War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その75

 
14世紀末のフランスの第2の転落.貴族層の過剰人口問題は解決せず,前回の転落の悲惨さを知らない若い層が台頭し,彼らは二派に分かれて争う.そしてそこに英国が介入した.アジャンクールの戦いはまさにクレシーの戦いの再現となり,フランスは大敗した.
 

第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その5

 
英国軍がフランスに侵入し,劣勢だったブルゴーニュ派と同盟したことで,フランスの内乱はさらに激しくなる.

  • 英国がノルマンディに易々と侵攻するのと時を同じくして,ブルゴーニュ派の軍はアルマニャック伯の籠もるパリを包囲した.市内のブルゴーニュ派が蜂起し,何千人ものアルマニャック派の人々が殺された.1418年の5月にブルゴーニュ軍がパリに突入した時,市内はアルマニャック派の人々の死体であふれていた.皇太子と生き残りのアルマニャック派はパリを放棄せざるを得なかった.

 

  • 次の年(1419年)ルーアンがヘンリー5世の前に陥落し,英国のノルマンディ征服が完了した.それを見た(英国と同盟関係にあったブルゴーニュ派の悪玉)ジャン無怖公は考え直し,皇太子とアルマニャック派と交渉を始めた.しかしモントローの会合のさなかアルマニャック派は,12年前のオルレアン公殺害の報復として,ジャンを狡猾に殺害した.ジャンの跡を継いだブルゴーニュ新公フィリップ(善良公)は報復を誓って英国との同盟路線に戻った.
  • ブルゴーニュ派との同盟に復した英国軍は北部フランスを蹂躙し,パリに入った.1421年のトロワ条約までに,ヘンリー5世はシャルル6世の娘と結婚し,皇太子を廃嫡させ,フランス王位継承権を得た.
  • 1422年,シャルル6世とヘンリー5世がともに逝去した.英国の幼きヘンリー6世はブルゴーニュ派に支持されてフランス北部の王として認知され,後にパリで即位した.
  • (アルマニャック派改め)皇太子派の立場は1420年代を通じてどんどん悪くなった.1424年,彼らはヴェルヌイユの戦いを落とし,1428年に英国軍がオルレアンの包囲を始めた.一方英国占領下にあるフランスの地域は,英国駐屯軍,皇太子派の襲撃,脱走兵,そしてエコルシェールたちによって荒れ果てた.エコルシェールあるいは皮剥屋というのは前世紀の傭兵団ルーティエの後継者であり,捕らえた敵の皮を剥ぐことからその名がついた.

 
ヴェルヌイユの戦いは第二のアジャンクールと呼ばれることもある戦闘で,結果はクレシー,アジャンクールと同じくフランスの大敗だ.

 
そしてオルレアンの包囲は百年戦争の転換点となるもので,最終的にジャンヌ・ダルクの活躍で包囲が解かれることで有名な出来事だ.