読書中 「The Stuff of Thought」 第5章 その8

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


第4節で,人々はメタファーの奴隷になるわけではなく,メタファーを重要なカテゴリーを特定の例で示すことにより一般化しているのだと言うことを見た.


第5節はメタファー自身をもっとクローズアップしてみてみようという節になる.

ここで主に取り上げられているのは文学で使われるメタファーだ.


「ジュリエットは太陽のように,私を燃え立たせる.」というメタファーはソースとターゲットの類似性を示している.これは単なる直喩なのだろうか.
ピンカーは否定する.試しにもっと直截な直喩に変えてみよう.「窓は東に似て,ジュリエットは太陽に似ている」つまらない!


ピンカーによると,文学のメタファーのぴりっとした味は,類似性に付加される何らかの成分によっているのだということになる.
その成分は,まずシンタックスだ.
たとえば特徴を名詞句で言い表すことによって,そのものの本質を言い表しているように感じられるのだ.より深く,より永続的な響きを持つのだ.だから,「この弁護士はサメだ」という方が,「この弁護士はサメのようだ」というより強い響きになる.



ここで詩のメタファー使用についてのレイコフとジャッケンドフの論争が紹介されている.


レイコフの主張は「詩のメタファーは毎日の概念メタファーと同じだが,通常省略されるものを使っていたり,通常でない方法で詳細を新しく記述したり,関連するメタファーを交ぜたりしている」というものだ.


ジャッケンドフはこれを批判し,「人々は詩のメタファーを,文字通りの言い切りや通常のメタファーを区別している」と主張した.文学メタファーは非調和の感覚を醸し出すから面白いのだ.一瞬意味のないような言葉を聞いてパズルを感じる.これを簡単に示すには,詩について,まず非調和を指摘し,それからメタファーの類似性を示してみるといい.

もちろん世界はステージではない,でももし世界がステージなら,幼児期は第1幕ということになるだろう.
もちろん人々は天体ではない,でももし人々が天体なら,ジュリエットは太陽だといって良いかもしれない.


このどちらが正しいかについてジャッケンドフは聖書のレビ記の「For the life of a being is in the blood」という表現を使って説明している.私達にとってこれは文学メタファーであり,「生命は身体の中の液体であり,液体がなくなると死ぬ」という概念メタファーの横枝だ.そして「彼女は流れ出したように感じた」とか「彼の人生は(潮が引くように)流れ出た」などの表現に結びつく.
しかし,古代のヘブライ人は文字通り精神的機能は身体の中の器官や物質にあると断言したのだ.そしてこの部分は動物の血を消費することの禁止へと結びついている.


そして「もちろん生命はほんとうに液体であるわけではない,でももし生命が液体なら,それは血の中にあるといっても良いかもしれない.」に対して私達は納得するが,本当に生命が液体だと思っている古代ヘブライ人は同意しないだろう.これは真実の主張としてのメタファー(古代ヘブライ人の用法)と文学的メタファー(私達の受け止め方)が異なっていることを示しているというのだ.


ピンカーは同じように「もしそうなら」検査をすれば毎日の概念メタファーと詩のメタファーが異なることを示せると言っている.

もちろん時間は場所ではない,でももしそうなら,私達はクリスマスに近づいているといっても良いかもしれない.
もちろん目的は目的地ではない,でももしそうなら,私はこの本を読み終えるという目的地(destination)に到達していない.


これら普通の概念メタファーをこのように変形するとまったく推論として意味をなさなくなる.つまりこれらは詩のメタファーとは異なるのだ.


これは説得的だ.詩のメタファーがなにかしら難しくて良くわからないのは普通のメタファー用法と違っているからだと言ってもらえば私なんかはとても安心する.



ピンカーはさらに,刺激を与える成分について考察を加える.


2番目の面白さは語用論でもふれた偽悪語法,ユーモアなどだ.
最初に受け流しそしてはっと気づきその後考え込むということが別の何かを加えることになる.それは毎日の平凡な生活の中では類似性に気づかないが,作家は聞き手の注意を引きつけるほんとうのニュースを提供しているということを意味する.文字通りの意味と意図的な解釈の緊張は3番目の意味を生み出し,それは偽悪語法だったり,ユーモアだったり,サブテキストだったりする.


3番目の面白さはソースへの感情の色合いとそれがターゲットににじみ出ることだ.


ベンジャミン・ディズレーリのコメント
「私は脂まみれのポールのてっぺんに登った」
レイコフによるとこれは努力によって今の地位を得て,しばらくは逆流にも耐えたが,これ以上得るものはなく,まもなく滑り落ちるだろうというほどの意味だ.ピンカーはさらに一歩踏み込んでレイコフの説明で見逃されているのは皮肉がきいた言外の意味であり,政治的な競争は,不愉快で泥まみれで,ほんとうに無駄だということもふくまれていると補足している.


ナヴォコフ
「ヒレンジャクの死体の影 窓ガラスの偽の蒼に」
これには豊富な感情が含まれている.影の非物質性,反射の非自然性と幻影の裏切り,無害なガラスのプリントによる死のリマインダー,愛すべき生物の突然の悲劇的な死,等々.


言われればそうかもしれないがこの辺は私にはお手上げだ.とりあえず直訳調で訳してみたが,全然落第だろう.
ピンカーは,科学のメタファーと文学のメタファーの差について,多層的な部分的な感情的な類似性は詩の豊かさを作るが,科学の理解にはじゃまだとコメントしている.



ここでピンカーはよいメタファーを知るための良い方法は悪いメタファーを見ることだと言ってワシントンポストのエントリーから始まったWorld Worst Analogyを紹介している.
ググってみたらここが引っかかった.http://www.worsleyschool.net/socialarts/poorwriting/poorwriting.html なかなか傑作だ.一部紹介メタファーがないものもあるし,ワシントンポストとは関係ないようにも思われるので別のサイトかもしれない.日本にはこういうサイトはないのだろうか.

ジョンとマリーは出会ったことがない.まるで出会ったことがない2羽のハチドリのようだ.
彼女の目は大きな黒い点のある茶色の円のようだ.
雷は不吉な音を立てる.まるで劇の嵐の場面でバックステージで振られる薄い金属板が立てる音のようだ.


確かにバカみたいなメタファーの使用例だ.ピンカーはこれらはターゲットについて何ら新しい情報を与えないから駄目なのだとコメントしている.

彼女のデートは楽しかった.しかし彼女はもし彼女の人生が映画なら,この男はクレジットに「2番目の背の高い男」と埋もれて表示されるだろうということを知っていた.
彼は実際に経験したことのある人にしかできない知識を持ってしゃべった.例えば,ピンホールのある箱を使わないで太陽を見たために視力を失って,今や全国の高校を回って,ピンホールのある箱を使わずに太陽を見ることの危険性を警告して歩いている男のように.


こっちは脱力系だ.ある意味笑えるような気がする.ピンカーは,これらはソースを説明することに夢中になりすぎていて,読者は解決すべき非調和を見失い,レトリックを楽しむことができないとコメントしている.

彼の30年にもわたる結婚生活が妻の不貞のために破綻するという知らせは,まるでチャージフリーだったATMに手数料がかかるという知らせのように,ひどいショックを持って現れた.
バレリーナはアンポワンから優雅に足を伸ばした.まるでイヌが消火栓に対するように.


これは結構ギャグとして秀逸ではないだろうか,もちろん本来の情景描写としては失格だが,
ピンカーは,これらではアナロジーは明確だがソースにある感情的な色合いがターゲットのそれをひどく損なってしまっているのだとコメントしている.




第5章 メタファーのメタファー


(5)善,悪,そして醜