Virtue Signaling その5


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第4エッセイ 道徳的徳の性淘汰 その1

 
第4エッセイは2007年に出されたミラーの論文そのものだ.まずはこの論文についての背景説明.
 

  • 「Virtue Signaling」は最初はとても簡単な話に思える.しかし実際には「人々は消費の好みや政治的態度を見せびらかすことによって実際より善良であるようにみせかける」ということよりも遙かに深い.その深さを理解するには道徳的徳自体の進化的起源に戻って考える必要がある.その起源は自明ではない.ルーツを掘り返すのは一仕事なのだ.
  • このエッセイは徳の起源についての私の最深探索になり,本書のハートそのものだ.本書の中で最長で最もシステマティックでアカデミックなものだ.道徳的徳の性淘汰が理解できれば,ファーストデートやグリーン消費から政治までの「Virtue Signaling」の心理的な基礎が理解できる.

 

  • 私はこの論文をテニュア取得(2008年に取れた)に向かっている最中に書いた.テニュア取得には,私が大きな絵を思索する考察家であると受け取られるために一流誌にメジャーな理論的論文が掲載される必要があった.私はほとんどの心理学雑誌よりもQuartery Review of Biology誌の方が私の進化的な議論にオープンであることを知っていた.だからそこに投稿し,受理されたときには身震いした.Quarterly Review of Biology誌はかつてトリヴァースの互恵的利他論文を掲載したことがあるのだ.
  • 私はヒトの親切と利他性の起源に興味を持っていた.そしてこの論文の10年前にもそのテーマで論文(それは「The Mating Mind」の1章になっている)を書いている.しかしそれまでシステマティックで学術的に真剣な論文は書いていなかった.私はそれまで学んだ進化心理学,ゲーム理論,信号理論,利他行動,道徳哲学,ロマンスについてのすべてをこの論文に盛り込んだ.

 
というわけで本エッセイは本書収録の中で最長で,フォーマルな議論が繰り広げられるものになっている.ゆっくり見ていこう.
 

Sexual Selection for Moral Virtues. Quarterly Review of Biology, 82(2), 97-125 (2007)

 

  • ヒトにおいて美しい肢体は短期的な欲望をかき立て,魅力的で道徳的な行動は長期的な愛に火を付ける.性的装飾と道徳的徳は機能的類似物なのだろうか? 本論文はヒトのモラルが性淘汰により性的ディスプレイとして進化してきた可能性を探求するものだ.

 

  • 最もロマンティックに魅力的な特徴,つまり優しさ,勇気,正直,信頼はしばしばモラル的側面を持つ.
  • 最近の実証的リサーチは,多くのモラル的特徴が性的に魅力的であり,メンタルな適応度指標として機能しているらしいことを示唆している.それらはメンタルヘルス,脳の効率性,協力的な性的および子育てについての協力的関係をもたらすことについての正直なインディケーターとして機能している.つまり性的に魅力的な道徳的徳は(性淘汰理論,信号理論に従い)適応度についての騙しの難しい広告をするために進化したと考えられる.
  • この仮説は道徳的徳の少なくとも一部は性淘汰により形成されたというものになる.モラルに関連する共感や公正さに関する感覚は類人猿にも見つかっており,ヒトのモラルがすべて性淘汰で1から作られたわけではない.そうではなく,私は性淘汰は社会性類人猿として我々の祖先が持っていた標準的な徳をユニークで精妙なヒトの徳に強化したと考えているのだ.そしてこれまで主張されていた血縁淘汰,互恵性利他などの仮説を置き換えようとするものでもなく,それを補足するものだと考えている.

 

  • このモラル性淘汰説には長所と短所がある.これまでの考え方と異なるのは,本仮説においては性的魅力,同類配偶,遺伝分散,表現型分散,条件依存的コスト,顕示的ディスプレイ,ディスプレイが若い年代でピークを形成することをうまく説明できることだ.
  • そして血縁淘汰などの別のメカニズムで生じるモラルをより強化し,社会的選択として作用することにより極端でコスト高なモラル的行動を引き起こすことを予測する.血縁淘汰などのメカニズムだけでは個体に包括適応度的な生存メリットが必要になるが,配偶選択メカニズムが加わると遙かにコスト高な行動傾向が進化できるのだ.つまり配偶選択型性淘汰はその他の進化メカニズムにポジティブフィードバックメカニズムを付け加えてスーパーチャージするように働くのだ.

 

  • 一部の道徳的徳はシグナルとして魅力的(例えば競争力のシグナルとしての英雄的行為)なのだろう.また一部はそれ自体が魅力的な特徴(例えばフェアであることは長期的性的関係において望ましい)だろう.とはいえこの区別はトリッキーだ.というのはシグナルには常にフェイクの問題がつきまとうからだ.つきあい始めは愛想が良くていい感じの男性に思えたが,2〜3年経つと実は気むずかしくて厄介な男だとわかったりする.この場合の愛想の良さは(将来的な特徴のシグナルとして)信頼できないシグナルだということになる.
  • この問題を明確にするにはコストのあるシグナルの視点が有用だ.すべての道徳的徳のディスプレイは潜在的には不安的で信頼できないものである可能性がある.信頼性を見るにはコストの分析が重要なのだ.

 
(ここで進化的理由付けが意識的動機になっている必要がないことについて注意書きがある)
 

  • 本論文は性的魅力のあるパーソナリティと道徳的徳の間にかなりのオーバーラップがあると主張するが,すべての道徳的徳が性的魅力をもつとか,すべての性的魅力のある特徴が道徳的だとか主張するわけではない.人によっては異性のマキアベリアン的狡猾さや攻撃的な獰猛性に惹かれることもあるだろう.ヒトのセクシャリティは時に変態的になるし,ナイスガイが常にもてるわけでもない.悪徳が決して魅力的にならないわけではないのだ.

 

道徳的徳と徳倫理

 

  • 本論文は私の著書「The Mating Mind」で議論した内容を深め,2000年以降の実証的理論的研究,個人差研究,行動遺伝学,道徳哲学からの洞察を取り入れたものになっている.
  • 道徳哲学的視点は本論文で特に説明的な力を与えてくれたわけではない.また私は哲学者たちが歴史的に「徳」として考えてきたものが自然淘汰産物と一致するとも思っていない.しかしここで道徳哲学を持ち出すにはいくつかの理由がある.
  • まず徳倫理(virtue ethics)は伝統的な帰結主義(そしてこれは利他主義の血縁淘汰や互恵性の説明の基礎に使われている)に対して有用なカウンターバランスをもたらしてくれる.また徳倫理学は分析の焦点を個別の行為から安定的パーソナリティに転換させてくれる.さらに多くの徳倫理学者は他者の道徳的行動に対する認知的感情的反応を記載してくれていてこれはモラルシグナルに対する受信者心理分析の出発点として役に立つ.最後に徳倫理学は進化理論が今日の社会科学や人文科学へ影響を与える新しいルートになり得ると思うからだ.

ここまでが本論文の序論にあたるものになる.このミラーの性淘汰仮説はあくまで血縁淘汰や互恵性による利他主義の説明の補足,興味深いスーパーチャージャーだとしていることがわかる.またごく初期からパーソナリティとの関連を深く捉えていることもわかる.当倫理学へのコメントもなかなか興味深いものだ.

書評 「Outgrowing God」

Outgrowing God: A Beginner's Guide (English Edition)

Outgrowing God: A Beginner's Guide (English Edition)

 
本書はリチャード・ドーキンスの最新刊になる.ドーキンスは「The Selfish Gene(邦題:利己的な遺伝子)」で有名な進化生物学者だが,2006年に「The God Delusion(邦題:神は妄想である)」を著し,デネット,ハリス,ヒッチンズと並ぶ新無神論の主導者の1人となった.本書はそこで主張された新無神論をさらにかみ砕いて初心者向けに書き下ろしたものになる.2011年の「Magic of Reality (邦題:ドーキンス博士が教える「世界の秘密」)」では子ども向けに新無神論を含んだ内容を書いているが,想定読者層はそれより少し上からということなのだろう.
題名にある「outgrow」という動詞は(何かを超えて成長するというのが直接の意味だが)「子どもが成長して(おもちゃなどから)卒業する」という文脈で使われる.だから本書のタイトルは直訳的には「神様から卒業する」というほどの意味になるだろう.
 
序章やイントロダクションはなくいきなり第1部が始まる.
 

第1部 さようなら神様

 
第1部ではキリスト教,イスラム教などの教えがいかに奇妙で根拠の無い内容のものであるかが描かれる.
 

第1章 何と多くの神

 
ドーキンスは世界の多くの宗教が多神教であることから始めている.ギリシアやローマの神々の名を上げ,現代の西洋人はこの神々については無神論の立場に立っていることを指摘する.ここで一神教とされているキリスト教においても,父と子と精霊という三位一体教義,聖母マリア,様々な聖人,天使などの概念があり,多神教的であることをちょっと揶揄したのちに,核心に触れる.人はたまたまある宗教集団に生まれ,その神を信じるようになる.なぜたまたま自分が産まれた集団の神だけが正しくて,他集団の神が間違いだということになるのかという問いかけだ.
ここで不可知論についても1本入れている.不可知であること,つまり想像できるが誰もその不存在を証明できないことは何十億もあるが,その存在を信じるべき理由がない場合には普通はそれを信じない.我々は妖精やアポロ神に対してはそういう立場をとっている.なぜヤハウェだけ別扱いにするのかというわけだ.

 

第2章 でもそれって本当?

 
信仰者は信仰の理由としてしばしば聖書を持ち出す.では聖書はどの程度のものなのかが第2章のテーマだ.ドーキンスは伝言ゲームによる情報の劣化を説明した上で議論を始める.
最初は歴史的事実としてイエスは実在したか.ドーキンスは,4つの福音書は後代の書物で誰が書いたかもあやふやで信用できないし,パウロ書簡もイエスについての事実の記述がなく根拠とはしにくいが,ユダヤの歴史家ヨセフス,ローマの歴史家タキトゥスの記述を吟味すればそれは同時代的な記述であり,実在していた確率が高いとして良いだろうとする.
では聖書について同じように吟味するとどうなるか.福音書はイエスの死後何十年も経ってから書かれたまさに伝言ゲームの世界になっており,互いに矛盾する記述もある.そこに書かれているイエスが起こした奇跡についてはケネディ暗殺を巡る陰謀論と同じようなものだと示唆する.
そしてこの調子で,ヨハネの黙示録など福音書以外の新約聖書も事実を示す記述として信用できないものであることを延々と示していく.このあたりは現在キリスト教と聖書を何となく信じている人に対する丁寧なガイドということになるだろう.4つの福音書以外の様々な福音書の内容とそれが新約聖書に含められなかった理由の推測はなかなか面白い.そしてある記述を信じるかどうかを決めるに際しては,その記述にあることが本当に生じそうな確率とその記述が嘘である確率を比較することを勧めている.
 

第3章 神話とその起源

 
第3章は引き続いて旧約聖書を取り上げる.旧約聖書を理解するには,それは1つの神話であり,それがどう始まるのかを考察するのが良いというのがドーキンスの示唆になる.そしてアブラハム,エジプトからの脱出などの事実性についてまず何の根拠もないことを示す.しかしバビロン捕囚については歴史的な事実である証拠がある.つまり旧約聖書はそれが書かれた紀元前6世紀頃の事実と神話の混合物なのだ.ここも丁寧に紀元前6世紀以前の記述についてはでたらめだったり(家畜化された年代から見てアブラハムがラクダに乗って移動したはずはない)他民族の神話や伝承の借用(ノアの方舟の原型がシュメール神話にある)であることを延々と解説している.
そして神話は事実ではなく,それはいとも簡単に始まって広まりうるということをエルビス伝説,ニューギニアのカーゴカルト,モンティパイソンの「ブライアンの人生」,モルモン教の例を上げて説明している.
 

第4章 善の本か?

 
多くの宗教者は聖書には道徳が書かれており,それは聖書を信じる理由になる,あるいは聖書なしでは善悪が相対的になりこの世は地獄になると主張する.これが第4章のテーマになる.
ここでは旧約の神がいかに残酷で(ノアの洪水,イサクの燔祭),他神への信仰に対してジェラシーの塊である(他神信仰部族に対してジェノサイドを命じている)ことを示していく.次に新約では原罪への執着のすさまじさ(キリストの贖罪をよく考えるといかに醜悪な論理であるか)を指摘している.
 

第5章 善であるためには神が必要なのか?

 
宗教が善悪を教えないと人々は自分勝手な善悪の判断をして社会が崩壊するのか.アメリカでは今でもそう信じている人が多い.ドーキンスは,バーニー・サンダースを民主党の大統領候補にしないために,クリントン派がサンダースは無神論者ではないかというキャンペーンを行うことを検討したという逸話を紹介しつつ,この問題を論じる.
 
まず「神は天から人々を見張っている警官だ」という考え方を取り上げる.ドーキンスは誰から見られているところでは良い人であるように振る舞うという傾向は(残念ながら)確かにヒトの本性の一部だと認める.そして聖書では恐ろしい罰があると警告している.(ここでドーキンスは,ありそうもない罰であるほどそれは恐ろしいものだと強調せざるを得なくなるのだと示唆している)
しかし実証的に調べると,信仰心と行動傾向に相関はない.アメリカでは囚人がキリスト教徒である確率は無神論者である確率より750倍も高い(もちろんそう申告した方が仮釈放されやすいだろうというのが背景にあるだろうとはドーキンスも認めている)のだ.
 
次は「聖書は人々に良いロールモデルを与えている」という考えを吟味する.本当にそうなのか,ドーキンスはここで十戒を1つずつ吟味する.ちょっと詳しく紹介しよう

  • (1)「他神を信仰するな」(2)「偶像を崇拝するな」:この2つは単にジェラシーに過ぎないだろう.
  • (3)「神の名をみだりに用いるな」(4)「安息日に働くな」:これらがそんなに邪悪な犯罪なのだろうか.
  • (5)「父母を敬え」:これはナイスだ
  • (6)「人を殺すな」:確かにこれは重大な犯罪だが,(一神教以外も含んだ)どのような法体系でもこれは犯罪とされている.そして聖書の中では他部族への殺人は罪とされていない.旧約ではこれは「自分と同じ部族の人を殺すな」という狭い意味でしかない.
  • (7)「浮気をするな」:これはわかりやすいが,しかし結婚が破綻しているなど許される状況があってもいい.
  • (8)「盗みをするな」:これに異論はない.そしてやはりどのような法体系でもこれは犯罪とされている.
  • (9)「隣人に対して偽証するな」:確かに偽証はするべきではない.しかしなぜ隣人にだけ限定するのか
  • (10)「隣人の財産,妻.奴隷,家畜をうらやむな」:行動ベースでないものを犯罪とすべきだろうか.そして妻を財産扱いするのはどうなのか.

要するに十戒は時代遅れなのだ.そしてそこが重要だ.我々は紀元前6世紀から前に進んでいるのだ.
 
続いてドーキンスは新約に進む.「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というのは旧約にある報復主義を超えていてイエスは時代を先取りしていたと評価できる.しかしイエスが報復主義的な行動をした記述(マタイ伝:無花果の奇跡)もある.信仰のため家族を捨てるように命じる記述(ルカ伝:イエスに従うことの困難)もある.
そしてこのような記述に直面した現代の宗教家は,これを寓話だとして取捨選択する.ここがドーキンスの力点になる.一体その取捨選択する基準はどこから来るのだろうか(それが聖書にあるはずはない)というわけだ.
 

第6章 善をどう決めるのか?

 
ドーキンスはまずヒトの本性に利他的な部分があることを指摘し,しかし実際の道徳規準は時代と共に大きく移り変わっていることを強調する.旧約の世界ではもちろん,アメリカでもリンカーンの時代まで奴隷制は存続していたし,戦争時の残虐性の基準は第2次世界大戦以降大きく変化している.
なぜ変化するのか.ドーキンスはピンカーを引用しながら,それは我々が互いに影響を与え合っているからだと説明している.そしてここで道徳哲学を初心者向けに概説している.この帰結主義者と絶対主義者の対話篇は面白い.
そこまで予習した上で「善であるために神が必要か」の議論に戻る.我々の道徳的価値観は時代と共に変化している.それは聖書に固定されたような道徳律には収まらない.そして実際に我々の持っている21世紀の道徳観は聖書の道徳観と合わないのだ.つまり道徳を理由とした宗教擁護は成り立たないということになる.
 

第2部 進化,そしてそれを超えて

 
ドーキンスは第1部で,神を信じる根拠として,宗教が真実を教えているから,宗教が道徳の基礎であるからという議論を否定した.しかしもう1つ神を信じる動機がある.それはこの精妙で美しい世界にはデザイナーがいるはずだという感覚だ.第2部はここを取り扱う.そしてそれはドーキンスが新無神論にたどりついた理由でもある「進化」の説明が含まれる.
 

第7章 この世界にはデザイナーがいるはずなのか?

 
ドーキンスは様々な生物界の精妙なデザインを挙げる.ガゼルとチータの(草原を疾走する能力の)アームレース,カメレオンの舌,シャコの超高速パンチ,タコの体色変化,脳と神経細胞の複雑性,細胞内の化学反応の精妙さ,クジャクの羽の美しさといかにも楽しそうに解説する.これらの背後に完璧なデザイナーを見てしまうのはある意味無理もない話になる.
この議論に対してドーキンスはまずデザインが完璧でないこと,(脊椎動物の眼の盲点や反回神経の経路など)を指摘し,そしてもしこのデザイナーがチータにガゼルを狩る能力をデザインし,ガゼルにチータから逃れるデザインしたのだとすると,そもそも彼は一体何を意図しているのだろうかと問いかける.つまり全能のデザイナーは説明にならないのだ.
 
なおタコの体色変化についてのこの動画が紹介されている.何度見ても驚きの映像だ.

Octopus vulgaris Camouflage Change
 

第8章 ありそうもなさへのステップ

 
なぜ人々は適応形質の背後にデザイナーがいると感じるのか,それはその形質の(偶然で生じると考えるときの)ありそうもなさ(improbability)から来る.人々は形質の説明には偶然かデザインかの二択しかないと考えるからだ.これはウィリアム・ペイリーの議論でもある.
ダーウィンはここに3番目の選択肢を与えたのだ.ドーキンスは自然淘汰の説明に入る.この解説はさすがに手練れの手によるものでトレードオフやアームレースに踏み込み,簡潔で深い.
  

第9章 結晶とジグソーパズル

 
ここからドーキンスは適応産物が形作られる至近メカニズムの説明に入る.初心者に納得してもらうにはそこも重要だという判断だろう.最初に結晶の成長のメカニズムを解説し,そこからバクテリオファージの形成原理(3次元ジグソーパズル),化学反応と触媒の原理,そして様々な物質が細胞内でセルフアセンブリーされる仕組みに進む.この自動組立の鍵になるのは触媒のオンオフ調整であり,それがDNAによってなされていることまで解説される.
 

第10章 ボトムアップかトップダウンか

 
では生物個体はどう組み立てられるのか.ドーキンスは発生の仕組みに進む.発生がうまく進むことには強い自然淘汰圧がかかる.ここでドーキンスの十八番である「DNAによる発生指令はレシピであって設計図ではない」という概念が強調される.本書ではシロアリのアリ塚とバルセロナのサグラダファミリアの違いとして解説されている.このあと実際の発生の進行(分割,胞胚,原口形成)が図解され,この様子はレシピ的なコンピュータプログラムでかなりうまくシミュレートされることが示されている.
 

第11章 我々は宗教的になるように進化したのか.我々は善に向かって進化したのか

 
生物界のデザインは自然淘汰で説明できる.ではヒトの宗教心もそうなのだろうか.ドーキンスはおそらくそうだろうと答え,物事の背後にエージェンシーとその意図があると過剰に感じる傾向が,重大なリスクに対する火災報知器原理によって説明できること,両親や身近な大人に教示されたことを信じる傾向もそれが進化環境で有利だったとして説明できることを指摘し,神を信じる傾向はそれらの副産物として理解できると主張している.これは宗教の副産物説ということになる.
ドーキンスはここで副産物説とは別のミーム的な説明や「宗教がそれが属するグループや国家に有利だったから」というグループ淘汰的説明(これは真の進化的説明ではないがとことわりつつ,イスラム帝国やラテンアメリカのスペイン征服地の増大はそういう側面があるし,集団内の団結心に役立つこともあるだろうと認めている)も紹介している.ただここでは様々に互いに排他的でない説明があるというところにとどめている.ここで深入りするのは本書の目的から見て得策ではないということだろう.
 
続いて(宗教なしに善悪があるのかという問いかけに対する回答として)善の基礎の進化もここで扱っている.ここもあまり深入りせずに,血縁淘汰的説明,互恵利他的説明を簡単に行うにとどめている.しかしそれは基礎的な部分に過ぎず,現在のヒトの道徳を論じるなら時代と共に変わっていくいわば学習された道徳規準が重要なのだとコメントしている.いずれにせよ神を信じる心自体進化で説明でき,善であるために神が必要なわけではないのだというのが本章の結論になる.
 

第12章 科学から勇気をもらおう

 
ここまでの議論をしても宗教擁護派はギャップの神(まだ科学で説明されていないことは神の領域だとする主張)に逃げ込む.これに対するドーキンスの答えが本章の議論になる.それは最初にギャップだと思われたことでも科学が常識的にとても信じられないような答えを出してきたこと,そしてそれが真実だったことを見ていこう,その真実に立ち向かう勇気を持とうということだ.そしてその例としてガリレオの力学,月は地球に対して自由落下しており質量はあっても重量を持たないこと,地動説,大陸移動説,原子核と電子のあり方から見ると通常の物質はほとんど真空からなること,分子や原子の小ささ(あなたが今飲んでいるコップ一杯の飲み物にカエサルの尿に含まれていた原子が1個以上含まれている確率はほぼ100%であること),特殊相対性理論,量子論が挙げられている.
 
ここでドーキンスは後付けで考えるといかにも単純な自然淘汰の議論がなぜ19世紀まで見過ごされていたのかを考察している.そしてそれは自然界の複雑さ,美しさ,目的論的デザインがあまりにも強力に知性を持つデザイナー説を指し示しているように感じられ,そこを飛び越えるにはとびきり大きな知的勇気が必要だったからだろうとコメントしている.
そしてそのような勇気を持って取り組むべきなお解決されていない問題の例として物理定数の決定問題をあげ,この解決もマルチバース説と人間原理を用いれば見通せるのではないかとしている.ドーキンスは最後に,この見通しが真実だとするのはまだ早いが,これまでの科学の軌跡を考えれば,勇気を持って立ち向かい,成長し,神様から卒業できると思うと述べて本書を終えている. 
 
新無神論を世に問うた「The God Delusion」は,論敵として宗教家,哲学者,宗教擁護的リベラルインテリなどを想定しており,ややテクニカルな議論が多く,厳しい指摘や皮肉っぽい批判もあって,多くの普通の人々に必ずしも共感を持ってもらえるような本ではなかっただろう.本書はそこを埋めるべき本で,神の実在に何となく疑いを持っているがなお踏み出していないような人達に向けて優しくカミングアウトの手伝いをするという本としてよくできている.宗教の主張は真実ではなく,宗教なしでも道徳は崩壊せず,自然界のデザインや宗教心自身も唯物的に説明できるのだというところに絞って扱っているのもそういう趣旨だろう.私的には結晶から発生のところの説明振りがなかなか楽しい一冊だったという感想だ.
 
 
関連書籍

ドーキンスが新無神論を世に問うた本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20070221/1172066931

The God Delusion (English Edition)

The God Delusion (English Edition)

 
同邦訳.

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 
第8章関連では唯一邦訳されていないドーキンス本.なかなか楽しい本だけに未邦訳のまま取り残されているのは残念だ.

Climbing Mount Improbable (English Edition)

Climbing Mount Improbable (English Edition)

Virtue Signaling その4


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第3エッセイ なぜわざわざしゃべるのか

 
次のミラーのエッセイは言語について
 

  • 1990年代,私はポピュラーサイエンスの雑誌である「New Scientist」誌の大ファンだった.私の最初の本「The Mating Mind」に対しては好意的な書評を掲載してくれたし,執筆者や編集者に知り合いもできた.2002年に彼等は「科学におけるビッグクエッション」という特集を組むことにし,私に寄稿するようにいってきた.
  • 当時何がビッグクエッションなのかはよくわからなかったが,言語と信号理論についてはしばらく考えていた.「The Mating Mind」においても言語について1章をさいたし,1994年に出たピンカーの「The Language Instinct」,1996年のダンバーの「Grooming, Gossip, and the Evolution of Language」,1997年のディーコンの「The Symbolic Species」に魅せられていた.それまで100年間も評判が悪く単に思弁的であるに過ぎないと思われていた「言語の進化」への興味についてのルネサンスが1990年代に始まりかけていたのだ.
  • しかしこれらの言語進化理論はキーイッシューを見逃していると思った.これこそビッグクエッションだ.これらの理論はみな人々がなぜ情報を持っている他人の話を聞くのかを説明していた.しかしこれらはそもそもなぜヒトは内容のあるコンテンツを話すのかについて説明していなかった.それがこのエッセイの焦点だ.

 
確かにこれらの本はみな90年代に出版され,非常に刺激的だった.ピンカーとダンバーについては出版直後に入手して読んだことを思い出す.
 

The Language Instinct: How The Mind Creates Language (P.S.) (English Edition)

The Language Instinct: How The Mind Creates Language (P.S.) (English Edition)

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

  • 作者: スティーブンピンカー,Steven Pinker,椋田直子
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 1995/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Grooming, Gossip and the Evolution of Language (English Edition)

Grooming, Gossip and the Evolution of Language (English Edition)

ことばの起源―猿の毛づくろい、人のゴシップ

ことばの起源―猿の毛づくろい、人のゴシップ

The Symbolic Species: The Co-evolution of Language and the Brain (English Edition)

The Symbolic Species: The Co-evolution of Language and the Brain (English Edition)

ヒトはいかにして人となったか―言語と脳の共進化

ヒトはいかにして人となったか―言語と脳の共進化

 

How did language evolve?   In H. Swain(Ed.) Big Questions in Science, pp. 79-90 (2002)

 

  • 私たちはしゃべる.チンパンジーはしゃべらない.なぜだろうか.言語を説明することはヒトの進化におけるビッグクエッションであり,進化心理学にとってもキーになるチャレンジだ.しかし動物のコミュニケーションを調べれば調べるほどヒトの言語は謎めいて見えるようになる.
  • 25年前には言語を説明するのは容易だと思われていた.ジョン・ファイファーは1960年代の後半に「言語は後期旧石器時代革命と同時に進化したに違いない」と論じた.ヨーロッパで4万年前に生じた突然の洞窟絵画や彫刻や埋葬儀式や複雑な道具の出現と同時に言語も現れたと説明したのだ.フィリップ・リーバーマンは1970年代の初めに喉の化石の構造から見てネアンデルタール人は言葉をしゃべらなかったと主張した.そしてコンラード・ローレンツのような動物行動学者は「動物は世界についての有用な情報を共有する」というさらにナイーブな見解を持っていた.
  • これらの主張を合わせるとこぎれいな物語になる.「言語はヒト以外のどの種にも現れなかった.それはヒトにおいてのみ4万年前にグループ内で情報を共有するために進化した.一旦言語が進化すると私たちはすぐに文化,文明,そして引用カウントを発明した」

 

  • 問題は新しく得られた証拠に照らし合わせるとこれらの主張はなり立たないということだ.
  • 言語が4万年前に進化したのなら,サブサハラアフリカの人々やオーストラリアアボリジニが言語を持っているのをどう説明するのだろうか.言語がヒトのユニバーサルで,サピエンスが少なくとも10万年前にアフリカに出現したのであれば,その時点で言語はあったはずなのだ.古生物学者はネアンデルタール人についてのリーバーマンの主張も覆した.確かに彼等はサピエンスの言語の母音のいくつかを発音しにくかったかもしれないが,その喉の構造は全くしゃべれないというものではなかったのだ.
  • 最も重要なのは1978年にドーキンスとクレブスが動物コミュニケーションについての考え方を革新してしまったことだ.彼等は動物たちが有用な情報をライバルである同種個体に広く共有しようとするはずがないと指摘した.そのような共有は利他的であって進化するのは難しいのだ.
  • このドーキンス/クレブス革命以降,生物学者は動物たちが送っている信号のほとんどは世界についての情報などではないことを見いだしてきた.それは送信者の情報だったのだ.
  • 多くの動物信号は送信者の種,性別,年齢,場所を示す.それ以外では送信者のニーズというものもある(鳥のヒナが餌をねだる場合はそうだ).そして最もありふれているのは送信者の質を示すものだ.その健康,エネルギーレベル,頭の良さ,優れた遺伝子を示して,捕食者をあきらめさせ,性的ライバルを撤退させ,求愛するのだ.それは例えば「僕は健康なオスだよ,交尾しよう」といっているのだ.シグナル自体は込み入っているいることもあるが,そのメッセージは驚くほどシンプルなのだ.
  • 動物は滅多に世界のありようについての情報の交換をしない.確かに働き蜂は餌のありかをダンスで示すし,警戒コールを行う動物もいる.これらの信号であっても,それはシンプルで定型的だ.そしてそれ以外の場合動物たちは世界の情報に対しては非常に寡黙なのだ.
  • これらを考えると,ヒトの言語は進化的視点から見て謎に満ちている.なぜ私たちは真実でもなく,誰かに関わり合いがあるわけでもないことをわざわざしゃべるのだろう.ここで進化的に見ると,誰かのためやグループのためにしゃべるというのは説明にならないこと,言語が何らかの突然変異で一気に現れたりしないことを理解しておくのは重要だ.
  • 心理学,言語学,遺伝学の証拠からみてヒトの言語は複雑な適応産物だ.それは漸進的に進化したはずであり,発言者のメリットがコストを(平均して)上回り続けたことを意味する.コストとは有用な情報をライバルに与えてしまうことだ.では発言者のメリットは何だろう.多くの議論は発言者のメリットを考察していない.これはピンカーやビッカートンやディーコンの議論の弱点だ.そしてこれは(言語の理解のみを調べる)類人猿言語リサーチプロジェクトの弱点でもある.
  • ロビン・ダンバーの議論はこのメリットを考慮している.彼は言語は類人猿の毛繕いの延長だと主張した.グループ内での社会関係を築くことができるのは発言者のメリットでありうる.
  • ダンバー説の問題は,なぜおしゃべりにコンテンツがあるのかを説明できないことだ.毛繕いの延長なら単に意味のない声を出して歌っていても十分なはずだ.ダンバーは毛繕いの延長だからこそ私たちの会話のほとんどは無意味なのだと冗談めかして語っているが,しかしその内容が無意味だとしても,そもそも天気やカリフォルニアの電力事情について話すのはなぜなのだろうか.

 

  • この問題を解決するには1986年に人類学者のロビンズ・バーリングが提唱した理論をアプデートする必要があると考える.バーリングはすべての社会で男たちはその発話能力で社会的地位を得るのであり,その社会的地位は魅力的な女性たちとの繁殖機会で報われるのだと主張した.つまり言語は鳥のさえずりを同じく性淘汰産物だということだ.
  • 問題はバーリング説はなぜ女性もしゃべるのかを説明していないことだ.多くの性淘汰装飾はオスのみに発現する.多くの動物ではオスが求愛アピールを行い,メスが選ぶからだ.鳥のメスはさえずらない.ではなぜヒトの女性はしゃべるのか.
  • 「The Mating Mind」において私はなぜ男性も女性も面白いことを言おうとするのかを理解しようと試みた.多くのほかの霊長類と異なり,ヒトは長期的性的関係を形成し,その中で子どもを作り育てる.ヒトの男性はどの霊長類のオスよりも子育てに投資するので,長期的相手を選ぶときにより選り好もうとするのだ.祖先の男性が女性の相手をしゃべる能力に基づいて選り好んだら,女性もしゃべるように進化するだろう.つまり双方向配偶者選択が言語能力が両性に見られることを説明する鍵になる.
  • バーリング説はダンバー説と同じく,コンテンツの問題を解決できていない.私は脳の大きな動物は求愛時に何を見せびらかすようになりやすいのかを考えるといいと思う.知性が生存と社会生活にとって重要ならそれを求愛相手に広告するのは良い考えだ.そして言語は豊富なコンテンツを扱えるのでそのインディケーターとして特別に優れている.私たちは思考やフィーリングを言葉に込める.だから求愛相手はその思考やフィーリングに触れることができるのだ.私たちは言語を通じて相手の心を読むことができる.だから(単に身体や装飾ではなく)その心によって相手を選り好むことができる.ほかのどんな動物にもこんな事はできない.
  • 言語は,私たちの祖先が配偶相手を相手が考えていること,覚えていること,想像できることを元に選んだからこそ進化したのだ.先史時代のシラノやシェラザードは(口べたな)ホーマー・シンプソンよりうまくやれただろう.彼等はいつも真実をしゃべっていたわけではない.しかし彼等の言語能力は彼等自身について,その質の高さやパーソナリティについては真実を語っていたのだ.そしてそれこそ配偶相手を選ぶ上では重要なのだ.
  • 現在言語は単に求愛に使われているだけではない.しかしその起源は,その他の動物の複雑なシグナルと同じく.祖先たちが恋に落ちたやり方にあるのだと考えている.

 
改めて読んでみて,この言語起源性淘汰産物説は説得的だと思う.言語はしゃべっている内容の真実性を担保するようにはデザインされていない.しかし発言者の質については確かに真実を語っているのだ.今日この説明は言語進化周りであまり聞くことはないが,再考に値するものだろう.おそらくミラーもそう考えてここに収めたのだと思う.

Virtue Signaling その3


amzn.to

第2エッセイ ハンディキャップ原理

 
第2エッセイはザハヴィが提唱し,グラフェンが数理モデル化して世に受け入れられたハンディキャップ原理が採り上げられている.オリジナルはザハヴィの本への書評文であり,この書評についての解説はこうなされている.

  • スタンフォードの院にいたとき(1987~1992),私は配偶者選択型の性淘汰の理論とリサーチに取り憑かれていた.それはとても魅力的で力強く刺激的な進化プロセスに思えた.私はピーター・トッドと性淘汰のコンピュータシミュレーションアルゴリズムを開発し,共著で論文を書き,学生に性淘汰を教え,1993年にヒトの脳の増大を性淘汰で説明する論文を書いた.この論文はその後「The Mating Mind」につながった.
  • 性淘汰の様々な理論を吟味しているときにアモツ・ザハヴィのハンディキャップ原理の論文(1975)に出合った.それは非常に反直感的な議論でその真偽は当時進化生物学の大きな論争になっていた.しかしそれは私に突き刺さった.一旦ザハヴィのアイデアになじむとその適用範囲はあらゆる場所に広がることが実感できる.1990年代の中頃にはザハヴィのアイデアは最も深い進化理論の1つだと考えるようになっていた.それは進化心理学だけでなくゲーム理論,信号理論,消費理論,政治にも適用可能だ.そしてそれはヒトの「Virtue Signaling」のコアにあるのだ.
  • だから私はザハヴィ夫妻が1997年にハンディキャップ原理を解説する本「The handicap principle」を出版したときには大変嬉しかった.そしてEvolution and Human Behavior誌にこの書評を書いた.
  • 1年後この原理に関するカンファレンスをロンドンで開いた.そしてザハヴィその人を講演者の1人として招くことができた.ザハヴィは「ハンディキャップ原理が,単に性淘汰装飾だけでなく,私たちの行動についての理解を深めるかについての素晴らしく刺激的で野心的な講演をしてくれた.そしてそのヒトの行動には「Virtue Signaling」も含まれるのだ.

  

The Handicap Principle: A Missing Piece of Darwin's Puzzle (English Edition)

The Handicap Principle: A Missing Piece of Darwin's Puzzle (English Edition)

生物進化とハンディキャップ原理―性選択と利他行動の謎を解く

生物進化とハンディキャップ原理―性選択と利他行動の謎を解く

  • 作者: アモツザハヴィ,アヴィシャグザハヴィ,長谷川眞理子,Amotz Zahavi,Avishag Zahavi,大貫昌子
  • 出版社/メーカー: 白揚社
  • 発売日: 2001/06/10
  • メディア: 単行本
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Book review of ‘The handicap principle’ by Amotz & Avishag Zahavi Evolution and Human Behavior, 19(5), 343-347 (1998)

 

  • 進化は効率性を最大化する.でしょ? 自然淘汰は適応度を最大化し,コストを最小化するように働くはずだ.このダーウィニアン効率性原理は明白で普遍的に思われる.
  • しかしこの重要で魅惑的で突飛な本はこの効率性原理が成り立たない状況を指し示す.それはとても特異的で限定的状況のように思われるかもしれないが実際には非常に広い.ハンディキャップ原理は,ある生物個体が別の生物個体に自分の「質の高さ」を示そうとするときに,唯一の可能な方法はそれを大きな適応度コストとして示すことだと主張するものだ.つまり「効率的な」シグナルでは質の高さを伝えられないのだ.馬鹿げた無駄遣いでしかそれを示すことはできない.(クジャクの羽の例をあげて具体的な説明がある)
  • この考えは奇妙で反直感的に思えるが,しかし私は正しいと思う.そしてこれは進化心理学とヒトの行動について非常に広いインプリケーションを持つ.
  • この原理はダーウィンの性淘汰理論,ハミルトンの血縁淘汰理論,トリヴァースの互恵性理論に比肩できるほど重要だ.そしてそれは配偶者選択リサーチの基礎となり,利他行動について血縁淘汰に対するラディカルな代替理論を提供する.本書には推測も多く含まれ詳細には誤りも含まれるだろう.しかし本書は進化生物学者と心理学者にとっては必読書だ.

 

本書について

 

  • 本書はザハヴィ夫妻によって書かれ,その娘夫妻によってヘブライ語から英語に翻訳されている.美しいクジャクの羽の絵がデザインされたカバーが掛かり,素晴らしいイラストにあふれている.
  • 4ページのイントロダクションで彼等の議論が簡潔に要約されており,例としてはガゼルのストッティングが使われている.この例は生物学的なゲームで真にゼロサムであるものは非常に少ないことをよく示していると思う.捕食者と餌動物でさえ時に共通の利益を持ち,それがコミュニケーションの基礎となるのだ.
  • 本書ではハンディキャップ原理を用いた信号の例が広く何百も紹介されている.その中には警告色,オス間の儀式的闘争,配偶者選択,親子コンフリクト,社会性昆虫のフェロモンシステム,鳥の共同ねぐら,そして粘菌の細胞間のシグナルが含まれる.
  • いくつかの章の議論は非常に説得的で,いくつかの章のそれはやや怪しげだ.しかし通説に挑戦する著者の気概は新鮮だ.読んでいくとなお多くの動物行動がまだグループ淘汰的なフレームで理解されていることに気づかされる.ザハヴィはそのような(いかがわしい)議論を強い怒りと皮肉を込めてたたきつぶしている.本書の理論的明晰性と革命的オーラは大学のセミナーでのケーススタディにもってこいだろう.

 

ハンディキャップ理論の苦難

 

  • ハンディキャップ原理は最初1975年に(つまり20年以上前に)アモツ・ザハヴィによって提唱された.それは性淘汰を巡る理論生物学に論争を巻き起こした.そしてごく最近1990年代になってから受け入れられ始めた.それでもまだ多くの生物学者にとってこの原理は,ネッカーキューブのように,あるときに自明に思え,そしてあるときには数理生物学の深い謎あるいは矛盾に思えるようだ.
  • 自明というのは校庭で子どもが何かを主張するにはとんでもないことをやらかすのが一番であるのは明らかだし,ウェブレンの顕示的消費の議論にも似ているところがあるからだ.
  • 片方で矛盾というのはこういうことだ.ハンディキャップ原理は信号が効率的な信号であるためには非効率的な無駄を要求されることを意味する.しかしこれは適応の基本的基準である効率性,安定性,種内普遍性,複雑性と相容れないように思われるのだ.ハンディキャップシグナルは非効率的で,安定性がなく(個体が少しでも弱ると信号は瓦解する),種内で異なるのだ.そして複雑である必要はない,単にコスト高であればいいのだ.
  • いずれにせよハンディキャップ原理の存在により適応の同定については新しい基準が必要になった.進化心理学のヒトの行動の適応を同定する基準にも改定が必要だ.
  • 1つの例は音楽だ.これまで多くの論者が音楽についてその才能に個人差が大きく,コスト高で機能がなさそうであるので適応ではないと見做してきた(ピンカーのチーズケーキ説はその1つだ).しかしハンディキャップ原理によるとこれはまさに質のシグナルとして期待される特徴になる.
  • 実際に本書は方法論的な悪夢であり,多くの論者にとって受け入れがたいかもしれない.ザハヴィは本書において様々な戦略の共進化を提示しているが,正式なゲーム理論モデルとそのナッシュ均衡の形を用いているわけではなく,示している均衡がただ1つであることも示していない.多くは反直感的な機能的仮説の形で示され,実験的証拠や信号の変異が機能にどう影響を与えるかの議論を提示していない.フィールドの観察とその機能についての推測が述べられているだけだ.
  • 著者については読むものの視点によって(1)ドーキンスを超えるハイパー適応主義者(2)フロイトのような興味深いエセ科学者(3)ヴィクトリア朝博物学者(4)動物の信号理論,性淘汰理論,血縁淘汰理論,利他行動理論に新しい活力を吹き込む情熱的で創造的な生物学者など異なって見えるだろう.私はこの最後の視点をとる.

 

  • しかしながらヒトの行動に適応主義を適用することに懐疑的な生物学者は次のようなことを指摘するだろう.「それはいかにもパングロス的だ.もしヒトの心の特徴が効率的で安定性がありユニバーサルであればそれをダーウィニアン適応と呼び,しかしそれが非効率的ですぐに瓦解し個体差が大きいのならそれはザハヴィアンハンディキャップと呼ぶというのだから.適応とハンディキャップの基準が完全な相補性を持つ以上,それは何も説明できていないだろう」
  • この非難を避けるために進化心理学者は適応を認識するための方法論的基準を持たねばならない.
  • ハンディキャップ原理は,個人差は大きく,遺伝性が高く,多くのヒトの社会的経済的文化的求愛的行動は互いに自分の質の高さを広告しているものだということを示唆している.これはコスミデスたちのヒトの心のユニバーサルな特徴についての標準的な見方と異なるものになる.ハンディキャップ原理は個人差について進化心理学に再考を促しているのだ.おそらくハンディキャップ原理は進化心理学と行動遺伝学の奇妙な愛と憎しみの関係の橋渡しをすることができるだろう.

 

利他性

 

  • 本書の目玉は第12章におけるアラビアチメドリの観察を元にしたザハヴィの互恵性利他仮説への力強い批判だろう.ザハヴィはこの群集性の鳥を30年にわたって観察し,多くの利他行動を見つけた.彼等は捕食者に対する見張り役(歩哨)として行動し,非血縁個体と餌を分け合い,共同営巣し,捕食者にモビングする.
  • 互恵性利他仮説は彼等が(他個体に利他行動を押しつけようと)騙し合おうとすることを予測する.しかしチメドリたちは逆に利他行動を行うことを競い合うのだ.優位個体は積極的に歩哨役を務め,それを代わって行おうとする劣位個体を攻撃する.ザハヴィは優位個体は利他行動をハンディキャップシグナルとして自分の質を広告しているのだと主張している.
  • 特に興味深いのはザハヴィがハンディキャップ原理を利他行動についての(ゲーム理論的な精査にも耐えうる)グループ淘汰的議論に用いていることだ.
  • ザハヴィは2つの鳥のグループを想定し,質の広告のハンディキャップシグナルとして片方のグループは浪費的な餌の散財を,片方のグループはコストの高い利他行動を用いた場合を議論している.どちらのシグナルもゲーム理論的にはパレート最適な均衡になっていて,グループはそこから動けない.しかしグループ間では利他行動をシグナルとするグループの方が有利になる.
  • これはよくある伝統的なグループ淘汰とは異なり,(利他的行動シグナルは結局その個体の利益につながっているから)グループ内での個体利益とグループ利益のコンフリクトは存在しない.しかしながらそれは(ヒトに見られるような)純粋の利他行動への橋渡しをすることができるかもしれない.それは性淘汰を受けたハンディキャップ型利他主義ということになる.

 
 
私がハンディキャップ理論を最初に知ったのはドーキンスの「The selfish gene」の邦訳初版(当時の邦題は「生物=生存機械論」というひどいものだった.1980年)で,こんなとてつもない議論があるのだと(やや懐疑的に)紹介しているのを1986年頃読んだときだ.そしてその後「利己的な遺伝子」に改題された第二版(1991年)で,それはおそらく正しいのだとグラフェンの数理モデルの要旨と共に註において解説されていた.そしてそのグラフェンの数理モデルが論文として出版されると共に行動生態学で受け入れられていく.このグラフェンの数理モデルは大変重要な仕事だと思うが,日本語で数理的な詳細が解説されているものは私が知る限りない.大変残念なことだ.
 

利己的な遺伝子 (科学選書)

利己的な遺伝子 (科学選書)

  • 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1991/02/28
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提唱者ザハヴィ自身による「The handicap principle」は出版直後にニューヨークの書店で発見してそのまま読み始めた記憶がある.様々なイラストと共に説得的な議論が展開され非常に面白かったのを良く覚えている.私が手にしたハードカバーも表紙カバーはクジャクだった.ミラーが「Virtue Signaling」の表紙にやはりクジャクの羽を使っているのは,このザハヴィ本へのオマージュでもあるのだろう.
 
アラビアチメドリの見張り役に関するザハヴィの議論も印象的でよく覚えている.現在ではハンディキャップ原理による利他性の説明は,血縁淘汰や直接互恵性,間接互恵性を補足するものとして捉えられていることが多いと思う.グループ間で異なるシグナルが用いられたときの利他行動がシグナルになったグループの有利性の議論がこの本にあったことは忘れていた.この議論はまさに「協力的な種」でボウルズとギンタスが得意そうに「弱いグループ淘汰」として定式化していた議論そのもので,彼等があそこにザハヴィを引用していないのはまたも醜悪な取り扱いだといわざるを得ないだろう.

 
いろいろ問題含みのボウルズとギンタスの「協力する種」.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20180314/1520983936

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

  • 作者: サミュエル・ボウルズ,ハーバート・ギンタス,竹澤正哲,高橋伸幸,大槻久,稲葉美里,波多野礼佳
  • 出版社/メーカー: NTT出版
  • 発売日: 2017/01/31
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書評 「思考と意味の取り扱いガイド」

思考と意味の取扱いガイド

思考と意味の取扱いガイド

  • 作者: レイ・ジャッケンドフ,大堀壽夫,貝森有祐,山泉実
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/06/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書はレイ・ジャッケンドフによるこれまでに形作ってきた思考や意味についての考え方をまとめた本になる.ジャッケンドフはもともとチョムスキーのもとで生成文法を学び,その後認知的視点から言語,思考,意味について考察を深めてきた.その考察は膨大なものになるが,本書ではエビデンスの詳細には踏み込まずに,ジャッケンドフのアイデアの筋道を語る形になっている,
 

第1部 言語,言葉,意味

 
冒頭で「言語と思考の関係はどうなっているのか」という問題が提起される.そしてジャッケンドフはこの問題を取り扱うにあたって「日常的視点」と「認知的視点」を峻別し,本書はどこまでも認知的視点から問題を考察していくという方針を示す.そして過去多くの認知科学からの言語への取り組みは「文法」を考えるものだったが,本書は「意味」を考えるのだとする.そして本書は「思考と意味はほぼ完全に無意識的である」ことを読者に納得させるために書かれたと宣言する.なかなかスリリングな始め方だ.
 
ジャッケンドフは最初に「言語とは何か」を扱う.まず(チョムスキー直伝の)心的文法を解説し,具体的な場面ではまず伝えたい思考が先にあり相手も同じ心的文法を持つことを前提に心的文法を用いて発話するのだとする.

  • 個別の言語とは各人の頭にある心的文法を便宜上同じものと見做して理想化したものであり,だから言語は話者の頭の中にある.
  • これは認知的視点からの見方であり,多くの哲学者は日常的視点から考え言語を話者から独立した抽象的な存在物として扱っているので話が噛み合わないのだ.(またこの2つの視点の違いは脳神経学的視点に「還元」しても解決しないともコメントしている)

 
ジャッケンドフは「意味」に話を進める.

  • 語の意味も視点により変わってくる.語によっては単一の視点からしか意味を持たないものもある(「洗濯物」「がらくた」には日常的な意味しかないが,「微分可能」「c制御」には専門的な意味しかない).意味は視点に部分的に依存している.
  • 「語」は,物理的視点から見ると音響特性があるだけだが,認知的視点から見ると人々の頭の中にある体系の一部であり,それぞれ個人的な心的辞書に格納されていることになる.そしてこの視点から見ると「語の理解」とは,部分的にはその音と既に知っている音の最も良い合致を見つけることであり,部分的には話者が何について話しているのかを推測することだ.これらは無意識的に行われる.そしてどこまでが同じ語でどこからが同音異義語であるかも視点に依存する.
  • さらに「mean: 意味する」という語を分析すると極めて複雑な状況が現れる.これはまず客観的用法として翻訳,定義,実演,説明を表し,さらに連関を表すこともあり,その場合には因果,意図が表現される.文法フレームによっては影響を表すことができる.また登場人物の主観的なとらえ方,連関という用法もある.この上に「mean」には「意地悪な」「平均値」という意味もある.(ジャッケンドフはこの極めてゴテゴテした状況はごく普通なのだと強調している)

 
ここまでもかなりややこしいが,実は意味について考察するための準備段階だった.ジャッケンドフは「意味とは何か,どこにあるのか」に話を進める.代名詞「これ」や「文」の有意味性は何と関係しているのか.プラトンは語の意味についてイデアを持ち出した.一部の言語学はこれまで語や文の意味を抽象的な「深層構造」や「論理形式」から考察してきた.これらのアプローチの結論は「我々は意味を直接認識できない」ということだとジャッケンドフは言う.意味は(意識から)隠れているのだ.そして意味の性質を整理する.

  1. 意味は発音と結びついている(ソシュールの恣意性)
  2. 文の意味はその部分の意味から組み立てられている(フレーゲ流の構成性)
  3. 翻訳は意味を保持しなければならない
  4. 意味は言語と世界を結びつけなければならない(指示機能)
  5. 意味は相互につながっていなければならない(推論機能)
  6. 意味は隠れたものである

音と意味のペアの意味サイドは「それと結びついた音声が有意味であるという感覚」を生みだすことを除けば無意識のものだというのがジャッケンドフの主張になる.さらに意味が視覚イメージではあり得ないこと,語の意味は(認知的視点では)連続的であり離散的ではないこと(ウィトゲンシュタインの家族的類似性*1)を説明し,さらにフレーゲ流の構成性を語用論を用いて拡張する(推意と談話の接続,省略.指示転移.アスペクト共生が解説されている).
 
そしてジャッケンドフは言語と思考の関係に進む.

  • 語の意味が概念だとすると,文の意味はそれが表現する思考になる.しかしすべての概念や思考が語や文の意味だとは限らない.多くの概念や思考は言語でうまく表すことができないのだ(例として明暗パターンの詳細,楽器の音色などが挙げられている) 
  • 哲学者は「命題」について議論するが,それは話し手から独立して真か偽を決められるものであり,思考そのものではない.
  • 概念や思考は言語のようなものだとする議論もあるが,概念や思考自体は発音を持たず,発音と結びついているだけだ.このような議論は発音は単なる音に過ぎず非本質的だと考えているのだろうが,認知的視点に立って言語がどのように話者に機能するかを考えれば発音は極めて重要だ.

そしてジャッケンドフは最後にサピア-ウォーフ仮説にもコメントする.仮説支持者は様々な例(位置関係を山の斜面の上下で表すツェルタル語,ジェンダーを持つ言語の話者と持たない言語の話者に表れる連想の差など)を引き,それらは確かに違いを示しているが「大勢に影響はない」とする.そして人々の考え方の違いには,言語よりも文化や政治的立場の方があるかに大きな影響があると指摘する.思考の根本的な違いを生みだすのに言語の違いは必須ではないということだろう.
 

第2部 意識と知覚

 
ジェッケンドフは第1部で提示した「意味は隠れている」ということを深く掘り下げる.

  • プラトンのイデアは言語を外在的なものと捉える視点によるもので,人々が言語をどのように使うかを説明するには役に立たない.ある意味,プラトンは「意味は我々からあまりに隔たったものだ」と考えているといってもよい.
  • 認知的視点に立つなら意味は我々に近しいものであり,心のなかのアクセスできない部分(つまり無意識)にあるのだ.我々は発音のまとまりが有意味であるときも,その意味を直接知覚できない.我々が意味の存在を意識するのは発音が意味と結びついて知覚可能な「取っ手」として働くからだ.(これをジャッケンドフは意味の無意識仮説と呼んでいる)

 
ではこの仮説はどう検証されるのか.ジャッケンドフは仮説が支持できることを示すいくつかの現象をあげている.

  • 同じ意味を表す2つの文を前にその共通の意味は何なのかを述べるのは難しく,言い換えを繰り返すしかない.
  • アスペクト強制がどんな意味を付加しているかを説明するのも実は難しい.
  • 「考えが閃いたが,どう表せばいいかわからない」という状況は,意味が無意識にあるのだが発音の取っ手が提示されないために表に出てこられないという状況だと解釈できる.我々が思考の内容を意識できるのは発音と結びついているときだけなのだ.

 
ここからジャッケンドフは「意識とは何か」という問題に進む.意味の時と同じように「consciousness: 意識」「conscious: 意識している」という語の分析を行ったあと,哲学史的に解説を行う(デカルト,フロイト,行動主義,認知革命,ハードプロブレムまで扱われている).

  • 「意識とは何か」に答える良い方法は脳の視点,認知的視点(コンピュータ的視点)に立つことであり,そうすれば「ニューロン発火と情報処理のいかなるパターンが経験のいかなる側面と相関するのか」を問うことができる.
  • なぜそれが経験を成立させるのかを知るにはハードプロブレムが立ちふさがるが,それに答える前にも多くの進歩を期待できる.

 
ジャッケンドフはもう一度意味の無意識仮説に戻り,さらに掘り下げる.

  • 認知的視点からは言語表現は音韻論(発音),統語論(文法),意味論という3つのデータ構造からなっている.意味論は思考に関わるデータ構造ということになる.意味の無意識仮説からするとこの3つのデータ構造で思考の経験と最も近似するのは音韻論になる.
  • つまり発音が意識的思考の主要な認知相関物になる.この結びつきが発音の有意味性の感覚を生む.心/脳は音韻,文法,意味の構造を結びつけなければならず,結果的に音と意味が一体になる.
  • 外部からの音はまず無意識の聴覚入力で処理される.そして意識的な心のなかで既存の発音と結びつきがあるか調べられ(イメージモニター)イメージの存在感覚(特性タグ)を意識の認知的相関物として生む.さらに発音と思考の間に結びつきがあるかどうかが調べられ(有意味性モニター),「取っ手」のあるものは有意味性の感覚(特性タグ)を意識の認知的相関物として生む.それは無意識の思考につながる.この中間部分が意識的思考になる.

 
ここでジャッケンドフは意味の無意識仮説と対立する考え方を扱う.知性(思考)と意識を同一視する考え方,「意識はニューロンの一般的特性だ」という考え,「意識は1種の執行部だ」という考え,「意識はメタ認知だ」という考え,「意識は広域作業空間だ」という考えに,これらは人が頭の中で言語として「思考を聞く」という経験に注意を向けず,意味と発音にかかる2つの異なるデータ構造を分けて考えていないのだと批判している.
 
ここからジャッケンドフは言語の認知処理と視覚イメージの認知的処理の類似性を提示する.

  • この2つの認知処理には多くの平行現象が見られる.視覚認知処理で「発音」にあたるのは視覚表層になる.視覚認知において,多義的図形の認知,イメージの補完,矛盾した内容の表現が観察できる.視覚イメージが成立するには膨大な量の(無意識的)心的計算が関わっている.
  • それは言語の認知処理でも同じで,膨大な無意識の過程がある.
  • ではこの2つの認知処理は思考とどう関わるのか.「空間構造」にはより視覚的処理が相関し,「概念構造」にはより言語的処理が相関するだろう.そして空間構造と概念構造は無意識の中で結びついて思考を形成する.

ジャッケンドフはこの2つの認知処理と2つの構造がどう結びつくかを,さらにタイプ/トークンの概念構造の差をどう処理するのかという例を用いて詳細に論じている.また似たようなことはほかの感覚の認知処理でも生じていることにも触れている.
 
ジャッケンドフは「特性タグ」についても掘り下げる.

  • 特性タグは経験の全体的な性格を特徴付ける.
  • 視覚的認知の場合,外部世界の何かを見たとき,光が目に入り,脳は視覚表層を作る.これは視覚的意識の認知的相関物だ.
  • この時これは頭の中ではなく外部世界の現実だと認識する.(視覚的経験を鮮明にイメージしただけの時と比べてみて)それは視覚表層と目からの入力の間に結びつき(現実性の特性タグ)があるから現実と認識できると考えるべきだということになる.
  • 有意味性や現実性以外の特性タグとしては,親近性と新奇性,肯定性と否定性,聖なるもの,自己制御性と非自己制御性(自由意思と深く関わる)がある.(それぞれ詳細に議論されていて面白い)

 

第3部 指示と真理

 
第3部では意味のいくつかの特徴が掘り下げられていく.まず最初に「意味の指示機能:意味(の少なくともその一部)は世界と結びつくことができる」を取り上げる.ここは難解だ.

  • いかにして言語で表現されたものが外部世界と結びつくのか.言語使用者は知っている個物に対しそのトークン特徴を付与した概念構造をコード化する.それはすべての内容特徴と特性タグの両方が組み合わされており「指示参照ファイル」と呼ぶべきものになる.言語表現はこの支持参照ファイルに結びついていれば外部世界の何かを指示することになる.言語についてはただこれだけだが,認知的視点に立つと,問題は人が指示を行うために言語表現をどう使うかということになる.
  • 言語哲学はしばしば日常的視点に立っているために,人によって指示参照ファイルが異なる場合「『あのマティーニを飲んでいる男』が本当は水を飲んでいればどうなるのか」などの問題で身動きが取れなくなる.しかし認知的視点に立てば,話者と受け手が互いに理解するに至ったかどうかだけを考えればよいことになる.
  • メタ形而上学は,実在論「あるものは実在するのか」とデフレーション論「我々は実在をどう語るのか」の問題を分けるように発展してきているが,第3の視点認知的立場をまだ発見していない.この立場に立つと形而上学的な問いは「人の心はどのような種類の存在物を世界に登場させているか」になる.話し手は聞き手に対して代名詞を使って同じ視覚表層からあらゆる種類の解釈を引き出すことができる.これらは空間構造や概念構造にコード化され,指示参照ファイルを獲得する.(種類として物体,物体のタイプ,音,場所,動作,長さなどの例が解説される)これらは対象の存在ではなく,我々の理解に関わるものだ.

さらにジャッケンドフは,これらが対象そのものではなく対象についての絵画,お話し,話者の想像(思考)となったときの状況を解説し,画像について考えたり話したりするのと,思考について考えたり話したりするのはほぼ同じ方法によっていることを示し,思考についても指示参照ファイルがあるとする.また,我々は無生物,生物,人を異なる存在として理解し,「人には身体と魂があり(異なる存在として別々の特性タグがつきうる),社会関係,社会的役割,権利,義務,道徳的責任を持つ」と理解していることを認知的視点から見た言語の用法から解説している.さらに我々は「私という存在の重要性」「神聖という感覚」を持ち,それが日常的視点を形成し,大衆の科学への反発の底にあるのだろうとコメントしている.
 
ジャッケンドフは次に「真理」を扱う.ヒトの心は「真理には根底に何か純粋な本質がある」と考える誘惑に弱いがそれに負けるわけにはいかないのだとコメントされている.そして最初は「true(truth)」についての言語学的な分析だ.

  • 哲学者は平叙文について「true: 真」だとする用法を用いる(反対語は「false: 偽」になる).これは文が世界のあり方に対応していれば「真」だということになる.疑問文,命令文,提案,遂行文についてはこの用法で真であることはできない.平叙文であっても冗談であれば真であるという特徴付けをされない.
  • もう1つの用法は「Xについての真実」「Xについての真の原因」のような用法で,「false」が反対語にならず,隠れた意味論的要素を持ち,genuine, realで言い換え可能だ.この用法は緩やかに拡張可能で,家族的類似性を示す.
  • 第1の用法において,ある文が真かどうかはどう判定できるのか.哲学者はしばしば日常的視点に立ち「『XがYである』という文が真であるのは.XがYである場合,そしてその場合に限り真である」などという.しかしこのような理論は「現在のフランス王はハゲである」「ボストンからニューヨークまでの距離は200マイルだ」「シャーロック・ホームズは英国人だ」のような文の真偽判定には無力だ.つまり文の真偽判定には,それがどのような世界についてのことかという判断が必要なのだ.
  • 認知的視点に立つと,問題は「我々はある言明をどうやって真であると把握するようになるのか,そしてどうしてそれは不変であると感じられるようになるのか」となる.
  • 文を真あるいは偽と判断すると,文と連合している感覚(特性タグ)によって経験の中に刻印される.(ある絵についての言明がどう判断されるのかについて知覚経験,空間構造,概念構造を用いた認知メカニズムの詳しい説明がある)
  • 「真だ」「偽だ」とは異なる特性タグもある.例えば「何かおかしい」という特性タグは2つの情報源が矛盾しているときに生じる.「なじみ」「新奇」「実在」「イメージ」などもそうだ.

 

第4部 理性と直感

 
第4部では合理的思考と直感が取り扱われる.まずルイス・キャロルが「亀がアキレスに言ったこと」で提示した問題を扱う.

  • 我々はなぜ古典的三段論法を使うことができるのか.三段論法を使うためには,三段論法の論理の骨格と具体的な命題を対応させなければならない.これを知るには対応のルールが必要になる.そしてその対応のルールに従っているかどうかもそれを決めるルールが必要になる.こうして議論は無限後退する.これがキャロルの指摘した問題だ.
  • また三段論法をきちんと使うには,具体的命題が単に文の文法形式だけ三段論法に対応していてもダメで,特定の論理形式にしたがっている必要がある.これは問題が表面的な文法だけでは解決せずに,文の意味が問題になることを意味する.しかし意味は(意識から)隠れている.だからこれについて明示的な対応ルールを作るのは不可能なのだ.
  • そして我々が具体的命題が三段論法の論理形式に沿っていると判断するのは,結局「ああ,そうか」という直観的判断によって支えられている.
  • 結局いわゆる「合理的判断」という理想を実現するのは不可能だ.合理的思考として経験するものは究極的には自分の直感を基礎にするほかないからだ.合理的経験の認知的相関物は,前提と結論の発音,それらが有意味であるという感覚,結論が有効だという感覚だ.
  • 一般に合理的思考と呼ばれるものは直感的思考からなる膨大で複雑は背景なしでは生じ得ない.つまりいわゆるシステム2はシステム1と不可分なのだ.システム2とはおそらくシステム1プラス言語(といくつかの取っ手と結びついたその他の思考形式)だ.

 

  • そして我々の日常的判断のほとんどは直感的に行われている.直感的推論は(それがどのように動作しているか認識できないというだけで)決してでたらめではない.重要なことは,直観的判断力は進化の産物であり,多くの直感的方略は多くの場合かなりうまくいくということだ.
  • では合理的判断はどのように役に立つのだろうか.ポイントは発音という取っ手によって思考のそれ自体の指示参照ファイルを与えることができるというところだ.これにより,発音し終わったあとでも文は手の届くところに存在できる.それを別の形で感じたり思い出すことが可能になる.そしてそれを操作し,矛盾を感じたり,思考の背後にある理由や原因の探求を始めることができる.また文と文の関係を直観的に判断するという推論が可能になる.
  • こうした言語による操作は我々の思考にとって極めて重要だ.それは仮想世界を可能にし,さらに思考と思考の関係を考察することを可能にする.

 

  • しかし合理的判断には落とし穴もある.まず取っ手はあるかないかの離散的なものとして認知されやすいが,現実の世界は多くの場合連続的だということがある.またそれを表す語がないとその概念が認識されない可能性がある.無意味な文を作ることも可能だし,それに有意味性の「オーラ」を与えて相手を操作することも可能になる.さらに話し手は自己欺瞞的にこの操作に気づかないこともある.

 
ここでジャッケンドフはこれらのことを説明するのに室内管弦楽のメタファーを提示する.ブラームスの管弦楽の解釈を巡って楽団メンバー間で議論が行われるのだが,合理的思考の基礎に直感があること,特に共通の目的を追求するときには合理的思考が重要であること,相手への感受性,何かがおかしいという感覚の重要性が示されている.ジャッケンドフはこれらの合理的思考あるいは「クリティカルシンキング」は,言語化により取っ手を付けて記憶して操作できる能力を通じてのみ可能であり,科学もまたそうなのだと強調している.ここで芸術系の人文学の意義(それは論理的真を求めるのではなく,表層が持つ特性を楽しむところにある)にも踏み込んでいるのは面白い.そして最後に理性は言語化された直感だともう一度強調し,視点を俯瞰する視点(特定の視点に縛られないこと)の重要性を指摘して本書を終えている.
 
以上が本書のあらましになる.言語と思考について認知科学的に考え抜いてきたジャッケンドフの現在の到達点が示されているということになるのだろう.言語処理において膨大な無意識的過程があるというのは理解していたつもりだったが,意味についても無意識下に隠れていて,意識は発音と結びついた「有意味性」という取っ手しか持たないというのは衝撃的な議論だ.ジャッケンドフは言語分析,認知的な視点からの分析を駆使して,これを説得的に提示している.そしてこの「意味」は語の意味にとどまらず,文の意味(つまり思考)にも当てはまる.無意識下にある思考は様々な特性タグを通じてのみ意識されるということになる.この展開も衝撃的だ.そして最後に,しかし言語により取っ手を与えられ,文の意味を意識下で操作できることによりヒトの知性の地平線は大きく広がったのだと力強く主張されている.これは進化心理学的な「意識の報道官仮説」に対するジャッケンドフの意識の進化仮説ということなのかもしれない.認知,言語,意識,二重過程論に興味のある人には大変面白い本だと思う.


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原書

A User's Guide to Thought and Meaning (English Edition)

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ジャッケンドフの本(邦訳のあるもの)

言語の基盤―脳・意味・文法・進化

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Foundations of Language: Brain, Meaning, Grammar, Evolution

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心のパターン―言語の認知科学入門

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*1:どこまで薄くなったら「ハゲ」と言えるのかという例を用いている