読書中 「The Stuff of Thought」 第5章 その9

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


メタファーについての章もいよいよ最終節だ.本節はピンカーがメタファーについてどう考えているかをまとめている章になる.これまでメタファーが,科学,文学,推論で,何ができて何ができないかを見てきた.そして最初の設問に戻るのだ.普通の人はどの程度容易にメタファーを作ったり理解したりしているのか?


最初はメタファーがどうヒトの認知に影響を与えるかの実験の紹介だ.単純な次元にある単純なメタファー(例えば,幸せは上)が理解可能なことを示すのはやさしいということだ.


紹介される実験では,良い意味と悪い意味がスクリーンの上にあるか下にあるかどちらが反応しやすいか(良い意味が上にある方が反応しやすい),近いスイッチと遠いスイッチのどちらに反応しやすいか(良い知らせは近いスイッチの時の方が早く反応できる)などが示されている.これらは所有や利害にかかる文脈でも同じ結果になるそうだ.


もう少し凝った実験として,アナロジーが二義的なものであるときに実際の動きがその解釈に影響があるかどうか調べた心理学者リーラ・ボロディトスキーの実験が紹介される.
二義的なアナロジーとは「時は行進だ」「時は地形だ」というメタファーだ.英語においてはWednesday's meeting has been moved forward two days. というときにどちらに変更されたかについて,行進メタファーでは時が未来から話者の方に近づいてくる.だからこの場合話者に近い方,すなわち月曜日に繰り上がったことになるし,地形メタファーでは話者が動いているので金曜日に延期されたことになる.
日本語では後者のメタファーしか使われないようで,二日先に延期されたと言えば金曜日の解釈しか生じないように思う.(「前に」と言えば月曜日だが,この場合も動いているのはやはり自分たちで,ゴールより自分たちに近いという意味で「前に」という語を捉えているように思う)

通常はその前の会話でどちらのメタファーを使っていたか等の文脈で判断されるが,ボロディトスキーは実際の動きのイメージを与えるとフリップを起こせることを示したのだ.(オフィスチェアーを押しているイメージとひもで引っ張るイメージでフリップが生じる)


さてこのような実験で,確かにヒトは単純なメタファーが理解可能であることがわかる.ここでピンカーは問いかける.ではより複雑なものはどうか.
何か特別なやり方で相互作用する実体の関係において,容易にメタフォリカルに考えられるということを示せるだろうか.そしてそれでまったく新しいメタファーを作り出せることを示せるだろうか?


続いてあげる例は子供の言い間違いだ.子供も言い間違いには興味深いメタファー生成の例が含まれているだろうか.ピンカーはまず心理学者メリッサ・ボーワーマンが自分の就学前の娘2人を観察して得た結果を示している.これには結構興味深い例も含まれていた.

You put me just bread and butter.
You put the pink one to me.
I'm taking these cracks bigger. (ピーナッツの殻を取りながら)
I putted part of the sleeve blue so I crossed it out with red. (色を塗りながら)
まだたくさん紹介されているが,さすがに子供の言い方のニュアンスは微妙すぎてよくわからないところだ.


ピンカーは学生と一緒に子供の言い間違いについて定量的に調べてみた.
その結果99.3%において子供は動詞を普通に使った.子供は確かに類似性をつかんでいるが,それを直接表現することはまれだ.ピンカーはなかなかじれったい結果だと表現している.


さらに別の手がかりを求めてAIの研究者ロジャー・シャンクの「思い出し」現象を取り上げている.

「思い出し」の例は格調高くマルセル・プルースト失われた時を求めて』À la recherche du temps perdu の第1篇「スワン家のほうへ」Du côté de chez Swann のマドレーヌ菓子(プチット・マドレーヌ)をお茶に浸して食べたことから,過去の記憶が一気に思い出されるという有名なシーンだ.
マデレーヌ一口と紅茶を味わうと,それがもとであるものとはまったく別の無情の喜びを感じる様の描写,何故このような喜びを感じるのだろう?そしてしばらくあとで,昔レオニーおばさんが紅茶に浸したマドレーヌを出してくれたときのことを思い出す.


ここからシャンクやピンカーが思い出しをやってみて得られた結果が示される.凡庸な例が次々に示されて「コンピューターサイエンティストの思い出しはこんなものだろう」みたいなぼやきも出て傑作だ.少し紹介してみると


郵便局で長い列に並んで,前の男はたった一枚の切手を買うために長い時間並んでいるのに気づいたときに,ガソリンスタンドでわずか1ドル分のガソリンを入れる男を思い出す.
ジョギング中にランダム選曲中のiPodを聞いていた.良いテンポの曲がかかるまでスキップボタンを押していて,マウンドのピッチャーがサインに首を振り続けるのを思い出した.


確かにこれをプルーストと比べるのは酷だ.



プルーストの例は感覚が共有されているものだが,それ以外に抽象的なアイデアの骨格が似ていることで結びついているものがあることがシャンクの主張だ.この前の例でいえば「つまらないものを買うための非効率性」だ.


ピンカーはこう言っている.

シャンク風の思い出しは新しいメタファーやアナロジーに続く巧妙な心の動きだろう.そしてなかなかいいアナロジーになるはずだ.このような思いだしはシャンクや私には自発的に生じた.そして他の人にも同じように努力なしにできるのであれば,私達は言語になぜこれほどメタファーがあふれているかの説明を得たことになる.私達は何故ヒトがこれほど賢いかの説明も得ているのかもしれない.シャンク風思い出しは私達に(霊長類時代から始まる)古いアイデアを新しい領域で使わせてくれる進化の贈り物かもしれない.


第5章 メタファーのメタファ


(6)メタファーと心