「実践行動経済学」

実践 行動経済学

実践 行動経済学


行動経済学リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンによる「Nudge」の邦訳.Nudgeとは「(肘で)そっとつつく」というほどの意味で,ここでは政策や制度の設計によって,人々の最終的な選択の自由は奪わない形で,しかし望ましい結果を得るようにできるのではないかという提案を指している.
だからこの本は特にアメリカの現在の政治情勢の中における政策デザイン,制度デザインの提言書という性格が強い.「実践行動経済学」という邦題は決しておかしいわけではないが,その題名から普通に受ける印象とは少しニュアンスが異なった本だ.


本書の背景には,アメリカの共和党サイドの一部論者による強い自由主義リバタリアニズムの根強さがある.彼等は徹底的に選択の自由を重視し,政府を無能と信じ,ありとあらゆる介入主義(パターナリズム)に反対する.*1単純な介入的な政策は(今回の健康保険の改革騒動に見られるように)なかなか議会を通らないのだ.
本書は,人間の本性が,社会心理学行動経済学の知見にあるような様々な非合理性を持っているなら,選択の自由は最終的に保ちつつ,望ましい社会へ向けてうまく介入できるのではないか,それなら保守とリベラルが折り合える解決になるのではないかと主張している.


というわけであくまで前提としてまずこれまで知られた様々な認知のゆがみが紹介される.ヒトの判断システムには直感システムと熟考システムがあることが説明され,そして自信過剰傾向,現状維持バイアスフレーミング,他人との同調傾向,プライミングなどの問題が特に強調されている.これらは後の制度デザイン提言のキーになるところだ.


次にそれらを前提にした場合に,どのような制度デザインが望ましいかを説明する.ここでは選択の自由を尊重しつつ介入するというリバタリアンパターナリズムの立場から価値判断すると宣言されている.とりあえず効きそうなのは並べてみましたという感じで次の原則が提唱されている.

  • デフォルトに望ましい選択肢を入れておくこと,
  • エラーを予測し,抜け出せるデザインを考えておくこと,
  • 自分の選択がどういう結果になるかをわかりやすくマッピングすること
  • 素速くフィードバックすること,
  • 複雑な選択は体系化すること
  • インセンティブをよく考慮すること

こうやって提唱された解決策を見ると,結局行動経済学あるいは社会心理学的視点に立って初めて得られる解決策でありかつ効果的だと思えるのは最初のデフォルト設定とフィードバックの重要性だけではないだろうかという印象がある.エラーの予測とかマッピングとか体系化は,製品デザインの世界ではあまりに当たり前の話だし.インセンティブが重要というのも制度デザインの基礎中の基礎ではないかという気がする.


本書の後半は具体的な制度デザインの提案になる.取り上げられているのは確定拠出型年金の資産運用プログラムの選択,薬剤給付プログラムの選択(これは複雑怪奇なシステムだ)臓器提供者の同意,温暖化ガスの削減,結婚の民営化の5つ.

  • 最初の2つは受益者が複雑な選択肢を選ぶ制度になっているが,うまく選べないというもの.デフォルト設定は確かに重要な問題だ.(もっとも確定拠出年金の現行制度のデフォルトは雇用者側にまかされていて低予想利回りの安全運用プランになっているのが問題で,年金運用はバランス型の方が望ましいという前提で書かれているが,こんなに簡単ではないだろう.本人のリスク耐性が重要だという視点が強調されていない.薬剤給付の現プログラムは本人が選択しないときにはプログラムをランダムに割り当てるというものすごい設計になっているようだ.さすがにアメリカのリバタリアニズムは一本筋が通っている)
  • 臓器提供者のデフォルト設定を同意にするか,非同意にするかはまさに価値観がぶつかるところであってナッジとは別の話ではないかと思われる.
  • 温暖化ガスについては,自分がエコ協力的であることをディスプレーできるようにすればインセンティブが上がるのではないかと示唆されている.これはダメ元なのでやれるだけやってみる価値はあるだろう.しかしフェイク信号の問題をどう解決するかは書かれていない.信号理論から見るとこの信号の信頼性が最も重要な問題で,本書の記述は物足りない.
  • 結婚制度の問題は同性愛結婚を認めるかどうかという問題で,これも価値観がぶつかるところだ.民営化すると教会は自らの信者について自分たちの思い通りの制度になるので満足するはずだという前提で書かれているが,宗教的右派は自分たちだけでなく非信者の結婚についても介入したいのではないだろうか.いずれにしても普通の日本人にはやや遠い話題だろう.


本書の主張は,まず制度デザインについて誰にとっても望ましくなるような工夫の余地はたくさんあることを示していて,それはその通りだと思われる.しかし肝心のリバタリアンとリベラルが折り合えるような望ましい制度をナッジという概念で作れるのではないかというところは,結局煎じ詰めると「リバタリアン派にデフォルト設定を雇用者側に一任したり(年金の場合)ランダム化する(薬剤給付プログラム)のは望ましくないのではないかと説得できるとすれば,そこは少し改良できる」という狭い解決に止まっているのではないだろうか.
全体として少し気が利いていて面白い議論がたくさん盛り込まれているが,あまり大きく行動経済学的な本ではない.日本人にとってはむしろアメリカのリバタリアン保守主義の根強さが印象に残る一冊だろう.



関連書籍



原書

Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness

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製品デザインについてはこの本がとても面白かった.オタクのプログラマーユーザーインターフェースをデザインさせるから,オタクにしか使えないデザインになってしまうという話だ.

コンピュータは、むずかしすぎて使えない!

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*1:その立場から見ると日本ではほぼすべての政党がお節介介入主義だということになるだろう.