「The Mind of the Market」

The Mind of the Market: How Biology and Psychology Shape Our Economic Lives

The Mind of the Market: How Biology and Psychology Shape Our Economic Lives


本書はニセ科学関係の本やサイエンティフィックアメリカンのコラムで有名なマイケル・シャーマーによる,資本主義と自由市場を進化心理学的視点から語っている本だ.基本的な主張は「自由市場」は「進化」により説明できる複雑なシステムであり,それにはヒトの社会の発展とそれにかかる進化心理,具体的には協力と信頼にかかる問題がかかわっているというものだ.全体としては面白そうな話題を次々に紹介するという性格の本で,焦点はやや拡散気味だ.


本書は最初に,経済に見られる正のフィードバック現象や,狩猟採集社会とニューヨークの経済の大きな違いを取り上げ,このシステムがボトムアップ的な原理で挙動が決まり,かつ創発的な特徴も持つ複雑系であり,その理解にはそのエージェントたるヒトの進化心理やそれを取り入れた経済学(行動経済学,神経経済学,道徳経済学など)から考える必要があるとまず指摘している.この取り組み姿勢はなかなか共感がもてるところだ.


まずボトムアップのエージェントの特徴を進化心理で考察すべきことについて,最後通牒ゲームを取り上げて説明している.経済や市場を考えるときにも単に合理的な経済人を考えるだけではなく,利他性,そして道徳の問題が重要だという認識だ.
しかしここで単純に利他性の進化の話題には行かずに,狩猟採集社会の平等主義,,不確定性(リスクの)回避傾向あたりの説明がなされている.またシャーマーはここで,ヒトの心は私達を守ってくれる「神」を求め,それが全能の政府を期待する心につながるのではないかと指摘していて面白い.(ここでは,アメリカの保守でさえその心からは逃れられず,彼等は大きな政府は否定するくせに軍隊は大好きだと皮肉っている)
そして経済はボトムアップ創発された特性を持つ複雑系であり,基本的にボトムアップで運営した方がよいのだが,ヒトの素朴な心はそれを理解したくないのだという話につなげている.ヒトの心はシステムにデザイナーを見てしまい,自分が所属するグループへの忠誠心を持つために,自由貿易を否定し保護主義的な重商主義に傾きやすいのだ.
しかしもちろん,ボトムアップで何でも自由にしてよいわけではない.自由市場がうまく機能するには法の支配が必要であり,これまで経済が最もうまくいったのは民主主義と自由資本主義の組み合わせだったとも指摘している.


ここでシャーマーはボトムアップでうまくいかない問題の別の側面として経路依存性を取り上げている.前段ではグールドのパンダの親指の話と経済学の経路依存性の話をつなげているが,やや無理がある.(途中ではさらにパンダの親指の進化をESSで説明しようとしているが,これには完全に誤解があるだろう.これは基本的には適応地形で説明すべきことだ)
進化のアナロジーはともかく,シャーマーがここで指摘しているのは,確かに経路依存性の問題はあるが(中ではQWERTYキーボードの歴史も詳しく語られている)市場には振動があり,最終的には最初の偶然より消費者の選択で決まることが多いのだということだ.


次のシャーマーの話題は従来の経済学が考慮してこなかった問題として「ヒトの心の非合理性」だ.これは社会心理学認知科学などで知られていたことだが,近時の行動経済学の隆盛で非常に有名になってきたものだ.不注意盲目,盲点バイアス,フレーミング,アンカリング,後付けバイアス,統計確率音痴,心理アカウンティング,ウェイソンタスクに見られる非合理性,サンクコスト,損失忌避バイアスなどが説明されている.(またシャーマーはここで双曲割引の問題も扱っているが,問題の本質が双曲性にあることに焦点を当ててなく,単に時間割引率が大きいことのみを問題にしているようで,やや不満が残る説明振りだ)
続いてこれらの問題が考慮するときに脳がどう活動しているかという知見を詳しく紹介している.様々な問題についてそれぞれ固有のネットワークが活性化されることをかなり詳しく取り上げている.特にリスキーな投資を行う際に報酬回路が強く活性化していることを指摘している.


シャーマーは続いて道徳の進化を取り扱う.導入にハウザーを取り上げ,暴走列車問題を紹介し,道徳感情がなかなか説明が難しい形でユニバーサルに存在することを指摘しているのはよいのだが,その後の究極因の説明はやや期待はずれだ.「3万年前以降社会が複雑化して罰される恐れからESSとしてフェアの感覚が生まれた,そしてミラーニューロンが心の理論のための外適応であり,これが他人の痛みを感じられる能力とつながり,そして道徳につながっている」という流れだが,論理構成が稚拙ではっきり言って説明になっていないように思う.
最後に道徳感情は進化環境での適応だから,今日の地球規模の問題(第三世界の貧困,地球温暖化など)には対処しにくいのだと指摘している.これはその通りだろう.


シャーマーは従来の経済学の問題として,次に個人の効用の問題を取り上げる.「幸せは金で買えない」という問題だ.幸福感も進化適応として生じた行動を調整するための感情であり,これはまず遺伝的なパーソナリティである程度決まり,さらに残りも(ある程度以上の所得があれば)周囲との相対感で決まるようになっている.このあたりも進化心理学ではよく言われるところだ.
シャーマーはここでちょっとハウツー的になって,幸福になるためには何が重要か(深い愛と家族へのコミットメント,意味のある仕事とキャリア,社会と政治への参加,精神性(芸術,宗教など))そして具体的にどう行動すればいいか(他人も幸せになれる幸せを探そう,他人も自由になれる自由を求めよう,他人も目的を達成できるような目的を見つけよう)あたりにも踏み込んでいる.いかにもサイエンスライターによる一般向けの本だ.


シャーマーはここで最初に戻り,ではボトムアップで効率的に自由市場をうまく運営するための「法の支配」はどう生まれるのかという話題に帰っている.シャーマーは「法の支配」を人と人の間の信頼をさらに進めた社会の技術であるとし,人と人の間の信頼という心理的な問題と,集団と集団間の信頼という制度技術的な問題を順番に扱っている.
最初の人と人の間の信頼についてのシャーマーの説明は,ドゥ・ヴァールを持ち出して霊長類との連続性を見た後,究極因としては単に信頼することにより個人や集団が有利になったからだとのみ説明しているが,素朴群淘汰的な説明振りで期待はずれだ.(特になぜサイコパスがいるのかという説明では「彼等がいないと私達はみな無条件信頼者になってしまう」という言い方になっており,がっかりさせられる)
次の社会制度の成立については,一旦個人間の信頼が可能になる心的能力があれば,交易を推進することにより内集団主義を克服して社会的な信頼の制度が生まれることが可能になると議論を進めている.交易が大規模になるときの歴史,社会の中の信頼の度合いと経済成長,最初に中央集権化が進み,その後自由市場を推進する民主主義的資本主義が現れた経緯,またどのような場合に邪悪がはびこるのか(ここではエンロンとグーグルを対比して企業環境が描かれている)などが語られている.記述はやや散漫だが,交易により双方に利益が生じればコンフリクトが減るというのは基本的に正しいだろう.(これはロバート・ライトが「ノンゼロ」で描いたテーマと同じだ)


最後にシャーマーはヒトの不合理性と幸福の財貨非依存性から,「人々を幸福にするには(自由市場を推進するより)政府の大規模な介入と保護の方がいいのか」という問題を扱っている.これはアメリカの保守とリベラルの間の壮大なテーマだ.シャーマーは片方で,ヒトは自分に決定権がある方が幸せであることにも注意を喚起し,セイラーとサンスティーンが「ナッジ」で主張したリバタリアンパターナリズムの考え方を支持している.シャーマーはもう一度交易が集団間のコンフリクトを減らし世界平和につながることを強調して本書を終えている.


本書は基本的には自由市場支持派による自由市場を進化的な視点で考察してみようとした本だ.ヒトには非合理性があり,財貨で幸福は買えないし,さらに経済には経路依存的な性格があるが,それでも自由市場は効率的であり,ヒトは自由であることそのものに価値を見いだすし,交易を通じて世界は平和になるのだというのが基本テーマで,それに様々な進化心理学行動経済学まわりの話題を詰め込んで一冊にしている.全体として肩の凝らない作りになっていて,これまであまりこの手のことを考えたことがなかった人には楽しく読めるだろう.ただ私にとっては,肝心な進化的な解説のところが浅く,また焦点が絞られずに散漫な印象を与える本だという印象だった.


関連書籍


シャーマーの著書.未読だが進化関係についてもいくつか著書がある.

Why People Believe Weird Things: Pseudoscience, Superstition, and Other Confusions of Our Time

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Why Darwin Matters: The Case Against Intelligent Design

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In Darwin's Shadow: The Life and Science of Alfred Russel Wallace : A Biographical Study on the Psychology of History

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Secrets of Mental Math: The Mathemagician's Guide to Lightning Calculation and Amazing Math Tricks

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The Science Of Good and Evil: Why People Cheat, Gossip, Care, Share, And Follow The Golden Rule (Holt Paperback)

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Denying History: Who Says the Holocaust Never Happened and Why Do They Say It? (An S. Mark Taper Foundation Book in Jewish Studies)

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邦訳されているのは以下のようなところ

暗算の達人 驚異の高速暗算テクニック

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なぜ人はニセ科学を信じるのか―UFO、カルト、心霊、超能力のウソ

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これは道徳の進化についての重厚な一冊.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070711

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

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交易が世界を平和にするというテーマに沿った本としてはこちら.

Nonzero: The Logic of Human Destiny

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リバタリアンパターナリズムについてはこちら 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091021

実践 行動経済学

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同原書

Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness

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