From Darwin to Derrida その206

 
デイヴィッド・ヘイグの「ダーウィンからデリダまで」.本文の全15章を読み終わったが,ここから余韻が続く.余韻の最初は「カデンツァ」と題されている.カデンツァ(cadenza)とは協奏曲やオペラの中で,独奏者や独唱者がソロで即興的に演奏・歌唱する部分を指す.これはヘイグの本書全体のテーマに沿うような即興的なエッセイというほどの意味だろう.
  

カデンツァ

 

  • 自然物(natural things)に効用主義的目的を当てはめることは多くの人にとって冷淡に感じられる.それは彼等の「自然の作品(works of nature)」に対する反応とは異なるからだ.彼等は美的反応を好むのだ.最後にシェイクスピアの偉大なソネットの1つにある六行連を紹介しよう.

 

これらの思いによって自己嫌悪に沈んでいても
ふとしたはずみにあなたのことを思うと 私の心は
夜明けに陰気な大地から飛び立つ
ひばりのように 天国の門で賛美歌を歌う
あなたの甘い愛が私を幸福にしたことを思い出し
たとえ相手が王であっても我が身とその立場を取り換えようとは思わない
 
Yet in these thoughts my self almost despising,
Haply I think on thee, and then my state,
Like to the lark at break of day arising
From sullen earth, sings hymns at heaven's gate,
For thy sweet love remembered such wealth brings,
That then I scorn to change my state with kings.

 
これはシェイクスプアの「ソネット集」の29番のソネットの一節のようだ.

 

  • 飛び立つヒバリはウィリアム・シェイクスピアの,パーシー・シェリーの,ジョージ・メレディスの詩心を,そしてヴォーン・ウィリアムズの音楽の心を刺激した.オスのヒバリのディスプレイは無私の喜びを喚起するために使われた.しかし現代ダーウィニストはそのディスプレイを,その活発に行われる質の高さのシグナルは,タカに襲われるリスクのために信用される正直なものだと記述するだろう.ヒバリはおそらく喜びを爆発させているのではなく,疲れ果て,恐怖しているだろう.

 
シェリーには「To a Skylark」と題された詩作があるようだ.そしてヴォーン・ウィリアムズはメレディスの詩を元にヴァイオリン独奏とオーケストラのための作品である「揚げひばり(The Lark Ascending)」を作曲している.

これらの芸術家はヒバリのさえずりに喜びの歌を感じた.しかし進化生物学的な視点からはそれはメスに選ばれるためのハンディキャップシグナルということになる.

  • シェイクスピアとシェリーの素晴らしいメタファーは自然界についての間違った見方だとみなされるのかもしれない.ヒバリの戦いはメスを引きつける以上の目的を持っていないのだろうか? この生命の見方は卑しくないか? ダーウィニストは魅惑のない世界に生きなければならないのか? 私がオクスフォードの牧場から夜明けにさえずりとともに飛び立つヒバリを見るとき,科学的な見方は詩のイメージをおとしめるだろうか?

 

私は再びヒバリの飛翔を見る
ソルズベリーの丘を登っていく
そして私の心は再び弾む
登るにつれて私の心臓は波打つ
 
I saw again the skylark’s flight,
Rising up on Solsbury Hill,
And once again my spirit rose,
My heart pounding with the climb.

 
この科学は世界の色あせたものにするかというのはドーキンスの「虹の解体」の大きなテーマだ.そしてもちろんドーキンスは科学的に正確に理解することは世界の美しさや荘厳さをより感じることにはつながっても色あせさせたりしないと力説している.ヘイグは同じ趣旨をドーキンスのように力説せずにしゃれた詩をおいて余韻を持たせているいうことになるだろう.