Bad Acts and Guilty Minds 第1章 必要性 発明の母 その4

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


緊急避難以外の犯罪阻却.「強制の法理」を説明した後で,カッツはさらに微妙なケースを問題にする.つまり,明示的な脅迫ではない「強制」の場合だ.日本ではこのあたりはすべて期待可能性の議論になるのだろう.


「強制の法理」は他人から脅迫された場合を問題にしている.では嵐などの自然に「脅された」場合にはどうか?
コモンローではこれは認められないようだ.カッツはこれが責任阻却事由なら,同じような心理状態にいたったのであれば認めて良いのではないかと議論している.


また脅迫ではなく「誘惑」であった場合には?
心理学の実験によれば,人は誘惑に負ける方がより脅迫に屈するより許しがたいと感じるようだ.だから基本的に誘惑に負けた場合には犯罪が成立すると解されている.
カッツはそれは幻想だと議論している.脅迫と誘惑は簡単にフリップできるというのだ.
「これをしないとおまえを殺す」VS「これをやってくれたら命を助けてあげる」(もっともこれはどちらも脅迫と解釈できるのではないかという気もする)


カッツは,要するに人に何かをさせるには様々な方法があって,脅迫はその中の1つに過ぎないのに,これだけに責任阻却法理があるのがおかしいと議論しているのだ.そして心理学で見つかった様々な方法を紹介している.

  • 「権威への服従」有名なミルグラムの古典的実験のほか,様々な実験結果が紹介されている.
  • 「同僚・仲間のプレッシャー」これも有名な線の長さを答えさせるソロモン・アッシュの実験が紹介されている.カッツは実際にアメリカの陪審でもこの効果が現れているのではないかと示唆している.
  • 「誘惑」これはスコット・フレーザーとジョナサン・フリードマンの実験が紹介されている.お宅の庭に安全運転の看板を掛けさせてくださいと頼むのだが,最初にまず3インチの小さなステッカーを頼んで承諾してもらってから2週間後に看板に代えてくれるように頼むと大幅に承諾率が上がる.要するに小さな頼み事をして一旦コミットさせると人は断りにくいということだ.これは消費者行動研究では「影響力の武器」などでもおなじみの現象だ.カッツはこれは人は実は操作されるという非常に薄気味の悪い現象だと評している.


カッツは「洗脳」の問題をこれらを組み合わせて解説している.そして,このようなヒトの性質が論理の誤りを含むと非常にやっかいな問題を引き起こすのだという.

例としてはいくつかあげられている.

  • 「誘惑と積み重ねの矛盾」あるものに小さな付加を行ってもある物の本質は変わらない.これを繰り返すと物事をどこまでも巨大化できる.上記の看板の例はそれに関連している.
  • 「権威と1ドルオークション」2番目のビッドを出した人もその金額を払わなければならないというルールで1ドル札のオークションを行うと,罠に落ちた2人の参加者はどこまでもせり上がる.これはサンクコストを明示的に示したものだ.既に自分が権威に服従していると,ある時点で反抗するにはコストが非常に高くなる(これまで権威にしたがってきたコストがすべて無駄になる)ためにミルグラムの実験のようなことが生じる.
  • 「同僚のプレッシャーと効率市場仮説」市場が効率的であるという議論から,道ばたに10ドル落ちているはずがないという極端な結論が導かれる.これは周りの人たちの振る舞いにしたがった方がいいという感覚をうみ,ソロモン・アッシュの実験結果になるのだと議論されている.


最後の例はちょっと無理があるような気がする.効率市場仮説を信じる経済学者が道ばたの10ドル札を見ても「そんなものが落ちているはずがない」といって拾わないというのはあくまで笑い話であって,お馬鹿な経済学者をからかっているだけだ.これが笑えるということは一般の人はそういうことは信じていないということだろう.ソロモン・アッシュの事例は,ヒトの社会性動物としての進化心理を考えるべき事例だと思う.


ともあれ,このようなヒトの心理にある様々な特徴をうまく利用すると人を洗脳することができる.実際に朝鮮戦争で北側は捕虜となった米国軍人をうまく洗脳して反米宣伝に協力させたのだ.
カッツはこのような場合も「強制の法理」を適用できるとすべきだと議論している.カッツは,違法性と責任の最後の安全弁は必要性の原則と強制の法理であり「そのように行動した方がよかった」「それ以外の行動はとてもできなかった」と考えられる事例を救えるようにしておくべきだと主張している.


日本法では,洗脳された場合には「期待可能性の法理」が適用になるかどうかが議論されるのだろう.某宗教団体の事例では,期待可能性の適用には慎重でなければならないという判例があるようだ.
日本法の最終的な安全弁としての犯罪阻却については,緊急避難の要件が広く定められ,責任阻却については規定がないという状況だ.解釈として期待可能性の法理が議論されるのはそのような背景があるからなのだろう.もっとも日本では実例が判例に残ることはまれのようだ.これは検察の段階で不起訴になっているケースが多いからなのだろうか.