書評 「社会正義」はいつも正しい

 
 
本書はアメリカのアカデミアで吹き荒れる行き過ぎたポリコレ,アイデンティティ・ポリティクス,社会正義運動,キャンセルカルチャーがどのような思想的な流れの上に発生したものか,代表的な議論はどのようなものか,そしてこれに対抗するにはどうすればいいのかを語る本になる.著者たちはこれらの運動の基礎にあるのは1970年代に一世を風靡し,その後その非生産性とシニカルさから衰退していったと思われていたポストモダニズムにあるのだと喝破し,詳しく解説してくれている.著者は第2のソーカル事件(不満スタディーズ事件)の首謀者でもある数学者のジェームズ・リンゼイと評論家のヘレン・プラックローズ.原題は「Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity ― and Why This Harms Everybody」になる.
 
本書の構成は序章で問題の見取り図を提示し,第1~2章で1960年代に勃興したもともとのポストモダニズムと1980~90年代のその応用的展開を概説.第3~7章でポストコロニアル理論からファット・スタディーズまでの各種の社会正義運動の思想的解説(それぞれがどのように応用ポストモダニズムになっているか)が詳しく説明されている(この部分が本書の中心になる).第8章で2010年ごろからの応用ポストモダニズムの展開,第9章でこの新しい社会正義運動が社会にどのような影響を与えているか,第10章でそれに対抗するにはどうすればいいのかが書かれている.
 

序章

 
ここでは問題の見取り図が提示されている.

  • 西洋ではここ200年「リベラリズム」と呼ばれる政治哲学が幅広く支持され,民主主義,権力の抑制,普遍的人権,法的平等,表現の自由,多様な価値観と率直な議論の尊重,理性の尊重,政教分離,信教の自由が理想とされ,権威主義的な動きを抑制してきた.しかし現在,これが極右ポピュリストたちと極左社会改革者たちにより大きな脅威に晒されている.本書ではこの極左の問題を扱う.
  • 極左は自分たちが唯一の道徳的進歩の擁護者と見立て,リベラリズムを抑圧の一種として公然と否定する.彼等は理性と啓蒙主義ではなくポストモダニズムに同調し,客観的事実を啓蒙主義思想家の妄想だと否定する.ポストモダニズムは今や最も非寛容で最も権威主義的なイデオロギーの1つになった.
  • ポストモダニズムはもともと共産主義への幻滅から始まった知的文化的な反動であり,批判理論(critical theory:隠れたバイアスや見過ごされがちな前提を明らかにしようとするもの)の流れを汲むものだが,1980年代に社会正義活動家が採用するようになり,学術界に広まり,2020年にかけて支配的な存在になってきた.
  • 私たちは社会正義を目指す本質的にリベラルな目標がこの非リベラルなイデオロギー運動に敗北したように見えることを認めざるを得ない(本書では後者の非リベラル運動には<社会正義>とか<理論>というカギ括弧表記を用いている).
  • なぜこんなことになったのか.その理由の1つはそれが非常に特殊な世界観から生じており,その専門的な言葉遣いが人々を混乱させることだ(例えば「人種差別」は人種に根ざした偏見のことではなく,社会のあらゆる相互作用に充満している人種化した制度のことになる).それは普通の人に(実は)異様な主張に対して賛成させかねない.彼等は全く別の知的世界にいるのでコミュニケーションが難しい.彼等は権力,言語,知識,言葉遣い,それらの関係性に取り憑かれていてすべてを各種アイデンティティマーカーをめぐるゼロサム的政治闘争にしてしまう.
  • 今日では多くの人がこの問題を認識しているが,うまい対応は難しい.彼等への反対論は真の社会正義への反対論として誤解されるリスクがあることに加え,<社会正義>運動の根本価値があまりに直感に反しているからだ.
  • 本書は彼等とまともなやり取りをするために,この異星人の世界を案内し,その思想の変遷を示そうとするものだ.

 

第1章 ポストモダニズム

 
第1章ではポストモダニズムの勃興とそのオリジナルな思想が解説される.

  • 1960年代何人かのフランス人たち(フーコー,デリダ,リオタールなど)が,世界とそれが人々と持つ関係について全く新しい見方を採用した.ポストモダニズムの定義は難しいが,モダニズムと近代性の両方を否定するものと考えるのが有益だ.それは客観的な知識獲得の可能性への過激な懐疑主義として私たちの社会的文化的政治的思考に異議を申し立てた.彼等は啓蒙時代の確信についての懐疑を極端に推し進め,究極的には一種のシニシズム(冷笑主義)となってしまった.
  • 2つの世界大戦はヨーロッパの左派知識人にリベラリズムと西洋文明に対する懐疑を生みだした.彼等は人種的,文化的不平等とその権力構造への寄与に関心を持つようになり,同時にマルクス主義に幻滅するようになった.彼等の反応は広範なペシミズムの形をとり,ある主張を「真実」として正当化する科学的手法やその包括的な説明(メタナラティブ)をことさらに疑問視した.これは人類進歩の歴史すべてに対するシニシズムと見ることができる.当初のポストモダニズムは深い絶望を持つ現状の記述であり,そこに処方箋はなかった.
  • ポストモダニズムは2つの原理と4つの主題として理解できる.
  • 知の原理:客観的な知識や真実の獲得に関する急進的懐疑主義,文化構築主義への傾倒
  • 政治原理:社会は権力とヒエラルキーで形成され,何をどのように知るのかはそれによって決まる.
  • 4つの主題:境界の曖昧化,言語の権力,文化相対主義,個人と普遍性の喪失

 

第2章 応用ポストモダニズムへの展開

 
もともとのポストモダニズムはすべての客観的事実について懐疑主義をとった.そのようなスタンスからは懐疑以外のどのような主張もできないはずであり実際に衰退していったが,その後それは驚くべき変容を遂げる.ここではその変容が解説される.

  • ポストモダニズムは西洋近代に属するすべての知識と知識獲得方法を批判し,「脱構築」した.このすべてを焼き尽くすような脱構築は1980年代には燃え尽きた.しかし1990年代に高度に政治性を持つ実践可能な<理論>が派生的に生じた.ここではそれを応用ポストモダニズムと呼ぶ.それはポストコロニアリズム,クィア<理論>,批判的人種<理論>(critical race theory)などのいくつかの<理論群>ヘと変異し,社会的不公正を脱構築するために活用された.それはおおまかに「<社会正義>研究」と呼ばれるようになり,急速に拡大し,新しい学術分野をもたらし,その後大きな影響力を持つようになった.それは急速に進化する一種のウイルスとみなすことができる*1
  • <理論>は,客観的事実は知りえず,「事実」は言語と言語ゲームを通じて社会的に構築され,知識は特権階級のためにあると想定する.そして<理論>は言説を批判的に検討すること(言説を思いっきり深読みして検討し,そこに焼き込まれているはずの権力力学を暴き転覆させること)を目指す.
  • この新<理論家>たちは,アクティビズムは極端な懐疑主義と相いれないことに気づいた(何かを実践するには何かが現実でなければならない).そして先行者たちの特権性(白人,男性,金持ち,西洋人・・・)を批判し,一部のアイデンティティはほかより特権的でこの不正は客観的事実だとした.そして社会的不公正の原因が悪い言説の正当化にあるなら,それを不当なものとして良いものに置き換えれば社会正義が達成できると主張した.彼等は学術集団ではなく左翼道徳集団となったのだ.
  • 彼等は「権力と特権は狡猾に人を堕落させ,自らを永続化させるように機能する」ということを客観的事実とみなしたが,一方で初期ポストモダン<理論家>たちからの引用は続けた.ポストモダニズムは<社会正義>研究の基盤となったが,片方で<理論>は内面化され,多くの研究者はそれを自覚できなくなっている.
  • 彼等の認める客観的現実は「我抑圧を経験せり,故に我と支配と抑圧は存在する」という哲学的基盤にあるといえる.この基盤から,ポストコロニアル研究,ジェンダー・スタディーズ,批判的人種<理論>などの多くの小さな学術分野が現れた.彼等は人種やジェンダーは社会的構築物であると主張し,交差性を重視し,アイデンティティ・ポリティクスを用いて差別の問題に取り組もうとした.
  • 応用ポストモダニズムにおいても2つの原理は中核に残っている.(1)知の原理:急進的懐疑主義と文化構築主義は維持されているが,アイデンティティとそれに基づく抑圧は客観的事実の特徴として扱われるという留保条件がついた.(2)政治原理も維持され,アイデンティティ・ポリティクス支持の核心となった.
  • 4つの主題もなお温存されている:(1)境界の曖昧性はポストコロニアル<理論>とクィア<理論>で明確だ.(2)言語の権力はすべての応用ポストモダン<理論>の最前面にあり,表現上の暴力,セーフスペース,マイクロアグレション,トリガー警告などの基盤になっている.(3)交差性の重視と西洋こそが抑圧権力という理解から,文化相対主義は当然とされるものになった.(4)個人と普遍性の価値は大幅に低下し,アイデンティティ・ポリティクスへの強烈な注目がある.
  • <理論>が目標追求型になるにつれ,言説を異様につつき回し,アイデンティティに関する厳格な規則(ポリコレ)を作り出す動きが1990年代以降加速した.アイデンティティ・ポリティクスの攻撃性は高まり,学者は女性やマイノリティの著作を優先的に参照すべきだと主張するようになった.これらの<理論>とポストモダニズム的認識論が組み合わさり「<社会正義>研究」と呼ばれるものができ上がった.
  • 学術研究はアクティビズムに乗っ取られ,今や教育は政治行為と見なされ,容認される政治はアイデンティティ・ポリティクスだけという状況になった.

 

第3~7章

 
第3章から第7章は,応用ポストモダニズムの社会<正義>研究の各分野がどれほど異様で奇矯な主張を行っているかの個別解説になっている.扱われる分野はポストコロニアル<理論>,クィア<理論>,批判的人種<理論>(および交差性),フェミニズム,ジェンダー・スタディーズ,障害学,ファット・スタディーズになる.それぞれどのような主張か,それがどのようにポストモダニズムの2つの原理と4つの主題を扱っているかが詳しく解説されている.これらをすべて紹介するのは私の手に余るので,進化心理学批判の急先鋒の1つであるフェミニズムおよびジェンダー・スタディーズと,私から見て最も異様な<理論>だと思われるファット・スタディーズの解説だけ紹介しておこう.
 

フェミニズムとジェンダー・スタディーズ

  

  • フェミニズムとアクティビズムは昔からずっとイデオロギー的で理論的だった.彼女たちは多くの党派に分かれ,その中の支配的なイデオロギーは党派間の壮絶な内紛を伴いながら大きく変容した.ここでは単純化した4潮流(リベラルフェミニズム,ラディカルフェミニズム,唯物論的フェミニズム,交差性フェミニズム)だけを取り扱う.21世紀にはこのうち交差性アプローチが圧倒的に優勢になっている.
  • 1960年代のフェミニスト運動第2波の時期にはリベラル,唯物論,ラディカルが主流の学派だった.リベラルは漸進的な考えでリベラルな社会のすべての権利と自由を女性に広げようとした.これは現場では人気があり,社会,特に職場の状況を一変させることに成功した.
  • 唯物論とラディカルは学術研究で支配的だった.唯物論フェミニストは家父長制と資本主義による女性の束縛に関心を持った.ラディカルフェミニストは家父長制を前面に置き,女性を被抑圧階級と捉えた.

 

  • 状況は1980年代に変化し始めた.応用ポストモダニズムの<理論家>たちが批判的人種<理論>の見方と交差性*2の概念を通じてポストモダニズムをフェミニズムに取り入れた.このフェミニズム運動第3波は,階級問題を無視し,アイデンティティに着目した.交差性フェミニストは,ジェンダーが文化的に構築されたものだと主張し,女性に共通の体験があることを否定し,女性であることの意味を複雑化させた.
  • 2000年代初めにはフェミニズムの交差性転回は否定しがたいものになった.焦点は法,経済,政治から言説の抑圧性に変わった.交差性フェミニストはジェンダーは生物学的性ではなく社会的構築物だとし,その構築物の中に権力を読み取った.知識は「位置づけられて」おり,つまりそれぞれの交差的アイデンティティ集団の帰属で生じ,客観的事実は獲得不能になる.そして知と権力が言説に結びつき,抑圧と支配を維持正当化するものになる.
  • 交差性は活動家たちに新たな問題と新たな批判を大量に提供した.例えばブラックフェミニストは(白人女性により進められた)フェミニズムが白人特権の悪しき影響により「白く」なったと非難し,クィアフェミニストはフェミニズムがレズビアンを排除すると非難した.彼女たちは<理論>をこねまわし罪悪感を引きだす手法を発見したのだ.これはジェンダー・スタディーズに引き継がれていく.彼女たちは「男性」「女性」は現実の実在物ではなく,言説や行為による構築物や表象だと主張した.そして交差性を<社会権力と社会的不公正の大統一理論>として採用した.

 

  • フェミニズムは,初期には法的に強制された役割と制限,ジェンダーロール遵守の性差別的期待を問題にしていたが,応用ポストモダニズム転回後はもっと繊細で相互作用的な,学習され,遂行され,内在化され,永続化された期待を問題にするようになった.交差性は<理論>をより曖昧で反証不可能なものへ焼き直した.
  • ジェンダー・スタディーズは「ジェンダー化する」ことはすべて抑圧と捉える.ジェンダー化は社会的なプロセスだが5歳時点で十分に進行していると彼女たちは主張する.それは学習され再生されて現実になる.さらにそれは人種,階級などとの交差性を取り込み,立場性は肥大し,ややこしくなっていった.
  • リベラルフェミニストはポストモダンフェミニストに圧倒されてしまった.法や社会的要請を普遍的にしようとする彼女たちの試みは,応用ポストモダニストたちからアイデンティティをないがしろにするものだと怒りの反論を浴びた.リベラルフェミニストは平等を求めたが,交差性フェミニストはそれを周縁化された集団に対し白人男性至上主義的なやり方に従えとするものだと批判する.応用ポストモダン<理論>のすべてで,リベラリズムへの反対は中心的な信条となっている.
  • 交差性フェミニストは(個人間ではなく集団間の)「相互の尊重」と「差異肯定」を求める.彼女たちは個人主義や女性の個人的選択を中核にするアプローチをすべて許さない.結果として交差性アプローチはそれぞれの集団に特定の価値観を割り振り,それが権威あるかどうかを決めつけ,集団内の多様性を無視する.このためそれは矛盾だらけのものになってしまっている.
  • そして高度化する新<理論>に従えば,結局「あらゆるものが何らかの形で問題であり,それはアイデンティティに基づく権力力学のせいだ」ということになる.<理論>に従うなら,<白人>フェミニストは,有色女性の体験を包摂し(しかし盗用してはいけない),それらが聞かれる場を提供しその声を広めなければならないが,その抑圧を収奪したりのぞき魔的な消費者になってはいけないという狭い道を通らなければならない.このような無理難題の矛盾した身動きとれない要求が<理論>の一貫した特徴であり,<社会正義>研究を蝕み続けている.
  • この交差性アプローチの副作用の1つは女性が直面する問題において最も重要な変数である経済的階級を無視することだ.<理論>は「階級」に代えて「特権」という概念をもてあそぶ.ある人の特権的地位は<理論>により交差的に評価される.差別や権利剥奪がないことが不公正であり特権だとするのだ.これは全く話をひっくり返そうとする試みだ.彼女たちは「ストレートでシスジェンダーの白人男性」こそが問題だと声高に叫ぶ.これは労働階級の有権者(特に貧しい白人男性)をポピュリスト右翼に追い込む.
  • ジェンダー・スタディーズでは「男性と男らしさ」に対する批判的研究が一分野になっている.これは「覇権的男性性」そして「有毒な男らしさ」という概念を生んだ.いまや彼女たちは「伝統的な男らしさ」を精神疾患として扱うべきだと主張する.

 

  • まとめると,交差性フェミニズムは「ジェンダーは社会的な構築物で,権力構築にとって重要であり,ジェンダー化された権力構造は男性を特権化し,ジェンダーは他のアイデンティティと組み合わさっておりそれを認識しなければならない」と考えている.
  • そして交差性転回以降のジェンダー・スタディーズは大きな問題を抱えている.ジェンダー不均衡があらゆる相互関係の根底にあり常に男性に好都合だという想定のために,男性にとっての不都合な状況があることを認めることができない.また心理的特徴,関心,行動の性差についての生物学的な説明は一切受け入れられない.このために厳密な学術研究を行うことが困難になっているのだ.
  • すべてのジェンダー分析を交差的にして(経済でなく)アイデンティティに根ざした特権に執拗に注目する態度は極度に混乱した<理論>的抽象的な分析を生み出す.しかし結局「異性愛の白人男性は不当な特権を持つから悔い改めろ」という過度に単純化された主張以外の結論に至るのは実質的に不可能になっている.立場の重要性への注目により,学者たちは自分が研究する範囲を極度に制約される.その結果この分野の学術論文の大きな割合は「パフォーマティブに自分たちの立場性を認知してみせ,自分自身の研究をも問題化する」ことに終始している.<理論>の枠組み自体が有益な学術研究の妨げになっているのだ.

 

ファット・スタディーズ

 

  • ファット・スタディーズはもともと1960年代のアメリカでファット・アクティビズムとして始まった.その後いろいろな形をとったがが,ごく最近になって,クィア<理論>とフェミニズムを援用したアイデンティティ・スタディーズの一派として確立された.
  • この分野は肥満についての否定的な認知を人種差別などと同等なものとして扱い,科学(医学)をはっきり拒絶する.彼等は肥満者が医療支援を拒否して肥満に肯定的な「知識」を受け入れる力を与えようとする.彼等は自分たちへの批判は社会にある「ファットフォビア」のせいだと主張し,肥満が危険で治療可能だとする研究すべてをファットフォビアだとして否定する.
  • ファット・スタディーズは急速に発展し,全面的に交差的になり,「体重/サイズ抑圧を解体するためのはあらゆる抑圧の交差性に取り組まなければならない」と主張するようになった(典型的な言説として「肥満言説は全体主義的だ.というのはつまり,それはデブについての唯一の権威として己を提示し,ほかの何者も考慮に値しないとするという意味だ」「ファット憎悪文化の中に暮らす者はすべて,どうしても反ファット信念や想定,ステレオタイプを吸収し,したがってどうしても体重に基づく権力配置との関連である立場を占めるようになる.どんな人物であれ,そうした訓練から完全に自由になれるはずもないし,その権力グリッドから完全に身をふりほどけるはずもない」という言説が紹介されている).
  • 彼等はしばしば「ファット憎悪は資本主義によって後押しされる,こうした企業は太った人を痩せさせるためだけの製品を作りだすから」などと主張する.これが被害妄想に聞こえるのは,それがまさに被害妄想のおとぎ話だからだ.生物学と栄養学はフーコー的「生権力」の一形態だとされ,肥満医療は抑圧的で規律的ナラティブを人々に押し付けるものとされ,健康の価値を強調するのは,健康優位主義と呼ばれる問題あるイデオロギーだとされる.
  • 彼等は栄養学や医学を否定し,「実践指向的文化」を編み出すために詩を用い,肥満への食餌療法的態度が科学を正当化するのに貢献することを考え直すように促す.これは誰かを一時的な優越感に浸らせる以外に誰にとっても有益ではないだろう.

 

  • ファット・スタディーズは,アイデンティティ・スタディーズの中でも,最もわけのわからないイデオロギーまみれの学術研究アクティビズムとなってしまっている.批判的人種<理論>からフェミニスト<理論>を経てクィア<理論>を右往左往しつつ,障害学から拝借した反資本主義レトリックや思想を組み込んでいる.彼等は肥満を人種,性別,セクシャリティと同じような不変の特性に見立てて,その偏見に取り組むアクティビズムの形をとろうとしているが,肥満は食べ過ぎの結果だという証拠があるためにこの試みの説得力は低い.そして何よりこうしたファット・アクティビズムは医学的なコンセンサスを無視しており,人々の健康に対して危険だ.それなのにファット・スタディーズは<社会正義>研究分野の中に居場所を見つけてしまっているのだ.

 

第8章 社会正義研究と思想

 
第8章では2010年以降の新しい展開が解説されている.

  • 「物象化(reified)」は「本当のものにされる」という意味であり,2010年ごろ始まったポストモダンの第3フェーズの中で形作られていった.
  • 第3~7章で見た応用ポストモダニズムの各思想は,2010年以降統合された交差性<社会正義>研究およびアクティビズムの中で完全に具体化され,(学術分野や活動を越えて)知識,権力,社会の事実としての記述だと称して,世間の意識にも根付き始めた.
  • <社会正義>研究系の学者や活動家は「世界がアイデンティティに基づく権力のシステムで構築されており,そのシステムが言説を通じて知を構築する」という信念を客観的な事実だと信じている.これは当初のポストモダニズムの急進的な懐疑論が変容して,完全な確信を生み出したということだ.彼等は家父長制,白人至上主義,帝国主義,シスノーマティビティ,ヘテロノーマティビティ,健常主義,ファットフォビアが普遍的に存在し,言説に潜在していると信じている(ポストモダンの知の原理の物象化).そしてあらゆる白人は人種差別主義者で,あらゆる男は性差別主義者で,人種差別と性差別はそうした意図を持つ人が1人もいなくても存在し抑圧でき,言語は文字通りの暴力で,すべてが脱植民地化されるべきだと断言する(ポストモダンの政治原理の物象化).彼等は普遍的な原理や個人の知的多様性を全く顧みない.主張は単純になり,断言されるようになった.
  • これはポストモダニズムの第3段階,物象ポストモダニズムと呼ぶことができる.第1段階で急進的懐疑と絶望,第2段階で絶望からの回復と実践の試みをみせたポストモダニズムは第3段階で確信と活動家としての熱意を完全に回復したのだ.彼等の主張は信仰教義となった.

 

  • 彼等の主張する細分化された交差性アイデンティティには驚くべきことに経済的階級についての言及が欠落している.マルクス主義者たちは,(正当にも)アイデンティティ・ポリティクス系の活動が極めてブルジョワ的な問題にばかり取り組んでいると指摘している.

 

  • <社会正義>研究はアイデンティティとアイデンティティ・ポリティクスに深く肩入れしている.その結果彼等は知の方法として理性と証拠を打ちだすものすべてに突っかかり,代わりに「認識的正義」「研究正義」に頼れ(つまりマイノリティの体験,気持ち,文化を知識と考え,理性と証拠より優先せよ)と要求する.彼等は「研究正義」に従い,ポストモダン創建者たち(つまり白人男性たち)の貢献を黙殺するようになり,彼等自身の思想の由来を遡ることが難しくなっている.交差的に正しい唯一の研究方法は黒人フェミニスト<理論家>の著作を参照することだけというわけだ.
  • また彼等は知識や知識生産を<理論的>に導出された正義と不公正の概念につなぐことにこだわり,「認識的不公正」「認識的抑圧」「認識的暴力」「認識的収奪」「解釈的死」などの概念をもてあそぶようになった.
  • また彼等は科学や理性に強い不信感を抱き,それらを公然と攻撃する.そして「他の知のあり方(深い体験を<理論的>に解釈したもの)」に肩入れする.このアプローチは,(そもそも信頼性の低い)経験知を解釈によって歪ませるもので,恐ろしく尊大で潜在的に危険だ.
  • さらに彼等は抑圧された人々は支配的立場と抑圧される体験の両方を理解するから,一種の二重視野を持ち,より権威ある十全な世界像を得られると主張する(立場理論).

 

  • <社会正義>研究で最も恐ろしいのは,彼等の想定が物象化されてしまったので異論がほぼ容認されないということだ.異論はよくてもその分野に正しく取り組めていない証拠,悪くするとその主張者が非道徳的であることの証拠と受け取られる.彼等は自分たちの原理を批判的に検討することを拒絶し,そういう試みが不道徳的で不誠実でそれこそが自分たちの主張の正しさを証明していると主張する(いくつかの具体例が紹介されている).彼等は異論は一切容認せず,皆が同意するか,さもなければ「キャンセル」されろと主張するのだ.
  • <社会正義>研究家が現実に行っているのは,周縁化された人々の体験の中で<理論>に都合の良いものをチェリーピックして,それを「正統」とし,その他のものを支配的イデオロギーの残念な内面化や利己性の発露としてごまかすということだ.そして<社会正義理論>は完全に無謬で反論不能になる.それは実質的に終末論カルトとあまり違わない存在になっているのだ.

 

第9章 行動する社会主義

 
第9章ではこの<社会正義>研究がアカデミアの外の社会に与える悪影響が解説される.

  • <理論>は学術界の外の文化にも深い影響を与えている.
  • それは<社会正義>研究が学生たちに教えられ,学生たちが社会に出るということから生じる.アメリカのほとんどの大学は一般教養課程で「多様性」を全員に教える.そして学生たちは信念を社会に持ち込む.
  • 実際に何十億ドルもの価値を持つ<社会正義>産業が生まれつつある.多くの企業や機関には組織文化を<社会正義>イデオロギーに変えようとする「多様性・平等性・包摂性担当」という新しい仕事が生まれている.「担当者」はしばしば高給で,組織内で権力を持つ.
  • 大学には「偏向対応チーム」が存在するとされ,キャンパスから上がってくる偏向の報告に対応している.この偏向検出の感度は高く,多くの教員や学生は(不名誉を避けるべく)自己検閲を強いられる.さらに一部の見方を黙らせようとする公然たる試みも行われている.活動家が気に入らない学術思想に対する強烈な糾弾,論文取り消し要求,解雇要求が生じ,それが受け入れられる.これは実質的な検閲として機能している.
  • こうした問題は人文学において顕著だが,STEM分野でさえ影響を受ける.「工学教育において最も本質的に必要な変化は,真実が客観的で絶対的なものだという見方を克服することである」とか「数学は本質的に性差別的で人種差別的だ」などと主張される.
  • <社会正義>のためのアクティビズムはさまざまな形をとる.ハイテク,放送,小売りなどの大企業はアクティビズムの要求にしばしば屈する.大企業はますます製品についての弁解を迫られるようになっている.これらは収益にあまり大きな影響を与えないものについてはクレーマーに従うという広報戦略として理解可能だし,同じことは大学当局についても当てはまるのだろう.
  • 気に入らない発言を(しばしば意図せずに)行った有名人を処罰せよという「キャンセルカルチャー」は猛威を振るっている.セレブ,アーティスト,スポーツ選手は何十年も前の発言やティーンの時の発言のためにキャリアや評判を完全に破壊されることがある.
  • <社会正義>が言語と思想を検閲するやり方は芸術にも影響する.芸術は一方では「マイノリティ集団を代表していない」と非難され,もう一方で「文化的盗用」だと非難される.これらは相互に矛盾し,明らかに芸術創造を阻害する.フェミニストは映画の男女のセリフの単語数を数え,女性キャラクターの役割にけちをつける.これは製作コストを上昇させ,女性キャラクターの幅を狭め,映画をつまらなくさせるだけだ.
  • <社会正義>が医療に与える影響は深刻だ.障害学アプローチは基本的に医療を否定するように働く.それは自閉症アクティビズムにも精神健康アクティビズムにもファットアクティビズムにも見られる.そして<社会正義>ルールは自閉症者にはことさら遵守が難しい.
  • アメリカ社会は,名誉の文化から尊厳の文化に移り変わってきたが,今や被害者文化が台頭してきている.この新しい被害者文化は名誉の文化と同じような侮辱に対する敏感さを持ち,それに対して弱さをひけらかす.

 
ここから著者たちによる<社会正義>研究に対する評価がまとめられる.当然ながら非常に辛辣だ.
 

  • <社会正義>研究は人種差別,性差別などの言説に注目して大騒ぎするが,それが興隆したのは,まさにそうした態度や言説が激減した時期だった.1980年代にリベラリズム(公民権運動,リベラルフェミニズム,ゲイプライドなど)のお陰で急速に人種,ジェンダー.LGBTの平等性が法および政治面で進んだ.そしてもはや取り組み対象として残っていたのは差別的言説だけだった.ポストモダニストたちは権力の言説に注目していたのでそれに飛びついた.しかし差別は減少を続けたので,差別的言説を検出するには状況やテキストの深読みとややこしい<理論>が必要になった.<社会正義>研究に見られるこじつけめいた<理論>分析は社会的不公正減少の直接的な反映なのだ.

 

  • <社会正義>研究はダメな理論の典型例だ.ポストモダニズムは前近代的信仰,近代に属する大理論のすべて,そして共産主義を拒絶した.それは進歩の可能性自体を疑問視した.それは<社会正義>研究に進化し,偏見,抑圧,周縁化,不公正の根底を見極めて世界を癒やそうとする試みになった.それは一見見た目はよさげだが,しかし実践したら失敗し,その過程ですさまじい被害を引き起こす代物だ.それが失敗するのは現実に対応せず,公正と互恵性についての人間性の直感に反し,理想論のメタナラティブに過ぎないからだ.
  • ポストモダニストが失敗するのはメタナラティブが有効で適応性のある仕組みになれると勘違いしているからだ.宗教やイデオロギーはメタナラティブだが,リベラリズムと科学は違う.リベラリズムと科学は自己懐疑的になるように設計されている仕組みだ.それは実証を優先し,自己修正が可能なのだ.

 

第10章 社会正義イデオロギーに代わるもの

 
最終章ではどうすべきなのかが説かれる.

  • ポストモダン<理論>とリベラリズムは真っ向から衝突する.リベラリズムは客観的現実,客観的知識を認め適切な分類や明晰な理解を受け入れ,個人と普遍的な価値を認める.<理論>は知識は全くの人工物(地位や権力を維持するために語っているおとぎ話)だと考え,境界を曖昧にして分類を消し去り,でっち上げた曖昧さに大喜びし,個人や普遍的価値を否定してアイデンティティ・ポリティクスを支持し,被害者意識に注目する.そして何よりリベラリズムは批判を受け入れ自己修正的だが,<理論>は批判を受け入れない.
  • リベラリズムは自己批判を受け入れ自己修正的だが,それは<理論>に利用されてリベラリズム潰しに使われてしまうことにもつながる.しかし言論の自由と公開の議論こそが仕組みの有効性を担保するのだ.本来言論の自由は<理論>にとっても有益なはずだが,彼等は自分たちの正しさについての理性的な信頼ではなく単なる主観的な確信の気分だけを求めているのでそうは考えない.
  • リベラリズムが成功してきたのは,それが本質的に目標指向で,問題解決型で,自己修正的で,本当に進歩的だからだ.ポストモダニストは進歩を信じない.それは懐疑論を歪めてシニシズムにしてしまった.
  • 知識の生成にリベラルや科学のアプローチを拒否すれば,非リベラルなやり方しか残らず,原理主義的になる.これがポストモダン政治原理の本質だ.それは見解の相違を解決する客観的な手段をなくしてしまう.

 

  • 私たちは「真理」カルトを作るよりもっとましなことができるはずだ.それはポストモダニズムの2原理と4主題をすべて捨て去り普遍的リベラリズムを採用することだ.
  • ポストモダンの知の原理の正体を見極めて拒絶しよう.それはただの言葉遊びなのだ.科学が機能する証拠は歴然で,それは信頼に値する.当たり前だが,科学は人種差別的でも,性差別的でも,帝国主義的でもない.ポストモダニズムの懐疑論にも一理はあるが,誰にも「黙って一方的に聞け」とか「認識論的な厳密さを捨てろ」という要求に従う義務はない.
  • ポストモダンの政治原理は,世界をゼロサムの権力ゲームとみなし,すべてを陰謀論の枠組みで捉えるものだ.こんなものには消えてもらわねばならない.反論しよう.反対しよう.
  • 境界の曖昧化は,分類の改善手法なしに分類原理を信用しないだけで,根本的に役立たずだ(統計学を理解すれば分類をなくせという主張がどれほど見当外れかわかる).カテゴリーや分類自体が抑圧的だという主張は正当化できない.
  • 言説を制限し,使える用語を強制することが社会的正義を実現する最もよい方法だという発想は,歴史的にも証拠の面からも理性からも支持できない.
  • 文化相対主義に真実があるとすれば文化によりやり方に違いがあるということだけだ.それを学んで共有するのは面白いが,知識生産は個別の文化を超越するものだ.誰もがまず人間であり,そこには普遍的な人間性があり,私たちの真実のほとんどは人間としての真実だ.自分自身の文化以外の慣行について一切判断を下せないとするのは馬鹿げているだけでなく危険だ.ある特定文化や下位文化のマイノリティだけが自分の集団への抑圧を批判できるという主張は共感の面でも倫理的な一貫性の面でも破綻している
  • 個人主義と普遍主義だけでは人間体験をすべて表現できないという指摘には一理ある.その視点だけでは一部アイデンティティ集団への抑圧を見逃すかもしれない.しかしそのために他のすべてを排除すべきではない.<社会正義>アプローチは,人々はまず個人であり共通の人間性を持つという単純な理由により,確実に失敗する.アイデンティティ・ポリティクスは集団間の共感を難しくし,部族主義と復讐心を煽りかねない.社会を改善しようとする試みにおいては人間性の理解が不可欠だ.

 

  • <理論>は人間性,科学,リベラリズムを否定するために,しばしば問題を悪化させる.人種分類に重要性を与えて人種主義を煽る,東洋と西洋を真逆と描くことでオリエンタリズムそのものを永続化させる.
  • アイデンティティ・ポリティクスの最大の問題の1つは,それが右派のアイデンティティ・ポリティクス(西洋,白人,男性が支配的な役割を追うべきだ.同性愛は逸脱で悪いものだ)を強化してしまうことだ.
  • リベラリズムは,人々は人種,性,セクシャリティで判断されるべきでないと主張し,実際に人々の認識と社会を変え,右派に対し説得力のある道徳的な高みを維持した.しかし,<社会正義>はこうした進歩を逆転させかねない.
  • 奇妙な<理論>は女性と人種・性的マイノリティへの否定的なステレオタイプを復活させてしまう.人々がジェンダーやセクシャリティについてどんな信念を持つべきかを強制する専制的な試みが,特にトランス者への受容に対する激しい抵抗を急激に作り出している.
  • また<社会正義>アプローチは部族主義と敵対を奨励してしまう.それは支配集団に集合的な罪状を負わせようとする(白人は人種差別,男は性差別,ストレートはホモフォビア).これは人を人種やジェンダーで判断しないというリベラル的価値観にはっきり対立する.これが古くさい右派のアイデンティティ・ポリティクスの退行的な復活を生み出さないと思っているならおめでたいにもほどがある.相手が白人なら,男性なら,ストレートなら偏見を抱いても構わないという議論は人々の互恵性の直感にそぐわないのだ.
  • 現在の右傾化にはさまざまな原因がある.しかし<社会正義>はそれを押しとどめる力にならない.<社会正義>の原理主義的専制的なやり方はまともで穏健な人々に反対論を表明したがらなくさせている.その結果反対論を表明するのは最も極端な右派だけになり,その人々が広い支持を受けてしまう.<社会正義>は,専制主義的な極右のバックラッシュに対して最も危険な形で私たちの社会を開いてしまったのだ.

 

  • 自分だけが正しいとする物象化された哲学体系への対処について,リベラル社会には「世俗主義」という解決法がある.それは自分が真理をつかんだとどれほど確信を持ってもその信念を社会全体に押し付ける権利はないという哲学思想に基づく.これは特定宗教やイデオロギーのご託宣を受け入れなくても何も罰を受けないという不可侵の権利を伴う.
  • 物象化された後の応用ポストモダニズムは記述的であるより指図するものに,つまり信仰体系になってしまっている.これに対抗するために2つのアプローチを提案する.
  • 1つはこの信念体系が制度機関に埋め込まれるのに反対するというものだ.人々には<社会正義>を信じない権利があるのだ.義務づけにはすべて反対しよう.
  • もう1つは<社会正義>の考えに対して(弾圧ではなく)自由市場で対決するというものだ.まともな検証を避けようとする彼等の企ての正体を暴き,思想についてきちんとした基準で評価するのだ.

 

  • <理論>にはリベラリズムで対決するのだ.彼等の主張には単に「いいえ,それはあなたがイデオロギー的にそう思っているだけですよね,私がそれに従う必要はありません」というだけですむことも多いのだ.(最後に拒絶の具体的な戦術(彼等の主張のどこを認めてどこを認めないかを含む)について詳しく解説がある)

 
以上が本書の内容になる.これまで社会正義運動がどのような主張を行い,どのような弊害を生み出しているかについて解説している本は何冊かあったが,その思想がどこから来たのかについての説明はなかった.本書は社会正義運動家の思想の源流と基本原則を解きほぐし,彼等がいったい何を言っているのか(まさに異星人の言語)をある程度分かりやすく解説してくれる貴重な本ということになるだろう.
私はキャンセルカルチャーや行き過ぎたポリコレの問題については,ある意味「差別をなくそう」という善意の試みの暴走という風に捉えていた.ルキアノフとハイトはそれは若い人への過度の保護感情から生じたと見ていたし,差別をなくそうという自分たちの道徳的立場の正しさの確信と,学者として成果を出すための競争が主張をどんどん過激にさせ,受け入れる側も自分の道徳性のディスプレイ(そしてこれも競争によりどんどん過激になる)としてそれを受け入れているのだろうという風に考えていた.しかしそれにしてもなぜ「文化的盗用」や「トランスジェンダー女性は自らの認識に従ってスポーツ競技の女性部門に参加する権利がある」などというあまりに奇矯な主張が声高に叫ばれ,受け入れられるのかは本当によくわからなかった.しかし本書を読んでその疑問の一部は解消した.それは理性と科学を否定するポストモダニズムの成れの果てだったというわけだ.そして<社会正義>戦士たちが理性と啓蒙主義を敵視するポストモダニストならピンカーがキャンセルカルチャーの標的になったのもむしろ必然だったのかもしれないと納得できる.
本書の描写が誇張されたものなのかどうかはよく見極める必要があるだろうが,ある程度正しいとするならこれは本当に憂慮すべき動きということになるだろう.日本のアカデミアはいまのところアメリカほど深くこの動きに侵食されているわけではなさそうだが(日本人は西洋の白人ではないからということもあるのだろうか),警戒すべきものだと捉えるべきだろう.この問題に関心がある人には大変有益な情報源となると思う.

 
関連書籍
 
原書

 

ハイトとルキアノフによるキャンセルカルチャーについての本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/04/04/172150

  
同邦訳 
進化心理学者サードによるすがすがしいまでのキャンセルカルチャー徹底批判の本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/06/20/134413
 
  
英国人ジャーナリストマレーによる糾弾書 
 
同邦訳 
 
スティーヴン・ピンカーへの糾弾事件についての私の記事
shorebird.hatenablog.com

*1:本書ではこのウイルス性についての詳しい解説はなく,一種の比喩として表現しているようだが,実際にはこれはまさにミーム複合体なのだと考えることができるだろう

*2:交差性は批判的人種<理論>の章で詳しく解説されている.私の理解では,それはカテゴリーの効果の非相加性を意味するもので,例えば,黒人であることへの抑圧と,女性であることへの抑圧を考察しても黒人女性であることへの抑圧は理解できない,だから黒人女性としての交差的アイデンティティを考察しなければならないという主張の基礎になる.