書評 「知られざる食肉目動物の多様な世界」

 
本書は東京農工大とトラキア大学の間の姉妹校交流の中から生まれたブルガリアの食肉目哺乳類の協同研究プロジェクト(両大学のほか,北海道大学,ブルガリア国立自然史博物館も加わっている)の成果物,そしてブルガリアや研究手法にまつわるさまざまなコラムを一冊の本にまとめたものだ.中心テーマはヨーロッパとアジアの接点でもあるブルガリアの食肉目動物についての生態学,進化遺伝学,系統地理学のリサーチ結果だが,それ以外にもさまざまな要素が付加され,手作り観満載の楽しい本になっている.
 
冒頭カラー口絵部分でさまざまな概説があって楽しい.食肉目*1とはどのような動物かが系統樹と共に解説され,続いて(日本に分布せずなじみの薄い)ジャッカル*2,ネコ科動物の解説があるかと思えば,ブルガリアの生物多様性,伝統的な街並み,自動撮影カメラの捉えた動物たちなどが写真と共に解説されている.解説は見開き2ページでコンパクトにまとめられていて簡潔でわかりやすい.
 

第1部 フィールドからの多様な世界

 
第1部は東欧の食肉目動物についての解説的な章が収められている.
 
序章では欧州,特に東欧の生物,生態系についての総説が置かれている.おおまかな地形,氷河期の影響と3大レフュージア(イベリア半島,イタリア半島,バルカン半島),そこから最終氷期以降どのように広がっていたかのいくつかのパターン(ヒグマ,ハリネズミについて詳しく解説される),バルカン半島の地形と気候,ブルガリアの大型哺乳類の分布が解説されている.日本との違いが楽しい.
 
第1章ではブルガリアとポーランドの食肉目動物(オオカミ,ジャッカル,キツネ.ヤマネコ,テン)の相互関係,ヒトの活動の影響,第2章ではジャッカルの分布拡大(いくつかの要因*3が解説されている)とヒトとの関係(ジャッカルは駆除により一時期大きく分布域を狭めたが,政策が保護に転じ,現在は分布拡大中だそうだ)が解説されている.
第3章ではヨーロッパヤマネコとはどのような動物か*4,イエネコとの交雑問題,ブルガリアのヤマネコ,食性などが解説されている.
第4章はテンの食性が詳しく解説され.第5章ではブルガリアの食肉目動物がクマからカワウソまで総説されている.さまざまなトピックが扱われており,興味深い.
 

第2部 研究室からの多様な世界

 
第2部は本書の中心になる部分で,食肉目動物のさまざまなリサーチが紹介されている.
 
第6章はアナグマの匂い物質と行動:冒頭に食肉目動物と匂いについての総説がある.ネコが「顔を洗う」のはひげのつけねにある分泌腺からでる匂い成分を前脚で顔全体に広げているのだとか,アフリカのカッショクハイエナは皮脂腺系統と汗腺系統の2種類の臭い分泌物を使い分けているとか,毛皮に白黒の2食の模様がはっきりある(スカンクは有名だが,本章の主人公のアナグマもこれに含まれる)のは警告色であることが多いとかの話は楽しい.そこからアナグマの概説(アナグマ属には4種が認められており,ニホンアナグマは固有種ということになる),ブルガリアのヨーロッパアナグマとニホンアナグマに共通の匂い成分があること,匂い分泌物を出すには体脂肪の蓄積が必要なこと*5,ニホンアナグマにヨーロッパアナグマの匂いをかがせると同種の匂いとは異なる反応*6をすることなどが報告されている.
 
第7章はキツネの糞からわかること:著者は函館山のキツネの糞を集めて分析し,個体数,性,分布,集団遺伝構造を解き明かしている.まず函館山を含むキツネの道南集団はその他の道内のキツネと大きく分断され,さらに函館山集団は道南集団とかなり分化*7しているようだ.
 
第8章は食肉目動物の免疫系遺伝子の多様性:ゲノム,中立進化を概説した後,自然淘汰を受けた遺伝子を探索すると免疫のMHC遺伝子が多く確認されることを説明し,MHC遺伝子についてかなり丁寧に説明がある.そして各食肉目動物でMHC遺伝子の多様性がどうなっているかが概説される.
 
第9章は食肉目動物に寄生する条虫の生活環:まず条虫とはどのような動物か,さらにその中の裂頭条虫科とテニア科の条虫のそれぞれの生活環*8がまず概説される.そこから日本海裂頭条虫*9,広節裂頭条虫,ヒグマ裂頭条虫,マンソン裂頭条虫*10,猫条虫*11,エキノコックス*12,その他のテニア化条虫の解説があり,最後に有鉤条虫,無鉤条虫,アジア条虫のヒトへの寄生が解説されている*13.本章は条虫類についての総説になっており,読みごたえがある.
 

第3部 文化からの多様な世界

 
第3部は東欧の文化に関する解説やエッセイがまとめられている.一冊の本にするための増量的な部分にも見えるが,この研究プロジェクトを進めてきて,いろいろ感じてきたことを記しておきたいということなのだろう.
 
第10章はブルガリアの狩猟文化が語られる.トラキア時代,ローマ帝国属州時代,スラブ時代,オスマントルコ支配時代と移り変わってきたブルガリアにおける狩猟,そして現代の狩猟活動のあらましと伝承や神話との関連が語られている.
第11章は東欧のヒグマに関する文化が日本との比較において語られている.ヨーロッパにおけるヒグマの分布や遺伝的構造,日本のアイヌ文化,ブルガリアのクケリと呼ばれるクマの仮面が登場する祭礼などが語られている.
第12章はブルガリアの家畜.固有の東バルカンブタの遺伝的構造*14,トラキア時代のトラキアウマ*15と現代ブルガリアで飼育されているウマについて解説されている.
第13章は著者人の1人によるブルガリアへの研究留学体験記.とても具体的に書かれていて特に楽しい.
最終章はEUの生物多様性保全政策と食肉目動物の将来.現状の政策と展望が語られている.
 
以上が本書の概要だ*16.ブルガリアは動物地理的には日本と同じ旧北区に属しているが,遠く離れたドナウ川流域を含むバルカン半島に位置し,食肉目動物的にもヤマネコとジャッカルが分布し(そしてタヌキが存在せず),オオカミも絶滅していないという違いがあり,いろいろと興味深い.東欧の生態系に関する一般向けの本はあまりなく,そういう意味で貴重だし,食肉目動物に興味がある人には視野を広げてくれる興味深い本になっていると思う.
 

 

*1:ネコ目とせずに食肉目としているのもうれしいところだ

*2:かつてジャッカルとまとめられていた動物群はリカオン,コヨーテ,オオカミと単系統群を構成するキンイロジャッカルと別の単系統群であるヨコスジジャッカルとセグロジャッカルに分かれるようだ.キンイロジャッカルは本来キンイロオオカミと呼ぶべき動物であるのかもしれない

*3:駆除の減少,生ゴミの利用,(開発による)開けた環境の増加,天敵オオカミの減少,暖冬化などが要因とされている

*4:系統的にはアフリカ系(リビアヤマネコとアフリカヤマネコ),アジア系(ステップヤマネコほか),ヨーロッパ系(ヨーロッパヤマネコ)に分かれる,起源はヨーロッパとする説が有力だそうだ

*5:匂いを出すと自分の存在や発情状態を知らせることができるが,それはコンフリクトにもつながり,匂いのない方が別の群れに加わりやすいらしい

*6:同種の匂いにははっきりした反応をすぐにみせるが,他種の匂いには座り込んでかぎ続けるような反応をする.よく理解できないので何とか解読を試みているようにも見えるそうだ

*7:明治時代の函館の市街地の形成によるものと考えられる

*8:裂頭条虫科条虫はほとんどが海棲哺乳類を終宿主とし,一部が陸棲の哺乳類を終宿主とする.生活環は複雑で2段階以上の中間宿主があることが通常.テニア科条虫は通常食肉目哺乳類を終宿主とし通常1段階の中間宿主をとる,テニア科条虫の代表がエキノコックスということになる

*9:サクラマス(ヤマメ)を中間宿主,ヒグマを終宿主とする

*10:ケンミジンコを第一宿主,さまざまな小動物を第2中間宿主,ネコ科イヌ科動物を終宿主とする

*11:テニア化条虫で,ネズミ類を中間宿主,イエネコを終宿主とする

*12:単包条虫と多包条虫に分かれる.イヌ科動物を終宿主とし,単包条虫の中間宿主はヒツジ,ブタ,ウシなど,多包条虫の中間宿主はネズミ類になる.ヒトは中間宿主として感染環に巻き込まれる.中間宿主から見て単包条虫の終宿主はもともとオオカミで,多包条虫の終宿主はキツネだったと考えられる.野生化では多包条虫の終宿主は今でもキツネが重要になる.

*13:これらはヒトを終宿主とする.有鉤条虫,アジア条虫の中間宿主はブタ,無鉤条虫の中間宿主はウシになる.これらについてはアフリカ起源説(もともとの終宿主がハイエナで,ハイエナの食べ残しをあさったヒトに宿主転換したのではないかという説)があり,DNA系統でもハイエナを終宿主とする条虫と近いとする報告があるが,有鉤条虫についてはヒグマの条虫と近いという報告もあり,結論は出ていない

*14:アジア系のブタとヨーロッパ系のブタの交雑(ただし父系はヨーロッパ系)が基本で野生イノシシとの交雑もみられる

*15:古代DNAの分析によると南欧系のウマと関連が深い

*16:このほか各部の最後に研究手法などについてのさまざまなコラムが数多く収録されている