War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その71

 

第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その1

 
第9章は第8章でどん底まで落ち込んだ百年戦争第1フェーズ終了時のフランスの状況から始まる.

  • フランスの貴族層と都市エリートは1350年代の軍事危機,社会的危機にショックを受けた.ジャックリーの乱(農民蜂起)と都市暴徒たちの残虐さは彼らを恐怖に陥れた.三部会は事態収拾についての無能さをさらけ出した.エリート層は反ヴァロワ朝勢力から距離を置くようになり,シャルル皇太子を支持するようになった.
  • エティエンヌ・マルセルはパリの暴徒を扇動して政府高官を殺し皇太子を脅したが,それによって貴族層からの支持を失った.また蜂起農民たちや英国とつるんだことで都市商人層の支持も失った.あせったマルセルはフランドルの都市からの支持を求めたが,1358年にパリの皇太子支持者たちに殺された.
  • 同じ頃貴族層は軍事的に蜂起農民たちを圧倒できることを示した.転換点は反乱軍9000人に対する完全武装の120人の騎士(うち40がランス兵)の勝利だった.(この戦いの様子が詳しく描かれている)1358年8月までにジャックリーの反乱は鎮圧された.
  • 翌年,英国がまたもフランスの心臓部に侵入した.エドワード3世の狙いはランスであり,そこでフランス王位の戴冠を行うことをもくろんでいた.皇太子は上手く戦闘を避けて焦土作戦に出た.エドワードは目標をパリに変えたが,やはりうまくいかなかった.軍は疲弊し,軍費も尽きたためエドワードは和約交渉に転じた.交渉において皇太子は,エドワードがフランス王位の主張を断念することの見返りに領土の一部割譲と父王の巨額な身の代金支払いに同意した.

 
この取り決めはブレティニー条約として知られ,1360年に結ばれる.英国側はフランスの南西部アキテーヌ中心に領土を得,ブルターニュを含む北西部をフランスに返還した.
 

 

  • 1359年に皇太子は全国三部会を招集した.今回はエリートたちも互いの意見の相違を飲み込んだ.長い協議の末に財政再建策が打ち出された.1360年12月の布告はフランス財政史のランドマークとなった.それはフランス革命まで続いた基礎的な税制の枠組みを作ったのだ.そこで竃税(hearth tax)と売上税(sales tax)の体系が組まれ,そこには食塩の消費に対する税(塩税:gabelleと呼ばれた) が含まれていた.これは地主と都市エリートの妥協の産物だった.竃税の主な負担者は地方の領主であり,売上税は都市住民が負担した.塩税は逆進的で貧困層も負担した.
  • この新しい税法にはほとんど反対がなかった.国王の身代金支払いが必要だということが広く理解されていたということもある.ただし実際には身の代金は支払われず,シャルル皇太子は増収分を軍備増強に使った.

 
ちょっと調べてみると,ジャン2世は身代金支払いの人質として息子ルイその他数名と引き換えに一旦釈放されフランスに戻り身代金を工面しようとするが,1362年にルイが逃亡したために自発的に英国に戻り,そのまま英国で1364年に虜囚として亡くなったということらしい.皇太子シャルルはその後シャルル5世として即位することになる.

 

  • おそらく最も重要だったのは.「何かしなければフランスが失われてしまう」という意識の共有だっただろう.そしてもう1つ重要だったのは戦争によりフランスの貴族層の人口が大きく刈り込まれたことだ.1360年時点では貴族層のならず者は大幅に数を減らしていたのだ.

 
ターチンはここではアサビーヤを強調するわけでもなく,意識の共有というだけにとどめ,並列して人口要因を挙げている.これまでのアサビーヤ強調スタンスからするとやや違和感もあるところだが,それはこの後フランスが一直線に強国化するわけでもなくすぐまた混乱したからということなのかもしれない.
 

  • 世論は「名誉と栄光」から「平和と安定」「規律と秩序」に大きく変化した.それはシャルルの勝利をたたえるモテットの歌詞にも見ることができる.
  • ただこの新しい社会的合意も脆弱だった.後に見るようにフランスは15世紀前半にはまたも混乱する.とはいえこの時点でフランス貴族層はシャルルのまわりで団結した.
  • 基盤が強化された税収の最も重要な使い道は常備軍の創設だった.シャルルの軍は完全武装兵2400,クロスボー兵1000で構成され,永続雇用で賃金が定期的に支払われた.緊急時には補助部隊も編成され兵数5200となった.この常備軍の最初の勝利は1364年の悪玉ナヴァレのシャルルに対するものだった.
  • 1369年には英国との戦闘が再開する.次の10年でフランス軍はシステマティックに運用されるようになり,1380年シャルル5世の治世の終わりにはフランス領のほぼすべてが回復された.英国軍は大西洋岸のいくつかの村と要塞にしがみつく形となった.英国のフランス領への略奪行軍は1380年のものが最後になり,戦闘は1388年に一旦終結し,1411年まで再開しなかった.

 
ここもフランス軍の興隆について団結だけでなく常備軍の設置とシステマティックな運用が要因として上げられており,これまでのアサビーヤ強調スタンスではない.やはりすぐあとで混乱するフランスの一時的な成功に過ぎないからということなのだろう.