書評 「The Genetic Book of the Dead」

 
本書はリチャード・ドーキンスの最新刊.ドーキンスはすでに83歳だが,なお執筆意欲高く本を出してくれるのには感謝しかない.ドーキンスといえば「利己的な遺伝子」を始めとする進化生物学の啓蒙書だが,ここ15年ほどは,新無神論本,自伝,書評集,エッセイ集が中心だった.しかし2022年に「Flights of Fancy: Defying Gravity by Design and Evolution(邦訳:ドーキンスが語る飛翔全史)」で,久々に進化生物学の啓蒙書を出してくれ,そして今回本書の出版ということになる.
題名のThe Genetic Book of the Deadからは,これはゲノム本かと思っていたのだが,読んでみると,まさにドーキンスらしく利己的な遺伝子と表現型が議論の中心になっている*1.その中では,「利己的な遺伝子」,「延長された表現型」などで繰り広げられた議論が簡潔にブラッシュアップされている部分もあり,ある意味ドーキンスにとって(自伝とはまた異なる角度で書かれた)これまでの学者人生振り返りの本なのかもしれない.
 

第1章 動物*2を読む

 
冒頭は「あなたは一冊の本なのだ」という一文から始まる.生物の身体(表現型)とゲノム(遺伝子型)にはその祖先がたどってきた過去が自然淘汰を経て書き込まれているという意味だ.そしてこの「死者の遺伝子本」の内容はその生物にとっての将来の予測であり,過去環境のモデルとなる.ドーキンスはここで古代の羊皮紙(palimpsest)を比喩として持ち出す.それは一部消しては新しく書き込まれるということを延々と繰り返してきた書き物なのだ.
ここから,その羊皮紙に書かれている内容を上からみていくことになる.
最上層にはその生物自体の過去(知覚内容,学習内容,免疫記憶など)が書かれている.ここでは脳には現実世界のVRモデルがあること,それを解読することは現時点では出来ないが,原理的には可能であること*3が指摘されている.
2層目に行く前に,自然淘汰について解説がある.自然淘汰は遺伝子プールに対して働き,それをより建設的な方向に(適応的に)彫刻していく.そして有性生殖による組み替えがあることにより,遺伝子プールはデータベースになり,種は平均化計算機として働くことになる.
 

第2章 絵画と彫刻

 
続いて「死者の遺伝子本」の次の層,ある種について自然淘汰により書き込まれた部分,そのうち特に(我々から見て)解読しやすい部分が取り上げられる.
最もわかりやすいのはカモフラージュ(比喩として「絵画」が使われている)だ.これはまさにその生物種がたどってきた環境の見た目が生物の表面に描かれている.ここでは地衣類そっくりの模様を背中に持つトカゲやカエル,樹木そっくりに見えるフクロウやヨタカ,小枝に見える昆虫の幼虫,漂う海藻の切れ端のようなタツノオトシゴ,ライチョウの冬の白色,葉っぱのようなヤモリなどが紹介されている.オオシモフリエダシャクの工業暗化,トラの縞模様が二色型色覚しかないシカなどからみて完璧に機能するカモフラージュになっていることなどにも触れている.
次は擬態(比喩として「彫刻」).育児嚢を小魚に似せている二枚貝ランプシリス(大きな魚に襲わせて,幼体をそのエラに寄生させる),尻尾の先をクモに似せて獲物を釣るヘビ,ハチに似たアブなどが紹介されている.ここでは危険なものへの擬態として,警告色,チョウやガの眼状紋*4,ウツボのように見えるタコのポーズ,胸から上がより大きな鳥の頭に見えるハゲワシのポーズなどが紹介されている.
 

第3章 羊皮紙のさらに深くに

 
第3章では,さらに深く,種分岐を越えて祖先系列において自然淘汰により書き込まれた部分を扱う.
ドーキンスはすべての生命が海から始まったことを取り上げる.陸上生物であっても海中生活の名残が羊皮紙の深い部分に書き込まれているのだ.脊椎動物の陸上進出,それについてのローマーの干ばつと連続した水たまり仮説*5にちょっと触れたあと,一旦陸上進出した脊椎動物の水中への再進出が取り上げられる.
ここではなぜクジラやジュゴンはエラを進化させなかったのか(肺を捨ててエラを再進化させる方向に進むよりも,今ある肺を上手く利用する方が容易だった),ウミヘビの解決法(基本は肺を使うが,一部の酸素を頭部の血流を増やして水中で皮膚呼吸を行うことにより得ている),ウミガメの解決法(同じく一部の酸素を総排出腔を用いた皮膚呼吸で得ている),水中に戻ったことにより巨大化が可能になったこと(クジラやステラーカイギュウ),イクチオサウルスとイルカの収斂などを取り上げたあと,水陸を往復したカメの進化史*6が詳しく解説されている.
続いて自然淘汰が羊皮紙に重ね書きしていくために生じる様々な事象として,既存のデザイン設計を少しづつ上書きすることしか出来ないために生じる「進化のバッドデザイン」(脊椎動物の網膜と神経の配線と盲点,反回神経の配線など),発生の初期に働く羊皮紙の基礎層ではしばしば保守的なデザインが生まれること(脊椎動物の骨格,節足動物のセグメントパターンなど),上書きにより使われなくなった記述が偽遺伝子化することなどが取り上げられている.
 

第4章 リバースエンジニアリング

 
第4章では自然淘汰による生物進化(適応)がパーフェクトなものに向かって進むことといわゆる「進化の制約」の関係が議論される.これは昔のグールドとのスパンドレル論争の今日的な整理ということになるだろう.
ドーキンスはまず適応主義者も認める「進化の制約」を5種類*7(タイムラグ,歴史的制約,遺伝的多様性の欠如,コストによる制約,環境の予測不可能性や捕食者や寄生者の対抗進化によるもの*8)挙げ,ここから反適応論者が主張する(上記5点に含まれない)いくつかの制約に反論していく.

  • 「不利な形態,生理,行動にかかる変異のうち,トリビアルすぎて自然淘汰が見逃すものがある」というルウォンティンの議論:不利になる目に見えるような形態や行動を自然淘汰が見逃すはずがない.ごくわずかな不利でも世代を繰り返せば頻度差が増幅されていく.自然淘汰はヒトの観察眼よりはるかに敏感に不利な変異を淘汰するだろう.
  • 自然淘汰は必ずしも最適を目指さない,十分によければいいという議論:自然の競争は厳しい,十分によいだけのものは最適なものに簡単に淘汰されるだろう*9

 
ここから進化生物学者がとる「リバースエンジニアリング」手法が解説される.例としては古代ギリシア時代の遺物であるアンティキティラ島の機械がどのような目的のために作られたかの解明が挙げられている.
そこから一見完璧から離れて見える進化産物についてリバースエンジニアリングを用いて見えてくるもの,具体的にはアームレースにおける最終産物,コストとのトレードオフ,羊皮紙の深い層にかかる制約,動物の身体内部がぐちゃぐちゃに見えること,胚発生からの発達を経て身体を作らなければならないことによる制約などが解説されている.
続いてリバースエンジニアリング的な考察の具体例がいくつか取り上げられている.キリンの頭部に十分な酸素を供給するための心臓と血管系,哺乳類の頭骨とその生態の関係(肉食獣と草食獣の違い,例えば歯の形状と目のつき方,具体例として剣歯虎の牙と裂肉歯と待ち伏せ型の狩り,蟻食動物,魚食動物の頭骨の特徴が取り上げられている),同じく哺乳類の消化器系と生態の関係,ヒトの歯の特徴とランガムの調理仮説,鳥類のクチバシ形状と生態などが詳しく解説されている.
そしてリバースエンジニアリング的に動物を比較すると,同じ問題に対して同じ解決法がしばしば進化していることがわかる.それが次章のテーマになる.
 

第5章 共通の問題と共通の解決

 
第5章のテーマは収斂になる.ドーキンスは進化の力の強さはカモフラージュの完璧さによく現れているが,もう1つ,収斂現象も強い印象を与えると言っている.
ここからは次々に印象的な収斂の例が紹介される.フクロオオカミとイヌ,パカ(南米の齧歯類)とマメジカ,アルマジロとセンザンコウとダンゴムシの防御姿勢,頭足類の眼と脊椎動物の眼,ハゲワシとコンドルがまず紹介される.
次に旧世界のヤマアラシと新世界のヤマアラシの類似が齧歯類の中での収斂であること,針による防御が様々な哺乳類(2つのヤマアラシ,ハリネズミ,テンレック,ハリモグラ)で進化したこと,滑空も様々な哺乳類で進化したこと(モモンガ,ウロコオリス,ヒヨケザル,フクロモモンガ),オーストラリアの有袋類と旧世界の有胎盤類の様々な収斂*10,地中生活への収斂(モグラ,メクラネズミ,キンモグラ(アフリカ獣類),フクロモグラ(有袋類)),大きな牙を持つスミドロン(剣歯虎)とニムラブス(偽剣歯虎)とティラコスミルス(有袋類).エコロケーション*11(イルカとコウモリ*12,そしてより原始的なエコロケーションがアブラヨタカ,アナツバメに見られる),電気魚(南米のデンキウナギとアフリカのギュムナルクス),電気センサーを持つクチバシ(カモノハシとヘラチョウザメ),鳥の偽傷行動(鳥類において何度も独立に進化している),掃除魚行動(魚類だけでなくエビでも何度も独立に進化している)が紹介される.
この中でドーキンスは種間GWAS(IGWAS)による収斂遺伝子の探索を提案している.大規模に行えば例えば哺乳類のゲノムを水生生活次元とか樹上性次元などで分析できることになる*13
 

第6章 1つのテーマについての多様性

 
第6章のテーマは適応放散.
クジラが一旦海に戻ったあと,重力の制約から逃れて多様化したこと,硬骨魚の適応放散とその結果の多様性(タツノオトシゴ,アンコウ*14,ミノカサゴ,マンボウなど),恐竜絶滅後の哺乳類の放散,ヴィクトリア湖のシクリッドが短期間で多様化したこと*15,甲殻類の多様性*16とボディプランの制約,それに関するダーシー・トンプソンの甲羅の変形の議論が解説されている.
 

第7章 生きている記憶

 
第7章では羊皮紙の最上層に戻る.つまり学習や記憶が扱われる*17
スキナーのオペラント条件づけ理論とスキナーボックス,自然淘汰との類似点,報酬と罰とそれにかかる脳の仕組み,そして何を報酬と感じ何を罰と感じるかが自然淘汰により形作られること*18,人為淘汰により動物にそれまで罰や痛みとして感じられていた刺激を報酬と感じさせることが出来るように育種可能かもしれないこと*19,鳥のさえずりにおける遺伝と学習の多様な関係*20,クレブスとドーキンスによる動物のシグナル伝達の理論(シグナルは発信者が受信者を操作しようとしているものと考える*21),操作とそれへの対抗というアームレースとマインドリーディング能力の進化,動物の文化伝達,免疫記憶*22,日焼けや高地適応,カメレオンやヒラメやタコによるカモフラージュ的体色模様変化や擬態などが扱われる.
最後は脳によるシミュレーションやイマジネーションも扱われ,そのような能力ももちろん自然淘汰により進化したとコメントされている.
 

第8章 不滅の遺伝子

 
本書はここまで「死者の遺伝子本」に何が書かれているのかの具体例を挙げてきた.ここからはこの背景にある「進化についての遺伝子視点」を語っていくことになる.これはドーキンスの「利己的な遺伝子」から「進化の存在証明」までの進化本の中心的なメッセージであり,80歳を越えてもう一度読者に伝えておこうという趣旨だろう.
第8章は「利己的な遺伝子」で提示されたテーマが中心になり,「利己的な遺伝子」に対する(誤解から生まれた)批判が整理され,それに反論する形になっている.少し詳しく紹介しよう.

冒頭では誤解からの批判の最新版デニス・ノーブルによる「Dance to the Tune of Life」が取り上げられている.

  • ノーブルは「○○のための遺伝子」なるものは存在しない,遺伝子は分子を作るための道具に過ぎず,それは直接的原因(active causes)ではない」と主張する.そうではない,自然淘汰が作用するためには遺伝子こそが必須要因であり,遺伝子が生物体(つまりヴィークル)を利用して将来へ旅しているのだ.
  • ノーブルのコメントは科学史家チャールズ・シンガーによる「生物学の因果には特権的なレベルは存在しない」という考えと共鳴している.しかし生命体がどれほど様々なレベルにおいて複雑に相互依存しているとしても自然淘汰を考えるならそこには因果の特権的レベルが存在し,それは遺伝子のレベルなのだ.
  • もちろん分子的実体としての遺伝子には寿命があるが,遺伝子の持つ情報は,無限にコピー可能であるがため潜在的に永遠で原理的に不滅であり,因果的に強力だ.
  • そして遺伝子が変異すれば次世代の表現型が変更しうることは実験的にも示せる.それは直接的原因だ.そして変異のうちあるものが成功し,別のものが失敗し自然淘汰が働くが,それはまさに遺伝子が(統計的に)因果的影響を及ぼすからだ.

 
次はグールドとの論争が振り返られる.

  • グールドは遺伝子の役割を「単なる帳簿づけ(進化の原因ではなく進化が記録されているだけ)」だと主張し,遺伝子,個体,グループすべてのレベルで淘汰が生じており,特権的なレベルはないという意味でのマルチレベル淘汰理論を支持した.
  • 確かに生物進化現象には階層があるが,遺伝子は特別であり,進化の因果的なエージェントとしての特権的なレベルにある.それは遺伝子のみがレプリケータであり,その他のレベルはヴィークルだということだ.

 
遺伝子の性質についてのいくつかの論点も整理されている.

  • 遺伝子とは何かについての1つの論点は遺伝子の境界が明確でないことだ.それは染色体より小さく,さらにどのような配列も減数分裂で組み換えられる.
  • 何を(あるいはどのぐらいの大きさのDNA配列を)遺伝子と考えるかは,考察している世代数に依存する.成功する遺伝子とは世代を超えて頻度を増やす統計的な傾向を持つものだ.

 

  • 「○○のための遺伝子」がないという主張において,表現型と遺伝子が一対一対応していないということを理由にする議論も散見される.これは「○○のための遺伝子」が,表現型の「違い」に関する概念だということが理解できていないための誤解になる.

 
最後に「進化の遺伝子視点」と個体の関係が扱われる.

  • 実際に表現型を観察できるのは生物個体だ.これはしばしば遺伝子視点の弱点だと主張される.しかしそうではない.
  • 生物個体は(その個体の利益だけではない)特殊な目的のためのエージェントとして振る舞う.ハミルトンはこれを深く考察し包括適応度理論を作り上げた.そして,包括適応度とは何か,なぜ個体が包括適応度上昇のために行動するのか,を理解するのに遺伝子視点は非常に役に立つのだ.(詳しく解説がある)

 

第9章 身体の壁を越えて

 
第6章のテーマは「延長された表現型」.進化について遺伝子視点を取れば,その表現型はその生物の身体より外側に広がっていることが理解できる.ここではトビケラやミノムシやジガバチの巣というわかりやすい例から始め,ケラの作る地中のトンネルの出口がダブルホーンの拡声器になっていることを紹介し,そして鳥のさえずりを例にとり様々な行動も遺伝子の表現型として理解できることを示している.
さらに表現型は(遺伝子の持ち主ではない)他の生物個体の身体や行動まで延長して考えることが出来るとする.そしてまず鳴鳥のオスの遺伝子がさえずり行動を形作り,それがメスの生理や行動を変容させること,同じことがアズマヤドリのアズマヤにも当てはまること*23が述べられる.
また延長がかなり長距離まで生じることが,ビーバーのダムの大きさ,テナガザルやホエザルの歌の響く範囲で示されている.
 

第10章 後ろ向きの遺伝子視点

 
第10章と第11章では(生物個体ではなく)遺伝子の祖先系列がテーマになる.特定遺伝子に書き込まれているものはその祖先系列における環境になるので,遺伝子視点からはこの祖先系列は興味深いものになる.第10章で大きく取り上げられているのが托卵鳥をめぐる様々なパズル,特にカッコウの托卵系統だ.
 
托卵習性が鳥類の中で何度も進化していること,カッコウのヒナがホストの卵やヒナを巣から押し出す(そして殺す)こと,ホストの親鳥はそれを(介入せずに)傍観することにちょっと触れてから*24,カッコウの擬態卵の問題を取り上げる.

  • カッコウは複数種のホストに托卵し,そこで生まれたメスはそのホスト種の卵に合わせた(遺伝的に決まる)見事な擬態卵を生む.これはホスト種の托卵排除習性への対抗と考えられている.
  • しかしオスはどのホスト種で生まれたメスとも交尾するので擬態がなぜ壊れないのかがパズルとされている.この問題はなお解決していない*25が,有力な仮説は擬態遺伝子(特に模様や色を決める様々な遺伝子の発現についてのスイッチ遺伝子)が性染色体のWに乗っているというものだ.メスのヒナは自分の生まれたホスト種を認識して同じホスト種に托卵するので(この文化的メス托卵系統はジェンツ*26と呼ばれる),この仮説においてはW染色体の擬態遺伝子の系列は常にある特定ジェンツのメスを経由していることになる.
  • メスがホスト種を記憶・認識して托卵する際にエラーが生じることがある.そして托卵排除習性を進化させていない種に托卵することがカッコウのホスト種拡大・乗り換えのきっかけになりうる*27

 
続いて特定の遺伝子系列をめぐる2番目の例として,グッピーの1種 Poecilia parae のオスに見られる色彩多型の問題が取り上げられている.

  • この種のオスは特定オス系列にのみ現れる模様を持つ(5系列あり模様は5種類).それぞれの模様は配偶戦略に関連し(地味な模様はスニーカー戦略など),模様はオス系列で遺伝する(息子の模様は父親の模様のみで決まる).
  • これを受けて,模様と行動にかかるオス系列のジェンツが存在し,それはY染色体上の遺伝子(おそらくスイッチ遺伝子)が決定しているという仮説が唱えられている.
  • リサーチはこのオスジェンツの多型が頻度依存的に維持されていることを示唆している.(それぞれの配偶戦略がどのように頻度依存的に働きそうかが詳しく説明されている)
  • 特定ジェンツのオスの遺伝子はすべて同じジェンツのオス系列をたどってきており,仮説が正しいなら行動や模様はY染色体上の遺伝子が決定する.Y染色体は組み替えを受けないので,それぞれ複雑な模様と行動という形質の連関が(それが複数遺伝子の制御下にあっても)壊れにくいのだと考えられる.

 
ドーキンスはカッコウの話題に戻り,なぜホスト種は托卵排除習性は進化させるのに,ヒナ排除を進化させないのかについて解説し,コストとメリット(命とご馳走原理),アームレース,超刺激*28などについて語っている.
 

第11章 バックミラーに映るさらなる眺め

 
第11章は遺伝子の祖先系列をさらに考察したいくつかの話題が取り上げられる.
まずゲノミックインプリンティングが簡単に紹介される.つづいてオス系列で伝わる遺伝子は過去のランダムサンプルではなく,「激しい競争を勝ち抜いて繁殖に成功したオス」を経由しているという歪んだサンプルであることが指摘され,様々な動物に性差があること(そしてしばしばオスはよりリスク受容的であること),なぜ性比がメスに偏らないのかについての(グループ淘汰的な推論の誤りの指摘の後)フィッシャーの性比理論,分散の重要性とハミルトンの洞察(ハミルトンとメイの理論)*29などが語られる.
ここで合祖理論が取り上げられる.そしてドーキンス自身のゲノム分析でわかったこと,英王室の血友病遺伝子,繁殖プールの大きさの歴史の推定,種系統と異なる系統樹を描く遺伝子系統を分析できること,自然淘汰の痕跡を調べることができること(セレクティブスウィープ)などが語られている.
 

第12章 良い仲間,悪い仲間

 
第12章のテーマは遺伝子が経験する環境として最も重要な同じゲノムにある他の遺伝子.この同じゲノムにある他の遺伝子(厳密には同じ遺伝子座の対になるアレルも含まれる)が,ある遺伝子にとっての環境であるというのは遺伝子視点を取る場合に当然のことになるが,割りと見過ごされやすく*30,ドーキンスがよく議論しているところだ.
ドーキンスはここでまず(羊皮紙に過去の環境として書き込まれる)一緒に旅してきた他の遺伝子は同じ遺伝子プールを共有するものであることを指摘し,「種」の定義問題に軽く触れている.そこから種分化の鍵となる生殖隔離がどのように生じるかを取り上げ,それは1つには染色体の構成が異なってきて減数分裂がうまく行えなくなるからだが,もう1つの重要な要因は,十分長い間隔離されると遺伝子たちが協力する性質が自然淘汰を受けなくなるためだとし,成功する遺伝子の最も重要な性質は遺伝子プールを共有する他の遺伝子と上手くコラボする能力だと指摘する(ここでは複雑な遺伝子ネットワークの例により説明されている).自然淘汰はそれぞれの遺伝子プール内に協力する遺伝子カルテルを作るように働くのだ.そしてそのような遺伝子は他のカルテルメンバー(他種の遺伝子)と上手く協力できない可能性が高い.
ここでチョウの大家であったEBフォードによる古典的なリサーチが紹介されている.それはヤガの一種の多型をめぐるフィールドリサーチになる.

  • このガ(Lesser yellow underwing)には白色型と暗色型があり,暗色型はごく一部の地域でのみ見られる.
  • どちらになるかは1遺伝子座のメンデル遺伝で決まるが,優性劣性はこれにかかる変更遺伝子群(modifier genes)で決まっており,暗色型が優性だ.
  • しかし異なる地域(バラ島とオークニー半島)のガを交配させると,この優性劣性が壊れてしまう.これは(白色,暗色を決める遺伝子は共通だが)暗色型を優性にする変更遺伝子群は地域ごとに独立に進化し,同じ地域の遺伝子間でないと上手く協力できず優性化効果が発現しないからであることが示唆されている.
  • またこれは遺伝子間の緊密な協力ネットワークが超遺伝子でなくとも進化しうる*31ことを示してもいる.

ここからドーキンスは,例えば肉食動物に見られる様々な形質にかかる遺伝子間の協力,「遺伝子の議会」という比喩.線虫の発生における遺伝子の協力,この協力が壊れた現象には,癌,(減数分裂における)歪比遺伝子があることなどを解説している.
 

第13章 将来への出口の共有

 
第13章では,第12章で議論した遺伝子間の協力を生み出す最も重要な要因である「出口の共有」がテーマとなる.
冒頭では共生微生物,そしてミトコンドリアと葉緑体をまず取り上げ,続いてなぜ一部の寄生細菌はホストに協力的で一部はそうでないのかと問いかける.ドーキンスの答えは次世代(のヴィークル)への出口の共有が理解の鍵だというものだ.次世代にホストの配偶子と一緒に垂直に伝わるなら寄生細菌(ドーキンスはこれを垂直伝播細菌 verticobacter と呼ぶ)とホストは運命共有体になるのだ.そうでない寄生細菌(同じく水平伝播細菌 horizontobacter と呼ぶ)は自分の運命のみに関心があり,ホストに協力するかどうかは条件次第になる.
そして水平伝播寄生をまず取り上げ,トキソプラズマやロイコクロリディウムのホスト操作,水平寄生体がしばしばホストを去勢すること,その例としてのカニに寄生するフクロムシの生態が詳しく解説され,さらにいくつものホスト操作的な寄生生物を紹介している.
続いて垂直伝播寄生を取り上げ,その興味深い例としてレトロウイルス(多くは無害なだけだが,哺乳類の胎盤形勢に関連する遺伝子がレトロウイルス起源であることが紹介されている)を挙げ,そしてそもそも私たちのゲノム自体が互いに協力的な巨大な共生垂直伝播ウイルスのコロニーだと見ることも出来ると指摘する.ドーキンスはさらにマクリントックの動く遺伝子,トランスポゾンを取り上げ,ゲノムにおける重要な区分は我々自身のゲノム配列か外部から侵入したゲノム配列かではなく,水平伝播する配列か垂直伝播する配列かの区別だと力説する.
 
ドーキンスは最後にこう述べて本書を終えている.

私たちのゲノムは(私たちだけでなくどんな生物種の遺伝子プールにも当てはまるが),その全体が共生垂直伝播ウイルスのコロニーなのだ.私はヒトゲノムの8%を占める外部由来レトロウイルスだけの話をしているのではない.これはその他の92%にも当てはまる.彼らは,垂直に伝播するというまさにその理由により,良い仲間なのであり,数えきれない世代で良い仲間であり続けてきた.これが本章が目指してきた革新的な結論だ.
私たちを含めた1つの生物種の遺伝子プールはウイルスの巨大なコロニーであり,将来に旅するために精いっぱいやっている.彼らは身体を作るという企てに互いに協力する.なぜなら一時的で,生まれては死んでいき,次に続いていく身体こそが,時を超えて垂直に下っていく彼らの大移動を成功させるために最も優れたヴィークルであると証明されてきたからだ.
あなたは,巨大で,うごめき,時を超えて前進する,協力的ウイルスたちが具現化した存在なのだ.

 
以上が本書の内容になる.最初は様々に驚異的な自然淘汰産物の紹介や進化の制約の論争の振り返りから始まり,徐々に「進化の遺伝子視点」から見えてくる自然淘汰の本質にかかる議論が増えていき,中盤以降はこれまでのドーキンスの主張が様々な角度から展開される.ところどころにぴりっとしたウィットに富んだ蘊蓄が入れ込まれ,さらに脱線したい蘊蓄が巻末註にたっぷり載せられており,読んでいて楽しい.ドーキンスファンにとっては本当に嬉しい一冊だ.
 
関連書籍
 
ドーキンスには数多くの著書があるが,ここでは特に進化や自然淘汰を中心に扱ったものを挙げておこう
 
いわずとしれた大ベストセラー.現在は第4版となっている.

 
延長された表現型.ドーキンス自身もっともお気に入りの自著だとどこかで語っていたと思う. 
これは進化解説本であると同時に創造論に対する反論本でもある 
サイエンスマスターシリーズとして書かれた入門書的な本 
この本だけが翻訳されていない.非常に深く,そして楽しい本なので残念だ 
これはヒトから始まって祖先を遡っていく物語.原書は第2版だが,邦訳は初版のみ.私の書評は初版に対するものがhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20060801/1154442624,第2版に対するものがhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160704/1467631445
 
 
これは新無神論を提示した後に書かれた創造論に惑わされないようにという啓蒙本.進化が単なる仮説ではなく事実であることを徹底的に論じている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100218/1266491781 
進化適応としての飛翔をテーマとした本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/12/16/204703

*1:第1章の中ほどで,この本の題名「The Genetic Book of the Dead」について誤解しないようにという注意書きがある.いわく,内容の解読可能性については将来の科学者なら原理的にできることも含める,エジプトの死者の書とは関係ない,古代DNAの解読とも直接関係ない,人類集団間のゲノム比較については扱わない,そして本書ではゲノムではなく表現型を読んでいくことが中心になる,ということだ.

*2:この章の記述はすべての生物に当てはまるが,ここではすべての生物を名誉動物(honorary animals)として扱うと書かれている.英語には「生物」に当たるちょうど良い単語がなく,living thingsでは収まりが悪いし,いちいち every animal, plant, fungus, bacterium, and archaean と書くのが面倒だからだそうだ.

*3:ここで延々とフーリエ変換の蘊蓄が語られていて面白い

*4:ウシの尻に眼状の模様をペイントするとライオンに襲われにくくなるというリサーチが紹介されている

*5:ローマーはデボン紀が干ばつが多い時期だと考えていたのでこの仮説を立てたが,その後それが疑問視され,仮説自体が評価されなくなってしまった.ドーキンスは,デボン紀に干ばつが多くなかったとしてもこの仮説が成立する可能性は十分にあると残念がっている.現在デボン紀には月が現在より近かったのでより干満の差が大きかったことを根拠としてローマー仮説を復活させようとする動きがあるそうだ

*6:これは「進化の存在証明」や「魂に息づく科学」でも取り上げられており,ドーキンスお気に入りの進化物語のようだ.また英語と米語でturtleとtortiseの意味が異なっていることについての文句も繰り返している

*7:「延長さえた表現型」ではこれにあるレベル(遺伝子レベル)での完璧が別のレベル(個体など)で不適応に見えるというものを挙げている.これは厳密には制約でなく誤解なのでここでははずしたのだろう

*8:なぜこれを分けて6つの制約としなかったのかはよくわからない

*9:なお局所的な最適の議論はこれとは別だという但し書きがある

*10:ここではカンガルーとアンテロープに収斂がみられないことについて,運動様式の大転換には制約があることを理由としてあげ,これはイクチオサウルス,イルカ型とプレシオサウルス型についても当てはまると説明している.

*11:ここでは有名なネーゲルの「コウモリであるということがどんなものであるかは人には分からないだろう」と言う議論に対して,ドーキンスは「(機能的に考察すれば)それは我々の視覚的経験とそんなに違わないだろう,色覚類似の感覚すらあるかもしれない」と主張している.

*12:ここでは遠く離れたこの2つの動物群で,プレスティンタンパクを作る遺伝配列が収斂進化していることが紹介されている

*13:ここでは実際に無毛性について調べた結果が紹介されている.無毛遺伝子は発見できなかったが,毛髪遺伝子が様々な形で機能を失っていることが見つかったそうだ

*14:アンコウについては矮雄を持つ性表現についても触れている

*15:10万年で現在のような多様性が進化したが,それが充分に説明可能であることが丁寧に解説されている

*16:様々な形態のエビ,カニ,シャコ,フジツボさらにその幼生の多様性が丁寧に紹介されている

*17:本書の題「死者の遺伝子本」ならぬ「生者の非遺伝子本」の内容を扱うことになると断り書きがある

*18:だから痛みを感じることと知性を関連付ける議論は誤りであるとコメントされている

*19:それにかかる倫理問題や,ダグラス・アダムズの小説に出てくる喜んで人に食べられたいと考える牛のような生物の話が取り上げられている

*20:さえずりがどこまで生得的に決まっているのかとその鳥の生態の関係が詳しく解説されている.

*21:この視点を取ると鳥の求愛のさえずりはオスがメスのホルモン系を操作しようとしていると捉えることが出来るとコメントされている

*22:バクテリアの免疫システムとCRIPR,mRNAワクチンの仕組みが解説されている

*23:アズマヤ自体延長された表現型だが,それがさらにメスに影響を与え,それも延長された表現型と考えられると説明されている

*24:ここではカッコウのさえずりの2音の音程差(一般的には短三度とされるがベートーベンは長三度で記述している)についての蘊蓄もあって楽しい.ここではカッコウのさえずりが単純なのはオスのヒナが父親のさえずりを学習する機会がないからだろうともコメントされている

*25:私の印象ではゲノム分析でジェンツごとのW染色体の違いが報告されていることなどから性染色体仮説がほぼ受け入れられているように思うが,カッコウ研究の大家ニック・デイビスが最近性染色体仮説に懐疑的なので,それに敬意を表してドーキンスはここではこう表現しているのだろうと思われる

*26:ドーキンスは単数系 gens,複数形 gentesで使い分けている(これは古代ローマの”氏族”を意味するラテン語 gens/gentes 由来のようだ).だから単数系はジェンズ,複数形はジェンティズと表記するのが英語発音的には近いのかもしれない.ここではジェンツと表記しておく

*27:ここでまだあまり托卵排除をしないヨーロッパカヤクグリヘの托卵がいつ始まったのかについての議論がなされている.チョーサーの14世紀の詩にカッコウがheysuggeに托卵していることが記されている.このheysuggeがhedge sparrowを指すと考えていいのであれば(これもやや微妙)少なくとも650年前に托卵が生じていることになるが,そのジェンツは死に絶えて,新たに別のジェンツが生じた可能性もあるなどと考察されていて楽しい

*28:田中啓太によるジュウイチのヒナの翼にあるホストビナの口模様の擬態のリサーチが紹介されている

*29:ここでは社会性昆虫における分散の例(有翅型の繁殖虫)を紹介したあと,なぜハダカデバネズミにはそうした分散が報告されていないのかが考察されている.ドーキンスはなおいつか分散型のカーストが発見されること(素早く走る有毛型カーストが現在は別種と誤同定されているかもしれない)を夢見ているそうだ

*30:最近では河田雅圭が「ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?」でここを完全に見過ごした主張を行っていたのが記憶に新しい

*31:超遺伝子なら異なる地域個体を交配しても優性劣性は壊れない

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その95

 
ターチンによるローマ帝国衰亡論.ターチンはローマ帝国のメタエスニックフロンティアが遠ざかったことに始まるセキュラーサイクルの分解フェーズ,そしてその中の父と子のサイクルを解説した.続いてその後の統合フェーズが取り上げられる.
 

第11章 車輪の中の車輪 ローマ帝国のいくつもの凋落 その6

 

  • 後期ローマ共和政の分解フェーズはフランスや英国で見たのと同じ理由で終わった.内戦が貴族層の過剰人口問題を解決したのだ.紀元前1世紀の内戦による大量殺戮はすさまじいものだった.BC91〜82の10年あまりだけで20万人が死んだ.スパルタカスの乱でもう10万人,BC49〜42の間にさらに10万人が死んだ.
  • 内戦時の被害者の大半は平民だった.無産市民,市民権を持たないイタリア人,巻き込まれた人など.しかし仮にこの1%が貴族であれば,それは貴族人口のかなりの割合を占めることになる.さらに内戦で片方が勝てば,彼らは大喜びで反対派を粛清した.そのよい例がスラによる粛清だ.彼は元老院議員の1/3を粛清した.同様なことはマリウスも行ったし,カエサル暗殺後の内戦期にも繰り返された.
  • (貴族層過剰人口の解消に続く)2つ目の要因は外部領土の征服による利益だ.BC146の第三次ポエニ戦争もコリントスの戦いも基本的には防衛戦争あるいは反乱の鎮圧であり,ローマに巨大な利益をもたらしたわけではない.しかし事態は,ポンペイウスによるオリエントの征服とカエサルによるガリア征服が行われた内戦期を経て変化した.BC30年以降に内戦が収束すると外部への拡張が再開した.これは巨額の収入をもたらした.貴族人口が減少しただけでなく,それを支える経済基盤が強化されたのだ.
  • 3つ目の要因が社会ムードの変化だ.社会は内戦に疲れ,内部の平和と秩序をもたらす体制が歓迎された.それは同時代の文学作品に反映されている(平和を希求するティブルスやウェリギリウスの詩が紹介されている).アウグストゥスが内戦に勝利し平和をもたらした時に彼は元首政のレジームを構築し,それは幅広い市民から支持された.

 
これがターチンによる分解フェースから統合フェーズへの移行の要因説明となる.基本は内戦により支配層の人口が減り,競争状態が緩和されたということで,それにさらに征服地(属州)からもたらされる莫大な収益と内戦に倦んだ社会のムードが付け加えられている.
なお莫大な属州からの収益が競争緩和要因となることについては必然的ではないような気もする.金持ち喧嘩せずということもあるだろうが,戦って得られるものが増えるわけで,より競争激化要因になってもおかしくはないだろう.この辺りはやや説明が不足しているように思う.
 

  • アウグストゥスによりもたらされた政治的な安定は.不平等拡大傾向を緩やかに反転させた.人口減は耕作放棄地を生み,無産市民(特に退役兵)がそこに入植できたのだ.オクタヴィアヌスは内戦期にイタリアの土地を掌握し,自軍の退役兵に配った.内戦が終わると(アウグストゥスと呼ばれるようになった)彼はさらに土地を買い集めて退役兵に配った.多くの無産市民が属州に入植し,イタリアの人口圧力を減じた.アウグストゥス体制はある程度まで小規模の土地所有者階層を作ることに成功した.
  • 超富裕層の資産の縮小はアウグストゥス治世期以降に生じた.これは様々な方法で行われた.アウグストゥスは累進相続課税のような税を導入し,後の皇帝たちは超富裕貴族たちに反逆の罪を着せて処刑して資産を没収した(クライディウスやネロの実際の例が紹介されている).ヴェスパシアヌス帝の頃(治世AD69〜79)には富裕な元老院貴族家系は(共和政期の1000程度から)200程度まで減っていた.エリートの刈り込みは元首政の100年程度の時期継続して行われたのだ.これはチューダー朝英国で起こったことによく似ている.

 
ターチンはまた不平等もこの時期に縮小したと主張している.そうなのかもしれないが,定量的な分析はなく,アネクドータルな証拠をつまみ食いしているだけにもみえる.貴族家系が減ったとしても残った貴族に富が集中すれば不平等はより拡大するだろう.この辺りも説明不足感がある.
 

  • 結果,1世紀の元首政期に富裕貴族層の力は減少し,小規模土地所有者は安定から来る経済的利益を享受した.3世紀の危機まで内戦が生じたのはAD69の(ネロ失墜の後の)1年間だけだった.

 
というわけでターチンは元首政成立期(BC27)から統合フェーズ入りしたと整理している.
確かにネロ帝が自殺に追い込まれた後の内戦はガルバ,オトー,ウィッテリウス,ヴェスパシアヌスの間で争われたが短期間で収束し,ヴェスパシアヌスがフラヴィウス朝を興すことになる.この内戦が短期間で収束したのは,それが統合フェーズにあったからだというのがターチンの見立てだが,単にヴェスパシアヌスの軍事力が卓越していただけかもしれないのではという気もする.もしそれぞれの将軍が拮抗した戦力を得られていれば内戦はもっと長引いてもおかしくなかったかもしれない.
そしてそもそもカエサルの内戦期以降の軍隊の中核は小規模自作農市民兵士ではなく,将軍に忠誠を誓う職業軍人になっており,その変質と小規模自作農民の重要性の吟味も必要ではないかという気もするところだ.
ともあれここまでがターチンによる後期共和政から元首政成立までのセキュラーサイクル分解フェーズの説明となる.

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その94

 
ターチンによるローマ帝国衰亡論.ターチンはローマ帝国の最初の分解フェーズの始まりをメタエスニックフロンティアがイタリアから離れ,人口増と均分相続で中流ローマ市民が没落し始め,また奴隷が大量供給されたBC200年ごろに置く.ここからより細かいケーススタディとなる.
 
 

第11章 車輪の中の車輪 ローマ帝国のいくつもの凋落 その5

 

  • 後期共和制の危機の最初の兆候は奴隷反乱だ.それはBC138からローマの至る所,ローマや近隣都市を含むイタリアで,デロス島の奴隷市場で,ラウレイオンの銀鉱山で起こった.最大のものはシシリア島の7万人の奴隷反乱(BC135〜132)だ.これは第1次奴隷戦争と呼ばれ,第二次奴隷戦争(BC104~101)そしてスパルタカスに率いられた第三次奴隷戦争(BC73〜71)が続いた.
  • エリートが団結している農業社会で,農民反乱はまず成功しない.そしてそれはこれは後期共和政のローマの奴隷反乱にも当てはまった.真の脅威はエリートが割れ,その一派が大衆の支持を得て権力を握ろうとした時に起こる.

 
奴隷反乱は最終的にみな失敗し,また奴隷は市民層や正規軍からみて完全なアウトグループなので,それがローマ市民間の内戦につながることもない.ターチンとしてはアサビーヤが侵食されている状況が深く進行しているのがそれに続く内戦期に効いてきたということだろうが,ここはややターチンの奴隷が社会のアサビーヤを侵食するという議論から見ると苦しい部分だろう.結局ターチンの主張の裏付けは近代アメリカ南部の奴隷制が奴隷制廃止後の社会の社会資本に悪い影響を与えているというリサーチからきている.しかし古代ローマは結局制度的な奴隷制廃止を行っておらず,一部の奴隷は個々の奴隷解放などにより緩やかに市民に溶け込んでいった.このような場合にローマのアサビーヤにどのような影響があったのかはわからないというのが本当のところではないか.すくなくとも直接の比較は難しいだろう.
ここからターチンはグラックス兄弟の改革とその挫折を描く.
 

  • ティベリウス・グラックスは富裕のノビレス家系に生まれた若く野心のある政治家だった.彼の父は政治的成功を収め執政官や監察官を歴任した.しかしティベリウスの世代のノビレスたちはより厳しい競争に晒された.そして大衆に迎合しようとするのは自然なやり方だった.ただし,ティベリウスの動機が完全に利己的だったわけではないだろう.一部の階層に富が集中し,ほとんどの市民が資産を失っている状況は確かに不公正だった.

 
ティベリウスの過激な改革案の動機の1つの背景に,ノビレス層の競争激化を持ち出しているのがターチンらしく,目新しい.
 

  • BC133,ティベリウスは護民官に選出され,公有地を無産市民に分け与える法律案を提出した.これによりローマの貴族層は二つの派閥に分割された.ティベリウスに率いられた民衆派(ポプラレス)と門閥派(オプティマテス)だ.これは3世紀前のパトリキとプレブスの争いにいろいろな意味で似ていた.
  • 法案をめぐる激しい闘争の末に,ティベリウスはその支持者300人とともに門閥派に暗殺された.しかしながらグラックス法を実施する委員会は継続し,その後6年間で7万5千人の市民に土地を分与した.

 
ターチンはこの辺りの経緯をあっさり書いているが,当時のローマでは護民官が提案した法律は(元老院とは別の会議体である)民会を通れば法律として成立する.ただし同僚護民官には拒否権があり,この同僚護民官を取り込もうとする門閥派と民衆派が激しく争い,最終的に取り込まれた護民官が民会で解任されて法律自体は一旦成立する.そしてその後その解任手続の瑕疵を巡り争いになり,最終的には翌年ティベリウスが連続して護民官に立候補した時点で殺されるという経緯になっている.だから法律は確かに成立し,ティベリウスの死後も実施されていったということになる.この実施に対して門閥派が妨害しなかったのは,争いの焦点はティベリウスが独裁的になることを巡ってものであり,殺害されたあとの民衆派をなだめるために実施を容認したのではないかなどと解されているようだ.
 

  • 民衆派の次のリーダーはティベリウスの弟であるガイウス・グラックスだった.彼はBC123,122と連続で護民官に選出された.ガイウスは兄の法律の実施を継続し,さらにローマ市民に食料を非常に安価で給付する法律を通した.ガイウスも兄と同じく門閥派に殺され,彼の支持者3000人も殺された.

 
ガイウスはBC121の護民官選挙で敗れ,改革が門閥派によって次々にひっくり返される.そしてそれに怒った民衆派が騒動を起こし,門閥派が排除しようとして武装闘争になったという経緯のようだ.
 

  • この嵐のような20年を経て,新しい世代のリーダーが現れ,30年近く脆弱ではあったが平和を実現した.民衆派のリーダー,ルキウス・サトゥルニヌスはBC100年にさらに過激な法を門閥派に飲ませようとしたが.しかし門閥派は彼を殺し,民衆派を弾圧し,もう10年ほど両派の均衡が保たれた.しかしながら圧力は増していた.最大の政治的な焦点は貧困化した市民の土地分配の要求とイタリアの同盟市のローマ市民権の要求だった.門閥派はこの二つの要求を拒否し続けた.

 
ターチンはグラックス兄弟の改革時期を闘争期,その後の20年を平和期と規定している.しかし,確かに兄弟の改革期にはガイウスの殺害時には武装闘争はあったものの,完全な内戦や反乱とは言い難く,この2つの時期の差はそれほど大きくないのではないかという気もする.
 

  • BC91年に同盟市は反乱を起こした(イタリア同盟市戦争).そこからの20年は内戦がほぼ途絶えることなく継続することになった.同盟市戦争はローマが市民権を与えることに同意してBC87年に終わった.しかし直後にスラとマリウスがそれぞれ率いる門閥派と民衆派の内戦となった.まずマリウスが,続いてスラが相手を何千人も皆殺しにした.マリウス派のセルトリウスはスペインで反乱を起こした(BC80〜72).スパルタカスの奴隷反乱(BC73〜71)もこれに続き,ようやくローマ支配層にうわべだけでも団結する必要を悟らせた.
  • 次の脆弱な平和はBC70年にポンペイウスとクラッススが執政官の時に達成された.この平和は途中でカティリーナの陰謀が企まれた以外は継続し,20年ほど経過した.
  • そして均衡はカエサルがルビコン川を渡った時(BC49)に崩れる.そして内戦が継続する20年となる.まずカエサルとポンペイウスが激突し,カエサルの暗殺後は,暗殺側のブルータスとカシウス対カエサル承継側のアントニウス,レピドゥス,オクタビアヌスの争いとなった.後者の勝利後内戦はオクタビアヌス,アントニウス,セクストゥス・ポンペイウスの間で戦われ,最終的にオクタビアヌスが勝利することになる.BC27年に彼は政治の枠組みを一新し,アウグストゥスと呼ばれ,プリンケプス政(初期帝政)を敷く.
  • 共和国の分解フェーズは父と子サイクルの教科書的な例となっている.BC140〜120が闘争期,120〜90が平和期,90〜70が内戦期,70〜50が平和期,そして50〜30が内戦期となる.そしてようやく(生き残ったものすべてが安堵する)分解フェーズの終了を迎えたのだ.

 
後ろの2つの内戦期,平和期,内戦期は確かにそう呼ぶに相応しい時代に思える.これが世代間記憶によるものかどうかの吟味はなされていないが.ターチンの議論にとってはちょうどよい時代ということになろう.

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その93

 
ターチンによるローマ帝国衰亡論.ターチンはローマ帝国の最初の分解フェーズの始まりをメタエスニックフロンティアがイタリアから離れ,人口増と均分相続で中流ローマ市民が没落始めたBC200年ごろに置く.またターチンはここで,西洋古代史では非常に大きなテーマである奴隷制の影響を整理する.
 
 

第11章 車輪の中の車輪 ローマ帝国のいくつもの凋落 その4

 

  • 要するに転換点は紀元前2世紀だった.前期共和政のローマ貴族はローマの栄光のために死ぬことが出来たが,後期共和政のローマ貴族は誰が最も金持ちかを巡って貴族同士で争っていたのだ.
  • この社会的分解を促す力は平民の間にも働いた.ごく一部の平民は富裕になり上の階層に移動できた.しかし多くは土地を失い,小作人になったり都市に流れ込むしかなかった.この無産市民たちは軍隊に流れ込み,後の内戦の重要な要因となった.

 
ターチン的に言えば,まずメタエスニックフロンティアが遠くに移動したことにより貴族層でアサビーヤが失われた.そして人口要因でこれまでローマ軍の屋台骨を支えた中間層の平民が没落し,ローマ全体のアサビーヤも侵食されたということだろう.ここから奴隷制の考察となる.
 

  • 最後に奴隷の影響について考察しておかねばならない.紀元前2世紀のローマによる地中海沿岸地方の征服はイタリアへの奴隷の大量流入を引き起こし,奴隷の人口が自由民の人口と同じぐらいになった.奴隷は鉱山労働者,ガレー船の漕ぎ手,家内召し使い,農園労働者となった.自営農が消滅し,大規模なプランテーションに取って代わられた.
  • 奴隷と自由民の区別は社会不平等の最も極端な形だろう.だから奴隷の増加は社会のアサビーヤを大きく腐食したに違いない.実際,奴隷制が社会資本(アサビーヤ)に深く永続的な負の影響を与える証拠がある.(ロバート・パットナムによるアメリカ合衆国の奴隷制が社会資本に与えた影響のリサーチが紹介されている.それによると,社会資本の低いゾーンがミシシッピデルタを中心にかつての南部連合地域に同心円状に広がっていることが示されている)
  • この20世紀末の低社会資本地域のパターンはどう説明できるのか.パットナムは19世紀前半の奴隷制との相関を示している.実際,奴隷制は奴隷と自由民の間の社会資本を破壊するようにデザインされているのだ.抑圧されたもの同士の連帯は反乱のリスクを高めるし,自由民と奴隷間の同情に基づく平等主義的絆はシステムによりその土台が掘り崩された.奴隷解放の後も南部の支配層は垂直ネットワークの妨害を試み続けた.百年の奴隷制の後,百年のジム・クロー法人種隔離政治が続いたのだから,社会資本が低くなるのも無理はない.

 
よくある古代西洋史の奴隷制に関する議論は,その生産性がどの程度まで低かったのかが焦点になっていることが多い.しかし帝国の没落を考察する上では,どの道古代地中海世界でローマより生産性の高い敵は存在しなかったので,ここではあまり焦点にならないということだろう.ターチンは当然ながら奴隷制がアサビーヤに与える影響(特に社会の中の奴隷が急増した場合)を考え,アメリカ南部のリサーチからそれがアサビーヤの浸食要因であったに違いないと結論づけている.
 

  • つまり不平等の拡大と,その究極形である奴隷制が紀元前2世紀にローマのアサビーヤを腐食し始めたのだ.しかしながら,この時期にローマのすべてが凋落し始めたわけではない.凋落過程は非線形であり,多元的だ.例えば帝国の拡大のピークはAC98〜117のトラヤヌス帝時代だ.これはアサビーヤの凋落開始から300年後になる.ここに矛盾があるわけではない.領土拡大力はアサビーヤと帝国の持つリソースの両方で決まるからであり,アサビーヤの低下は時に緩やかで時に停止するような非常に長くかかるプロセスであるからだ.アサビーヤはグループ内競争の激化とグループ間不平等で促進され,これらの力はセキュラーサイクルとともに増えたり減ったりする.

 
ここはある意味言い訳的なコメントであるようにも読める.ローマの絶頂期は紀元後2世紀の五賢帝時代だ.それより早くアサビーヤの腐食が始まったが,その影響がそれ以外の影響を打ち負かすのに300年かかったというわけだ.やや苦しいというのが私の印象だ.
 

  • だから,非常に問題のあった後期共和政が終わった後ローマ帝国は皇帝の元で再構築できたのだ.そしてそれは3世紀の危機でまたも問題に巻き込まれ,そこでローマのアサビーヤは失われてしまった.ともあれ,共和政から帝政の移行期をもっと細かく見てみよう.

 
そしてターチンは細かいケーススタディを行っていくことになる.

書評 「なぜ人はアートを楽しむように進化したのか」

 
本書はアートを進化的に考察した本になる*1.著者のアンジャン・チャタジーは神経科学者で,神経美学(neuroaethetics)の研究者でもある.私はあまりよく知らなかったが,神経美学とは認知神経科学の一分野で,脳の働きと美学的経験の関係(美しいものを見た時に脳のどの領域が活性化するか,どのような神経伝達物質が介在するかなど)を研究するものらしい.本書ではこの至近因的な神経科学の内容だけでなく,究極因的な(進化心理学的な)内容を扱い,対象も美しいものだけでなくコンテンポラリーアート,コンセプチュアルアートなども含むアートと広げている.原題は「The Aethetic Brain: How We Evolved to Desire Beauty and Enjoy Art」.
 
冒頭のはしがきで,自然科学(ここでは神経科学と進化心理学)が美学について語ることの意味,神経美学がまだ揺籃期であり,楽観も悲観も時期尚早であること,その中で本書で語りたいことが簡単に提示されている.
 

序章

 
美しいものに魅了される理由について進化心理学がある程度の方向性を与えてくれること,その際に感じる快感と審美的経験の関係を解きほぐすには神経科学が有用であること,本書ではコンテンポラリーアートを含むアートを扱うこと,そして感覚,感情,意味の要素を見ていくことが語られる.
本書はここから3部構成をとり,美,快感,アートを神経美学,進化心理学の視点から語っていくことになる.
 

第1部 美

 
第1部では「美」が扱われる.
まず私たちが何かを美しいと感じるのかが解説される.
最初に「顔」の美しさを考える.ヒトは顔に惹きつけられる.そしてそれは文脈依存的な要素を持つ.またどのような要素が魅力的かを調べると,平均性*2,対称性,性的二型(男性は女性らしい顔を,女性は男性らしい顔を好む*3)の3要素がある.
次は「身体」.ここでも対称性と性的二型性が魅力の要素となる(平均性が魅力の要素になるのかどうかはわかっていない*4).また男性がどのぐらい痩せている女性を魅力的と感じるかは文化的影響,文脈的影響*5が大きいが,砂時計型が好まれるというのは普遍的になる.また動作が身体的魅力に与える影響も大きい.
次に美しさを感じた際の脳の働きが解説される.まず神経科学の基礎(脳のモジュール的構成,平行分散処理など),そして美しいものを感じた時の脳の反応(視覚野,報酬回路などがどう反応するか)が説明される.
 
ここから進化的な考察になる.自然淘汰と性淘汰の簡単な解説の後,美しさについてのミラーの性淘汰説(基本的には健康で繁殖力があることのシグナル),性淘汰説から身体的魅力の平均性,対称性,性的二型性がどう説明されるかが解説される.

  • 平均性が健康を示しているのかどうかはわかっていない,むしろプロトタイプとして情報処理しやすいことが好まれているのかもしれない.
  • 対称性は発達異常や感染履歴と関連し,健康を示すと考えられる.また対象な身体はより運動性能上有利であるとも考えられる.
  • 性的二型のうち男性性はテストステロンの影響が高く,ハンディキャップシグナルとして健康や繁殖力を示しているという仮説が有力だ.ただし極端な男性顔は子育てに非協力的である可能性も示すために,女性はいくぶん女性らしい男性的な顔立ちを好む.
  • 以上のことからヒトは特定の特徴を美しいと感じるように進化したといえるだろう.
  • これらの普遍的な好みに対して文化的影響が加わる.多くの文化では超刺激的なピークシフト反応が見られる.

続いて,ヒトはサバンナ的な風景を好むが,それは進化的に環境内に安全と栄養源があることを示す複数の特徴を合わせ持つ風景を好むようになったと説明できることが解説される.
次は数学が持つ美について考察される.ここは独特で面白い.黄金比,対数らせん,オイラーの等式などの例が取り上げられ,それらの美しさが,自然界の持つ性質,何らかの最小問題の解,簡明な新たな洞察,データ圧縮などにつながっていることを見る.そしてこれが適応的かどうかについては,著者はこのような数学的な美への好みは進化環境で定量化,数量,確率,相関の理解を通じて生存に有利だったのではないかと推測している.
 
著者はしかしこの進化的説明ではすべてを解決できないと議論を進める.役に立つものが必ずしも美しいとは感じられないし,美しいと感じるものに合理的な部分がないことも説明できないとする.そして議論は第2部に移る.
 

第2部 快感

 
冒頭に快感の概説がある.快感は行動の反覆を促す報酬であり,学習と結びつく.そして感覚に埋め込まれており,認知によって修飾されることがある.ここから様々な快感の各論になり,食べ物(味覚と臭覚,文脈(満腹かなど)による変化,超刺激による渇望*6),セックス(認知や感情との関連,神経科学的知見,ニュートラルな対象との連関学習が生じうること*7),お金(お金の神経経済学(報酬系の活発化など),不合理な行動と行動経済学*8)にかかる快感が解説されている.
 
ここから快感と欲望の関係が考察される.神経科学的に見た両者の違い,快感は報酬として行動変容や学習を促すこと*9,報酬系は嗜好と欲求と学習を結びつけ,認知系と快感系が相互作用できる柔軟性を備えていることが解説され,そのロジックについて以下のようにまとめられている.

  • 報酬系には様々な要素がある.報酬系は快感を期待したり,経験した快感を評価したり,欲求の対象を得るための行動計画を可能にする.
  • 最も基本的なレベルの快感は食べ物やセックスへの欲求,恒常性維持機能から生じる.
  • 快感には柔軟性があり,ほぼいかなる対象や状況とも結びつくことが出来る.

 
最後に美しいものを感じた時の快感が考察される.

  • 審美的な快感は(食べ物やセックスのような)基本的な欲求に結びついた快感といくつかの点で違いがある.
  • 審美的快感は,欲求を伴わない嗜好にかかる神経系を利用して欲求より大きな広がりを持つ
  • 審美的快感には微妙なニュアンスがあり,単純な好みより複雑だ.
  • 審美的快感は認知系に強く影響される.

 

第3部 アート

 
冒頭でアートの定義の学説史とその難しさが議論される.

  • アートと美は同じではない.審美的遭遇は美に限らず,統一,バランス,静謐,悲劇性,繊細,鮮明,躍動性などが対象になり*10,さらにアーティストの意図,作品の歴史上の位置づけ,政治的社会的次元などがアートにおいて重要になりうる.
  • 古代ギリシアから20世紀にかけて「アートとは模倣である」という考えがあったが,写真の発明・普及ののち,外界を模倣するために絵を描くという目標は重要性を失った.
  • 「アートは共通の価値観を強化することによりコミュニティの結束させる儀式的行動だ」という考え方もある.しかしこれはコンテンポラリーアートには当てはまらない.
  • ロマン主義者は感情の表現を重視し,ヒュームはtaste(趣味)を重視し,カントは美を生得的な概念とした上で,美の判断を理性の働きだとした.バローはアートの対象に対して心理的距離を置くことを重視し,ベルは「意味のあるフォーム」という概念を導入した.
  • 20世紀になり美や快感から切り放されたアートもあることが認められるようになった.そして「アートは定義できない」という反本質主義的考え方が支持されるようになった*11.定義できなくても理解できる,見ればわかるという主張もあるが,一部のコンテンポラリーアートではそれも怪しい.
  • この反本質主義的見方に対しては,役割や文化的位置づけを通じて機能主義的に理解できるという主張がある.美学の研究者,特に進化心理学的アプローチを行うものはこれを支持する.
  • これとは別にアートを文化歴史との関係において理解しようとするものもいる.

著者はこれは「群盲象をなでる」状況に似ているとし,ここから独自の探求の道が語られる.
 
著者はまずアートが至る所にあり,歴史を通じてあり続けてきたことを指摘する.そしてアートは本能のみで決まるものだとか,18世紀欧州の文化産物だとかする排他的な見解は意味がないとする.著者はアートを生物学と文化の両方の観点から理解するアプローチを取ると宣言する.
 
最初は神経美学的なアプローチ.まず記述神経美学の視覚アートについての知見(脳が視覚的特性をどのように捉えるのか)が解説され,感情表現についての表現主義の考え方も取り入れていくべきことが指摘される.
続いて視覚イメージに脳がどのように反応するかを調べる初期の経験美学の試みと,それが現代の画像統計処理で復活していること*12,さらに現代の実験神経美学の知見*13が解説され,脳にはアートに特化したモジュールはなく,アートを処理する時には日常的な対象の知覚にかかわるパーツが組み合わされて使われているとまとめられている.
 
ここからいくつかの各論がおかれている.
まずコンセプチュアルアートが考察される.著者はまず現代の極端なコンセプチュアルアートの例を挙げ,これが印象派やキュビズムのように最初は拒否されるが,後に受け入れられるようなものにはならないだろうという見解を紹介する.これらは美しさから生じておらず,意味やアイデアが重要視され,文脈情報が前提になっているからだ.そして(意味が与える影響は調べられるにしても)神経美学で探求するのは難しいだろうとコメントしている.
続いてアートの起源.定義の難しさにちょっと触れたあとラスコー洞窟壁画を始めとするいくつかのサピエンスの先史時代のアートが紹介される.さらにネアンデルタールやハイデルベルゲンシス,さらにエレクトスやにも萌芽的なものがあっただろうとする*14.そしてこれらのアート全体を説明する説明はないこと,多用で様々な局所的条件から生まれたと捉える方が適切だろうとしている*15
 
最後は進化心理学的アプローチを含めた著者の考察.進化心理学の考え方,リバースエンジニアリング,適応と副産物,外適応,遺伝と環境の相互作用などの概説の後,著者がアートを進化的に見てどう考えるかが語られる.

  • アートが適応だと考える立場と,副産物だと考える立場があるが,アートがこれだけ普遍的であることから,単なる副産物とは考えにくい.
  • 適応説にはいくつかの考え方がある.
  • ディサナヤケは文化比較的な視点からアプローチした.そしてアートは儀式に埋め込まれていて,共同体,および母子の絆における協力促進機能があるとする.
  • ジェフリー・ミラーはアートは配偶者選択におけるコストリーシグナルだと主張した.
  • 哲学者のデニス・ダットンは生存上の有利説とミラー説の折衷説を唱えた.まずヒトは美を感じる本能をもっているとし,アートの生活上での重要性から副産物説を否定した.そして更新世の環境条件を生き延びるために想像上のシナリオの中でうまく行動するために物語についての想像力が進化し,それが物語以外に広がった,さらに想像力はコストリーシグナルとして求愛に有利になったと考えた.
  • これらの説には,(1)アートは美に対する本能の発現である,(2)アートはコストリーシグナルである,(3)アートは実用的である,(4)アートは社会の結束に役立つという4つの考え方が含まれている.しかしこれらのどれもアートであることの必要十分条件にはなっていない.
  • コストリーシグナルとしての適応形質の良い例はクジャクの尾だ.しかしよりアートに近いのはジュウシマツの歌(生存への自然淘汰圧が家畜化により弱まり,柔軟で即興的で多彩な歌を歌うようになった)だろう.アートは美や社会的結束にかかる複数の適応の発現としてはじまったが,今日ではそれにかかる淘汰圧が緩み,時代や場所や文化や個人から生まれた偶然の混合物として多様性を持つようになったのだろう.コンテンポラリーアートは現代の局所環境ニッチで形作られるのだ.

 
著者の議論は,アートには複数の適応的生得的な側面と文化進化的な側面があり,コンテンポラリーアートはそれらの淘汰圧的制約が緩んだことによる局所性,偶然性,多様性で説明できるとするものだ.とはいえ,なぜどのようにして社会的結束や配偶者選好の淘汰圧が緩んだのかについてはあまり説得的には説明されていない.私としてはミラー説を取り,アートの基本は配偶者選好にかかるコストリーシグナルだ(そして一般に人気のある音楽やファッションにおいてはその本質はあまり変わっていない)が,一部のコンテンポラリーアートにおいては文化的な洗練性や文脈的な知識というコストリーシグナルを使った(一部の人々の)社会的地位の顕示競争に変質したのではないか(だから前衛的なコンセプチュアルアートは一般の人々にあまり受けない)と考える方がしっくり来るようにおもう.
  
本書全体の議論は,美と快感についての究極因,適応的な説明と神経科学の知見による至近因,メカニズム的説明がまずなされ,それを踏まえてアートを議論する構成となっている.そして著者は(現代のコンセプチュアルアートまで含めて議論するために)美とアートは同じではないとして考察を進め,アートは究極因的にいくつかの本能と文化進化の合わさったキメラであり,現代においては淘汰圧の緩みから多様化している主張していることになる.
この最後の主張については私的にはやや納得していない部分もあるが,とはいえ,神経美学的な部分も含めて様々なトピックを取り入れて,美とアートを考察しており,いろいろと勉強になった.進化的な視点でアートを考察してみたい人にとってはなかなか面白い一冊だと思う.
 
原書
 

*1:本書のカバーは代々木公園のワクチン接種センターの写真の上に巨大な人の頭部の彫像がコラージュされているもので,何だかよくわからない不思議なものだ.コンセプチュアルアートをイメージしているのかもしれないが,内容的にも販促的にもあまりよいデザインとは思えない.

*2:ただし最も魅力的なのは完全な平均顔ではなく,魅力的な人々の平均顔になる

*3:男性の場合と女性の場合に様々な微妙な違いがあることが詳しく解説されている.女性の場合は極端な男性顔よりもやや優しい顔つきを好むことが多く,その程度は月経周期により変化する

*4:多くの文化では多数の裸体を見る機会はないため,典型的な平均的身体がどのようなものかを認識しにくいだろうということが示唆されている

*5:米国における経済状況とプレイメイトや女優の身体的特徴の関係を扱ったリサーチが紹介されている

*6:ジャンクフードと肥満の問題が解説されている

*7:フェティシズムとの関連,同性愛の「治療」に用いられて様々な悲劇を生んだことが解説されている

*8:カジノが行動経済学的にいかに上手く設計されているかが詳しく解説されている

*9:一部のコンセプチュアルアートが快感をもたらすのは,学習促進を促す報酬かもしれないと推測されている

*10:これらの一部は日本語の語感では「美」に含まれるように感じるが,英語の「beauty」には含まれないということなのだろう

*11:アートの革命性,定義についての家族的類似性(必要十分条件で定義できない)が根拠になっている

*12:視覚アートと自然の美しい光景の共通点,フラクタル次元,フーリエスペクトル特性などが解説されている

*13:視覚的刺激が脳の視覚野や報酬回路の動きに与える影響,意味や知識がどう影響するかなどが解説されている

*14:アウストラロピテクスにもその可能性があるとしているが,特に根拠はなさそうで,(アートの定義にもかかわるが)やや疑問だ

*15:例えばラスコーを始めとするフランス南西部とスペインの洞窟壁画は当時の動物相や人口増加の環境によるもので,氷河期の終わりに気温が急上昇して資源が減少すると消滅したと説明されている