「見る」

見る―眼の誕生はわたしたちをどう変えたか

見る―眼の誕生はわたしたちをどう変えたか



本書は英国のサイエンスライタ−,サイモン・イングスによる「視覚」についての科学啓蒙書だ.眼や視覚についてのさまざまなトピックを一般読者に紹介する本となっている.


最初にヒトの眼の構造についてイントロダクションを行ったあと,まず視覚とは何かについて読者に問いかける.眼が完全に機能し,脳に信号を送っていることと「ものが見えている」ことは実は同じではないのだ.そして「ものが見えている」感覚は,2次元の感覚細胞に対応した刺激を与えられた脳が解釈することによるものであることがわかる.この2次元の感覚細胞は通常は網膜上のものだが,背中などの触覚でもよい(そのような器具を装着していると視覚類似の知覚が得られるそうだ)というのはなかなか驚きだ.
次にどの波長が見えているかという問題は進化的なコストとベネフィットのトレードオフで決まっていることを教えてくれる.赤外線は熱は感知できるが画像をぼやけさせる.紫外線は網膜細胞にダメージを与えるというコストがあるという解釈だ.だから紫外線が見えるのは寿命の短い昆虫などに限られるというのだ.ここは面白い.
著者は次々と奥行きの知覚,動きの知覚,静止イメージとサッカード運動などを説明していく.人の視覚がただ見えているわけではないという最近の認知科学の成果がうまく説明されている.


次に光が神経信号になる化学的仕組みについて.ここは発見史をたどる語り口になる.死んだ人の目に最後の光景が焼き付くという神話から始まる探索の旅はビタミンA,そしてロドプシンへとつながる.
続いては眼の進化物語だ.淘汰圧としてパーカーの光スイッチ説を紹介し,花と昆虫の共進化にふれたあと,眼の進化のプロセスとしてどのように小さな変化の累積が眼をつくり出すのかを解説している.ここで面白いのは最初の眼点が凸に膨らめばそれは複眼への道を歩み,凹になればカメラ眼への道を歩むということだ.複眼の中にも連立像タイプと重複像タイプがあること,球面収差,色相差への解決の物語などの細部も楽しい.


ここからは視覚の応用の話だ.私達はどのようにものごとをサーチしているのか,対人関係でどのように視線を用いるか,あるいは眼は心の窓になっているかなどが語られる.そして続いて視覚理論の歴史に話は移る.古代においては視覚は眼から何かが放射されているという考えが根強かったこと,そして光学の進歩とともに少しずつ謎が解明されていった物語が語られる.さらに眼の解剖学的なメカニズムの理解の歴史が続く.脳にはどのような信号が送られているのか.それはただ入ってくる光の強さを送っているのではなく,エッジを強調するなどの一定の解析を受けた後のシグナルなのだ.色とは何か.色は脳による解釈なのだが,面白いのは,脳のソフトウェアは何種類の周波数特性を持つ信号が入ってくるかをあらかじめ限定しているわけではなく,入ってくる種類に合わせて解釈していることだ.だから何らかの突然変異で4種類の円錐細胞があればヒトの脳でも4次元の色覚が可能になる.(実際に見えているらしい人の話も出てくる)色覚異常,色順応,ベンサムのコマなど色覚に絡むこのあたりの細部は魅力的だ.3種類の円錐細胞の波長別の感度について,青が大きく離れ,緑と赤が近接しているのは霊長類が色覚を再獲得したときの偶然だが,それがヒトの色覚にどのような影響を与えているかという部分は大変興味深かった.本書は最後に脳に直接シグナルを送って視覚を回復させる技術の見通しを語っている.


なかなかどのトピックも深く掘り下げられていて,読み応えがある.ある部分は現在の知見中心,ある部分は発見史と統一されていないのはちょっと気になるが,それぞれより面白い切り口を求めたということだろう.いずれにしても相当な準備をかけた本だということがわかる.特に視覚が単に空間のある点からくる光を感じているだけだと思っている読者には衝撃的な話の数々だろう.英国の科学啓蒙書のよい伝統を感じさせる.


関連書籍

視覚の進化についてはアンドリュー・パーカーのこの2冊が面白い.
私の書評はそれぞれ,http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060324http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060526

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