Bad Acts and Guilty Minds 第6章 生じなかった犯罪

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


第6章は未遂犯,および不能犯にかかるものだ.


未遂犯は英語ではAttemptと呼ばれ,犯罪を試みたことを罰するというニュアンスが強くでている.日本語では遂げられずに止まったものは減刑できるというニュアンスなので,このあたりの(主観性の強さの)法文化の違いも興味ぶかいところだ.
実際に中身も微妙に異なっているようだ.実行を着手したが結果が生じなかったものの処罰規定というところは同じだが,英米法ではこれは「意図」による犯罪のみであり,「望まなかったが認識していた」場合には未遂罪が成立しない.日本では認識していれば故意なので両方とも成立するということになる.
そして不能犯というのは,形式的に実行の着手があっても,そもそも行為の危険性が極端に低く未遂として処罰に値しないものをいうとされ,英米でも日本でも認められている.しかしこの両者の境界は曖昧だ.本章の議論はそこに焦点が当たることになるのだろう.


カッツは例によってまず具体的なケースをあげている.

ウェセックス州では1920年代より前に同地域で描かれた10万ポンドを超える絵画を輸出することを禁じる法律があった.あるビジネスマンは,違法に絵画をメキシコに持ちだそうとして摘発されたが,実は絵画は偽物であった.第一審は偽物だと知らなかったのだからとして未遂で有罪とした.


カッツは不能犯として未遂が成立しない典型的事例として以下をあげている
傘を盗もうとしてスタンドから持ち去ったが実は自分の傘であったケース,(古典的な法学書のあげる例)
近親姦が犯罪である場合に)犯罪に当たると信じて継子である娘と性交した場合,(判例


この後カッツは悩ましい判例を多く挙げている.

  • 禁制品ではない品を,禁輸されていると勘違いして密輸しようとして事例では,どのみち犯罪は生じ得なかったのだという理由で無罪.
  • 小切手の偽造未遂で小切手要件ではない数字の改ざんについて無罪.
  • 死体を死んでいると知らずに撃ったケース(これはBがまず被害者を撃って,BがAにも撃つように促して,Aも被害者を撃ったのだが,後から調べると最初の銃撃で即死だったというもの)では未遂で有罪.(これにはほとんどの法廷は無罪にするのではないかとコメントがついている)
  • 盗品故買をしたが実は盗品でなかったケースについては無罪.
  • 毒草だと思って毒のない植物を煎じて飲ませたケースでは無罪(これは相当微妙だろう)
  • ハイチから来た移民が妻を呪い殺そうとしたケースでは不可能だからという理由で無罪


あまり統一感はない.きれいな判断はできないことがよくわかる.
ここでカッツは冒頭の偽画事件に戻る.上訴審では意見が分かれた


第1の意見:何らかの邪魔がなければ既遂に達したもののみが未遂であり,もともと不可能だったものは不能犯である.遂行しても結果が生じないものを罰するのは,考えを罰するのと同じだとして,本件を無罪とする.


第2の意見:多数派ののような定義では,ガードが堅い目標を狙うものは未遂となっても,照準の狂った銃で狙撃したスナイパーや破れない金庫を狙った窃盗犯は処罰されなくなってしまう.
法律の不能(禁輸品でなかった)は不能犯となるが,事実の不能(照準がずれていた)は未遂であるという区別が適切であり,本件は法律の不能で無罪であるとする.


第3の意見:法の不能と事実の不能の境界は曖昧だ.「11月9日に過失により交通事故を起こした」という言説は事実の言明でもあり法的な判断でもある.このケースの場合被告は「この絵が本物である」という間違いと「この絵を輸出することは禁止されている」という間違いを犯している.これを厳密に区別することはできない.
まずそもそも「遂行」したかどうかを厳密に考えることが必要だ.通常不能犯として議論されるものは「遂行」したと思っているだけで「遂行」していないのだ.
そして,有罪か無罪かは被告が真のリスクを作り出していたかが問題にされるべきだ.だから(飛行機事故に遭えばいいと思って)子供を殺そうとしてサマーキャンプに飛行機で行かせてもその父親は殺人未遂に問われるべきではないし,呪い殺そうとするのも同じだ.この偽画事件の場合そのテストは「もし被告が望んだとおりの結果が生じないと知っていればその行為をやめたかどうか」で判断されるべきだ.(そうであれば別の方法で試みるだろう)この場合,偽画だと知っていてもメキシコに持ち出したのなら無罪であり,もし偽画なら持ち出さなかったなら未遂で有罪だとする.本件は後者だとして有罪であるとする.



カッツはこの意見を次のようにまとめている.
大きく言って危険でないものは無罪にしようというのが第1と第3の意見で,法と事実を分けようというのが第2の意見になる.そして第3の意見は第1の意見がしばしばおかしな結論に陥るのをより洗練された方法で避けようとしているものだ.
この第1の意見が英国の判例,第2の意見がアメリカの判例に近いものだ.


カッツはそもそも何故不能犯を処罰しないのかを考えようといって議論を始めている.誰かを殺そうとして何かをしたなら皆処罰すればいいのではないのだろうか?


よくいわれる理由付けはこの2つ.
1.本人が犯罪だと思って行った行為をすべて未遂として処罰するのでは,法定していない行為を処罰するのと同じになってしまう.
2.本人の意図さえ証明できれば,どんな行為も未遂罪としてでっち上げられる.つまり冤罪が増える.


しかしカッツは真の理由はこのような実務的なものではなく,もっと基礎的なことだと主張している.私達は,未遂犯を処罰しようとするなら必然的に,連続体をどこかで未遂と不能に切らなければならないのだという.


それは犯罪は言語で規定されていて,言語があいまいである以上避けられないものだというのだ.そして言語があいまいであるのはヒトの認知そのものがあいまいさを含むからだ.
そして不能犯を認めないようにしようしても,犯罪の意図がある中において行った行為のどこまでが未遂犯として有罪になるのかの境界を結局は決めざるを得ないのだ.

ここでカッツは哲学者ポランニーの競馬の写真判定のたとえ話を使っている.人間の判断を避けようと写真判定基準をいくら精密に作っても,たとえばウマの舌が伸びて唾液が糸を引いて前に伸びていたらどう判定するのかなどルールの適用の可否がわからないことが生じるという話だ.あまりいいたとえではないように思うが,要するにここにも何か連続体をエイヤっと切らなければならない問題があるということだ.


どこかで未遂と不能の線を引かなければならないとして,ではどこで引くべきだろうか.
アメリ判例アプローチは「運」の要素を小さくしようとする.つまり法を破っていたかどうかの認識は結論に影響を与えない.事実関係について誤って危険だと思っていたもののみを無罪にしようとする.英国判例アプローチはもう少し「運」の要素を広げる.被告は本当にリスクを生じさせていなければ無罪になるのだ.
カッツはこれは価値観の問題であってどちらかが正しいというわけではないだろうとしている.


日本ではどういう扱いだろうか.
日本ではおおむね英国アプローチと同じで,実質的に危険であったかどうかで判断するというのが学説判例上ほぼ認められているようだ.そしてではどのように危険を判断するかで,主観的危険説,具体的危険説,客観的危険説(誰にとっての判断材料か,基準時はいつか,誰にとっての危険かの基準がそれぞれ異なる)として大いに争われているようだ.
判例は客観的危険説(客観的な判断材料,基準時は行為時,科学的一般人から見た危険性)の立場に立ち,客体や手段から見て結果発生が絶対的に不能か相対的に不能かで未遂と不能を分けるようだ.(「科学的一般人」というのがなかなか微妙な言い回しで面白い)
参考書も延々と議論している.結局どこまでも悩ましい境界になるのは同じであるようだ.


なおカッツは,本章の最後で,実際に生じたナチ政権下での偽画事件をエピソードとして紹介している.フェルメールの偽画がゲーリングにまでいったというもので,偽作者はナチ協力罪か詐欺罪のどちらかを選ぶという究極の選択を強いられ,偽作を自白したという事件だ.有名絵画の偽作事件は本物と偽作が見分けがつかない中であまりに価値が違うことから興味をそそる事件が多いようだ.カッツもそれに魅せられたのだろうか.