シノドス・トークラウンジ「進化政治学の可能性―ヒトの政治的行動の進化的基礎」

 
peatix.com
 
進化政治学に関するオンライントークイベントがあるというので参加してきた.先日「進化政治学と国際政治理論」を出版した政治学者の伊藤隆太が聞き手に回って,(ここでは進化政治学の日本における先駆者という位置づけで)長谷川眞理子と対談するという内容.聴衆はこれから進化的視点を取り入れようと考えている政治学,社会学の研究者が想定されており,そういう視点からの質問を伊藤が行い長谷川が答えるという形式になっている.

 
これは伊藤の本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/04/20/113326

 

趣旨説明

 
冒頭で伊藤から趣旨説明がある.

  • 進化政治学は英米で始まり,日本には遅れてようやく入ってきたという印象を抱かれる人もいるかもしれないが,実際にはいくつかの議論が10年以上前からなされている.その1つが参考論文としてあげている長谷川寿一・眞理子によるレヴァイアサン*1掲載の論文「政治の進化生物学的基礎--進化政治学の可能性」だ.

 
www.bokutakusha.com

 

  • 本日の聴衆には進化生物学や進化心理学に詳しくない人もいると思う.初歩的な部分も含めて私が上記論文の内容を前提とした質問を用意した.長谷川先生にそれに答えていただく形で進めたい.

 

質問1 政治的行動とは何か.進化的視点は進化政治学においてどのような役割を果たすのか.

 

  • 社会生活を送る動物はたくさんいる.ここで社会というのは集団を作っているだけではなく,それに属することがその種の個体が生存繁殖していくために必要であるものを指す.そしてそのような社会の中では個体の利益と社会全体の利益はしばしば相反する.そしてそれをどう調整するかが必ず出てくる問題になる.
  • この調整については様々な進化が生じている.この中でヒトは言語,概念,他者操作に秀でるなどの特徴が有り,特殊な部分がある.
  • 政治的行動とはこの個体と社会全体の調整を行う行動ということになる.

 

質問2 進化論が社会科学のメタ理論となると主張されているが,メタ理論としてどのように役立つのか

 

  • 人文科学とはどのような学問か.私は理系なのでその空気とか作法とかわかっていないところがある.今総研大で学長をしているが,研究者の割合は理系が3/4,文系が1/4になっている.で,文系の先生とは時に話が合わないことがある.ただ感じるのは人文系の学問と理系の学問では世界を見る根底的な態度が異なるということだ.
  • 人文系の学問はヒトの行動,思考,文化産物を考察するものだ.しかしそれを生みだす脳について考察していない.
  • 脳は臓器であり,単なる汎用論理機械ではなく,進化的に淘汰された機能を持つ.だから脳の働き方には様々な特徴があり,バイアス,苦手な領域がある.それを考察するには進化はメタ理論として有用ということになる.

 

質問3 進化的に思考する意味として「由来,適応,多様性」を挙げているが,そこを説明してほしい

 

  • あの論文は2009年に書いたものだ.あのときから少し考えが進んだところがある.
  • 実はもう1つ重要なことがあると考えるようになった.脳の機能には,帯状回による情動の部分のほかに前頭葉による言語,抽象的論理,他者の心を読むなどの働きがある.後者は進化的には新しく付け加わり,情動を制御できるようになっている.
  • しかしこの制御は完璧ではない.こうした方がいいとわかっていてもできないことは一杯ある.この2つの機能がどのように関連するのかを理解するのがとても重要だ.
  • 情動の部分はほかの動物とつながる.しかし前頭葉認知の部分は新しく,それが言語や文化を通じてニッチ構築を行っている.ヒトの行動は自分がどのような文化に属していてそこではどのような行動がどのように評価されるかということに大きく左右される.文化はヒトにとって最も大切な環境であり,これはヒト特有だ.
  • 進化心理学が始まった頃のコスミデスたちもここはあまり考えていなかった.だから議論はユニバーサルに集中した.しかし今はこの文化によるニッチ構築の部分が重要だと多くの研究者が考えるようになっていると思う.

 

  • (伊藤)情動はハイトによる象,文化の影響はピンカーの暴力の議論をイメージすればいいか

 

  • (長谷川)そうだ.文化という環境はヒトによって同じではない.例えばトランプ支持者と反トランプ派では自分たちが属する社会や文化的な環境が違うのだ.ヒトの行動にとって周りの文化にどう対処するかがとても重要になる.
  • そして文化がどう創られてユニバーサルな情動とどうつながるのかが問題になる.ニッチ構築的に考察することが重要.

 

  • (伊藤)すべての文化が平和につながるわけではない.文化について価値中立的に評価すべきだと思うか

 

  • (長谷川)進化適応には時間がかかる.ホモ属になって200万年,サピエンスが生まれて30万年,出アフリカから7万年だ.しかし前頭葉の働きは素速い.文化はどんどん変わっていく.
  • この文化の分析は今後の課題だと思う.

 
ここで伊藤が挙げている本は以下のものになる.

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 
私の書評・訳書情報
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20140622/1403404038
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20150127/1422355760
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20130109/1357741465

 

質問4 ヒトの進化的環境EEAについて説明してほしい.

 

  • EEAとはヒトの性質が進化してきた舞台はどういうものかという概念になる.
  • ホモ属になって200万年,サピエンスが生まれて30万年で,単一の環境として一般化はできない.現在ではヒトの特徴を作ったことに大きく効いた要素を抽出したものがEEAとされることが多い.
  • 要素を列挙すると.高栄養,高エネルギー食糧の雑食,学習依存の食糧獲得,学習結果と記憶の次世代への伝承,子どもが大人に依存する時期が長い(生活史),長寿命で世代間のリソースフローがある,性的分業,長期間続く男女の性的関係(ペアボンド),血縁非血縁を含む多人数による共同保育ということになる.

 

質問5 進化政治学の起源はどこか.スペンサーやEOウィルソンはどう評価されるのか

 

  • ヒトの行動や心理を進化的にリサーチしようとする試みがその起源であり,そのセンターとなったHBES(人間行動進化学会)は1988年の設立.設立当初の会長は包括適応度で有名なハミルトンだった.ハミルトン自身はあまりヒトをリサーチしていないが,重要だと考えていたようだ.
  • このHBESの中でいろいろな議論があり,政治も考えるべきだという流れになった.
  • ウィルソンは社会学に進化視点を入れようとしたという意味では重要な仕事をしたが,具体的にヒトの行動がどのような心理の上にあり,それがどのような適応なのかについてを深く考察していたわけではなかった.自意識や言語や概念や文化などの役割についても詰めて考えてはいなかった.
  • スペンサーについては今更議論する意味はないでしょう.現代物理の話をしているところにアリストテレスの目的論を持ち出すようなものだ.

 

  • (伊藤)そうはいっても進化視点を取り入れた議論を政治学や社会科学で行うと,今でもヒトラーやスペンサーが登場して批判される.それをどう論破するかは今でも参考になるのだが

 

  • (長谷川)(とりあわず)今更スペンサーを持ち出すのは意味ありませんよ.アリストテレスが「ものがなぜ落ちるのか」を聞かれて「それは下に向かう目的因があるからだ」と説明しているが,それを今物理学においてとやかく言って何になるのかというのと同じです.やめましょう.

 

質問6 チンパンジーとヒトの類似性について.ヒトの平和的傾向を強調したい論者はボノボを持ち出したがる.しかし普通比較はチンパンジーと行われ,ピンカーもチンパンジーの方が近いというようなことも言っている.このあたりはなぜか.

 

  • 遺伝子から分岐年代を推定するとヒトに最も近い類人猿はゴリラやオランウータンでもなく,チンパンジーとボノボということになる.チンパンジーとボノボはヒトとの分岐後に分岐しているので,そういう意味ではヒトへの近さはチンパンジーとボノボは同じ.
  • ここでさらに様々な形質の相違からヒト・チンパンジー・ボノボの関係を分析すると,ボノボの方が派生的な特徴が多いという結果になる.つまりボノボはチンパンジー系統の中でかなり変わってきたものだということになる.この分析結果から見るとヒトと直接比較するのはチンパンジーの方が適当だということになる.

 

質問7 マキアベリアン仮説について説明してほしい.

 

  • 今思うに,現在ではマキアベリアン仮説に入れ込んでいる人は少ないと思う.マキアベリアン仮説とは知能の進化の淘汰圧が他個体への操作とそれを見破るところにあると主張するものだ.しかし考えてみるとこれは「嘘をついた方がいいのか」という結構高度な部分.
  • それよりも発信する情報が相手が受け取るときに,送信者の意図と受信者の意図はどうなっているかという相手の心を読むみたいなことの方が効いているのではないかと考えられるようになってきていると思う.これは要するに「社会脳仮説」ということになる.そしてこれはグループが大きくなると計算量がものすごく大きくなる.一旦始まるとどんどん高度になっていく.その中の途中でマキアベリアンのようなことも生じたのではないか.

 

質問8 タンザニアでチンパンジーの研究をされたことがあると聞いているが,そのときの話をお願いしたい

 

  • この話を始めると1時間や2時間では済まなくなります.まあアフリカは大変でした.
  • チンパンジーを観察したわけだが,なぜチンパンジーかといえばそれがヒトに一番近い動物だからということになる.ルーツとして共通するものがないかを見るわけだ.
  • しかし私は結局チンパンジーを好きになれなかった.あいつらは本当に洗練されていないというかなんというか.攻撃的だし,まあひどいんですよ.片方で結構頭がいい.しかしヒトが持っているような基本的な共感能力がないというか薄い.これがヒトとの共通祖先かと思うより,全然違う生き物だと思うことの方が多かった.
  • チンパンジーは肉食もする.でも専門の肉食動物ではないから殺戮用の牙も爪も持っていない.だから獲物の殺戮が本当に汚い.まだキーキー鳴いている動物を殴ったり囓ったり無理矢理殺す,引き裂いて食べる.そして子殺しもやる.それやこれやであまり感情移入できなかった.
  • アフリカのフィールドで良かったのは現地のアフリカの人々と生活を共にした経験だ.現在でも世界中の皆が現代的な文明生活を送っているわけではない.当時のフィールドでは(現代文明の生活インフラがほとんどない中で)人々は焼き畑的な農業と狩猟と漁労で暮らしていた.
  • そこでは文化文明とは何かということを考えさせられた.そして現地の人々と自分は同じ人間だと深く実感することができた.一緒に笑い,一緒に悲しんだ.片方でまあどうしてこの人たちはこんなに働かないんだとも感じたが.それがアフリカで得た一番のものだ.

 

質問9 チンパンジーは集団で殺し合うことが知られている.ランガムはこれはヒトの戦争に対する適応を考えるときに重要だとコメントしている.実際にフィールドで観察していかがでしたか.

 

  • 当時フィールドで隣接するMグループとKグループを観察した.Mが100頭ぐらいのグループで大人オスが11頭.Kは20頭ぐらいのグループで大人オス3頭だった.最初のうち襲撃はなかったが,Kの大人オスが2頭になった頃からMによる襲撃が始まった.この2頭のうち1頭は老衰で死亡,残り1頭は直接観察できなかったが姿を消した.
  • というわけでチンパンジーのグループ同士の闘争は結構ある.それと同時にグループ内のオス抗争による殺戮も多い.歴代のアルファの半分ぐらいがベータとガンマによって殺されている.これに子殺しがある.そして殺しをやるのはすべてオスだ.
  • チンパンジーはオス主導の社会なので,オスによる殺害が多く,その分メスが苦労しているという感じだ.
  • これに関しては2016年のネイチャーに載った哺乳類の同種殺の比較研究「The phylogenetic roots of human lethal violence」が重要だ.

www.nature.com

  • この論文では1024種の哺乳類の死亡における同種個体から殺される率を比較している.ヒトについては600ぐらいの様々な社会集団のデータが用いられている.これによると哺乳類の平均は0.3%.そして霊長類はこれに比べてはるかに高い.ヒトも2%と高く霊長類的だ.ヒトについては脳が大きくなって他個体の意図やコンフリクト状況が見やすくなっているという要素もあるだろう.

 

Q&A

 
(伊藤)まだ用意していた質問は残っているが残りの時間は参加者の皆様と長谷川先生の質疑応答に当てたい.

Q1 文化進化についてヘンリックの本を読んだが,それ以外の推薦書があったら教えてほしい,

 

  • ヘンリックはとてもいい研究者だと思う.本も良く書けていて面白い.文化進化だけでなくこれからはニッチ構築の理論が重要だと思う.これを扱った本があったはずだ.
  • 昨今の本をすべてフォローしているわけではないので自分で調べて読んでほしい.

 
ヘンリック本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/01/11/113010

文化がヒトを進化させた

文化がヒトを進化させた

 
ニッチ構築についての長谷川が挙げている本はこのことかと思われる.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071227/1198717354

ニッチ構築―忘れられていた進化過程

ニッチ構築―忘れられていた進化過程


 

Q2 形質的特徴から分岐からの距離を推定するという手法に興味がある.収斂で同じ形質になることはどう扱われるのか

 

  • 分岐図と特徴の一覧からどの形質が祖先的でどの形質が派生的かを推定する統計的な手法がある.(派生的であれば収斂が推定されることになる)
  • 私がやっていた頃は理論も単純だったが,今では統計的な手法が随分進んでいて私も詳しくはわからない.この部分は専門家を信用している. 

 

Q3 統計的に推定するということだが,物理なら基本法則があって,仮説を元にしたシミュレーションをして,それに観察を当てはめていくとかなりの確度で物事がはっきりする.生物ではなかなかそこまではっきりしないのではないかと感じているが.

 

  • 統計的な手法が使われるのは最後の部分.この分野の研究で最も重要なのは問題を発見することだと思っている.
  • この場合(ヒトとは何かを考えるときに)ヒトに一番近いのがチンパンジーかどうかというのは本質的に重要ではない.それよりもヒトの進化においてなんらかの生物的な特徴が有るとして,そのうちどれがほかの生物と連続していて,どれが固有なのかが本質的で,それについての洞察が重要になる.
  • 洞察の後いろいろな議論があり,最後に統計的な検証ということになる.統計だけで物事が動くわけではない.
  • 私が45歳になるまでヒトに手を出さなかったのは,ヒトとはどういうものかについての自分の洞察の自信がなかったからだ.ヒトとはどういうものか,その次はそれがどのような進化を経てきたのかというところが重要になる.
  • もう1つ分析で重要なのはゲーム理論だ.ヒト社会のシステムでは異なる意思を持つエージェントが相互作用している.この分析にはゲーム理論が適している.
  • というわけもあって統計の細かいところは専門家を信用するというスタンスでやっている.

 

Q4 群れの定義は何か

 

  • 群れの定義はいろいろ定められるだろう.
  • ニホンザルなどのモンキー類に多いのは,まず母子の絆があって,次にメス同士の絆があるというパターンになる.メス同士が一緒にして暮らした方がエサ獲得などで有利になるからだ.この意味でモンキー類はメス社会になる.
  • チンパンジーでは一緒にいた方が有利になるのがオス同士になる.母子の次にオスの血縁個体の絆が強い.それがナワバリになる.そこにメスが入り込む形になっている.
  • 霊長類の社会は,まず母子の絆があり,それにメス同士やオス同士の絆の要素が加わり,さらに最後にオスメス間の関係の要素があるという3軸.
  • ではヒトはどうか.母子の絆はやはり最初にある.でもそれだけでは子育てできないので,ペアボンドを形成し,基本要素が父と母と子という家族になる.この家族の集合体が共同で暮らす.これが「我ら」という内集団になり「彼等」である外集団と対立する.何が「我ら」かというのは言語や文化で決まってくる.それは国家などのような大きな集団にまで拡張されることもあるが,すべてのメンバーをなんらかの形で知っているという関係を築けるのは100〜300人ぐらいの大きさが限界になる.

 

Q5 進化心理学についての推薦書はあるか.また社会生物学論争はオルコックの本の通りに社会生物学の勝利ということでいいのか

 

  • 日本語による進化心理学の教科書になるような本はきちんと整備されていないというのが実情.
  • 私が共著した「進化と人間行動」は改訂の作業が進んでいて,今年の6月には新版が出る予定だ.あと最近の本としては「進化心理学を学びたいあなたへ」がある.

 

  • いわゆる「氏か育ちか」論争は,なお社会科学者からの様々な意見が出ており,決着しているとはいえないだろう.このあたりの状況については安藤寿康さんがいろいろ本を出しているので呼んでほしい.
  • オルコックの本は私が訳したものだが,あの時点ではそう考えて勝利宣言したのだろう.ただいまから振り返るとヒトのユニバーサルな本性という部分についてはその通りだが,そのうえになる言語や文化や論理という環境が与える影響というところまではたどりついてはいなかったと思う.ニッチ構築や文化進化の考え方を取り入れてこのあたりを分析していければ,もう一度「勝利」宣言できると思う.次の世代に期待したい.

 

進化と人間行動

進化と人間行動

 
後者についての私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2018/11/30/081619
 
安藤寿康の一連の行動遺伝学本.私の書評は(すべて書評しているわけではないが)https://shorebird.hatenablog.com/entry/20131121/1385028593  https://shorebird.hatenablog.com/entry/20111207/1323255527

遺伝マインド --遺伝子が織り成す行動と文化 (有斐閣Insight)

遺伝マインド --遺伝子が織り成す行動と文化 (有斐閣Insight)

  • 作者:安藤 寿康
  • 発売日: 2011/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)

日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)


 
オルコック本.私は出版当時原書で読んだが,なかなか辛辣にグールドを批判していて面白かった.長谷川先生の訳書は入手困難になっているようだ.

The Triumph of Sociobiology

The Triumph of Sociobiology

  • 作者:Alcock, John
  • 発売日: 2003/05/01
  • メディア: ペーパーバック
  

Q6 外集団の敵を「信頼する」ことは理性で可能なのか

 

  • 内集団と外集団を分けて,外集団のメンバーを敵と認定する傾向がヒトにはある.そこで敵と認定した相手を信頼できるか.それは多分できる.
  • 参考になるのは共感についての研究だ.最近の研究結果によると共感には種類があるようだ.まず痛みの伝染がある.ここで自分が肉体的に痛いときと心理的につらいときでは脳の同じ部分,前部帯状回が活性化する.そして相手の肉体的痛みを自分の痛みのように感じるのはこの前部帯状回になる.しかし他人の心の痛みを自分の痛みのように感じるには前頭葉の働きが必要になる.
  • このことから考えると,敵と認定した相手の立場に立つには前頭葉の働きが重要だということになる.だからこれはとても難しい.ジェノサイドの研究によると,それが生じるときには自分と違う人達という認識が必ずある.この認識をどう阻止,誘導するかが重要になる.
  • 国家首脳同士の信頼ということを考えると,それは個人による部分も大きいだろう.
  • なぜこんなに難しいかという1つの理由は,このように多様な人達が身近にいて相互作用するようになったのが歴史的に新しいからだということもあるだろう.
  • 最近感じるのは現代ではいろいろなデータやデータ解析手法があるので,抽象的な問題をじっくり考え抜くということが減っているのではないかということだ.そういう意味では啓蒙主義時代の哲学者の方がより深く考察していたように思う.

 

Q7 先ほど哺乳類の同種殺比率の話が出たが,結局チンパンジーとヒトではどちらが大きいのか

 

  • ヒトは2%で哺乳類水準では高い.そしてチンパンジーも高いということだ(その場でははっきり答えず,明確な記憶がないので論文参照してほしいという趣旨か)
  • ヒトの暴力の進化的な見方については1980年代にいろいろ研究が進んだ.有名なのはキーリーの「War Before Civilization」という本だ.
  • ピンカーの本もいい.ピンカーは最初にHBESで出合った頃には単に進化に興味がある言語学者という風だったが,本当によく勉強して深くなった.

 

War Before Civilization

War Before Civilization

 
 
以上がオンラインイベントの概要になる.あまり進化政治学の話は出ずに,その基礎になる進化心理や人間行動生態について長谷川眞理子の見解を聞くという趣旨ということだった.ヒトを理解するためには文化についてニッチ構築という点からリサーチすることが重要だと力説するあたりは大変興味深かった.「進化と人間行動」が改訂予定というのも嬉しいニュースだった.楽しみだ.

*1:『レヴァイアサン』44号(2009年4月)ISBN978-4-8332-1160-4.

From Darwin to Derrida その51

 
 

第6章 個体内コンフリクト その6

個体内コンフリクト,ヘイグはゲノム内の遺伝子間コンフリクトの話の前にミームと宿主のコンフリクトを扱う.
 

  • 何故私は自分の本が読まれるかどうかを気にするのだろうか.そして人々はなぜ自分のアイデアが広がることを望むのだろう.私たちが実際にそういうことを気にしているという事実は遺伝子の伝播とアイデアの伝播には何かしら進化的な相関があることを示唆しているだろう.言い方を変えると,自分のアイデアをうまく広めることは平均的に自分の遺伝子を広めることに役立つのだろう.
  • アイデアは厳しい環境下での自分や血縁者の生存にとって有用であり得る.またアイデアはディスプレイとして役に立つだろう.私は自分がいかに頭が良いかをあなたに示したい.馬鹿げたことは言いたくない.私は広がった自分のアイデアの栄光の恩恵に浴したい.優れたアイデアの増殖者はリソースのコントロールや影響力をもつようになったはずだ.
  • 私たちはアイデアを作り広げようとする本能を持っている.そしてこの本能はアイデアが競争して進化する環境となるのだ.

 
ヘイグのこの議論は面白い.私たちは性淘汰を含む社会淘汰圧を受けており,そこでは自分が優秀であったり信頼できることを説得力を持ってディスプレイすることが有利になる.だから思いついたりそれを広めようとすることが優秀さや信頼性についての(コストを伴う)シグナルになるようなミームは正の淘汰圧を受けることになるわけだ.この場合ミームと宿主の利益は一致している.しかし常にそうではない.

 

  • 「良い」アイデアは説得的だ.それは(私たちの遺伝的適応度を増進しなくとも)私たちの遺伝的バイアスに働きかける.だから遺伝的繁殖とミーム的繁殖の相関関係は完全にはなり得ない.それどころかミーム的繁殖は時に遺伝的繁殖を犠牲にして生じうるし(ヒトはイデオロギーや宗教のために喜んで死ぬことがある),その逆も生じうる(カリスマ的伝道者が一時的な性の誘惑に負けることもある).(遺伝的)自然淘汰は遺伝的適応度を犠牲にするようなアイデアを取り入れることに抵抗するような傾向を進めるだろうが,ミーム進化は遺伝的進化より素速く,そのような傾向に対抗する形質を進化させるだろう.私たちの意思決定は遺伝子の頑固さとミームの素早さの相互作用の中で形作られるのだ.

 
当然ながらミームと宿主の利益は常に一致するわけではない.だからそこにはコンフリクトが生じうる.ここで遺伝的な自然淘汰は最終的に脳の構成を決定できるので,自分にとって不利になるようなミームを受け付けないような淘汰圧がかかるはずだ.しかしミームは進化の素早さでそれに対抗するというのがヘイグの説明になる.このあたりはかつてのミーム論の議論ではよく見られた問題で,最終的には遺伝子が勝つのか(遺伝子は長いリードを持つのか)はホットトピックだった.
ここからヘイグはこの問題についてゲノム間コンフリクトを絡めた議論を展開する.

From Darwin to Derrida その50

 
 

第6章 個体内コンフリクト その5

 
衝動と理性などの個人が意思決定の際に感じる内部的コンフリクトについて,ヘイグは個人内にモジュールという形で異なる意思判断エージェントがあって,その意見が食い違う可能性があることを述べる.このモジュール間の決定の調整メカニズムがないことについては,まずは進化的新奇環境に対応した調整メカニズムがない可能性があること,次にモジュール間で判断基準が異なればアローの不可能性の定理から原理的に統合的に判断することが不可能になることを指摘した.この(理性も1種のモジュールとした上での)モジュール間コンフリクトは進化心理学的にも良く取り上げられるものだが,それが原理的に調整できない可能性をしてきた後者の議論は目新しくなかなか興味深いものだ.
しかしそれだけではないとヘイグは続ける.個人内部にそれ自身にとっての包括適応度が異なる複数の利益主体があり,真の利益相反がある可能性だ.
 
<内部コンフリクトリアル仮説>

  • ここまでの議論は適応と制約についてに関するものだった.まず個人内で注意を奪い合うような声があるのには適応的な理由があるのかもしれない,そしてこのような競合の一部は非適応的なのかもしれない.どんなメカニズムも完全ではない.病的な優柔不断は単に病的なものかもしれない.さらに異なる心のモジュールが異なる機能を持ち異なるデータを処理して異なる選好性を示しているのかもしれない.このモデルでは選好性の足し合わせの問題は最適なウエイト付けの問題になる.
  • しかしながら全く別の可能性がある.内部的な党派は究極因について合意できないのかもしれない.それぞれの党派は自分たちが有利になるためにことを誇張して言い立て,さらには誤情報をも広げようとするのかもしれないのだ.

 

  • 異なる利益を代表するエージェントたちは同じ情報から異なる選好性を持つかもしれない.自己が異なる利益を持つエージェントたちの集合体であるなら,内部コンフリクトは究極的な目的についての意見の不一致かもしれない.あるエージェントにとっての利益がすべてのエージェントの利益になるとは限らない.(社会文化的な規範が完全に内部化されていたとしても)そこには為替レートについての意見の一致もないだろう.
  • このように考えるなら,意思決定は集合体の協議に近くなる.時に意見は一致するが,時にある意見が他の意見を書き換え,そして時に委員会は決定に失敗する.

 
ここまで読むとここからゲノミックコンフリクトの話になると思ってしまうが,ヘイグはここでちょっとした回り道をして,ミームの議論に立ち入っている.
 

  • 私は自己の中のエージェントたちを2種類思い描いている.1つは遺伝子だ.彼等は自分たち自身の生存と複製に向けた「目的」を持っていると言える.もう1つはアイデア(ドーキンスに従うとミーム)だ.アイデアは他の心から伝播したり,内部的に湧き上がったりする(ほとんどの場合はそのハイブリッドだろう).アイデアは私たちの注意を奪い合い,そして他の心への伝播について競争する.この意味でアイデアも心から心へ広がっていくという独自の「目的」を持つということができる.そしてそれに資する特徴はアイデアの「適応」だ.
  • アイデアはページの中のスペースを奪い合う.私が今これを書いている中でもどのように書くかをめぐって競合が生じている.異なるアイデアと表現形態が競合し,あるものは書かれ,さらに別のものに書き換えられ,ゆっくりと最終原稿になる.このような競合において有利なのはどのような特徴だろうか.1つは草稿の他の部分との一貫性だ.そしてもう1つは私に読者を惹き付けるだろうと予測させるもの,例えば簡潔できびきびとした文体,現実のリアリティとの結びつきなどだ.その一部は今あなたの心に入り込んだ.複製を重ねて栄えんことを.

 
第3章では散々ミームを論じておきながら,なぜヘイグがここで「ミーム」という用語を避けているのかはわからない.ここではミーム同士の競合やコンフリクトではなく,ミーム利益とヒトの利益のコンフリクトが取り扱われる.

書評 「共生微生物からみた新しい進化学」

共生微生物からみた新しい進化学

共生微生物からみた新しい進化学

 
本書はゲノム配列からの系統樹推定法などの研究で有名な遺伝学者長谷川政美による共生微生物をテーマにした一冊.長谷川は退官後,興味深い分野を一から勉強し,自身の進化生物学や系統推定の知見と絡めながら*1語ってくれる様々な本を刊行しており,本書もその一冊になる.共生微生物については,ヒトの腸内微生物がこれまで想像されていないほどヒトの健康や認知に大きな影響を与えていることが最近明らかになりつつあり,私も一度きちんと勉強したいと思っていたのでこれ幸いと手に取った一冊になる.
 
冒頭で「ヒトが自律した生き物ではなく膨大な数の微生物の働きによって生かされている」という知見はコペルニクスの地動説,ダーウィンの進化学説に続く第3の科学的革命につながると力説している.ちょっとオーバーな感じもするが,意気込みは感じられる.
 

第1章 微生物に満ちあふれる地球

 
まずはヒトにどのような共生微生物が存在するのかの概説が語られる.またこの章の最後では地下や海洋に広がる広大な微生物世界についても解説されている

  • ヒトの身体の表面や内部は多種多様な微生物であふれている.多くは細菌だが,菌類,原生生物,ウイルスも多い.これらの群集はマイクロバイオームあるいは微生物叢と呼ばれる.
  • 19世紀から20世紀の医学では感染症との戦いが最大のテーマであった.抗生物質の開発などで感染症は激減させることができたが,新たに肥満若年性糖尿,喘息,花粉症,食物アレルギーが問題になっている.そしてこれらに関して体内の微生物叢の働きが重要であることがわかってきた.
  • ヒトの腸内には数十兆の細菌が生息し,これらの合計遺伝子数はヒトのそれの400倍を超えると見積もられている.宿主であるヒトと共生微生物のゲノムを合わせてホロゲノムと呼ぶ.
  • 微生物叢のゲノムは(環境から取り込まれる水平伝達のものもあるが)垂直伝達されるので,ヒトの進化を考えるときにはホロゲノム全体を視野に入れる必要がある.
  • これらのリサーチに革新をもたらしたのはメタゲノム解析法だ.最近では逆ゲノミクスと呼ばれる手法でDNA配列から生物培養法を見つけようとする試みもなされている.
  • 一卵性双生児間の違いを生む1つの要因は微生物叢だと考えられる.

 

第2章 生命進化最初の30億年 単細胞微生物の時代

 
第2章は微生物の概説.細菌の多様性とバイオマス,生命の起源とRNAワールド仮説,酸素放出型光合成と水の惑星*2,すべての生物の共通祖先LUCAと3ドメイン,真核生物の起源と初期進化が語られる.共生微生物については以下のようなトピックが取り扱われている.

  • 真核生物の起源にみられるような細菌やアーケアの内部共生は現在でも観察される.かつてメタン生成細菌と考えられていたMethanobacillus omelianskiiは実はメタン生成アーケアと真正細菌の共生体であった.このような栄養共生は数多く発見されている.
  • 真核生物の核の起源についてはなお論争があるが,2006年にはイントロン仮説が提唱されている.これはそもそもイントロンとはミトコンドリアとして内部共生をはじめたアルファプロテオバクテリアの断片化されたDNAが宿主DNAに挿入されたもので,これが翻訳されることを防ぐために核膜が進化したと考える.興味深いがなお未解決の問題は多い.
  • アメーバとアメーバに感染症を生じさせていた細菌が実験室で緊密な共生系を進化させたという観察報告がある.

 

第3章 動物と微生物の関わり

 
第3章は動物と共生する微生物が進化史に沿って解説される.ここでは面白い逸話がたくさん紹介されている.

  • 分子系統樹は多細胞生物にもっとも近縁な単細胞生物が襟鞭毛虫であることを明らかにしている.襟細胞は海綿動物にあることが知られるが,刺胞動物,棘皮動物,半索動物にも似た細胞があることがわかっている.
  • 海綿動物,刺胞動物,有櫛動物には袋状の胃体腔がある.刺胞動物のサンゴの胃体腔の奥は嫌気的な環境になっている.そこには多様な細菌が高濃度で共生しており,サンゴは必要な栄養素をそこから得ている.動物と消化管共生細菌との関係はこのような生物が進化してきた頃から続いていると考えられる
  • ヒトの消化管には5000万個の神経細胞からなる腸管神経系があり「第2の脳」とよばれることがある.このような消化管の神経系の起源は古く,進化史的には「第1の脳」と呼ぶべきかもしれない.
  • カイメンには組織内に多様な微生物叢を抱えており,バイオマスはカイメン自身の35%にも達する.中には抗生物質を産するものもあり,このような抗生物質が共生細菌と外来病原菌に対して差別的に働く仕組みがあると考えられる.
  • サンゴの胃層の細胞内に褐虫藻という単細胞藻類が共生しており光合成していることは有名だが,これ以外にも窒素固定細菌をはじめとする様々な細菌が組織内に共生している.
  • 扁形動物は一旦獲得した消化管の肛門を退化させた動物群だが,パラカテヌラは体内の共生細菌に栄養を頼ることによって口も退化させた.
  • サイチョウ目のヤツガシラは尾脂腺から抗菌作用のあるペプチドを産する細菌をたくさん含む液を分泌し,卵に塗りつける.
  • 哺乳類の出す匂いのほとんどは細菌叢によって作られる.ヒトの体臭も皮膚の細菌叢により作られる.ハマダラカに刺されやすい人は皮膚の細菌叢の多様性が低い傾向があることが報告されている.
  • アリクイ,ツチブタ,アードルフ(ツチオオカミ)はアリやシロアリを食べる系統的には離れた動物群だが,腸内細菌叢は互いに似ている.同じようなことがあるかもしれないとチスイコウモリと吸血フィンチの腸内細菌叢を比較した研究によると,細菌叢自体は必ずしも似ていないが,似たような機能を果たす細菌が多くみられた.
  • ハエの卵に寄生するハチ3種の腸内細菌叢を生活史に沿って比較すると,幼虫時代には特に宿主に対応しているわけではない細菌叢が,サナギ,成虫になるに連れて変化し,宿主の系統関係と似たような関係(系統共生)になる.これはハチが宿主の免疫系の進化に対応した共生菌を選択的に取り込むために生じると考えられる.
  • エンドウヒゲナガアブラムシには赤色タイプと緑色タイプがあり,天敵によって異なる捕食率になる.この赤色は共生細菌から水平伝達で取り込んだカロチノイド合成遺伝子により発現し,この遺伝子がなければ緑色になる.さらに赤色タイプ遺伝子を持っていてもリケッチエラと共生していると緑色になる.赤が不利になる環境ではこのリケッチエラを取り込んで体色を変化させているのかもしれない.
  • 動物と共生するのは圧倒的に真正細菌が多く,アーケアは少ない.アーケアと共生する繊毛虫では好気的環境から嫌気的環境に進出した際にミトコンドリアから(水素生成アーキアの)ヒドロゲノソームへの転換が生じたと考えられる.このほかのアーケア共生も嫌気的環境(ウシのルーメン内,シロアリの腸内など)に見られることが多い.アーケアが病原菌になることは少ないが,その理由はよくわかっていない.
  • ヒトの場合,腸内のメタン生成菌が真正細菌の排出する水素分子を処理してくれた方が生理的な効率は高まると考えられる.ヒトの腸内に住むアーケアにはメタン生成菌とアンモニア酸化菌があるが,実際に調べると,メタン生成菌だけ持つか,アンモニア酸化菌だけ持つか,どちらも持たないかの3通りになる(食事の内容と相関がある).

 

第4章 腸内細菌叢

 
第4章では満を持してヒトの腸内細菌叢が扱われる.

  • ヒトの腸内細菌叢は霊長類以外の哺乳類のそれより霊長類のそれに似ているが,特に類人猿に似ているわけではない.それは何を食べているかという食性が重要であるためで,ヒトの細菌叢は雑食性の霊長類のそれに似ている.ただし類人猿との共通の細菌について系統樹を調べると宿主の系統樹に一致する.
  • ヒトの腸内細菌の総重量は1〜2キロほどで,約2割が善玉菌,約1割が悪玉菌,残り7割が日和見菌とされている.ただし悪玉菌と日和見菌を排除すれば健康になるわけではなく,この2:1:7の比率が重要であるようだ.
  • ヒトの腸内細菌叢は個人によって異なる.同一人であっても食事習慣により変化する.ただしこのような腸内細菌叢の再構成は大規模なものではない.腸内細菌の構成は個人に固有であり,いわば指紋のようなものだ.
  • デンマークでなされたリサーチによると,腸内細菌叢の多様性は個人により異なり,その遺伝子数ははっきりと2つのピークを作る.遺伝子数の多いグループの代謝は活発なのに対し,少ないグループには肥満,糖尿病,動脈硬化などがみられがちだった.
  • 高血圧,喘息,肥満,パーキンソン病,クローン病,統合失調症について調べたリサーチによるとこれらの疾病は患者自身のゲノムより腸内細菌叢との関連の方が高かった.個人のゲノムに応じた医療が必要な場合があることは認識されつつあるが,これからは腸内細菌叢ゲノムに応じた医療も考慮すべきだと考えられる.
  • (澱粉質に偏った食生活を送っている)パプアニューギニアの人々は腸内の窒素固定細菌を通じて窒素を摂取してことがわかった.糞便の窒素固定活性などから考えると日本人の腸内にも窒素固定細菌が共生しているようだ.
  • 狩猟採集民と現代都市生活者の腸内細菌叢を比べると都市生活者の方が多様性が低い.狩猟採集民にある炭水化物や繊維質の消化を助けるトレポネーマ族の細菌が都市生活者では失われているようだ.これは抗生物質による結果かも知れない.
  • 腸内細菌叢がヒトの脳の活動に関わっていることが最近わかってきた.

 

第5章 「脳-腸-微生物叢」相関

 
第5章は最近の知見のうち最も興味深い腸内細菌叢と脳の関係が扱われる.

  • ヒトの新生児の腸内細菌叢は母親のものに似ている(なんらかの経路での垂直感染があるようだが詳しいことはわかっていない)が,生後3年程度で環境によって独自のものに変わっていく(一卵性双生児と二卵性双生児の比較で遺伝的な違いが関与していないという報告がある*3).
  • 腸内細菌叢がうまく成熟しないと栄養失調になりがちになる.この機能には細菌同士の相互作用が働いており,細菌叢の組成は共変動している.
  • 実験室で無菌マウスを作ると,長生きするが,食事量が増え消化にも時間がかかる.それだけではなく物怖じせず攻撃的という性格的な特徴が現れる.幼体のうちに細菌叢を移植するとそのような特徴は現れない.細菌叢は脳の発達に影響を与えるようだ.

 
ここから脳と腸と細菌叢の関連を示す様々な事実が提示されている.

  • ヒトの腸内にはセロトニン神経細胞があり,そこで体内のセロトニンの90%が合成される.脳と免疫系は日常的に相互作用しており,血液脳関門はこれまで考えられていたほど鉄壁な関門ではないことが明らかになっている.腸と脳をつなぐ迷走神経があり,この2つの臓器は密接に連絡を取り合っていると考えられる.
  • ある種の自閉症が腸内細菌叢の撹乱と関連していることを示唆する研究がいくつかある.
  • アルツハイマーを発症したマウスの細菌叢を健常マウスに移植したところ脳にアミロイドβが蓄積するようになったという報告がある.

 

第6章 腸内微生物叢と免疫系の働き

 
第6章では免疫との関連が扱われる.

  • ヒトの母乳には200種類ものオリゴ糖が含まれているが,それは赤ちゃんには消化できない.おそらく腸内のビフィズス菌の増殖のため(感染症の防御に対して有効とされている)に含まれていると考えられる*4
  • ヒトの腸内細菌叢を育てるためにはこのほか食物繊維が重要である.食物繊維が少ないと腸内細菌叢の多様性が減少する.食物繊維は腸内細菌により短鎖脂肪酸に変換され.エネルギー源になったり,交感神経の制御に使われる.食物繊維を多く摂取すると肥満が抑えられる効果があるのはこの交感神経への刺激によるものと考えられる.またマウスを使った実験では胎児の段階で母親からどのぐらい短鎖脂肪酸を与えられたかが成人後のメタボリック症候群へのなりやすさと相関するという結果が得られている.
  • 腸内細菌が免疫反応を制御しているという証拠は多い.例えばマウスでは腸内細菌叢の構成によって(自己免疫疾患である)多発性硬化症の強さが異なる.消化管には常に外来の微生物が侵入するので免疫反応の最前線であり,腸で活動する免疫細胞の数は血管やリンパ管で活動する免疫細胞の数より多い.
  • 現代のアレルギーの多くは農村地域より都市地域でのリスクの方が高い.これは免疫系の暴走を防ぐには大量の微生物に被爆するような環境が重要であることを示唆している.清潔な生活習慣と花粉症の増加に関連があるとする考え方は「衛生仮説」と呼ばれる.
  • さらに単に清潔かどうかだけではなく,人類の進化と共につきあってきた細菌たち(家畜の糞便に含まれる細菌,土壌細菌,抗生物質により除去された細菌など)との接触が健全な免疫系の形成にとって重要だと考えるのが「旧友仮説」になる.そうだとすると(胃癌リスクを上げるとされる)ピロリ菌を単に除去した方がいいのかどうかはよく考えた方がいいことになる.ピロリ菌は複雑なシステムの一部であり,除去には多方面にわたる影響が考えられる.実際にピロリ菌を持たない子どもの方が喘息やアレルギーを発症しやすいという報告もある.抗生物質の過度な使用は(耐性菌の問題だけでなく)再考すべきである.病原菌に対するファージ療法も再検討されるべきだと考えられる.
  • 「旧友」には細菌だけでなく線虫や条虫などの寄生虫も含まれるようだ.またウイルスの一部もそうかもしれない.基本的に細菌以外の腸内微生物がどのような作用をもたらしているのかについてはあまりよくわかっていない.

 

第7章 共生微生物と宿主のせめぎ合い

 
第7章では一旦ヒトの腸内微生物の話から離れて微生物との共生自体についてのトピックが扱われる.最初に共生全体についての概説があり,続いてミトコンドリアの問題が詳しく取り上げられている.

  • 現在のミトコンドリアは共生前のアルファプロテオバクテリアと比べて大きく変わっている.自分の遺伝子の多くを失ったり核に移動させたりしただけでなく,宿主由来のタンパク質を利用しているものもある.残った遺伝子数やゲノムサイズも生物群によって大きく変異している.
  • では何故まだミトコンドリアにゲノムが残っているのか.現在ミトコンドリアがゲノムを失った例はほとんど無いが,稀な例外が(刺胞動物でありながら寄生性になり極端に退化した)ミクソゾアになる.どうやら酸素呼吸を行わない場合にはゲノムを失う場合があるようだ.おそらくミトコンドリアの酸素呼吸機能(特に宿主からのATP要求に素速く応える機能)に関連した必須のゲノム部分があるのだろう.
  • ミトコンドリアの共生の歴史は長いが,現在でも宿主側とコンフリクトが生じている例がある.その1例は植物における雄性不稔を引き起こす異常ミトコンドリアになる.
  • 細胞内で利己的ミトコンドリア(酸素呼吸能力が低いが複製速度が速い変異)が生じると通常のミトコンドリアより複製上有利になる(酵母では実際に見つかる).宿主はこれに対抗することになり,その結果現在ほとんどの複製関連遺伝子が核に移動しているのだと考えられる.また生殖系列と体系列の分離もこの対抗から進化したとする考え方もある.このほかの宿主側の対抗としてはアポトーシスによる利己的ミトコンドリアが発生した細胞の除去,ミトコンドリア伝達の母系制限などがある.
  • ミトコンドリアの浮動による劣化はどのように阻止されるのか.宿主側が核ゲノムを使って有害変異の補償を行っていることを示唆するリサーチがある.また有性生殖が進化した理由をここに求める議論もある.

 
ここからその他の共生系も取り上げられている.

  • ヴォルバキアはアルファプロテオバクテリアの1種だが線形動物や節足動物の様々な種を宿主として細胞内共生する.彼等は卵を通じて垂直感染するためにしばしば宿主の繁殖生態を操作する.(オス殺し,性染色体による雌雄発現への介入,細胞質不和合などが解説されている)
  • ヴォルバキアによる細胞質不和合がある場合,近縁種の片方でヴォルバキア感染があり稀に交雑が生じるような状況では,非感染種に感染種のミトコンドリアが選択的に浸透していく現象が生じる.(キタキチョウとミナミキチョウの例が紹介されている)このような現象はDNAバーコーディングによるデータベース化の際に問題を生じさせる.
  • このような共生微生物による繁殖生態の操作現象はヴォルバキアだけでなくスピロプラズマ,リケッチア,アルセノフォヌス,カルディニウムでも知られている.これらに対して宿主側の対抗もしばしば急速に進化することがあるようだ.(5年間でクサカゲロウの松戸集団にスピロプラズマのオス殺しへの対抗進化が生じた例が紹介されている)
  • 共生者による宿主操作は微生物に限らない(ハリガネムシの例,トキソプラズマの例が紹介されている)

 
ここからヒトの共生微生物の話に戻る.

  • ヒトの腸内の細菌叢において細菌同士の激しい競争があることがわかってきた.(毒性タンパクで他の細菌を攻撃している例,その毒から自身を守る免疫機構を持つ例,このような毒に対する耐性進化の例が紹介されている)
  • ヒトの消化系では消化管内では澱粉を麦芽糖までしか分解せず,ブドウ糖への分解は最後に小腸の吸収上皮細胞の細胞膜で行われる.これは腸内細菌に吸収されないためだと考えられる.タンパク質も消化管内ではペプチドへの分解止まりでペプチドからアミノ酸への分解は膜消化となっている.

 
最後にヒトの感染症が扱われる.ペストからAIDSやエボラまでを概説した後,COVID19についても簡単に触れている.

  • SARS,MERS,COVID19はコロナウイルスの中のβコロナウイルス属に分類される.βコロナウイルスは哺乳類にのみ感染する.βコロナウイルスを分子系統学的に解析すると,100の系統グループのうち91はコウモリを宿主とする.
  • COVID19に最も近縁なものは中国雲南省のマレーキクガシラコウモリから採られたウイルスになっている.ただしスパイクタンパクはマレーセンザンコウを宿主とするものに近い.これは異なる種類のウイルスが同じ宿主に感染して組換えを起こした可能性を示唆している.
  • 分子時計的にはCOVID19とマレーキクガシラコウモリのウイルスとの分岐は1948〜1984年頃とされる.それ以降人知れず分岐を繰り返して進化してきたと思われるが,その詳細は一切不明である.

 

第8章 生物が陸上に進出するに当たって共生が果たした役割

 
第8章では地衣類と土壌微生物が扱われる.

  • 真菌が緑藻などの藻類と共生するにようになったものが地衣類である.菌は多くの場合子嚢菌類だが担子菌類の場合もある.藻類も緑藻だけでなくシアノバクテリアの場合がある.
  • 地衣類は共生により実質的に独立栄養生命体になった.そして極地,高山,砂漠などの厳しい環境に耐えて生きる(岩だらけであってもクエン酸やリンゴ酸などの酸性物質を放出して岩石を溶かしてリンやカルシウムなどを得ることができる).陸上進出は5億4100万年前頃で植物(4億8500万年前)より早い.(なおこの地衣類先行上陸説への批判,およびその批判の問題点も紹介されている)
  • 植物の上陸:陸上植物は緑藻類のうち接合藻類と最も近縁である.ゲノム解析からは接合藻類にも(おそらく土壌細菌から取り込んだと思われる)乾燥ストレスに関する遺伝子が見つかっており,共通祖先の段階で上陸した可能性がある.
  • 菌根菌は維管束植物だけでなくコケにも見つかっている.この菌根菌との共生は植物の上陸に当たって重要だったと考えられる.
  • 植物に窒素供給している根粒菌と腫瘍を作るリビゾウムが極めて近縁であることが最近わかった.共生の性格が容易に変化する実例と思われる,
  • 土壌生物バイオマスの70%が真菌,25%が細菌(残りは土壌動物など)と見られる.土壌微生物の多くは植物の根の周り(根圏)に集まる.根圏には有機物が豊富に存在するためと思われる.植物の発病を抑止するには土壌に多様な微生物が存在することが重要であるようだ.

 

第9章 反芻動物と共生微生物

 
第9章では特にウシなどの反芻動物と共生微生物が取り上げられている.

  • 鯨偶蹄目動物のうち,マメジカ科,キリン科,プロングホーン科,シカ科,ジャコウジカ科,ウシ科は反芻亜目を形成する.彼等は4つの胃を持ちルーメンと呼ばれる巨大な第一胃に共生微生物細菌のほか旋毛虫や鞭毛虫などの原生生物も大量に生息している)を住まわせてセルロース類を消化する.彼等は実質的に植物食ではなく微生物食の生物である.
  • 遺伝子解析による祖先形態復元によると鯨偶蹄目の祖先はかなり小さな動物だったようだ.反芻性が進化した後にルーメンの温度管理上の有利さから身体が大型化したと思われる.
  • 反芻胃のような共生微生物を持つ前胃構造はテングザルとツメバケイで独立に進化している.

 

第10章 昆虫の共生微生物

 
第10章は昆虫の共生微生物が扱われる*5

  • アブラムシ,セミ.ウンカ,カイガラムシなどの植物の樹液という低栄養の餌に頼っている昆虫はブフネラなどの共生微生物からタンパク質などを得ている.ゴキブリは雑食性だが,共生細菌により(栄養欠乏時に備えた)窒素分の貯蔵と再利用を行っている.
  • シロアリの腸には様々な微生物が共生し,木材の消化や窒素固定を行っている.木材のリグニンを分解するには担子菌微生物が重要になる.微生物叢は主に垂直伝達されるが,進化的なスケールでは水平伝達もあるようだ.水平伝達には共生細菌の遺伝的劣化を防ぐ作用があると思われる.
  • アリの系統樹を描くと肉食性のアリから何度も独立して植物食性のアリが進化し,そのたびにリビゾウムなどの窒素固定細菌と共生していることがわかる.アリは新しい共生細菌を取り込んで食性を変えてきたようだ.
  • カメムシ類の細菌叢の受け渡しは様々で,卵に細菌カプセルを添える方式,共生細菌を卵殻に塗りつける方式,世代ごとに環境から取り入れる方式などがある.

 

第11章 発酵食の歴史

 
最終第11章は発酵食.かなりくだけた章になっており,ワインやビールの起源,納豆,くさや,発酵漬け物,熟成肉などの蘊蓄が楽しそうに語られている.

  • 発酵と腐敗は生物学的には同じもので,この区別をするのは文化になる.発酵食品の好みは文化的に異なり,アイデンティティに基礎になることもある.また学習により好みが変化することがある.
  • 発酵は火を使わずに食物を柔らかく消化しやすくすることができ,ヒトの進化において火の発明と同じぐらい重要だったかもしれない.
  • 動物がアルコールを好み日常的に摂取している例はツパイなどいくつか知られている.
  • 現在世界中の酒造りに使われている酵母はサッカロミケス・ケレウィシアエの様々な株だ.系統解析によると起源地は中国で,「出中国」の後世界各地に広がり,それぞれの地域で「家畜化」され,酒を含む様々な発酵食品作りに使われるようになったらしい.
  • 日本酒造りには酵母のほか真菌のニホンコウジカビが重要になる.コウジカビが米の澱粉を酵母が扱える糖に分解する.「家畜化」の過程でカビ毒を作る遺伝子の機能が失われている.(ニホンコウジカビは日本独自の発酵菌で大陸ではクモノスカビが使われている)
  • ウーロン茶や紅茶などの発酵茶の発酵は葉に含まれる酵素による作用で微生物は関与しない.例外は中国のプーアール茶などの黒茶であり真菌が関与する.

  
本書は分子系統学の大家であった著者が退官しても知識欲衰えずに新しい分野の勉強を行い,自分の専門分野との関連をきちんととってまとめた一冊ということになる.論理的に緊密に何かを主張解説する本ではなく,時々脱線しながら面白いトピックを抜き出して解説してくれる本に仕上がっており,楽しくゆっくり読める.ヒトの腸内細菌叢と性格やパーソナリティの関連について触れられていないのがちょっと残念だが,私としては大変勉強になった一冊だ.

 
関連書籍
 
最近の長谷川政美の本.最後の「系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史」についての私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20150308/1425781515

ウンチ学博士のうんちく

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世界でいちばん素敵な進化の教室 (世界でいちばん素敵な教室)

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  • 発売日: 2019/02/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)

系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)

  • 作者:長谷川政美
  • 発売日: 2014/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:本書でも口絵には様々な写真が収録されているがそこに関連する系統曼荼羅が載せられている

*2:酸素放出型の光合成を行う微生物が存在しなければ,太陽光により水が分解され,分解された酸素が鉄と結合して取り去られ,残された水素は宇宙空間に失われ,不毛の惑星になった可能性が高いという考え方

*3:ただしこれと矛盾する「一卵性双生児の腸内細菌叢は二卵性双生児のそれに比べてよく似ている」という報告もあることが章末で指摘されている

*4:牛乳にはオリゴ糖がないそうだ.では何故ウシでは感染症防御のためにそうなっていないのか.哺乳類全体ではどうなのかに興味が持たれるが,解説はされていない

*5:ヴォルバキアもここにおさめてもよかったと思うが,宿主操作という特徴により第7章におくことにしたのだろう

From Darwin to Derrida その49

 

第6章 個体内コンフリクト その4

個人の中の意思決定のコンフリクト.衝動的な決定と理性的な決定について,ヘイグは基本的に衝動優先だが,特定条件で理性が上書きできるというモデルを提示した.このモデルの特定条件を「強い動機」とするとヒトは衝動を意思の力で克服できることになる.しかし物事はそう単純ではない.ヘイグの説明は核心に入っていく.

 
<心のモジュールからの説明>

  • しかし現実は上記のモデルよりはるかに複雑だ.本能は単一に統一されていないし,理性(これもある特別な種類の本能と考えられる)だってそうだ.脳の異なるパーツは異なるタスクを担っている.そしてどのパーツも全体像にアクセスできない.複数の心のモジュールが注意と影響を取り合う中での調整というのが心の構成原則になりうる.異なるモジュールは行動の指針を作るために異なる種類のデータを処理する.

 
進化心理学的には単に衝動的決定と理性的決定だけでなく,様々な(包括適応度上昇のための)目的ごとに多数の(適応産物としての)モジュールがあることになり,そして通常はモジュールとは呼ばないが)一般知性も1つの適応産物だと考えられる.この多数のモジュール間の調整はどうなされるのか.
 

  • 集合的決定のためにモジュール間でコミュニケートされるのは正当化の理屈ではなく選好性だろう.選好性を足し合わせて決定がなされるのだ.
  • ケネス・アローは社会的決定のために選好性を足し合わせるどんな方法も基本的な合理性の要求を満たし得ないことを証明した.彼の証明の前提はコミュニケートされる情報はランク付けされた選好性のみで,個人間で選好性の強さを比較できないというものだった.個人内の集合的選好性についても同じような制限があるのだろうか.

 
ここでアローの不可能性定理が登場する.アローの定理は要するに異なる基準を用いたランキングを合理的に統合することはできないということを意味している.もしモジュールの選好性が単純なランキング的選好であるのなら,これを合理的に統合して意思決定することはそもそも不可能だということになる.つまり意思決定は投票システムと同じであり,意思決定コンフリクトは不可避だということになる.
 

  • 私の主観的経験からいうと,動機が共通の通貨で表現されていないときに決定がより難しくなる.不倫の喜びとそれを我慢するメリットを直接比べられたら人生はずっと簡単になるだろう.しかし不倫の喜びと我慢によるメリットは全く違う種類の報酬になっている.

 
これは多くの人が経験することだろう.つまりモジュールの選考基準は同じでなく,いかにもアローの定理が当てはまりそうだということになる.
 

  • おそらく報酬の通貨が単一でないことには機能的な理由があるのだろう.長期的なメリットを得る場合と短期的なメリットを得る場合で報酬が異なる方がうまくいくのだろう.しかしそれは個人内の比較を困難にする.為替レートがあれば通貨間の価値を比較できるはずだが,この場合うまくいかないようだ.何故そうなのだろう.ある心のパーツと別の心のパーツの推奨行動の食い違いを比較なしにどう解決できるというのだろうか.
  • おそらく単一通貨制を用いないことにはコストだけでなくメリットがあるのだろう.多通貨制だと為替レートを変動させられる.これは様々な状況に対応するためにそのときどきの最適レートを設定できるという意味で適応的なのかもしれない.不倫の誘惑に駆られた女性はニューヨークにいるのとリアドにいるのでは全く異なるペイオフマトリクスに直面しているだろう.変動通貨制だと,彼女は状況を学習して為替レートを設定できる.

 
このヘイグの説明は興味深い.適応的に機能させるためにはそれぞれのモジュール(や理性)の選好基準は異なるものにした方が良く,その場合アローの定理が当てはまることになり合理的な統合的意思決定は不可能になる.だから私たちはしばしば個人内のコンフリクトを経験するというわけだ.