第1部 帝国の興隆(Imperiogenesis) その2
第1章ではロシアの東方拡大のきっかけになったイェルマクのシベリア侵攻を取り上げた.ターチンはロシアとタタールの戦いが300年前と逆になった原因について,それはロシア側に(直前にイヴァン3世による統一があるなどの)団結があり,タタール側にはなかった(キプチャク・ハン国崩壊の後いくつものハン国に分裂していた)からだと指摘する.ではその団結の原因は何かが第2章のテーマになる.
第2章 危険と隣り合わせ:ロシア(そしてアメリカ)の変身 その1
ターチンは地政学的な検討からはじめる.
- ロシアの歴史を形作った最大の要因はその位置,ヨーロッパにおけるステップ地帯への東方辺境を持つということにある.キエフからカザンに至る断層線(fault line)の両側は全く異なる世界なのだ.その北西側は森林地帯でスラブ,バルト民族が住む農業地帯だが,南東側は草原でトルコ・モンゴル系住民が住む遊牧地帯だ.10世紀以降はこれにキリスト教とイスラム教の違いが加わる.
キエフ*1は今回のロシアのウクライナ侵攻でも焦点になったロシア発祥の地ともいえる場所で,現在のウクライナの北部にある.そしてカザンはヴォルガ川沿いの都市でモスクワからほぼ東に700kmぐらいのロシア連邦タタールスタン共和国にある.この両都市を結ぶ線はかつてのロシア帝国やソヴィエト連邦の版図の真ん中少し南寄りぐらいを通る線になっていてロシアが15世紀以降,東だけでなく南にも大きく膨張したことがわかる.
- 両者の関係は,互いに異なるものを生産していること,遊牧民は軍事スキルを得やすいことから対立的なものになりやすい(条件によっては平和的な交易も生じる).スラブ民族と隣接遊牧民の関係は対立的なものになり,時にジェノサイドが生じた.
- 1061年から1200年までの間にキエフロシアは46回のクマン人の侵入を受け,1240年のモンゴル侵入によって征服された.断層線は数百マイル北に動き,地域は荒廃し,人口は大きく減った.
- ロシアの人口はジョチウルス(キプチャク・ハン国)の平和な支配下で回復した.1500年ごろジョチウルスが崩壊したあとロシアはくびきから逃れたが,またタタール(カザン・ハン国,クリミア・ハン国,ノガイ・オルダなど)の侵入を受けるようになり,国土は荒廃した.ロシアは死に物狂いで防衛を構築する(防衛ラインの構築やコサックの利用,タタール側の略奪戦略とそれへの対応などが詳しく解説されている).
- 略奪に対する防衛を強いられたロシアは協力が必要であることを理解するようになり,これはロシアを文化的に変容させた.辺境における厳しい状況と「我々対あいつら」ロジックは(キリスト教の影響と合わせて)団結と(全体のための)犠牲を厭わないメンタリティ,そして文化的規範をもたらしたのだ.またモスクワ大公国自体は階層社会だったが,辺境においては社会はよりフラットだった.これも協力的精神をはぐくむのに役立っただろう.*2
というわけでターチンによると,ロシアは統一されキプチャク・ハン国による支配から逃れた後,分裂したタタールからの度重なる侵攻を受け,防衛のために団結するようになった.それが自己犠牲的な協力を可能にするメンタリティや文化規範に反映されたということになる.この自己犠牲的な(つまり利他的な)形質を特に強調するのがターチンの議論ということになる.