From Darwin to Derrida その115

 
 

第11章 正しき理由のために戦う その9

 
自然淘汰による再帰的な因果を持つ遺伝型と表現型.ヘイグはその説明のためには形相因と目的因が重要だと説く.ここからテーマは「違い」に移る.
 

違いは脱神秘化される

 

違いというのはとても独特で不明瞭な概念だ.それはものでも事件でもない.

Gregory Bateson Steps to an Ecology of Mind(1972)

 

 

  • 兵士がマリユスを撃ち,エポニーヌが身を投げだして銃弾を受け止め,マリユスの命を救う.兵士の選択,つまり撃つか撃たないかはマリユスの命に関しては違いをもたらさないが,エポニーヌの命には違いをもたらす.エポニーヌの選択.つまり身を投げだすか投げ出さないかは,マリユスの命に関して違いをもたらす.兵士の銃撃はエポニーヌの死の原因(responsible)となり,エポニーヌの死はマリユスの生存の原因となる.しかし兵士の銃撃はマリユスの生存の原因ではない.原因性(responsibility)は転移律を満たさないのだ.

 
冒頭で哲学者ベイトソンを引用し,そしてレ・ミゼラブルの登場人物を使った「違い」の説明になる.この部分のresponsibleは有責ではなく原因であることを意味しているのだろう.なぜcauseを使わないのかはよくわからない.ともあれ因果は単純な転移率を満たさない.それは因果概念には反事実的仮想世界でどうだったかという問題が絡むからだ.
 

  • ものや事件は違いを作らない;ものとものの間の違い,事件と事件の間の違いが「違い」なのだ.あることがある結果にとって原因かどうかは「何と比べて?」という問いに答えずには決められない.選択は,そうでなかったかもしれない行為であり,だから違いを作るのだ.

 

  • 外科医はガンで死を迎える患者にモルヒネを処方する.致死量に達しているかどうかは患者の死という結果に違いをもたらさないが,患者の死が痛みを持つものかどうかの違いを作る.もし私が処方量をあなたに教えたとしても,私は患者が生きているか死んでいるかのついてあなたに教えたことにはならない,しかし患者がどのような死を迎えたかを教えたことになる.これは哲学的に「因果の先取り(causal preemption)」として論じられている問題だ.

 
ここは少しわかりにくい.因果があるというためには,生じた結果を(問題となっている原因についての)反事実的世界のそれと比べたときに何らかの違いが必要になる.するといかにもある原因から生じた直接的な結果が存在したとしても,その原因がなくとも当該結果が生じていれば因果がないということになってしまう.これがいわゆる「因果の先取り」で一般的には「Aが大統領を狙撃して大統領は死んだが,仮にAが失敗しても予備の狙撃者Bが待機していてやはり大統領が死ぬはずであるなら,Aの狙撃と大統領の死に因果関係がなくなってしまう」というような例が挙げられる.
  

  • 情報の概念と因果の概念には密接な関連がある.グレゴリー・ベイトソンは「違いを作る違い」と情報の単位を定義した.しかし彼の定義は最初の「違い」を結果,2番目の「違い」を原因として因果の定義とすることもできる.

 
ここで冒頭の引用もとであるベイトソンが登場する.ヘイグによると,genetics(遺伝学)という語を作ったウィリアム・ベイトソンがグレゴリー・メンデルにちなんで彼の三男の名を付けたので,この哲学者のグレゴリーという名はメンデル由来ということになるそうだ.