The Gene’s-Eye View of Evolution その54

 

第2章 「利己的な遺伝子」の定義と洗練化 その28

  
概念整理を行う第2章.第2章最後のテーマ「自然淘汰の定式化」.
  

2-5 自然淘汰による進化の一般的な定式化 その10

 
階層の進化的起源について,遺伝子視点と階層的アプローチとの間の論争.
遺伝子を自然淘汰上の特別の存在とすることを認めない論者としてグールド,ソーバー,DSウィルソンが紹介された.ここからこれに対してのドーキンスの応答となる.
 

2-5-2 主要な移行と淘汰のレベル論争 その6

 

  • ドーキンスは後に,グールドが自分とウィン=エドワーズを対比したことに「いたずら心」をくすぐられたことを認めている.しかし彼はグールドが(そして当然ソーバーやウィルソンも)レプリケータとヴィークルの違いを誤解していると考えていた.
  • (グールドは)あたかも遺伝子が最下層であるかのように,階層について語っている.しかし遺伝子は階層の最下層と何の関係もない.それは全く別のサイドにあるのだ.

 
「いたずら心(‘sense of mischief’)」についての言及は「Current Problems in Sociobiology」に寄稿した「Replicators and vehicles」というエッセイにあるようだ.この部分のニュアンスはちょっとよくわからないが,レプリケータの特別性を全く理解していないグールドにグループ淘汰主義者と並列されたことに,驚くとともにどのように反論しようか考えて楽しくなったというほどの感覚だろうか.

 
遺伝子が単に階層の最下層ではなく特別な存在だというこの文章の引用元はブロックマンの編集による「The Third Culture」に寄稿された「A survival machine」というエッセイだ. 

  • ドーキンスにとって,彼の遺伝子についての捉え方とウィン=エドワーズのグループについての捉え方には何の対称性もない.個体かグループかの論争は実証的な事実の話だ.それはエリザベス・ロイドの示した(4つの問題のうち)相互作用と適応の具現化の間のどこかにある問題にすぎない.しかし遺伝子はそれに対して,(ロイドのいう)受益者の問題なのだ.

 
ドーキンスにとってはレプリケータかそうでないかが最も重大な違いであり,個体もグループもヴィークルの1種にすぎないということになるはずだ(もっともドーキンスはグループがヴィークルになりうると認めることにはかなり消極的だが).
 

  • ウィリアムズもやはり遺伝子と個体を比較することは間違いの元だと考えていた.
  • 情報と物質を区別しておかないと,淘汰のレベルの議論は泥沼に落ち込む.たとえば,淘汰の単位論争において,遺伝子と個体を比較するのは(遺伝子として情報のパッケージと捉え,個体として物質的な対象物と捉えているなら)不適切だ.

 
このウィリアムズのコメントの出典は,同じくブロックマンの「The Third Culture」に寄稿された「A package of information」というエッセイになる.
 

  • ドーキンスとウィリアムズにとって遺伝子は真に特別なのだ.繰り返しになるが,この結論はタイプとトークンの区別に遡ることができる.トークンとしての遺伝子は確かに生命の階層の最下層にあり,そうではない別のサイドにあるとするには遺伝子を情報のパッケージというタイプとして捉えることが必要だ.
  • グールドは後に淘汰のレベル問題におけるロイドの切り分け法を受け入れるようになったが,主要な移行における遺伝子視点のレプリケータの役割についてはなお論争が続いた.

 
当然ながら階層アプローチをとる者たちは上記のドーキンスやウィリアムズのコメントで納得したわけではない.ここから論争の最終局面の紹介となる.