Do Humankind's Best Days Lie Ahead
- 作者: Steven Pinker,Matt Ridley,Alain de Botton,Malcolm Gladwell
- 出版社/メーカー: Oneworld Publications
- 発売日: 2016/10/03
- メディア: Kindle版
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本書は特定テーマにかかる公開討論会をそのまま本にしたものだ.これは2008年から毎年2回トロントで開催されている「ムンク・ディベーツ」シリーズ(参考:http://www.munkdebates.com)の2015年11月のものだ.この討論会は一つテーマを決めてそれを賛成派2人,反対派2人のディベーターで討論してもらうという趣向で開かれる.これまでのテーマでは地球温暖化,対外援助の有効性,地政学に与える宗教の影響などが取り上げられ,ディベーターもヘンリー・キッシンジャー,トニー・ブレア,ポール・クルーグマンなど多士済々だ.(なお最新のテーマは今年9月のもので,テーマはなんとも預言的な「ドナルド・トランプはアメリカを再び偉大にすることができるか」.ニュート・ギングリッチがディベーターの1人として呼ばれている)
本書で取り上げられたテーマは「人類の最良の日は未来にあるのか」で,ディベーターとしては「The Better Angels of Our Nature(邦題:人類の暴力史)」で歴史的な暴力の減少を取り上げたスティーヴン・ピンカー,「Rational Optimist(邦題:繁栄)」でヒトの成功をアイデアとものの交換から説明し,この傾向が今後も続く可能性が高いと主張したマット・リドレーがテーマへの賛成者として,哲学者であるアラン・ド・ボトンと数々のベストセラーを書いている著名ライターのマルコム・グラッドウェルとが反対者として招致されている.司会はルドヤード・グリフィス.
本書の構成は,まず討論会をそのまま文字起こししたものが収められ,その後,討論会直前の各参加者のインタビュー,さらに第3者から見た感想が追加されるという形になっている.
討論会「人類の最良の日は未来にあるのか」
司会からテーマの説明があり,それぞれの参加者がまず8分間のプレゼンを行う.
<ピンカー>
「The Better Angels of Our Nature」の主張の一部を要約,一部拡張した主張を行う.
- 平均寿命,健康,所得水準,平和,暴力犯罪,自由,知識,人権,男女の平等,知性すべての点に渡って人類は向上傾向にあることを示すデータが存在する.そしてその傾向をもたらす要因を考えるならば,戦争を唯一の例外としてこれらの傾向にカオス的なものはなく,相互依存的だ.
- 考慮すべきこととして核兵器の拡散と温暖化がある.しかし核についてはなお核兵器の減少傾向は継続しており,世界の主張リーダーの間で核排除が望ましいという合意があり,温暖化については低炭素化への技術革新が進み経済学的な解決法(炭素税など)が提示されていけば,人々がそれを無視せずに良い方向に進むようになることが十分期待できる.
- 将来はより良くなるとしても,世界にテロと抑圧と戦争と暴力がなくなるわけではない.しかしそれは減っていくだろう.
<ド・ボトン>
賛成者の主張を「かれらは知識の勝利,そして経済成長により貧困がなくなると信じている.そしてグローバル化により戦争がなくなり,医療技術により病気がなくなるとも信じている」とまとめ,しかしそれには反対だとする.
<リドレー>
基本的に「Rational Optimist」の要約をプレゼンする.
<グラッドウェル>
以下にもベストセラーライターらしい斜に構えた議論を行う.
- 私は賛成者達をポリアンナ*1と呼びたい.これまで世界は改善傾向にあったかと問われれば答えはイエスだ.しかしここでのテーマは将来についてのことだ.賛成者はどうしようもないほどナイーブだ.
- 技術革新は良いことを生みだしてきた.しかしそれは悪用されるリスクも増大させているのだ.携帯電話は途上国で人々に多くの便益を与えているが,テロリストの道具にもなる.物事が複雑になれば予期しないことが生じる.現在専門家が温暖化について最も恐れているのは海面上昇よりもハリケーンの強大化だ.リスクが高まっていることにもっと注意を払うべきだ.
ド・ボトンは賛成者の主張を勝手に改変している.ピンカーもリドレーも世界が完全無欠になるとは主張していない.今より良くなると言っているだけだ.テーマも「最良の日」を問うているのであり「完全無欠」を問題にしているわけではない.これではありもしないかかしをぶったてて批判する「かかしの議論」に堕しているとしか評価できないだろう.いかにもとにかく経済成長を重視する議論がきらいという偏狭振りにがっかりさせられる.
グラッドウェルは考慮すべき論点を提示しているが,可能性があるという議論に止まっていて,それがどの程度ありそうなのかに全く踏み込んでいない.そこに踏み込まなければ全く議論としては面白くならないだろう.
討論の展開
ここからディベートとなる.
まずピンカーがド・ボトンに激しく反論する.「そもそも今日のテーマは将来人類が不死になるか,愚鈍がなくなるかを扱ってはいないはずだ.そして本気で(乳児死亡率が高く感染症が蔓延している)カンボジアやアフガニスタンの人々にスイスのようになっても何も良くならないよと言えると考えているのか.彼等は全くそのようには思わないだろう.」そしてグラッドウェルには,「人々はどんなことも空想できる,しかし可能性を空想することと,それにどの程度蓋然性があるかは別の話だ」と切り返す.リドレーも様々な技術がもたらす恵みがリスクより高そうなことを指摘する.
ド・ボトンは,技術や経済成長はアイスキュロスやトルストイの悲劇を解決できないとがんばり,グラッドウェルは温暖化が経済的に解決できるというピンカーの言い分に反発する.それはより複雑で政治社会的な問題だといいたいようだ.
ここから討論は重層的に広がっていく.
グラッドウェルは核,飢饉など個別の問題を取り上げ,ピンカー,リドレーはデータを挙げて反論する.複雑性のもたらすリスクの上昇という論点について,リドレーはグローバル化はよりリスクを分散して減少させる作用を持つだろうと主張する.また科学的な解決が単純なものだというグラッドウェルの言い分にも反論する.温暖化が経済問題かどうかについてはピンカーとグラッドウェルで応酬があるが両者平行線で終わる.
ド・ボトンは引き続きテーマとずれた主張に固執し,ピンカー,リドレーは焦点をずらし続ける戦術をとっていると批判し続ける.その中では幸福度のついての議論になって,ド・ボトンがイースターリンパラドクスを持ち出し,ピンカーから「それはノーベル賞受賞者のディートンによって虚偽であることが示され,既に決着した議論であり,あなたは10年遅れている」と痛烈な一発を浴びる場面もある.またド・ボトンの,「駅のホームにたっているアンナ・カレーニナに,あなたの問題への答えは深い地質学的な時間にあるなどと言えるか」という挑発に,リドレーが「なぜ解決できないと思うのか,試してみればいいじゃないか」と答える場面もあって面白い.
そして最終リマークス
- ド・ボトンは人文科学を無視するなと主張する.「スティーヴもマットも自然科学は答えを持つが人文科学には答えがないと信じているようだが,それは恐ろしい考えだ.彼等は人文科学の持つ洞察を無視している.彼等の考えは,地上に新しいエルサレムを打ち立ててすべての問題を解決しようとした古の宗教,そしてアメリカ合衆国の建国思想をそのまま世俗化したバージョンとして引き継いでいるかのようだ.この考えは「心」や私たちが「魂」と呼ぶものの複雑さを無視するのだ.」
- リドレーは「特に貧困にあえぐ人々にとって進歩は良いことなのだ.そして私たちが魂や心理について考えていないからといって進歩が今日突然に止まると考えるべき理由はどこにもない」と主張する.
- グラッドウェルはペトロフ事件*2を引き合いに出して,技術革新により片方で破局的なリスクが生じているという議論を補強する.
- ピンカーは,人々は印象的なイメージに影響されやすく,歳を取ると懐古的になり,皆社会批判を好むために悲観的になりやすいが,データはそうでないことを示している.そして楽観主義も悲観主義も自己実現的な側面があることを指摘する.
結果
ディベートの結果,聴衆の事前アンケートでは賛成派が71%だったのが事後アンケートでは73%に増えており,賛成派の勝ちだと結論されている.
付加情報
この後事前インタビューが掲載されている.やはりド・ボトンは,論敵が「科学技術と経済成長ですべての問題が解決できる」と考えているという強固な思い込みがあり,それを人文科学的な価値観から批判したいという趣旨で討論に望んでいたことが明らかにされている.グラッドウェルはとにかくそうでない可能性の提示を行い,それで聴衆もテーマに関して肩をすくめるだろうという戦術であったことがわかる.
ピンカーは「複雑性が破局的なリスクを産むか」というポイントについて,そういう問題があることが人々に認識できていれば,より頑健性のあるシステムに常に改変していく努力を行うはずだし,実際に人々は認識し,努力していると考えていることを明らかにしている.リーマンショックは世界のGDPを1年停滞させただけであり,マヤ文明の崩壊のようなことは,現在の文明技術水準からは考えにくいとしている.またローマ帝国の崩壊と中世の暗黒時代のような事象についてインタビューアーから問われると,科学革命と啓蒙主義の重要性を指摘している.温暖化については,様々な解決策が模索されていて,人々がそれを無視し続けるほど愚かだとは考えていないとコメントしている.
最後に第3者の評定としてアトランティックカウンシル国際安全保障センターの非常勤フェローであるアリ・ワインのコメントがある.4者の主張と論争のトピックを要約し,最後にド・ボトンの主張についての違和感を表明している.
私の感想は以下の通り
- 賛成派はデータに基づいて世界の改善傾向を説明し,その要因の考察を経て議論を成立させている.これに対してド・ボトンは全くあさっての議論に終始し,グラッドウェルは可能性の指摘に止まっている.だから討論の勝者は賛成派ということになるのは当然だろう.特にド・ボトンは,哲学者でありながら,賛成派のありもしない主張を叩き,さらに自ら指定されたディベートのテーマをすり替えていながら,それを指摘されると「賛成派が議論をすり替える」とくってかかるという不条理振りを晒しており,見苦しい.
- そして世界の将来にとっては核拡散(および偶発的核使用)と温暖化が大きなリスク要因だということがよくわかる.この討論会は「北朝鮮による2016年以降の急ピッチの核実験と装備に向けた動き,そしてトランプ大統領の誕生」という事象より以前になされているが,今これらの現実を踏まえると,偶発的核使用についてはなおさらそう実感される.我々はこれらの問題に対して,今後も不断の注視を行い,問題解決に努力し続けていくことが肝要なのだろう.
- なお討論において,エビデンスなしの信念(イデオロギーや一部の宗教原理主義)がもたらす厄災について全く取り上げられていないのには少し不満が残る.これはピンカーが「The Better Angels of Our Nature」の中で5人の悪魔の一つとして(そして最も巨大な厄災をもたらしうるものとして)取り上げているもので,反対派にとってもトピックにできたのではないかと思われるだけに残念だ.
- 丁々発止の即席のやりとりはなかなか緊張感があって読んでいて楽しい.不利を自覚しているド・ボトンの抵抗振りもある意味では鑑賞どころの一つだろう
なお本討論はムンクディベーツのWebページhttps://www.munkdebates.com/videoから動画で見ることができる.(メンバー登録が必要,過去のディベートを視聴するだけなら無料)ド・ボトンのなりふりかまわずの喋りくり振り,それに対するピンカーとリドレーの苦笑交じりの「マジでそれを主張してるのか?」という表情も見物だ.
関連書籍
ピンカーによる暴力傾向現象を扱った大著.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130109,訳書情報はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20150127,
The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined
- 作者: Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日: 2011/10/04
- メディア: Kindle版
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同訳書
- 作者: スティーブン・ピンカー,幾島幸子,塩原通緒
- 出版社/メーカー: 青土社
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リドリーによる世界の説明書.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100925,訳書情報はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101020.
The Rational Optimist: How Prosperity Evolves (P.s.)
- 作者: Matt Ridley
- 出版社/メーカー: HarperCollins e-books
- 発売日: 2010/06/15
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同訳書
- 作者: マット・リドレー,大田直子,鍛原多惠子,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 早川書房
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