From Darwin to Derrida その210

 
ヘイグの「ダーウィンからデリダまで」付録への補足.テキストの「理解」には著者の意図の認識が問題になることもあるが,基本的には解釈者がそれぞれ自由に行うものであることが指摘された.ヘイグはさらに細部に踏み込む.
 

付録への補足 その2

 

  • 全ての人の会話において,解釈の自由は排除できない.訳者によるラテン語テキストから英語テキストへの翻訳を考えよう.翻訳への入力には2種類ある:テキストと文脈だ.出力は英語のテキストだ.異なる訳者は同じテキストから異なる翻訳を作り出す.それは私的テキストが異なっているからだ.ラテン語のテキストは英語の翻訳テキストを一義的に決めない.ラテン語のテキストが英語のテキストに翻訳される際には,翻訳者の分子的な状態を考慮すると,原理的に途方もない複雑な共時的な分子メカニズムの状態がある.しかしこの分子状態の説明は,さらに複雑な訳者の進化的発達的文化的の歴史(これは訳者のパーソナルアイデンティティにかかる通時的要因と呼ぶことができるだろう)に依存するのだ.

 
「解釈」の例としてラテン語テキストから英語テキストへの翻訳が用いられている.どのように翻訳するかは翻訳者によって,そして同じ翻訳者でもその時の状況によって異なる.ヘイグ的にはこれは私的テキストの違いであり,翻訳者の共時的分子メカニズムの状態依存であるからだということになる
 

  • 定義は使用だ.1つの語は同じ言語コミュニティの異なる話者により微妙に異なる意味を表す.一部の話者は過去聞いたことを誤解して完全に「間違った」定義を持っているかもしれない.(そのような誤った使用の)一部の変異は子孫をあまり残さない.例えば教室で使われて訂正されたり,あるいは表している物事が環境から消え去ったりするとそうなる.別の一部の変異はコミュニティに広がり,「誤った」定義が標準的な使用法になる.
  • 1つの定義の生存価はその言語コミュニティのなかの役割と使用状況により決まる.一部の語は「生きる化石」になり,その定義が不変か極めてゆっくりしか変わらないものになる.別の語は定義の変化が極めて素早いものとなる.「gene」と「gender」の意味は今世紀の中で大きく変化し,複数の使用法が競争状態にある.一部の古い使用法は消え去り,誤解されるのに嫌気が差した話者により別の語に入れ替わる.

 
各言語において単語の意味が時代と共に移り変わることはよく知られている.ここでのヘイグの説明はミーム的だが,ミームという用語は用いていない.「生存価」という用語まで持ち出しているのに(そして本文中ではしっかり登場しているのに)ここで「ミーム」を使わない理由はよく分からないところだ.
  

  • 各話者の語と世界の物事の連合は私的慣習だ.しかしその慣習が長続きするためには,話者のコミュニティにおける生存価が必要になる.ある私的慣習の生存を助ける要因は様々だ.しかしその中で2つは重要だ.まず,その慣習が他の話者の似たような慣習より残りやすいこと,もう1つはその慣習においてその語が世界の中の重要な物事と連合していることだ.そのようなプロセスを経て,ジェスチャーと音(あるいは心の中の音)が現実世界の物事と対応して結びつく.起源,機能,原因,結果はこの再帰的システムの中で不可分にもつれ合っている.

 

  • 1つの語の定義は歴史と共にある進化する実体だが,本質的な性質ではない.生物学哲学では種の定義はクラスから個物にシフトしたとされる.ある生命体は特定の種に属するが,それは祖先系列によるのであって何か定義的な特徴を持っているからではない.
  • 通時的な視点から見れば,語は同じような個物性を持っている.しかし共時的な視点から見れば,語のトークンはコンセンサスとしての定義を持つクラスのメンバーだ.語は歴史的なものなのだ.

 
単語の定義はミーム的淘汰を受けて変わっていき,祖先から子孫への系統を形作る.語が個物であり歴史性を持つというのは,「種」についての議論とパラレルになるだろう.
 

  • 言語は,個体の持つテクノロジーで,互恵利他的な精妙なシステムとして進化した.そしてそれはヒトの行動を調整して危険を避けたり機会を利用することを可能にしてくれる.しかし言語は言語話者に他の話者を操作して搾取することにも使われる.

 
このあたりはコミュニケーションの進化についての議論となるだろう.ヘイグは言語が基本的に互恵利他的で操作にも使われると位置づけているが,そもそも説得あるいは操作的に使われたという可能性もあるだろう,
 

  • 道徳的に正当化される説得と,道徳的に正当化されない操作や強制の違いはなんだろうか? これを完璧に議論することは私のここでの意図を越えている.ここでは2つの重要なファクターを指摘しておきたい.
  • 1つの道徳的かどうかの基準は,その他者がそれに応じない場合に膨大なコストがかかる,あるいはその可能性があるかどうかだ.もう1つの基準は,あなたが影響を与えようとしている理由について騙しがあるかどうかだ.

 
最後に道徳について触れているのはちょっと驚きだ.説得と操作の違いはたしかに微妙だ.ヘイグのあげる2つのファクターはそれが脅迫や詐欺でないことというものになるだろう.
 
付録への補足はここまでだが,本書はさらに続く.