Enlightenment Now その65

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

第21章 理性 その7

 
ピンカーは政治的部族主義の非合理さを減らすには議論のルールを見直すことが有効だという見解を示した.しかしこれを行き渡らせるのは簡単ではなさそうだ.結局物事を政治化しないのが一番いいのだ.ピンカーはそのあたりについて(メディアへの苦言も呈しながら)コメントし,本章の最後のまとめとしておいている.

 

  • 「議論のルールが人々を賢くしたりお馬鹿にしたりするかを決める」という知見は,「なぜかつてないほど知識が豊穣な現代で世界はより非理性的になっているように見えるのか」というパラドクスを解く鍵だ.
  • 世界の大半はより理性的になっている.それはこれまでの章で見た通りの進歩を引き起こしてきた.しかし政治の世界だけが例外になっているのだ.政治の世界だけはルールが人々をお馬鹿に振る舞うように強制している.投票者はその意見を正当化する義務を負わず,その結果を引き受けることなく好きなことをいうことができる.貿易やエネルギーなどの実践的な政策はモラルイッシューとバンドルされてしまう.そしてバンドルされた政策の束は地理的,人種的,民族的同盟と結びつく.メディアは選挙を競馬のように報道し,イデオロジカルな問題を取り上げて激しい議論を煽動する.これらは全て人々を理性的な態度から遠ざけるように働く.この結果民主政の仕組みがガバナンスをよりアイデンティティドリブンで,非理性的なものにしてしまうのだ.
  • これには簡単な解決策はない.まず最悪の問題を特定し,それを和らげるゴール設定を行うのが出発点になるだろう.

 

  • 問題が政治化していないなら人々は理性的に物事を判断できる.カハンは「科学についての大衆の激しい議論はむしろ例外だ」と指摘する.誰も抗生物質が効くかどうかや飲酒運転が良い考えかどうかについて真剣に議論などしない.
  • 政治化したかどうかの格好のコントロールグループがある.HPVとB型肝炎はいずれも性交渉で感染し,ワクチンで予防できる.しかしHPVワクチンは(製薬会社が対象者を未成年者の女子としてワクチン接種義務化のロビー活動したために)このワクチン接種義務化が未成年者の性交渉を容易化させるとして政治問題化した.これに対しB型肝炎ワクチンは政治問題化せず,百日咳や黄熱病と同じようにワクチン投与がごく普通の公衆衛生事項として処理されている.

 
ワクチンについて,日本ではそれほど若者の性交渉の容易化の論点を巡っての議論がなく,これはアメリカとは異なっている.おそらくこのために日本では反ワクチン運動はアメリカほど政治的な党派色が強くないようだ.日本で両ワクチンで反対運動の激しさに差があるのかどうか,私には知識がないが,Googleの検索ヒット件数などを見るとあまり差が無いようにも思える.だとするとピンカーの議論の補強になるのかもしれない.
 

  • 議論をより理性的に進めるためには,問題をできるだけ非政治化するのが望ましい.多くの人は自分の支持政党の提案なのかどうかによって.その政策への態度を決める.だから提案者は慎重に選ばれるべきだ.一部の気候変動活動家は,民主党の大統領候補だったアル・ゴアが「不都合な真実」を出版したのは温暖化対策にとってはむしろ害があったのではないかと考えている.彼は温暖化に対して左派の政治化ラベルを貼ってしまったのだ,この問題についてはもはや科学者に何かをしゃべらせるより,左派と右派からそれぞれエビデンスベースでものを考えるコメンテイターを選んでもらい,両者に討論してもらった方が効果的だろう.
  • また事実の問題と対処策の問題は区別して議論すべきだ.対策は往々にして政治化のシンボルになってしまう.カハンは,温暖化について議論するときに,(政治色の強い)規制よりも(政治色の薄い)ジオエンジニアリングを対策としてプライミングしたときの方が議論は理性的になることを報告している.
  • メディアは自分たちの役割をよく吟味すべきだ.政治をスポーツのように扱って競争させるより,個別の問題解決をエビデンスベースで考えるようにできないのだろうか.それは簡単ではないだろう.理性には自己修復能力があるが,それには時間がかかる.フランシス・ベーコンが逸話的理由付けや因果と相関の取り違えに警鐘を鳴らしてから,それが一般的に受け入れられるようになるには何世紀もかかった.カーネマンとトヴェルスキーの認知バイアスの発見がコモンセンスになるにも50年はかかったのだ.そしてこの「政治的部族主義が最も重大な非合理性の形態だ」という知見はまだ新しい.
  • どんなに長くかかることになろうと,そして政治世界の非合理性の暴発があるからと言って,我々は「理性と真実を追究する」という啓蒙運動の理想をあきらめてしまうべきではない.
  • 我々がヒトの非合理性を理解できると言うことは,我々は理性がなんたるかを知っているに違いないのだ.我々が何か特別であるわけではないのだから,我々の同胞も皆理性について理解できるはずだ.そして理性の本質は,理性を用いるものは時に一歩下がり,自らの欠点を吟味し,それを乗り越える方法を理屈づけるというところにあるのだ.

 
このピンカーの指摘は重い.日本にもほぼそのまま当てはまるだろう.ツイッターなどでも,普段はまともなツイートをしている人が政治的なテーマになったとたんにお馬鹿丸出しになるのはよく見かける.実際の政治の場の議論も強い部族主義的な制約からなかなかまともな意見の交換にならないのもピンカーの指摘通りだ.是非部族主義の軛から逃れてエビデンスベースで物事が決まる方向に動いてほしいものだ.