「心は遺伝子の論理で決まるのか」

心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性

心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性



著者スタノヴィッチは発達心理学者,教育心理学者で言語発達や合理的思考にかかるリサーチ,例えば識字能力に関してもマシュー効果*1があるなどの研究で有名なようだ.本書は合理的思考に関するリサーチの成果物ともいえるもので,合理的思考を使ってどのように幸福になれるかを掘り下げた内容になっている.


本書の冒頭でスタノヴィッチは現代における知的な階層分化の兆しを懸念している.識字効果におけるマシュー効果とも関連があるのだろうが,現代のダーウィニズム的な知識(本書ではドーキンスダーウィニズムと称しているが,認知科学進化心理学の知見を指しているようだ)が一部の知識人に止まっており,本来このような知識を利用した幸福追求が知的階層により不平等になりつつあるのではということのようだ.
この背後にあるのが本書の主題だ.スタノヴィッチは,ダーウィニズムの知識を使えば,人は合理的思考を用いて遺伝子やミームの利害のくびきから逃れてより幸福追求ができると考え,その実践を勧めている.本書の原題「The Robot's Rebellion」はこのことを指している.


スタノヴィッチは,まずダーウィニズムを解説し,デネットのいう万能酸の威力を認める.そして進化は私達ヴィークルではなく複製子たる遺伝子の頻度増加のために進むこと,遺伝子の目的と私達の幸福は重なっている部分もあるが重なっていないこともあることを明らかにする.このあたりはドーキンスデネットの説明のとおりだ.
スタノヴィッチはここで認知科学における二重過程理論を取り上げ,TASS(The Autonomous Set of Systems)と分析プロセスの二重過程が人の心の中にあるという知見を紹介する.進化はまず,条件付の行動戦略としてのTASSを作り,その後遠隔操作では対応できない状況について自律走行可能なように分析プロセスを作り出したという説明だ.TASSはおおむねゲアリー・マーカスが反射プロセスと呼び,進化心理学が領域特定モジュールと呼ぶものに重なっている(細かな違いはある),そして分析プロセスはマーカスが熟考プロセス,進化心理学では一般知能と呼ばれるものと大体重なっている.このような二重構造は様々な学者が様々な証拠を元に提案していて,その存在に疑いのないところだ.本書でも20以上の提唱理論が並べられている.
スタノヴィッチはヒトの心にはTASSが偏在しており,その行動にかなり影響を与えているが,これがヒトの幸福追求とずれうることを.現代環境と進化環境の差,及び遺伝子的視点とヴィークルの視点の差(スタノヴィッチはこれをTASSのアナバチ性と呼んでいる)として説明し.これが克服すべき大きな課題1だとする.


ここでスタノヴィッチは「合理性」という言葉のまわりを整理する.自分が望むものを手に入れることを「道具的合理性」と呼び,外からの方法に基づいて信念を形成する際の「認識的合理性」と区別し,欲望の中身の是非を問わない議論を「薄い理論」,欲望の評価に踏み込むものを「広い理論」とする.
そしてさまざまなTASSの判断に道具的合理性がないことをあげていく.この要因の1つは文脈依存性だ.このあたりは社会心理学行動経済学でおなじみの部分だ.スタノヴィッチはこのようなTASSの欠点をただすには「広い理論」の視点に立ち,分析プロセスをうまく用いることが重要だと考えているのだが,ここで一転して進化心理学批判に1章をさいている.


スタノヴィッチは進化心理学の言説が,分析プロセスを用いてより幸福になろうとする努力の妨げになると信じているようだ.彼の批判は主に2点ある.

  1. 進化心理学はモジュール性を重視して,一般知能を軽視している.特に一般知能が個人間で分散があることを重要ではないとしている.これは遺伝中心主義の行き過ぎからくる誤りだ.
  2. 進化心理学は進化環境と現代環境(特にその脱文脈的な特性)の差を過小評価し,進化的なモジュールの有用性を過大評価している.

この部分は読んでいて本当に驚きだ.なぜこんな誤解が生じるのだろうか?スタノヴィッチのいう一般知能の分散の軽視というのは恐らくコスミデス達がヒトの心理的特徴のユニバーサル性を強調している部分を誤解しているのだろう.過去の社会生物学批判の歴史を考慮して特に強調しているユニバーサル性がこのように誤解されているのはある意味皮肉というほかないだろう.進化心理学は一般知能を軽視しているわけではないし,分散がないといっているわけでもない.
また進化環境と現代環境が異なっているというのは進化心理学の最もよく行う主張の1つだ.だからこの誤解も驚き以外の何者でもない.モジュールの判断が不合理だというよくある物言いに関して,進化的な合理性があるのだという言い方をすることはあるが,それを自然主義的誤謬的な発言だと誤解しているのだろうと思われる.
いずれにしてもよくある進化心理学の誤解とは逆方向の誤解であり,考えさせられる.あるいは通常の批判に対して反論している内容が誤解を産むのか,米国においてはそれに悪乗りしたエセ進化心理学的言説が多いということなのだろうか.


スタノヴィッチは本題に戻りTASSを出し抜く戦略について語る.合理性についての論争を紹介しながら,ヒトの推論には改善の余地があると素直に認め,分析プロセスを用いて合理的な行動を行うようにすべきであると主張している.
しかしここに大きな問題がまだ残っているとスタノヴィッチは主張する.それは大きな課題2としてのミームの問題だ.ミームについて詳しく解説し,スタノヴィッチは私達の分析プロセスは利己的な寄生ミームに汚染されている可能性があるのだと指摘する.

なおここでもスタノヴィッチは進化心理学ミームを軽視していると批判している.進化心理学者は「ミームが完全に遺伝子のくびきから逃れられる」という主張を嫌うというのだ.
ここでも誤解があるようだ.スタノヴィッチはブラックモアの主張に賛同し,ミームは自分に有利であればどこまでも遺伝子を無視できるのだと主張している.私から見るとこれはタイムスケールを誤解した議論だ.脳の構造が大きく変わらないうちは,ミームミームに有利であればどこまでも広がることができるだろう.その意味でスタノヴィッチは正しい.しかし永いタイムスケールの中では,遺伝子にとって不利なミームが広がった場合,そのミームに対して抵抗性のある脳構造を生じさせる遺伝子変異があれば,それはミームには不利でも遺伝子にとって有利になるので遺伝子頻度は増え,究極的にそのミームは頻度を減らし始めるだろう.通常の進化生物学者はこの意味で「ミームは,その基盤たる脳構造を司る遺伝子から,どこまでも離れられるわけではない」といっているのだ.


さて本題に戻ってスタノヴィッチはミームに対しての戦略はノイラートプロセスしかないという.これは分析を行おうとする当該分析プロセスのどこに腐ったミームがあるかわからないので,ブートストラップ的にいろいろな組み合わせで内省を深めてその考えがヴィークルのためなのかミームだけのためなのか吟味していくということを指しているようだ.
スタノヴィッチは様々な吟味方法,高次の分析,象徴的価値などの様々な議論を行っている.(要点は,あるものが好きという自分自身が好きか,さらにそのような自分を好きな自分が好きかということだ)
スタノヴィッチはこのような高次の象徴的な価値を認める知性こそ価値が高く,遺伝子やミームのわなから抜け出せる切り札だと考えているようだ.しかしここは実践的戦略と価値の議論がきちんと分かれていなくて私的にはよくわからない議論だった.結局「どちらが自分にとってよいことなのか,いろんな角度からよくよく考えよう」ということに過ぎないのではないかという印象だ.

例えばスタノヴィッチは「偽善」(フェアトレードとかいいながら時に中国製の服を買ってしまうリベラルな女性)という現象を取り上げて,これはむき出しの欲望主義(市場万能主義を信じる保守派のおじさん)よりも何らかの自分自身の象徴的価値(中国の非人道的労働者を思いやる自分)を認めているだけ価値が高いのだと議論している.これはいわばむき出しのリベラル的価値の一方的な主張が背後にちらついていていただけない.
またスタノヴィッチは,価値の源泉が,一般にヴィークルの視点に立てる分析プロセスにあるとしながらも,TASSにもある場合があるのだとしてハックルベリー・フィンの例を挙げている.(ハックは感情的に奴隷を助けたいと思ったが,法律では禁止されていると知っている)これは結局ヴィークルにとっての価値が何かということが整理されていない好例だと思われる.私達は何が美しい,何が正しいと考えるべきのか.最終的にはモラルの源泉は何かという問題だ.いろいろな立場があり得ると思うが,本書ではそこは明快ではない.


スタノヴィッチは最後に現代環境が特にTASS的な判断だけを行う人にとって不利になっていること(保険をはじめとするさまざまな複雑な契約内容やニューロマーケティングなどが背景にあるようだ)を強調し,上記プロセスをとるように勧めて本書を終えている.


本書は内容的には遺伝子,ミームにかかる淘汰,そして心の二重過程などを統合的にまとめていて,それなりに充実している.(索引,原注,引用元がきちんと収録されているのも評価できる)しかし進化心理学については非常に独特な誤解があり,不思議な批判を繰り返しているし,ミーム吟味のところは抽象的に考えすぎてやや上滑りになっているように感じる.また価値の源泉にふれていない部分も不満が残る書物だ.また知的階層分化を憂えている割には,知的階層にしか読まれ得ないような難しい表現が多く,なかなか存在自体に矛盾がある本であるようにも思われる.



関連書籍


原書

The Robot's Rebellion: Finding Meaning in the Age of Darwin

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本書の前半に関連が深いのはこの2冊

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化



ミームについてはこちら

ミーム・マシーンとしての私〈上〉

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合理性の議論についてはこのあたりが関連している.

合理性と推理―人間は合理的な思考が可能か

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スタノヴィッチにはこのような著書もあるようだ.

What Intelligence Tests Miss: The Psychology of Rational Thought

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How to Think Straight About Psychology

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Progress in Understanding Reading: Scientific Foundations and New Frontiers

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Who Is Rational?: Studies of individual Differences in Reasoning

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*1:マシュー効果とは金持ちはより金持ちに,貧しいものはより貧しくなっていくという正のフィードバック効果があるような状況を指している言葉だ