From Darwin to Derrida その25

 

「遺伝子ミーム」その7

 
ヘイグは,あるミームが広がるときに,それが誰のためになっているかを深く考察できることがミーム論の価値だと指摘した.それはまさにその通りで,そこがミーム論のほかの議論にできない洞察を生む要因になるだろう.ヘイグは続いて,ミームの定義,表現型と遺伝型に対応するものがあるかを考察し,そこには微妙な問題があるのだとコメントした.そしてさらにミームについての考察は続く.ミームには染色体の組換えのような事象があるのだろうかが考察される.
 

  • ドーキンスの主要な興味は遺伝子より個体の表現型の方にあった.そして遺伝子の切り分け方法を曖昧にしたように,表現型の切り分けについてもどのようにすべきかを示していない.私はこれは彼の目的から見て正当化可能だと思っている.
  • ゲノムのすべての部分が同じ伝達のルールに従うなら,ゲノムのある部分にとって良いことはゲノム全体にとって良いことになり,ゲノム自体が適応的単位と考えて良いことになる.高度に複雑な適応形質には長い遺伝的テキストが必要になる.これに対しては2つの解決があることが知られている.1つは無性生殖でもう1つは有性生殖だ.
  • 無性生殖では,すべてのゲノムが1単位として複製され,組換えはない.だからすべてのゲノムが1個のドーキンス的遺伝子になる.有性生殖では2つのゲノムが一緒になり,その一部分を交換しあった後,2つの新しいゲノムに分かれる.(有性生殖種の)ゲノムは多くのドーキンス的遺伝子の一時的な集合体になる.しかし,メンデル遺伝の法則が一部分にとって良いことはゲノム全体にとって良いことであることを保証する.(ここでは法則が破られたときのことは考慮していない)

 

  • このどちらもほとんどの複雑なミームテキストに当てはまりそうもない.アイデアは自由に組み替えられ新しいテキストが生成される.テキストから1つのアイデアだけが抽出されて残りは捨てられる.そして互換可能部分の交換の決まりもない.だからミームの適応はあまり組換えのないアイデアにとっての適応になるだろう.このようなアイデアの一部は非常に単純なもので,適応自体あまり大したことが起こりそうにない.そのようなものを「利己的」とラベル付けする意義は私には感じられない.それは単一のヌクレオチドを利己的と呼ぶようなものだ.洗練されたミーム適応やミーム利己性を探すべきところは緊密に結びついたイデオロギー,つまり高い信頼性を持って伝達される無性的ミーム複合体の中だろう.ドーキンスなら,その候補として世界的宗教を上げて,それらをミーム自身でなく私たちに奉仕させるなら自由な組換えが重要だと言うだろう.

 
ミームに有性生殖種の染色体における組換えがあるのかというのは面白い視点だ.ミームは伝達につれて様々に組合せを変えるだろう.それはかなり自由に組み合わされてもおかしくない.しかし染色体や交叉のようなかっちりした仕組みがないためにメンデルの法則による平等性の保証はない.だからヘイグは有性生殖種のような組換えありのまま複雑な適応が生じることは考えにくいと指摘する.それは実際そうなのかもしれない.すると適応的なミームは無性生殖的,あるいは緊密に連鎖した遺伝子のように互いのミームがなんらかの理由により結びついているような場合に生じることになる.組織宗教が興味深いミーム複合体ではないかといういうのはデネット達が既に指摘しているところだが,ヘイグが正しいとするとそれを構成するミームはなんらかの緊密な結びつきを持っていることになる.これは調べてみると面白いかもしれない.
 

  • これらはミームの定義やミームを利己的と呼ぶことについて私が感じる問題点だ.それでもはじめて「利己的な遺伝子」を読んで40年,(ミームを扱った)その最終章ほど私の心に取り憑いている部分はない.その間私は利己的なミームを何度となく会話で広め,ここで本にして広めようとしている.この「ミーム」というミームは(その魅力に弱い心に)取り憑いて離れない.本章はプロパガンダであり,あなたの遺伝子とミームの概念に影響を与えていればと思っている.私がうまくやれていたならあなたはそれはまた他の人に広めるだろう.そのために私はあなたの注意を引くようなフレーズを創り出し,自分の心にある概念を明晰化するように努めた.
  • この過程には,自分が効果的で章を通して一貫性を持つために必要だと考える標準的な方法に対するあらゆる代替案をテストすることが含まれる.私は自身のテキストを読んで改訂することを繰り返した.私はそのアイデアがコミュニケートしようとする目的よりも自分の意図に沿うように表現できたと思っている.しかしその過程で私は本当に完全に自律的だったのだろうか.書いている中で多くのアイデアが競合する.しかし最終産物はたった1つで,それは最初に書こうとしていたものとかけ離れている.最終バージョンは私の注目を集めたアイデアが盛り込まれている.そしてそれらのアイデアが私を利用しているように感じられる時がある.どの部分が私のオリジナルで,どの部分が誰かからのアイデアなのか.知的影響の網は複雑で不明晰だ.
  • ダーウィンの弟子でオクスフォードの生物学者で心理学者だったジョージ・ロマネスは1895年「Darwin, and After Darwin」においてこう書いている.

  • 獲得形質の遺伝とは別に,我々は文化を累積するために獲得された経験の知的伝達を予想以上に多く行っている.・・・このような特別の文化効果は個人にとどまらず世代を越えて伝わる.・・・このような純粋に知的な伝達の領域で,非物理的な自然淘汰が最良の結果を生むように働いている.ここでは生存競争が心理的な環境においてアイデアや方法の間で生じている.より適応していないものはより適応しているものに置き換わり,それは個人の心だけでなく,言語や文学を通じて大古の心に生じている.
  • ドーキンスなら「誰のための適応なのか?」と問いかけるだろう.

 
以上で第3章は終了だ.この最後の段落はとても深くておしゃれだ.深い考察に満ちた本を読んだときだけ得られる喜びがここにあるように思う.

From Darwin to Derrida その24

「遺伝子ミーム」その6

 
ミームを操作的に定義したあと,いよいよミーム論の本論,つまり物事が誰のためになっているかを突き詰めた議論が始まる.
 

  • では,ミームが伝達されるときに「誰の」利益になっているのだろうか.この問題は個人の視点からもミームの視点からも捉えることができる.個人の視点から考える時にはそれぞれの伝達者の利益を考えることになる.彼が意図的にミームを伝達したのなら,ミーム伝達は彼の想定する利益にかなうのだろう.ここで「想定」と言っているのは,個人の思惑は間違っていることがあるからだ.
  • ミームの視点から考える,つまり文化をミームの自己複製利益というレンズでみるという方法は最初の視点にないメリットを持つのだろうか.それは伝達者の誰の利益にもなっていないミームがミームの利益のために広がっているという状況があれば正当化される.さらにミームが伝達されやすくなる特徴が伝達ステップを積み重ねるにつれて累積的に形成されていくことが見いだされても正当化される.

 
ここからよくあるミーム論をめぐる論点の1つ,「ミームにおいて遺伝型と表現型の区別はどうなるのか(遺伝的進化とのアナロジーは成り立つのか)」という論点に入る.
 

  • ヨハンセンは遺伝型と表現型を区別するために「gene」という単語を導入した.ミーム学にも同じような区別があるだろうか.ミーム伝達の様相にかかる証拠には2つの種類がある.1つは音,テキスト,行動,人工物などのコミュニケーション行為だ.もう1つはコミュニケーションについての内省から来る洞察だ.ただし内省は,無意識の動機に惑わされやすく,その意識的思考は不完全で不正確になりやすいので頼りないガイドだ.
  • コミュニケーション行為は遺伝型のコンセプト(伝達されるもの本体)に近い.これにより引き起こされる意識的無意識的な効果は表現型のコンセプト(伝達されるものによる効果)に近い.遺伝学の歴史において表現型が観察され,遺伝型は推測された.しかしミーム学ではこれは逆になる.ミームは観察されるが,効果は推測するしかない.

 

  • 遺伝型(genotype)と表現型(phenotype)の区別は遺伝子についてはいろいろ有用だった.しかしミームについてはいくつもの未解決問題がある.例えば中世のギルドに大衆の意見を変えるためのプロパガンディスト達のための方法があり,それが口伝で師匠から弟子に伝えられていたとしよう.ある弟子がこの方法を使って意図したプロパガンダを成功させたとする.するとこの成功は弟子がさらにその弟子に口伝を行うかどうかに影響する.ミームのテクニックの視点に立てばプロパガンダは伝達効率に影響を与える(口伝される方法としての)ミームが生みだす産物ということになるが,それ自体ミームと考えることもできる.この場合のプロパガンダムはミーモタイプ(memotype)でもフェモタイプ(phemotype)でもありうる.
  • 遺伝子にはDNA配列としての物質的な定義がある.ミームも音波やテキストや紙や電子信号などの物質的な形態を持つ.このようなミームの外部的形態が感知されると,それはミームの「隠れた」形態を構成する神経システムにおける変化を引き起こす.このミームの「隠れた」形態の物質的な基礎はそれぞれの神経システムにおいて独特だろう.そしてミーム複製はDNAの二重鎖のような単純でエレガントなものではない.
  • もしミームの物質的な形態が問題なら,情報として定義すればいいのではないか? しかしそれなら我々の進化する「遺伝子」のミームとは何になるだろうか.これらのアイデアは伝達の都度再形成され,別のアイデアと組み替えられる.どのようにして陶太単位として十分な世代にわたり一貫して存在するアイデアの「核」を抽出できるだろうか.ドーキンスは「陶太単位としてみることのできる実体は利己的であることが予想される」と言っている.彼は「自然淘汰において成功する単位は長命で繁殖力が高くコピーの信頼性を持つものである」と考えており,遺伝子についてそのような実体を想定しているのだ.しかし(このような遺伝子についてのかっちりした定義とは異なり)ドーキンスのミームの定義は曖昧であり,単に「文化的伝達の単位,模倣の単位」としているだけだ.このような自然淘汰の単位として成り立ち,「利己的」というラベルを貼れるようなミームの定義はあるのだろうか.
  • 「利己的な遺伝子」初版のことを考えよう.このドーキンスの本は多くの古いテキストに影響された多くのアイデアを含み,それは(本書を含む)多くの新しいテキストに影響を与えている.「利己的な遺伝子」自体をそれぞれ長命で繁殖力が高くコピー信頼性を持つ利己的なミームのセットして分析できるだろうか.私たちはゲノムについて同じようにしているだろうか.
  • ドーキンスはゲノムの中の遺伝子の境界をはっきりさせようとしていない.「遺伝子は染色体の一部分で,組み替えなく長命であるために十分に短く,淘汰の多因にとして機能するもの」といっている.この定義によれば染色体を遺伝子に切り分ける方法は一意に決まらないことになる.ミームも同じように扱っていいのだろうか.

 
この部分の考察はなかなか深い.ミーム論についての批判と擁護の議論が回りくどくなりやすい背景がよくわかるものだ.

From Darwin to Derrida その23

「遺伝子ミーム」その5

 
ヘイグは遺伝子ミームの使われ方の多様性を指摘し,ドーキンスの遺伝子中心主義の「遺伝子」は複製効率を左右する相互作用の範囲で広がりを持つ戦略遺伝子だとした.では「ミーム」はどうなのかが次に扱われる.
  

  • ドーキンスは文化進化においてミームは生物進化における遺伝子と同じ役目を持つと言っている.もしそうならミームは自分自身の複製を促進させるような特徴を持つだろう.そしてそれはミームそれ自体の「ための」適応と解釈されうる.本章はここから遺伝子とミームのアナロジーを扱っていく.私はここでミームについては「ある個人から別の個人に渡されるメンタルアイテム」という曖昧な定義を用いる.ミームと考えられるものは多いが,私が特に興味を持つのはアイデアの伝達であり,「遺伝子」というミームを対象としてとりあげる.

 
当然「ミーム」も1種のミームとして使われ方には多様性が生まれるだろう.ヘイグはここでは「遺伝子」のアナロジーとして「ミーム」を考察するための操作的な定義を示している.
 

  • 誰がミーム伝達で利益を得るのか考えるのではなく,誰がコミュニケーションで利益を得るのかをまず考えよう.多くのコミュニケーションは,送信者が受信者のなんらかの好ましい状況変化を望んでなされる.それはある種のプロパガンダと考えることができる.プロパガンダ(propaganda)の1単位であるプロパガンダム(propagandum)は(受信者が想定通りに反応すれば)送信者の目的に役に立つことになる.ここで受信者はプロパガンダムを第3者に伝えることが常に期待されているわけではない.第3者に伝えるようにデザインされていない場合にはプロパガンダムはミームではないことになる.それは送信者に利益を与えるだけであってプロパガンダムに利益を与えるわけではない.

 
ここでヘイグは生物界の異なる利益主体間のすべてのコミュニケーションが基本的にプロパガンダであると定義していることになる.propagandaは英語では不可算名詞であり,単数複数はないはずだが,いかにもラテン語起源の名詞の複数形のような形をしているのでその単数形としてのpropagandumを単一ミームの呼称候補として提案している.
 

  • ときにプロパガンダムは(説得のエージェントとしてのプロパガンダムの効率性を上げるため)ある受信者から別の受信者に伝えるようにデザインされている.送信者がそのような伝達性能を与えることに成功しているなら,このプロパガンダムはミームということになる.このような伝達にかかる特性は送信者の利益を上げているが,同時にミームとしてのプロパガンダムの利益にもなっている.しかし受信者の反応にかかる特性は送信者の利益になっているだけでミームの利益になっているとは限らない.
  • 送信者のデザインは功を奏さないことがある.プロパガンダムは送信者の究極的な目的である受信者の変化には失敗するが,伝達には成功し心から心に広がっていくかもしれない.一旦ミームの連鎖伝達過程が始まると,もともとの送信者の目的にかかる淘汰はかからないが,ミームの目的にかかるミーム淘汰は(伝達の信頼性がある程度以上あれば)かかるかもしれない.
  • 伝達者があるミームを伝達するように選ぶ場合,そのすべてのステップは陶太行為になる.私たちは連続する伝達者達に伝達を欲するようにさせるミームの特徴を思い浮かべることができる.このような適応は(伝達者の)意図的な動機にも,無意識の動機にも,バイアスにも働きかけることができるし,そのような適応自体が(プロパガンダとして設計された)意図的な産物であることもランダムの変異による非意図的な過程で生まれた特徴かもしれない.だからミームの適応的な特徴は「インテリジェントデザイン」の産物かもしれないし,自然淘汰の結果かも知れないし,その2つの組合せかもしれない.

 
こういう議論を行うのであればやはりそもそもプロパガンダムのうち第3者に伝えるようにデザインされたもののみをミームとするというヘイグの取り扱いの意味はよくわからない.すべてのプロパガンダムをミームとし,送信者のデザインとして伝播していくもの,意図的なデザインではないがなんらかの理由により伝播していくもの,伝播力がないものがあるとした方がすっきりしたような気がする.
いずれにしてもここでのヘイグのポイントは送信者のメリット(そしてそのデザイン意図)とミームとしてのプロパガンダムのメリット(そしてそれが伝達されるようなデザインを持つ真の理由)は食い違うことがあるという指摘になる.そしてこれはミーム論を価値がないとする文化と遺伝子の共進化論者がしばしば見落としている点になる.

From Darwin to Derrida その22

 

「遺伝子ミーム」その4

 
遺伝子ミーム.ヘイグは遺伝子が多義的に使われていること,ドーキンスとDSウィルソンの淘汰単位論争がすれ違うのはこの遺伝子の定義が食い違っていることによることが大きいことを指摘した.ここからさらにそれが掘り下げられ.遺伝子中心主義をとる場合の遺伝子の定義が深く議論される.
  

  • この遺伝子淘汰主義者と階層陶太主義者の長く続く論争は,遺伝子が「滅多に組み替えられないDNAの配列」と定義されていてもなお残る曖昧性を示している.この場合でも「遺伝子」は特定の配列のDNA分子を意味することもあるし,何度コピーされても同じ配列である抽象的な情報を意味することもあるのだ.
  • 前章で私はこの違いを物質遺伝子と情報遺伝子として呼び分けた.ドーキンスは先ほどの引用においてこの情報遺伝子的なものを念頭においていたのだろう.しかしおそらくドーキンスはこの定義を望まないだろう.もしすべてのヒトが同じDNA配列を持つようになったとしても,利己的な遺伝子理論はユニバーサルな利他主義を予測しない.1つの利己的な遺伝子はすべての同じ配列レプリカをケアしたりせず,血縁などによるそのうちの一部のみをケアするだろう.その理由は遺伝的複製子のダイナミクスと関連する.

 

  • 突然変異は(既往の情報遺伝子を変容させた)新しい情報遺伝子を創り出す.すべての突然変異は1つの物質遺伝子の変化として始まる.だから突然変異は最初は稀な存在であり,同じ個体の同じ細胞内などの血縁の濃い関係においてのみ相互作用する.そのような相互作用する物質遺伝子グループは戦略遺伝子に該当する.このような突然変異が自然淘汰により頻度を上げるには,その表現型はこの小さなグループからコピーの伝達により(他の小さなグループから別の遺伝子のコピーを伝達するより)利益を得る必要がある.もしこの新しい情報遺伝子がその表現型により頻度を増せば,この戦略遺伝子は血縁の遠い個体内のコピー間で相互作用するようになるだろう.しかしそれでも稀なときの有利さを生む性質を保っているはずだ.このため母はたとえ同じ情報遺伝子を持っていたとしても12親等の親戚の子どもよりも自分の子どもをひいきするだろう.

 
このヘイグの説明は面白い.どのような遺伝子も最初は突然変異による稀な遺伝子であり,それが稀である場合には特に同祖的な相手以外には自分と同じものは存在しないので,同祖的な相手と相互作用して利益を受けるようなものでなければそもそも広がらず,(その配列が稀ではなくなっても)そのような傾向が引き継がれているという説明になる.
包括適応度理論の数理的な解説ではこのような説明のしかたはされないのが通常だ.当該遺伝子が稀なものであっても広く行き渡っているものであっても,同祖的であれば,平均的な同じ配列を持つ確率よりも(わずかであっても)同じ配列を持つ確率が上がり,それが(稀なときと同じように)血縁淘汰を引き起こすのだという説明になる.この解析がハミルトンの1964論文の真価ということになる.ただその論証は極めて難解になっており理解は容易ではない.この点に関して最も直感的にわかりやすいのはグラフェンによる秤の説明だと思われる.この「グラフェンの秤」についての私の理解はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20101023/1287819056参照.

  

  • 物質遺伝子は2つの役割を持つ.それは(タンパク質を創り出して)表現型を創り出す.そしてそれはコピーを作る.自然淘汰の本質は物質遺伝子の表現型効果が,その物質遺伝子やそのコピーの複製確率に影響するというところにある.だから戦略遺伝子は固定された存在ではなく,情報遺伝子の物質的コピーを増やしたり減らしたりするように進化する存在なのだ.
  • 例として単細胞の植物プランクトンの個体群を考えてみよう.一旦細胞が分裂すると,娘細胞は分離し,偶然以上の確率で相互作用することはない.すべての物質遺伝子はその表現型効果が(物質遺伝子としての)自分自身の複製にどう影響を与えるかという淘汰のみを受ける.この場合戦略遺伝子の広がりは1つの物質遺伝子に止まっている.
  • ここで,多細胞生物である魚のタラを考えよう.精子と卵は一度に放出され,受精卵たる接合子は海流に乗って分散し,特に血縁個体と偶然以上の確率で相互作用はしない.接合子にあった物質遺伝子は成魚のすべての細胞にコピーを残す.成魚の心臓や脳にある物質遺伝子はそれ以上複製しない.しかしその表現型は生殖系列にあるコピーの複製効率に影響を与える.この場合戦略遺伝子の広がりは成魚の個体になる.
  • 最後にミツバチの群れを考えよう.働き蜂の中にある物質遺伝子は女王バチの生殖系列のコピーの複製効率に影響を与える.この場合戦略遺伝子の広がりは群れ全体になる.
  • ドーキンスの利己的な遺伝子は,この戦略遺伝子の意味で捉えられるべきだ.

 
ヘイグによる戦略遺伝子の広がりは複製効率を左右する相互作用の範囲により決まるということになる.そしてドーキンスの利己的な遺伝子はこの意味の戦略遺伝子だと喝破する.遺伝子中心主義をとる際にはこの定義が基本ということになるのだろう.

From Darwin to Derrida その21

 

「遺伝子ミーム」その3

 
ミームを扱う第3章.まずはgeneというミームを考察する.
遺伝子(gene)というミームは様々な概念を包含しうる単音節な単語として広がった.そして実際に実験遺伝学者たちの「タンパク質のアミノ酸配列を決めるDNA配列」という使われ方と行動生態学者たちの「表現型の違いを作る遺伝的要素」としての使われ方が広がる.
ヘイグはさらに行動にかかる遺伝子を取り上げ,この遺伝子という用語の行動遺伝学での使われ方と進化心理学での使われ方を吟味する.
 

  • 遺伝子という用語がこの2つの意味で使われ続けたことは「遺伝子が行動を引き起こす」という主張に関する議論を混乱させた.
  • 行動遺伝学者は個人差に興味があり,例えば一部の人がより暴力行動を引き起こすことを説明できる遺伝要素を探そうとする.あるいは暴力的な人はモノアミン酸化酵素をコードする遺伝子に変異があって衝動を抑制することが苦手なのかもしれない.
  • 進化心理学者は,これに対して,適応産物としてのヒト種に典型的な行動に興味がある.だから特定の環境下でほとんどの人が暴力的に行動するような遺伝型を進化させたかの説明を求める.あるいは若い男性は貧富の差が激しい社会においてあまりリソースを得ていないときに暴力的に振る舞いやすいのかもしれない.暗黙裡に比較されているのは現実世界(あるいは過去の進化環境)の適応度と遺伝子が環境に対して別の反応をする仮想世界の適応度だ.
  • つまり,行動遺伝学者は暴力的な人間とそうでない人間の違いについて遺伝要因で説明しようとし,進化心理学者は同じ差異を環境要因で説明しようとするのだ.にもかかわらず,どちらもヒトの行動を生物学的に説明することを拒否する人々から「遺伝決定主義者」とののしられることになる.

 
ここは行動生態学者や進化心理学者が一部の社会学者から「お前達は遺伝的決定論者だ」とを決めつけられてどう反論しても受け付けてもらえないという事情の一環ということになる.ここでヘイグは触れていないが,(行動傾向の個人差を説明する遺伝要素を探す)行動遺伝学も行動が遺伝子だけで決まるとは主張しておらずやはり遺伝決定主義者とののしられるべきではないことには注意が必要だ.
ここからヘイグは誰もが納得する「遺伝子」の厳密な定義は不可能であり,操作的定義を用いれば良いのだという議論に移る.
 

  • ではドーキンスは「利己的な遺伝子」においてそのタイトルともなっている遺伝子をどう定義しているのだろうか.ドーキンスはそこで「遺伝子のユニバーサルな定義はない」と認めている.仮にあったとしても定義自体に神聖性はない.私たちは,明確であれば,自分たちの目的に応じて自由にある用語について定義を行うことができる.私がここで使いたいと思っている遺伝子の定義はジョージ・ウィリアムズの「自然淘汰の単位として十分な世代の間続く潜在性を持つ染色体の一部分」というものだ.これによると遺伝子は分子生物学者が認識する「タンパク質コード領域」より長い場合も短い場合もあることになる.このように定義するなら,ドーキンスは「遺伝子は自然淘汰の基本的単位であり,自己利益の基本的単位でもある」と考えていたということになる.

 
ここからはこの操作的定義を受け入れない人々との間の誤解の話になる.それが遺伝子中心主義者とマルチレベル淘汰主義者との諍いの本質だということになる.

  • しかしこのドーキンスの陶太単位としての遺伝子認識はユニバーサルに受け入れられることにはならなかった.その理由の1つは,遺伝子について異なる科学者は異なる暗黙の定義を念頭においていたからだ.例えばDSウィルソンとエリオット・ソーバーは「遺伝子は単に陶太単位の階層(遺伝子,細胞,個体,グループ,種)の最下位のレベルであるに過ぎず,何ら特別ではない.どの階層内でも淘汰は働き,個体にとっての善やグループにとっての善のための陶太が遺伝子にとっての善のための陶太と同じように存在する」と主張している.このように遺伝子を細胞の下の階層においているというのは,暗黙裡に遺伝子を細胞内の物質的な存在として定義していることになる.

 

Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior

Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior

 

  • しかしドーキンスの定義はこれとは異なる.ドーキンスはこういっている.
  • 利己的な遺伝子とは何か? それは1つのDNAの物理的な実体ではない.それはあるDNA配列の世界中にばらまかれたすべてのレプリカのことだ.キーポイントは遺伝子は他の個体内の自分のレプリカを助けることができるということだ.もしそうなら,これは個体としての利他主義が遺伝子の利己主義から生まれることを意味する.
  • DSウィルソンとソーバーにとっては遺伝子は細胞にある物理的実体だが,ドーキンスにとってはそれはウィルソンとソーバーのいうすべての階層にばらまかれている情報単位なのだ.私はこの議論の的になっている陶太単位を(それが実際に何であるかにかかわらずに)「usit」という使用しやすい短い語で呼ぶという誘惑に耐えることはできない.

 
論争のキータームの定義がすれ違っているのだから,論争はどこまでもすれ違いでひたすら無意味になるのも当然というところだろう.なお最後に出てくるusitという語のミームとしての今後はどうなるのだろうか.そもそも淘汰の単位論争自体が下火になっている(どこまで行ってもすれ違いなので双方あまり熱心ではなくなっているのだろうか?)のでこのミームが成功するのは難しいかもしれない,