From Darwin to Derrida その211

 
本文の後,解釈と意味,公的テキストと私的テキストに関する付録があって,その解釈の自由性にかかる補足があり,そして次は補足の補足(Supplement to the Supplement)になる.
 

補足の補足 その1

 

  • Es ist heute unmöglich, bestimmt zu sagen, warum eigentlich gestraft wird: alle Begriffe, in denen sich ein ganzer Prozeß semiotisch zusammenfaßt, entziehen sich der Definition; definierbar ist nur Das, was keine Geschichte hat.

 

  • Today it is impossible to say precisely why people are actually punished: all concepts in which an entire process is semiotically concentrated defy definition; only something which has no history can be defined.

 

  • 今日なぜ人々が実際に罰されるかの理由を正確に述べることは不可能だ:全体のプロセスが意味論的に集約されている全ての概念を定義することはできない;歴史を持たないもののみが定義されうるのだ.

フリードリヒ・ニーチェ

ここはいきなりニーチェが登場する.引用されているのは「Zur Genealogie der Moral」とその英語版である「On the Genealogy of Morality」.邦題としては「道徳の系譜」とされることが多いようだが,光文社古典新訳新書では「道徳の系譜学」としている

 
そして引用では「Prozeß」と「process」がイタリックになっていて,この部分の翻訳が問題になっていることを示している.
 

  • ドイツ語の「Prozeß」には第2義として刑事裁判に関する意味があり,これは英語の「process」として訳されることを拒絶する.

 
確かに単に「プロセス」だとドイツ語の微妙なニュアンスが伝わらないのだろう.そしてここを「刑事裁判過程」と訳すと訳しすぎになるという趣旨なのだろう.
 

  • 世界を自分の言葉で記述し解釈するように読者を説得する一般的な方法は2つある.1つはすでにあるあなたの定義を使うように説得することだ.もう1つはあなたが新たに発明した用法を使うように説得することだ.この補足の補足において,私は「gender」についての再定義と,「madumnal」についての哀れな失敗について考察する.

 
とかいているが,補足の補足では「gender」だけが問題にされている.これはなかなかポリコレ的に問題となる意味が最近付加されているのでいろいろややこしいことになっている.ヘイグは19世紀の英国の用法から語り始める.
 

  • 「デイヴィッド・コパフィールド」の第1章において,ディッケンズはこう書いている.「私が生まれた日時を知り看護婦はこう宣言した.・・・私は不幸な人生を送るだろう,そして私は幽霊を見ることができるだろうと;これら両方の予言は金曜日の夜の同じ時間に生まれた男女両方の全ての不幸な赤ん坊(all unlucky infants of either gender)に必然的に当てはまると彼等は考えていた.」
  • 「gender」は長い間「sex」の同義語として使われてきた.もっとも1899年版のオクスフォード英語辞書において「gender」は「いまやややこっけいな言い回しとなっている」とされていた.この時点で男性と女性を表す通常の語は「sex」だったのだ.しかしそれから100年以内に多くの英語話者は「sex」よりも「gender」を使うことを好むようになった.