「Kluge」第1章 進化の痕跡

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind



本年最初の読書はマーカスのKlugeだ.マーカスはピンカーの弟子筋にあたる言語獲得とコンピュータモデリングを研究する認知科学者であり,前著の「心を生みだす遺伝子」では,遺伝子が具体的にどう発現していくかを詳しく語ることにより,世の中の「遺伝子か環境か」という二者択一的な問題のとらえ方が誤解であることを解説している.脳の形成とニューロン細胞の分裂,分化,その制御,遺伝子が心や行動に影響を与えていると考えられる多くの証拠を吟味しながら,他の身体における形質と同じく,心の形成について複雑に多くの遺伝子が影響を与えあっていることを解説し,特に学習パターンに多様性があること,これには生得性が重要であることを強調する議論を立てていた.その中には専門分野である言語についてもふれていて,脳のモジュール説を擁護する文脈の中で,言語はそれまでに進化したいろいろなモジュールをその場限りの工夫で利用する形で進化してきた間に合わせのシステムとして理解すべきであると主張している.
本書Klugeではその「いろいろなモジュールをその場限りの工夫で利用する形」について深く議論しようとしている本だということだ.


第1章には本書の狙いが書かれている.
ヒトは思考,論理,言語,について不完全さをよく指摘されている.例えば,長期の利益と短期の利益をうまく比較できないこと,論理をすぐに間違うことなどだ.そしてこの本の目的はそれはなぜかということについてだと宣言されている.

つぎにこのKlugeという単語についての蘊蓄がある.この言葉自体は英語の中で1935年には確認できるそうだ.「とりあえずその辺のもので何とかうまく働くものをひねり出す」という意味で使われ,発音は「sludge」ではなく「huge」と韻を踏むとあるから,日本語表記では「クリュージ」ということになるだろう.
このようなクリュージはエンジニアの世界ではありふれているそうだ.とりあえずうまく動けばいいというのが彼等の世界だがら当然だろう.例としてはアポロ13号の事故の際の二酸化炭素除去フィルター,エンジンの吸気利用のワイパーがあげられている.また目で見たわかりやすさとしてゴールドバーグ装置も引き合いに出されている.これはアメリカでは結構有名のようだ.

ではヒトにおいてはどうか.よく挙げられる最適化していない例は直立歩行と脊椎,目の盲点,精管の経路,などだ.これらは自然淘汰による適応が必ずしも最適化に向かうわけではなく,適応地形上での極大化のために最適でない点で止まることがあることの説明としてよく引き合いに出されるものだ.マーカスはこのような事象が脳や心についてもあるはずだと主張している.


確かにそれはあってもおかしくないし,これまで脳や心についてはそれはあまり議論されないのだろう.通常の進化心理学的な議論だと,ヒトの心は一見不合理に見えるが,それは進化的な過去環境における最適化の結果そうなっているので現代環境には適応していないとして説明されることが多い.マーカスはそうではなくてモジュールのつぎはぎによる極大化地点としてそうなっているものがあるはずだと主張したいということになろう.

これまでの議論の例としてはヒトの推論はベイズ的かという問題に対して,コスミデス,トゥービィらが自然淘汰の結果最適化(非常によくデザインされた機能を持っているに違いない)されているという前提で議論していることが取り上げられている.ここでは師匠のピンカーも批判的に引用されていてちょっとびっくりさせられるところだ.(しかしピンカーは本書の裏表紙にちゃんと推薦文を載せている)


そして第2章以降,記憶,信念,選択,言語,楽しみを順に見ていくと宣言される.ヒトは確かにちょっとおかしいのだ.「ヒトはカルトにうつつを抜かし,薬物にはまり,深夜ラジオを切れないのだ.なぜ宇宙人に誘拐されたと信じる人がいて,金で幸福を買えないのだろうか.」このあたりはアメリカ特有でちょっとおかしい.日本だと血液型性格判定術の本がベストセラーになるような現象が当てはまるのだろうか.


もちろんマーカスは多くの美しい適応があることを認め,クリュージがそれを上回っているわけではないと言い,レスリー・オーゲルの言葉「自然はあなたより賢い」やデネットの「何度も何度も生物学者は一見明らかな無駄なものを見つけたと思い,そして後に自然の創造のすばらしさ,洞察の深さを思い知ることになったのだ」を引いている.これはグールドと同列に扱われたくないということだろうか.そして,すべてが最適であると仮定しないで自然を見ることが重要だといっている.これらはスパンドレル批判以降の正統的な適応主義者の主張と同じだろう.
ただマーカスはグールド側に一歩進めているようだ,ヒトの心の様々な側面がクリュージではないかと疑うことの効用を最後に2つあげている.
1つは心の進化的歴史がわかるかもしれないこと,そしてもう1つは自分たちがうまくやっていくには心のクリュージ性をわかっている方がよいことだ.この本はちょっとハウツーものでもあるようだ.



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前著.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20081203


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同原書