies for Seeing, Being and Doing

 
 

コラム4 なぜヒトのシグナルを研究しているか 大坪庸介

日本人研究者のコラム第4弾は大坪によるもの.北大の社会心理出身で,学部時代にロバート・フランクの「Passion within Reasons」を読んで惹かれたが当時はどう自分の研究に活かせばいいかわからなかったこと,博士号をとった2000年頃から進化的視点を取り入れたいと考え心の理論や意図性推論の研究に着手したこと,しかしなぜ心の理論が進化したかの説明に納得がいかなかったこと*3,そこでザハヴィのハンディキャップ理論に触れてヒトのシグナルの研究に進んだこと,そこで謝罪するヒトが伝える誠意こそ心の理論を使って推論する対象ではないかと気づいたことなどの自分の研究歴が語られている.また今後は神経学的基盤などの至近メカニズムもあわせて研究したいという抱負も語られている.


大坪の本


社会心理学を見開き左ページに英語,右ページに日本語で解説するという異色の本.世界を目指す研究者を養成するなら,教育は英語で行うべきだという信念から生まれた本だ.

英語で学ぶ社会心理学 有斐閣ブックス

英語で学ぶ社会心理学 有斐閣ブックス


進化的視点を取り入れた社会心理学の教科書.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130503

進化と感情から解き明かす 社会心理学 (有斐閣アルマ)

進化と感情から解き明かす 社会心理学 (有斐閣アルマ)

  • 作者: 北村英哉,大坪庸介
  • 出版社/メーカー: 有斐閣
  • 発売日: 2012/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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最初に触れられているフランクの本の邦訳.共訳者として参加している.

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

*1:会社を,家族,村,部族として再編成し,部族の人数はダンバー数以内に抑えたそうだ.

*2:男性優位の順位制に基づいた組織デザインによりトーナメント方式の出世競争がビルトインされており,それが女性にとって魅力のないものになっているという説明になっている.なお現在のビジネス界のトレンドはよりフラットな組織であり,これは女性にとってより好ましい方向だとコメントされている

*3:相手を出し抜くために推論レベルを上げるというのが当時の説明だが,ゲーム理論的には一段下げてもいいはずで,納得できなかったそうだ

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その12

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

 
 

4.5 医者の不養生:産業組織心理学者がルールを守らないわけ スティーヴン・コラレッリ

コラレッリは最も早く進化的視点を産業組織心理学に応用しようとした研究者の1人で,研究テーマは,現代的な人材管理技術への進化心理学の応用,組織変革における進化的ダイナミズムの理解などになる.ここでは産業組織心理学者の視点から進化心理学への旅を語っている.

  • 1980年代私はコンサルタントとして働いていた.その時代ほとんどの組織は私が大学院で学んでいた最先端の人材管理手法を利用していなかった.伝統的な採用面接,推薦状,ニーズ分析なしの研修という手法が好まれていた.数年後大学の教職についてみると,産業組織心理学の同僚自身も,新しい教職員を雇うときに同じく伝統的な手法を好んでいることを発見した.講義では面接は構造化すべきで,推薦状は当てにならないと教えていたが,大学自身は推薦状を要求し,面接は構造化されていなかった.認知能力テストが能力の予測因子としてベストであり,他の予測因子と統合して単一の予測指標を作るべきだと教えてきたが,大学自身は判定にあたって場当たり的に対応していた.
  • 私はここに根本的な何かがあるはずだという問題意識を持った.この問題に対するスタンダードな説明は経営者の教育が足りないというものだったが,それがもう何十年も続いているのだ.経営者たちはほとんどの領域で新しい革新的な手法を取り入れるのに躊躇していない.私は,伝統的手法に私たちが気づいていない利点があるのだろうか,あるいは提唱している洗練されている手法に私たちの気づいていない非実用性があるのだろうか,と考えるようになった.
  • こうした考えをまとめるきっかけになったのはドナルド・キャンベルの伝統的な社会的慣行の機能知と有効性についての論文だった.人材資源の管理方法も,効果のないものが淘汰されてきた文化進化の産物であるという視点で考え始めた.
  • 組織におけるトレーニング量は,実用性と離職率のトレードオフで決まっていくだろう.(採用人数が少なくその後顔をつきあわせて働く)上級職の雇用には面接が,選考の効率が重要になると標準的な試験が使われるようだ.つまり人事慣行もその組織にとっての効用とヒトの心理メカニズムとの適合性について歴史の審判をくぐり抜けてきた文化進化産物なのだ.
  • 進化心理学をより深く学ぶにつれて,私の興味は進化産物である心理メカニズムが組織内での行動に及ぼす影響についての研究にシフトした.
  • 具体的にはセクシャルハラスメント,アファーマティブアクション,組織における集団行動の性差,移民の企業家精神,組織の人事選好における標準テストの採用/不採用について進化心理学的研究を行ってきた.現在は現代的環境とのミスマッチが組織デザインに与える含意について研究している.
  • 現在進化心理学的な視点を持つ組織心理学者や経営学者は依然として少数派ながら増えてきている.志を共有する研究者たちは国境を越えた緩やかなネットワークを作って共同研究を実施している.
  • しかしここまでの道は逆境の中の悪戦苦闘だった.未だに産業組織心理学や経営学と進化心理学の融合の歩みは遅い.その要因は,これらの分野の研究者には進化のバックグラウンドが薄いこと,そして応用実践を重んじる傾向があることだ.彼等はもっと学際的な視点に柔軟になり,クルト・レヴィンの「優れた理論ほど実践的なものはない」という言葉を思い出すべきだ.
  • このような状況の中,私のような教員は大学院生の指導に当たってある種の道徳的ジレンマに直面する.院生には進化的なアプローチを用いた研究をして欲しいが,そうすると就職に苦労するのではないかと心配なのだ.だから2方面戦略をとっている.まず産業組織心理学を専攻する院生には進化的視点を紹介するにとどめ,後は様子を見る.興味がある院生にはこの視点の受容が進んでいない現実も正直に話す.そしてもう片方で同じ大学の実験心理学研究室と交流を持ち進化心理学を学んでいる院生と共同研究ができる環境を作ることだ.
  • 私は今世紀のうちに進化心理学的視点が組織心理学や経営学の理論的基盤になると信じている.転機は年配の研究者が若い研究者と入れ替わるときだろう.


21世紀の日本でもほとんどの組織は人材管理にあたって面接中心の採用,ニーズ分析なしの研修といった伝統的手法を好んでいるようだ.本当にそれが文化進化の産物なのか,そして効果的な手法なのか(ほかの方法と比較した効果測定ができているのか)については疑問なしとしないが,人材管理担当者の心理メカニズムとはいかにも関連がありそうで,進化心理学的には面白い現象であることは間違いないだろう.


コラレッリの本

これは2003年の著作.ハードカバーしかないが,面白そうなのでamazon.comの船便で注文した記憶がある.
採用面接や推薦状については組織における個人の利益や複雑性から利点もあると説明している.
実務的な部分では,採用については少人数の採用であれば面接と紹介状による伝統的方法,中規模の採用(企業の一部門など,これからともに働く人が直接採用を担当する場合)なら伝統的な方法に進化的な新奇環境の観点からの修正(インタビューと採用決定者を分ける,紹介者にもフィーを払うなど)を加える方法,大人数の採用(大学入試や大企業の一括採用)については一定条件まで機械的方法で選んだのちくじ引きが良いのではとしている.訓練,研修については内容と文脈の重視(会話やゲームの存在)単一能力をあまり重視しないこと,進化的に新奇な技術についてはドリルの重要性などを説いている.あまり類書のない貴重な本だと思う.

No Best Way: An Evolutionary Perspective on Human Resource Management

No Best Way: An Evolutionary Perspective on Human Resource Management

 
 

4.6 仕事と性差 キングスレー・ブラウン

キングスレー・ブラウンは人類学を学んだあと法学に進み法学博士号をとり,裁判所や法律事務所で労働法専門の法曹として働いた後に大学の法学教授となった.最も早くから進化心理学の視点から性差の問題に取り組み,この問題を労働法に関する理論研究に応用した1人である.

  • 法科大学院時代,そして弁護士時代に非常に驚いたことがあった.それは訴訟でも社会風潮でも「男女は根本的に同じであり,行動に見られる性差は性差別的な社会化や差別そのものに起因する」という思い込みが広がっていたことだ.これは個人的な観察事実とは食い違っており,こじつけに思えた.そして性差と法をテーマにして研究を進め,進化心理学の理論を取り入れて論文を公刊してきた.
  • SSSMの支持者はヒトの本性を否定し,生得的な性差についてはさらに強硬に否定し,観察される性差は性差別的な社会化によって生じると主張する.一方現代の心理学は性差の包括的な記述を行っており,進化心理学はそれに理論的な説明を与えている.(簡単に概説がある)
  • SSSMの観点は,社会科学だけでなく公共政策の分野でも長らく支配的だった.企業幹部の男女比率や給与の性差はすべて差別によるものだと考えるのだ.進化心理学的な立場からは,差別に起因するものがあることを否定はしないが,生得的な性差が職業選択や昇進機会に対して男女で異なる選択をするように動機づけられていることにも注目する.つまり性差別を完全になくしてもなお幹部数や給与の男女差が残るだろうと予測する.


<ガラスの天井>

  • 企業幹部に占める女性の割合が低いことについて,しばしばそれは性差別に起因するとされるが,実際にはかなりの部分は性差によって説明できる.企業幹部になるには競争的で,野心(権力)のために仕事に身を捧げ,リスクをとることが有利になる.女性にとって最高権力者になることはそれほど魅力的ではなく,(転勤や仕事への献身により)家族や社会的つながりが断たれることを好まない.子どもへの投資についても男性は収入を上げることで貢献しようとするが,女性はより直接的な世話を選好するのだ.


<報酬におけるジェンダーギャップ>

  • アメリカにおける男性に対する女性の年収比率は0.78だ.これも性差別に起因すると説明される.しかしここにも上記心理的性差が大きく反映している.アメリカの賃金格差の大部分は婚姻関係や家族の状態とかかわっている.独身女性は独身男性とほぼ同じ年収を得ているが,結婚すると男性の60%となる.報酬に影響する妥当な影響*1を統制すると男女の賃金格差の大部分は消失する.


<職業分離>

  • アメリカでは性差別を禁じる法制度が半世紀以上施行されているが,なお男女は異なる仕事に従事し続けている.細かく見ると,かつて大半が男性であった仕事について女性が大きく進出している仕事(医師,弁護士など)とそうでない仕事(電気技師など)がある.これはSSSMでは説明できない.これは職業選好の性差から容易に理解することができる.(人への興味とモノへの興味,数学などの推論,空間把握,リスク選好の性差と職業選好の関係が説明されている)


<戦闘での女性>

  • いかなる時代においても戦争における戦闘要員となるのは男性の責任だと通文化的に見做されてきた.それは単に責任であるだけでなく,男らしさの象徴であったり,戦闘に参加して初めて一人前だと認められるということが様々な文化で見られた.しかしこうした歴史にもかかわらず,多くの現代国家では男性と戦争の関連を断ち切ろうという政策に舵を切っている.
  • カナダやノルウェーでは女性の戦闘参加の制限がすべて撤廃されたが,女性の地上部隊志願者はごくわずかにとまっている.アメリカやイギリスでも多くの戦闘関連職務を女性に開放しているが,攻撃的な地上戦への参加は禁止し続けている.
  • 地上戦部隊に女性を採用する政策は事実に反する仮定に基づいている.それは「過去女性が戦闘から排除されてきた理由は身体能力の問題だけであり,現代戦では知力だけが問題になるから女性排除の理由はなくなった」というものだ.
  • しかし身体的能力以外は男女は同じだという前提は誤っている.また現代戦では身体能力は問題にならないというのも間違いだ.
  • 戦闘任務では民間の職場以上に男女の心理的性差の影響が大きく出る.相手を殺す意思を含む攻撃性,進んでリスクをとる傾向,恐怖耐性は当然影響するし,女性により見られる思いやりや共感も戦闘意思(相手を殺すこと)への抑制要因になる.
  • さらにこれらの個人的な問題を克服した有能な女性兵士がいたとしても,彼女が部隊に属すること自体が問題を引き起こしうる.それはチーム内に性的な競争や嫉妬を生みチームの凝集性を阻害しかねないし,女性を守ろうとする男性隊員の心理が戦闘任務の障害になり得るのだ.(チームの凝集性の心理的なメカニズムについて詳しく解説されている)

 
 

  • 進化心理学は公共政策にかかわる多くの問題の分析する上で重要な道具になる.またある種の公共政策の成功の見込みに関しても洞察を与える.ヒトの本性は政策立案者にとって根本的に重要であり,それを無視することは大きな危険をもたらしうるのだ.


ブラウンは法学者なので,ここではかなり微妙な「政治的正しさ」問題についても大胆に踏み込んでいて,気迫を感じさせる.なお日本だと,(先日東京医科大入試問題が発覚したように)そもそもの剥き出しの性差別がまだ残存しており,なお「統制すると格差の大部分が消失する」ような状況には達していないのかもしれない.
 
 
ブラウンの本


ガラスの天井,および報酬格差についての本.

Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work (Darwinism Today series)

Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work (Darwinism Today series)

邦訳

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

  • 作者: キングズレー・ブラウン,竹内久美子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/02/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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同じ題材をより深く論じた本のようだ.

Biology at Work: Rethinking Sexual Equality (The Rutgers Series in Human Evolution)

Biology at Work: Rethinking Sexual Equality (The Rutgers Series in Human Evolution)


軍における女性地上戦闘員を認める政策がいかに軍を弱くするものであるかを切々と訴える本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20091116/1258322102

Co-ed Combat: The New Evidence That Women Shouldn't Fight the Nation's Wars

Co-ed Combat: The New Evidence That Women Shouldn't Fight the Nation's Wars


ガラスの天井や報酬格差に関する議論については以下の本も参考になる.


ハーバード総長ローレンス・サマーズの発言に端を発した.科学技術分野における女性進出についてエビデンスベースでの双方の議論を収録した本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20140313/1394710018

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争

  • 作者: スティーブン・J.セシ,ウェンディ・M.ウィリアムス,Stephen J. Ceci,Wendy M. Williams,大隅典子
  • 出版社/メーカー: 西村書店
  • 発売日: 2013/06/08
  • メディア: 単行本
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原書

Why Aren't More Women in Science?: Top Researchers Debate the Evidence

Why Aren't More Women in Science?: Top Researchers Debate the Evidence


女性側のライフスタイル選好,プライオリティの面から議論している本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20090713/1247493384

なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス

なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス

 

*1:何が妥当な影響とされるものかについてここには記載がない.このため結婚したらなぜ60%になるのかについて,妥当な(心理的)要因と妥当でない(差別的な)要因を分けて統制しているのかどうか明らかではないが,おそらく最も重要な論点だろう

書評 「遺伝子」

遺伝子―親密なる人類史(上) (早川書房)

遺伝子―親密なる人類史(上) (早川書房)

遺伝子―親密なる人類史(下) (早川書房)

遺伝子―親密なる人類史(下) (早川書房)



本書は前作の「病の皇帝『がん』に挑む:人類4000年の苦闘」(文庫化されて「がん:4000年の歴史」に改題されたようだ.なお原題は「The Emperor of All Maladies: A Biography of Cancer」)でピューリツァー賞を受賞したインド系アメリカ人医師で研究者のシッダールタ・ムカジーによる遺伝学説と倫理問題を扱った大著だ.カール・ジンマーの遺伝にかかる啓蒙書を読んだところなので,話題になっているこちらも読んでみることにしたものだ.原題は「The Gene: An Intimate History」.(なおこの副題について邦書では「親密なる人類史」とされているが,本書内で1つのテーマになっているムカジー自身の家系の遺伝のことも含めた副題だと思われる.うまく訳すのは難しいが,「遺伝子:ある親しき歴史」ぐらいの方がよかったのではないだろうか)


プロローグはムカジー自身の家系に現れる精神疾患の話から始まる.ムカジーの父方の叔父2人といとこの1人は統合失調症や双極性障害を煩っていたのだ.ムカジーの父母は叔父たちの問題はインドとパキスタンの分離という大変動がもたらしたものだと考えていたが,それを知らないはずのいとこにも発症するに及んで,それは遺伝性の問題である可能性が一家の中にのしかかる.ムカジー自身は医師であり,がんの研究者だが,がんもまた遺伝と深く関係がある.そして本書が書かれることになったのだ.

第1部 遺伝という未だ存在しない科学:遺伝子の発見と再発見(1865~1935)

 

メンデルの法則*1

本書は基本的に遺伝学説史が大きな縦軸になって進む構成を取っている.話は当然ながらメンデルから始まる.メンデルはブルーノ大学で神学,歴史,自然科学の講義を受け,ブルーノの主任司祭として赴任するが,司祭の仕事は向いてなく,高校教師になるためにウィーン大学に入り直す.


ここでムカジーは古代ギリシアの遺伝の考え方を紹介している.ピタゴラスは遺伝情報は男性の精子のみにより伝えられると唱えた.アリストテレスはもしそうなら女性がなぜ生まれるのか説明できないはずだと考え,胎児は男性と女性が提供する物質相互の貢献により形作られると唱えた.これらの考えはいろいろ間違ってはいるが,遺伝が情報の伝達であるという本質を見抜いていたとも言える.中世にはこの情報はホムンクルスにより伝えられるという考え方(前成説)が主流になった.
ここでムカジーはダーウィンに話題を移す.若いときからの略歴,ビーグル号航海記,自然淘汰説へ至る道,ウォレスの書簡とリンネ学会での発表と「種の起源」の執筆と有名な話が続く.そしてムカジーはダーウィンが提唱した遺伝理論「パンジェネシス説」をここで紹介しようとしている.しかしムカジーはダーウィンの遺伝についての考えを融合遺伝説と誤解していて,ここの解説はよろしくない.ダーウィンのパンジェネシス説の最大のポイントは遺伝が離散的なものであることと,まれに獲得形質が遺伝することがあること(いくつかの事実をダーウィンが誤って解釈したもの)を同時に説明しようとしたものであり,ダーウィンは融合遺伝を否定していたのだ.この部分は本書で唯一残念な記述だ.


ここから話はメンデルに戻る.ウィーン大学で学んだがやはり教員試験に落ちてしまったメンデルは1853年にブルーノに戻り修道院でエンドウマメの交配実験を始める.実験は8年間におよび,遺伝が対になる離散的な要素で決まることを解明したメンデルは1865年に論文を発表する.しかしこの論文は当時の学界から完全に無視された.メンデルは有名な植物学者であったネーゲリに助言を求める.ネーゲリからヤナギタンポポで追試をするように言われ,追試を試みるが(あとからわかったことだがこの植物は無性生殖種であったため)失敗し,1873年に研究から手を引く.*2


続いてはメンデルの法則再発見の経緯になる.1880年以降ヴァイスマンは獲得形質の遺伝が生じないことを実証し,ド・フリースは遺伝形質の離散性に気づく.そして1900年にド・フリースは1900年にメンデルの古い論文に出合う.同じ年にコレンスとチェルマク=ザイゼネックもメンデルの論文を再発見し,メンデルの仕事は世に出ることになった.ベイトソンは離散的遺伝と変異体の研究について遺伝学(Genetics)という用語を創設する.

優生学

ここからムカジーは優生学の歴史を語り出す.優生学(eugenetics)という言葉を作ったのはフランシス・ゴールトンになる.ゴールトンはダーウィンの進化学説に感銘を受け,遺伝の謎を探求したいと考える.そして今でいう量的遺伝の問題を扱った法則を提示し,遺伝単位が離散的であるとするベイトソンと論争になる.ゴールトンは理論よりも応用に興味を持ち,遺伝の法則を人類の改良に役立てないかと考える.彼の主張は当時「人種の退化」をひどく恐れていた英国のエリートの琴線にふれた.ゴールトンの死後1912年に開かれた第1回国際優生学会議では,英国だけではなくドイツやアメリカの参加者も国家的優生学プロジェクトに向けて積極的だった.
ここで1920年代のアメリカの優生学プロジェクトの実態についてムカジーはキャリー・バックという少女を襲った運命とともに詳しく解説している.

第2部 部分の総和の中には部分しかない:遺伝のメカニズムを解説する(1930~1970)

 

染色体

冒頭で自分の家系に流れる遺伝の影についての逸話を置き,そこから遺伝の離散的な性質についての探求学説史が語られる.トマス・ハント・モーガンは遺伝の性質よりも,それを伝える物質そのものを知りたいと考え,ショウジョウバエの研究を始め,数十種類の突然変異体を見つける.そしてメンデルが見つけていなかった連鎖の振る舞いが明らかになり,遺伝子は染色体に乗っていることが強く示唆された.モーガンの弟子であるスターバントは連鎖を利用して染色体地図を作成する.(ここでムカジーは遺伝子が染色体の上に乗っていることがよくわかる例として,性染色体の上にある血友病遺伝子とロマノフ王朝の話をおいている)

遺伝と進化

遺伝学は少しずつ成長し,進化との関連が解明されていく.まずロナルド・フィッシャーは数学的な取り扱いを駆使して,離散的な遺伝子により連続した表現型が生じることを説明した*3.そしてドブジャンスキーは野生集団に自然淘汰のもとになる遺伝的な多様性が豊富に見られることを見いだし,遺伝型と環境と偶然の相互作用により表現型が定まることを示し,交雑を不可能にする何らかの要因が生じると種の分岐が生じうると指摘した.
ドブジャンスキーはこのような遺伝と進化の関係の理解から初期の優生学への粘り強い批判者となった.彼の主張は「遺伝的多様性は普通に見られ,それは当該生物種にとって通常利益をもたらすこと」「突然変異も多様性の1つに過ぎないこと」「個体の身体や精神の特徴と遺伝との関係は予想以上に複雑であること」に基づいていた.

遺伝子の実体

遺伝子の化学的実体は何か.この謎の解明への最初の糸口は1920年代のグリフィスによる細菌における「形質転換」(水平方向の遺伝子の移動により形質が移転すること)の発見になる.これにより遺伝子の実体は何らかの物質であることが明らかになった.ハーマン・マラーはショウジョウバエを放射線に晒すことによって突然変異を誘発できることを見つけた.遺伝子は外からの操作によって変化しうる物質なのだ.
ここでムカジーはマラーの優生学との関わり(初期には好意を持っていたが,アメリカの優生学の実情を知り,批判的になる),私生活の破綻や政治傾向に話題を移す.マラーは1930年代にアメリカに嫌気を指してドイツに渡り,ナチスの台頭を目撃することになり,ソ連に渡る.ムカジーはナチスの優生学がどんどん先鋭的にそして大規模になっていく様子,そしてルイセンコが政治的権力を手にして学問をイデオロギーによって破壊していく様子を詳しく迫力を持って描写している.
ムカジーはナチスが生みだした大量のがらくたの中に2つの遺伝学への貢献があったと指摘している.1つは現在の行動遺伝学に続く双生児研究の理論,もう1つは多くの優秀なドイツ人研究者をアメリカに集め,遺伝学への興味をもたせたことだ*4


1940年代には,遺伝物質の候補は核内のクロマチンにあるタンパク質と核酸に絞られていた.当初核酸は単純な構成要素が延々と結合されている退屈で野暮ったい物質だと考えられており,タンパク質の方が有望だと考えられていた.しかし1944年,エイブリーがタンパク質を除いても形質転換が生じることを見いだし,本命は核酸だということが明らかになった.
ここからムカジーはワトソンとクリックによるDNAの二重らせんの発見の物語を詳しく語っている.ウィルキンズによる結晶学とX線解析による構造への探求,ロザリンド・フランクリンとウィルキンズの反目,才気あふれるワトソンとクリックの出合い,フランクリンの質のいい写真とワトソンとクリックによる模型作りの橋渡し(それはフランクリンに無断でウィルキンズが2人に写真を見せたことによる),二重らせんへの啓示,1953年の論文発表と物語は続く.大変有名な逸話だが,その化学的な意味をきちんと解説しながらコンパクトにまとまっている.明らかになったのは遺伝の本質はDNAの二重らせんに組み込まれた情報だということだった.それは1種のコード(暗号)なのだ.


ではコードはどのように形質に影響を与えるのか.1930年代から40年代にかけてビードルとテータムはアカパンカビを用いて体内での代謝機能の鍵がタンパク質である酵素にあることを見つけた.そしてそれは1つの遺伝単位が1つのタンパク質を作るための暗号をになっているのではないかという推測に結びつく.ではそれはどのようにコードされているのか.二重らせんの発見後の解明物語にはワトソン,クリック,ライナス・ポーリング,ジョージ・ガモフ,ジャック・モノー,フランソワ・ジャコブ,シドニー・ブレナーたちが登場し,3つ組みの塩基配列が暗号であり,それが転写され,タンパク質に翻訳されるという解答(後にそれはセントラルドグマと呼ばれるようになる)に向かって迫っていく様子が詳しく語られている.次はその調節の謎だ.これはジャコブとモノーのラクトース・オペロンによる調整スイッチの解明物語として語られる.さらに二重らせんの複製自体もタンパク質のスイッチにより調整されていることが明らかになる.これらはおおむね1950年代になされた仕事になる.

発生

次の問題は遺伝子はどうやって生物の体を作るのかになる.胚が発生するには,マスタースイッチの遺伝子が特定の場所で作動し始める必要がある.様々な取り組みの末にそれは胚にある化学的な濃度勾配が鍵になっていることがわかる.ムカジーはここで線虫C. elegansを用いた細胞地図のリサーチを紹介している.それにより遺伝子は細胞死もプログラムしていることがわかり,さらに近くの細胞間での相互作用によっても発生が影響を受けることがわかった.このような発生は非常に複雑な過程により進むという理解は大体1970年代までに得られることになる.


ムカジーはこの第2部の最後で,これらの知見を私たちはどう使おうとするのかと問いかけ,また叔父の狂気の逸話を1つ挟み込んでいる.

第3部 遺伝学者の夢:遺伝子の解読とクローニング(1970~2001)

第3部は人類による遺伝への介入がテーマになる.まずその技術の解明史が語られる.

遺伝子編集

ウィルスによる宿主細胞への遺伝子の挿入現象,ゲノムの切り貼りを行う酵素の発見,組換えDNA実験の成功,大腸菌プラスミドへの挿入,抗生物質耐性をマークにした遺伝子組換え株の選別増殖法が最初の流れ(1968~1973)になる.
片方で塩基配列の読み出し技術が進む.1971年にサンガーはDNAポリメラーゼ複製反応を利用した解読法の開発に乗り出す.これを用いた最初のウィルスの全塩基配列の決定がなされたのは1977年になる.ここから解読が次々に進み,動物の遺伝子はエクソンとイントロンに分かれた複雑な構造であることがわかる.続いて逆転写酵素の発見,これを利用した発現遺伝子カタログの作成とクローニング技術が開発される(1970~1984).ワトソンは遺伝子操作の夢を見始め,多くの遺伝子ハンターが遺伝子の解読作業に没頭するようになる.

バイオハザードリスク

ここからムカジーはこのような遺伝子編集技術の持つ問題を語り出す.当初の遺伝子技術への不安はバイオハザードへの懸念が主なものだった.
まず1973年のスタンフォードで開かれた会議(アロシマI)では,バイオハザードの危険性の指摘がなされ,勧告こそ出なかったもののその流れは「否定」だった.さらに同年開かれたマサチューセッツの会合でいくつかの「危険な」DNA組換え実験についてモラトリアムが提唱された.さらに1975年にアロシマIIが開かれ,これには研究者だけでなく弁護士や記者や作家も招待された.当初モラトリアムについての意見は分かれたが,弁護士たちがぞっとするような法的リスクの話をするに及んで雰囲気は一変し,バイオハザードリスクをランク付けしてそれぞれの封じ込め対策を推奨する提案が採択された.ムカジーはこの採択の様々な側面について,当時の参加者へのインタビューも交えていろいろ語り,しかしこの採択にはまだクローニングの倫理面の問題は提起されていないことに注意を促している.

バイオテック

1974年,コーエンとボイヤーはカエルの遺伝子を大腸菌に組み込む技術(これにより安価にインシュリンを作ることが可能になるので経済的なインパクトが大きいものになる)を確立し,特許を出願する.科学者たちは激怒するが,これは投資家の興味を惹き,遺伝子組換えはバイオベンチャービジネスの世界に組み込まれるようになる.ムカジーはここでこの技術を用いたインシュリン製造ビジネスの成り行きを詳しく語っている.紆余曲折の末,コーエンとボイヤーも関わったジェネンティック社は1978年にインシュリンの製造方法特許を獲得する.また当時ちょうど勃発したエイズにより,血友病患者にとって天然の凝固因子より遺伝子技術を使った人工凝固因子の方がはるかに安全であることがわかり,アロシマIIで示されていた恐怖は逆転する.

第4部 人間の正しい研究題目は人間である:人類遺伝学(1970~2005)

第4部の冒頭はまた家族の物語.ムカジーの父は2014年にロッキングチェアーから転倒して病院に運ばれ,正常圧水頭症と診断される.それも遺伝性である可能性の強い疾病だった.ただし1個の遺伝子によるものではなく多数の遺伝子と環境の影響を受けるものだ.ムカジーはそこから遺伝子はいかにしてほかの遺伝子や環境と相互作用するのか,そして(いかにも医師らしく)正常と異常を分けるものは何かと問いかける.

遺伝性疾患

様々な知見を得て遺伝学は人間についての探求を開始する.最初は1遺伝子が1つの疾病を引き起こすものについてだ.ムカジーはその代表例としてフェニルケトン尿症を取り上げて詳しく語っている.遺伝性疾患にはこのほかに染色体異常によるもの(ダウン症など),さらに複数の遺伝子が相互作用して働く多因子遺伝性疾患がある.
ムカジーはこの多因子遺伝性疾患の特徴を整理し,重要な知見として「変異とは絶対的な概念でなく,統計的な概念である」ことを強調している.ここはムカジーが常日頃から強く感じていることらしく,変異体に対する世間の誤解を解くべく,ミュータントヒーローであるスパイダーマンまで登場させて熱く語っている.

新優生学

1966年段階で羊水穿刺と遺伝子検査,そして妊娠中絶により,望まない遺伝型の子どもをスクリーニングすることは技術的に可能になっていた.アメリカでは1970年に連邦最高裁のロー対ウェイド判決で法的にも可能になる.
これは見方によっては新しい優生学の取り組みにもなり,遺伝子検査の科学的な標準化と自由意思による新優生学として擁護者を獲得する.さらにスクリーニングだけでなく,精子バンクを利用した積極的選択も可能になった.
片方で新優生学に懐疑的,批判的な人々も現れる.ムカジーは多因子遺伝性疾患の複雑性を強調し,批判者に同調的なコメントを行っている.

遺伝子地図とヒトゲノムプロジェクト

1978年ボットスタインとデイヴィスはDNA多型を利用して遺伝子のゲノム上の位置を正確に特定する手法(ポジショナルクローニング)を考えつく.そこからムカジーはウェクスラーによる10年以上に及ぶハンチントン病の遺伝子特定物語,さらに別のチームによる嚢胞性線維症の遺伝子特定物語を詳しく語っている.
遺伝子特定の利点が明らかになり,ヒトゲノムの全体を解読しようという機運が生じる.ムカジーは専門家らしく,がんについてのその利点を詳しく解説している.がんは遺伝と進化と環境と偶然がすべて組み合わさって生じる.それを解明するにはまず正常なゲノムを知ることは重要なのだ.同じような多因性の問題には統合失調症もある.また当時には犯罪のプロファイリングへの応用期待(これについては批判的な紹介になっている)もあった.
マリスによるPCR法の発見はヒトゲノム解読が可能であるという見通しを高めた.1986年にワトソンが開いた「ホモ・サピエンスの分子生物学」会議はその印象を世間に与え,ギルバートはその費用を30億ドルと推定し,ヒトゲノムプロジェクトは動き始める.ムカジーはここからワトソン率いるNIHプロジェクトとクレイグ・ベンダーによる激しい解読競争,ワトソンの退場とコリンズへのバトンタッチ,クリントン大統領の介入と土壇場での手打ち,2000年の解読完了共同発表への経緯を詳しく語り,最後に読まれたヒトゲノムについての詳しい解説を置いている.

第5部 鏡の国:アイデンティティと「正常」の遺伝学(2001~2015)

ヒトゲノムプロジェクト以前の遺伝学は「異常」な形質の遺伝を追っていた.ヒトゲノムの解読はこれを逆転させた.そして人類遺伝学は個別のテーマに焦点を当てたものになった.ここからムカジーは現在の状況について(これまでの編年体をやめて)テーマごとに記述するスタイルを採っている.

人類の起源

遺伝子を読むことにより,多元発生説とアフリカ単一起源説の争いは決着がついた.ムカジーはルイ・アガシとダーウィンまでさかのぼり,アラン・ウィルソンの分岐年代推定とミトコンドリア・イブ,カヴァリ=スフォルツァとフェルドマンの分析をふくめた学説史を追い,さらに人類の出アフリカについて語り,最近の分析により人種について何が言えるのかを扱っている.人種についてはマレーとハーンスタインの「ベル・カーブ」が引き起こした論争をどちらかといえばスティーヴン・グールドに近い視点から丁寧に追っている.最終的なムカジーの主張は以下のようなものだ.

  • 議論になったg因子のような概念は確かに遺伝性を持つが,その厄介な点はIQテストが知能だけではなく,テストへの適性や自尊心やエゴや不安をも測定しているところだ,テストの構成を変えると簡単にグループ間のスコアの差異は変化する.
  • ヒトゲノムに基づいて人々をひとまとめにすることもできるし,無数に分類することもできる.
  • それは選択の問題で,例えば特定の遺伝的疾患の原因を調べるためにゲノムを分類するのは理にかなっているだろう.マラソンが遺伝的スポーツになりつつあるのにも理由があるだろう.
  • しかし測定する特性や形質の幅を広げるほどその形質に単一の遺伝子が関与する可能性は低くなる.
  • ある特徴の定義を狭めるか広げるかは実際にはアイデンティティの問題だ.文化的,社会的,政治的な意味で自分たちが人間をどう定義し,分類し,理解しているかの問題なのだ.


ここは人種と知能の議論に集中していてちょっと物足りない.遺伝子系統樹や系統地理学の話題も取り上げて欲しかったところだ.

アイデンティティと遺伝

ムカジーはここで一卵性双生児である母と叔母の人生を紹介している.彼女たちは(嫁ぎ先の違いにより)全く異なる環境におかれ,その人生は大きく分かれた.外観は随分異なる2人になったが,物事へのアプローチや気質は驚くほどそっくりのままだそうだ.これをムカジーは人格の一次導関数(そしてアイデンティティ)と表現し,アイデンティティと遺伝について語り始める.


遺伝子はアイデンティティを決めるのだろうか.ムカジーはまずジェンダーから話を始める.ヒトの性染色体が発見されたのは20世紀初頭だった,そして性決定のメカニズムが探索され,遺伝的にもっとも脆弱なY染色体にある1つの遺伝子がマスタースイッチになていることが解明される.性決定は遺伝的なのだ.ではジェンダーはどうか.当初ジェンダーは環境依存の可塑的なものだと信じられていたが,様々なジェンダーの修正試行の失敗事例が積み重なり,これも極めて強い遺伝的な影響の元にあることが明らかになった.性決定のマスタースイッチがあり,その元に遺伝子が階層的に組織化され,トランスジェンダーアイデンティティを含む連続的なジェンダー表現型が現れるのだ.ムカジーは続けてヘイマーによるゲイ遺伝子の探索プロジェクトの顛末*5も語っている.


心理的傾向,あるいは行動傾向はどうだろうか.その遺伝的な影響を調べる一番いい方法はなお双生児研究法だ.ムカジーはここでミネソタ大学の双生児研究の事例を解説し,見つかった興味深い知見をいくつか紹介している.
ではどのような行動傾向がどのような遺伝子によって決められているのか.エプスタインはビッグ5と遺伝的多型の関係を調べて,D4DR遺伝子と新奇探求的傾向の関連を見つける.


様々なアイデンティティが遺伝的な影響を受けることはわかった.では個々の個人を形作るものは何か,同一ゲノムでも異なる気質や人格が現れることがあるのはなぜか,ムカジーはこれを遺伝学の最後の1マイル問題と読んでいる.ムカジーはそれはおそらくランダムな偶然の出来事,あるいは運命なのだろうと思弁し,このようにして生じる生物の個々の多様性を「自己」と呼ぶのだとコメントしている.

エピジェネティックス

ここでムカジーはエピジェネティックスを扱っている.オランダのナチス占領下の飢餓が与えた影響の研究*6の話を振ってから解説を始める.
カエルの体細胞クローンを作成したガードンはなぜ体細胞からクローンを作るのがこんなにも難しいのかを考え始めた.それは何かエピジェネティックな印が刻まれているためではないか.メアリー・ライオンはメス体内でのX染色体のランダムな不活性化現象を見つける,これもエピジェネティックなマークがつくことによるのだろう.そして科学者たちは1970年代末にDNAのメチル化の仕組みを見いだす.これらのメチル化は同じ遺伝組成からなる細胞の「個性」を説明できる.
ではヒトの個性もそういう形で環境が遺伝子に付けたマークとして解釈できる部分があるのだろうか.この話題は記憶のエピジェネティクスとして議論されているが,まだ具体的なメカニズムは何も見つかっていない.
ここでムカジーは最初のオランダの飢餓研究の事例を飢餓体験が食糧欠乏に耐えやすくするように遺伝子のメチル化に影響を与えた可能性,それが生殖細胞にも生じた可能性を論じている.なおここでは,体験が常に適応的な方向の変化を生じると考えるべきではなく,飢餓のような進化過程で繰り返し生じたもののみこのような可能性があること*7について断り書きがあり,さらにエピジェネティックスがニセ科学の正当化に利用されやすいことについても警鐘を鳴らしている.

遺伝子の起源

ムカジーはここで遺伝暗号の起源について,まず生命の起源についてショスタクの原始海洋のスープと自己複製RNA仮説を紹介し,その後バックアップコピーの有用性からRNAからDNAに移り変わったのだろうという考え方を解説している.

第6部 ポストゲノム:運命と未来の遺伝学(2015~ )

ムカジーの遺伝子の物語,最終部は遺伝の現代テクノロジーとその倫理的な側面について.

レトロウィルスによる遺伝子挿入治療

最初はウィルスによる遺伝子組み込みの医療応用の試みだ.初期の試みは,生殖細胞へは遺伝子挿入できないこと,体細胞への遺伝子挿入もランダムにしか生じず,さらに発現が抑えられてしまうことから失敗した.
しかしES細胞の実用化からトランスジェニックマウスが実用化されると,ヒト医療への応用が期待されるようになった.しかし当初はヒトES細胞がマウスのそれに比べて扱いにくく技術的な障壁を越えられなかった.このため体細胞への遺伝子挿入がもう一度考えられることになる.いくつかの試みのあと,OTC欠損症に対する臨床実験が1999年に行われたが,ベクターに使われたアデノウィルスの安全性確認がずさんだったため結果は悲惨な失敗となり,FDAは遺伝子治療臨床実験の全般的な一時中断を命じることになる.

遺伝子診断

片方で遺伝子診断は急速な進歩を続けていた.ムカジーは非常に明確な結果が得られた例として家族性の乳ガン遺伝子の単一遺伝子BRCA1のケースを挙げている.
片方で難しいケースとして家族性の統合失調症と双極性障害のケースが取り上げられている.家族性の多因性遺伝疾患の遺伝子特定は実は非常に難しい.遺伝学者たちは様々な技術を組み合わせて統合失調症の遺伝子候補を108選び出しているが,それらの遺伝子が何をしているのかはほとんどわかっていない.おそらく特定の組合せが確率を上げるように働くのだろうし,未知の要因も隠されているのだろう.この全貌を理解するには疾患患者にどんな遺伝子があるのかではなく,ある遺伝子があると疾患になる確率がどのぐらい上がるのかを知ることが必要になる.
ここでムカジーは家族の逸話に戻る.叔父の1人は双極性障害だったが魔法のような才気の持ち主でもあり,それは躁状態と連続していた.そして狂気と才能を巡る逸話は多い.つまり精神疾患と創造的な才能を区別できないなら,疾患遺伝型と才能遺伝型の区別もできないということになる.病気は絶対的な障害ではなく,ある表現型の環境へのミスマッチと考える方が適切なのだ.
さらにムカジーはある会議で出合った稀な遺伝性神経筋疾患の女性の逸話をおいている.彼女の疾患は単独では大きな不利益があるわけではない稀な変異が重なったために生じたものだった,


ここからはムカジーの思索になる.遺伝性疾患には様々な形があり,それぞれ遺伝子診断に対する難問を生じさせる.BRCA1の変異を持つ女性は70~80%の確率で乳ガンを発症するが,それは100%ではなく,どのようなガンがいつ発症するかは確率的にしかわからない.すべての予防治療はそれぞれ身体的心理的苦痛を伴うものだ.家族性統合失調症や双極性障害は浸透性の高い複数の遺伝子の組合せで生じる.予防治療もなく,完治もできない.稀な遺伝子変異が重なったための神経筋疾患は患者をひどく消耗させる不治の病だが,目的を持って人生を前向きに生きることは可能だ.胎児の遺伝子診断と中絶を組み合わせるとこの原因遺伝子を遺伝子プールから取り除くことは可能になる.遺伝子診断を受けた人はこれからその疾患とどう対処していくかの決断を迫られる「プリバイバー」*8になるのだ.
ムカジーは問いかける.我々はどこまでゲノムから未来を読むことができるだろうか,それを利用することができるだろうか,そしてそのような状況なら運命への介入が許されるのだろうか.ムカジーは以下のように思索を続けている.

  • 解読には2つの制約がある.1つは遺伝子に書かれているのはレシピだということだ.レシピの変更が最終産物にどう影響を与えるかを推測するのは難しい.そしてもう1つは遺伝子の相互作用は極めて複雑だということだ,これも完全な解読を困難にしている.しかし限られたケースでより精度の高い予測ができるようになっていくだろう.
  • 着床前遺伝子診断を行うと堕胎することなくスクリーニングが可能になる.これは難しい倫理的問題を提示している.
  • 最近まで遺伝子診断および介入については3つの原則により導かれてきた.それは「決定的な病気の因子である単独遺伝子変異のみを対象にする」「これらの疾患によって患者が正常な人生を送ることが不可能になる場合に介入が許される」「介入の正当性は最終的には社会的医学的な総意により決める」というものだ.これらは最後は主観的に決まる要素を残し,そして実際にはこれらを越える介入が行われている.そしてナイーブな遺伝型を元にしたナイーブな社会工学的なアイデアが真面目に議論されている.
  • 私の家族のバックグラウンドを考えると,遺伝子診断は臨床的個人的な現実だ.3原則のありようは個人の未来に直結している.
  • 我々は20世紀の歴史から,遺伝的なスクリーニングの決定権を政府に与えることの危険性を知った.ではそれを個人に与えることはどうなのかが現在直面している問題なのだ.

 
 

遺伝子治療

一旦中断された遺伝子治療は復活しつつある.生殖細胞系列遺伝子治療はあと一歩で可能になりそうな情勢だ.CRIPER-Cas9の技術は正確な遺伝子編集を可能にする.あとは遺伝子改変が施されたヒトES細胞(あるいはその遺伝子の丸ごとのセット)をヒト胚に組み込む(あるいはヒト生殖細胞に変化させる)だけだ.ムカジーはこの最後の障壁は技術よりも倫理的な問題としての側面が大きいだろうとコメントしている.2015年には科学者グループが遺伝子改変技術をヒトES細胞へ応用することの一時中断を求める共同声明を出している.ムカジーはこれはヒトを遺伝的にエンハンスメントすることの是非という問題だと見做している.そして最後にムカジーなりの遺伝とゲノムに関する見解と制限なしのエンハンスメントに対しての懐疑的な結論をおいている.(なおこのあと本書のテーマを振り返るエピローグも置かれている)

以上が本書のあらましになる.医師でかつ研究者である著者の真面目な著述スタンスによって,遺伝学の発展がメンデルから始まって(途中優生学にも触れつつ)時系列に沿って丁寧にまとめられている.途中から遺伝学の中でもヒトに関するものに焦点は絞られ,最後に遺伝子診断と遺伝子治療に関する倫理的な問題を取り上げて深く悩むという内容になっている.そして家族にある遺伝歴が著述内容に重みを加えている.倫理的な問題についての意見にはいろいろな立場があると思われるし,ジンマーの本のような華やかさや興味深いテーマのてんこ盛りという雰囲気はないが,実直でいい本だと思う.


関連書籍


原書

The Gene: An Intimate History (English Edition)

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ムカジーの前著

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

病の皇帝「がん」に挑む ―  人類4000年の苦闘 下

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 下


同文庫版

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)



同原書

The Emperor of All Maladies

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カール・ジンマーによる遺伝の啓蒙書.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20180903/1535927931

She Has Her Mother's Laugh: The Powers, Perversions, and Potential of Heredity

She Has Her Mother's Laugh: The Powers, Perversions, and Potential of Heredity

*1:以降の小見出しは私による便宜的な項目建てになる

*2:ムカジーはネーゲリは素人学者に冷淡だったという書き方をしているが,おそらく当時似たような実験は数多く行われたが,連鎖や無性生殖などのためにメンデルのようなきれいな結果は得られていなかったということが事情としては大きいのではないかと思われる.なおメンデルの統計データ捏造疑惑(比率が3:1にあまりにも近い)ことについてはムカジーは考えにくいと否定的だ

*3:ムカジーはホールデンとライトについては触れていない.フィッシャーについてもごく簡単に触れているだけで,この辺はやや物足りないところだ

*4:ナチスによる遺伝学への貢献については,別の部分で,優生学のおぞましさを世界に明らかにしたことも挙げられている

*5:結論としてはゲイ決定のごく一部はXq28遺伝子の影響を受けるが,大半は不明のままということになっている.ムカジーはおそらくわずかな効果を持つ多数の遺伝子が関係しているのだろうとコメントしている.

*6:当時胎児だった人々は大人になってから肥満や高血圧になる傾向が高かった.そしてその次世代の子どもにも同じ影響が見られたと報告されている

*7:もう1つ本当に生殖細胞にそのようなメチル化が生じる可能性があるのかについてもやや疑問とせざるを得ないと思うが,そこは扱われていない.この章のムカジーの解説はやや曖昧で,真っ当なエピジェネティックスと怪しいエピジェネティックスの区別をきちんと説明できているとは言いがたいだろう.

*8:ムカジーは疾患から生還した人はサバイバーと呼ばれることから,これから疾患リスクに対処することを迫られる人をこう呼ぼうと提唱している