Enlightenment Now その67

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第22章 科学 その2

 
ここからはピンカーの科学擁護の議論になる.
 

  • 科学的思考の推奨は「科学ギルド」メンバーだけが賢くて高潔だということを意味するわけではない.科学の文化は真逆の信念に基づいている.それは,オープンな議論,ピアレビュー,ダブルブラインドテストなどの態度に良く現れている.
  • そしてそれはすべての決定権を科学者にという意味でもない.多くの科学者は政治や法には疎く,しばしば極めてナイーブな政策アイデアを持っていたりする.問題はどのように集合的決定を行うかなのだ.
  • そしてそれは現在の(受け入れられている)科学的仮説がすべて正しいということも意味しない.科学は仮説と検証を積み重ねて進んでいく営みだ.多くの科学批判者はいくつかの通説が否定されたことをもって科学は絶対ではないといいたがるが,彼等は科学がどのようなものかを理解していないのだ.
  • 別の科学批判には「科学は物理世界に関する事実を扱うのであって,価値や社会や文化にコミットするのは論理的誤謬だ」というものがある.これは命題と規律を混同する議論だ.確かに科学は実証的命題を扱い,それは論理的命題や規範的命題とは異なる.しかしだからといって科学者が論理的命題や規範的命題を扱ってはならないということにはならない.それは哲学者が物理世界について口出しできないということにならないのと同じだ.

 
このあたりはドーキンスたち新無神論者が行う,グールドなどの宗教擁護側からの「科学は価値の問題に口出しすべきではない」という主張への反論と同じになっている.科学は実証的命題を扱うが,もちろん科学者は何を言ってもいいのだ.しかしピンカーはさらに深くこう主張している.これは科学者の1人としての自負でもあるだろう.

  • 科学者は実証的事実を扱いながら,数学の正しさ,理論の論理性,科学という営みの価値に日々熱中している.それは多くの哲学者が純粋のアイデアの世界に閉じこもらずに自然世界に目を向けているのと同じだ.現代的な「科学」のコンセプトは哲学や論理と一緒にあるのだ.

 
次にピンカーは何が科学を特別にしているのかに進む.通常の科学擁護だと仮説構築とその検証という体系による知識の集積とアップグレードが取り上げられるところだが,ピンカーはそこに進む前にまずさらに深い部分を問題にしている,ここはなかなか面白い.そして仮説と検証についても,それはベイジアン的なプロセスだと解説している.
 

  • では科学を他の論理的営みから分かつものは何か.それは学校で教えている「科学的手法」ではない.科学者は世界を理解するためにはどんな方法を使ってもいいが,それらは大きく2つの理想(ideals)に乗っかっている.
  • 1つ目の理想は「世界は理解可能だ」というものだ.いま表面にある現象はより深い原則によって説明可能だと考える.そしてそれらの原則もまたさらに深い原則で説明可能かもしれない.これは単なる信仰ではない.それは世界の多様な現象が科学的にどんどん説明できてきたことによって正当化され続けている.
  • 科学への批判者は,しばしばこの「理解可能性」を,彼等が「還元主義」と呼ぶ罪(複雑さを単純な要素のみに分解しようとすること)と混同する.現象を深いレベルの原則で理解することは,複雑さの豊かさを捨てることとは異なる.第一次世界大戦の原因を探るのに物理的な要素への還元は意味をなさないが,何故ヒトの心は目的を持ち,部族主義,自信過剰,相互恐怖,名誉の文化に侵されやすいのかを問うのは意味があるだろう.

 

  • 2つ目の理想は「我々は自分のアイデアが正しいかどうかを世界に問うべきだ」というものだ.伝統的な信念の要因,つまり信仰,啓示,ドグマ,権威などは(この検証過程がなく)誤りを生みだすものであり,知識の基礎にはすべきではない.科学の営みは仮説と検証の繰り返しだが,ポパーが示唆するような仮説を次々に打ち出して検証で片端から打ちこわしていくというクレー射撃のようなものではなく,むしろ検証を元に仮説を改善していくベイジアンモデルに似ている.