Bad Acts and Guilty Minds 第2章 犯罪行為 その1

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


第2章は「Bad Acts」と題されていて,日本法でいう構成要件の問題を取り上げるようである.第1章と同じく,最初は具体的なケースから始まる.


19世紀末の南ローデシア(当時は英領植民地である)では「魔法禁止法」なる法律があった.これは魔法を使うことを禁止しているのではもちろんなくて,魔女狩りを防ごうとする法律で,魔女狩りそのものと魔女を装うことにより魔女狩りを誘発すること(この中には「魔法」を使うことが含まれる)を処罰する内容の法律だ.


背景には預言者やまじない医者による魔女への責任転嫁,そして迫害という問題があったようだ.だから法律はあるものを魔女と名指しして非難することを禁じようとした.しかし立法者は現地の習慣をよく知らなかったので,魔法を使うことの具体的な記述として規定は「骨を投げること」(実は呪い師が誰が魔女をあぶり出すときの方法)「妖術を使うこと」(魔女が誰かを呪うことは魔法witchcraftと呼ばれ,妖術sorceryは単に儀式的なもの)を禁じていた.


ここで呪い師に相談し,隣人を魔女と非難し,追放させたピュナという女が魔法を使ったとして訴追される.しかし彼女は骨を投げることも妖術を使うこともしていなかった.(ここはちょっとよくわからない,前段で他人を魔女と非難しているのだからこれだけで有罪にできそうに思われる.その部分は事実の証明ができなかったと言うことだろうか)
判事は立法者の意図を尊重し有罪とすべきか,文字通りに法律を読んで無罪にすべきなのだろうか.


これは通常では罪刑法定主義の問題で,立法者がどう考えていたとしても,文字通りの行為をしていないものは犯罪に問われるべきではないと考え無罪で一件落着するものだ.しかしカッツはそもそも「言葉の意味」とは何かを問題にする.
そして「ティラノサウルス」の定義は恐竜研究が進むと変わってくるが,言葉の意味も変わるのか,とか「シェイクスピア」という言葉の意味は百科事典の定義のようなものかと問いかける.これはまさにピンカーがThe Stuff of thought で採り上げていた問題と同じだ.


カッツは言葉の意味はそれがreferしているものだといい,発話者が考えているものとずれうるのだと説明している.(このあたりはさすがにピンカーとは違ってあっさりと流している)


法律的にはこれはまず遺言で問題になる.遺言状に書かれてしまえば,遺言者が考えていなかった効果が生じうるということだ.
カッツはここから魔法禁止法に戻り,立法者が禁止したかったことを表した言葉が何を指しているのかが問題だという.
そして魔法禁止法のようなエキゾティックな例でなくとも,通常立法過程では小さな記述ミスは生じうるのだとも説明している.さらに「猥褻」の定義がいかに難しいかという例も持ち出している.このあたりもピンカーと同じ材料であり,ピンカーに影響を与えているところのようだ.



<なぜ法律用語の定義は難しいか>

カッツはなぜ言葉の定義は難しいかを議論している.法律ではよく用語の定義が延々と続くが,確かにそれはうまくできているとは思えないものが多い.
まず立法においてはすべて基礎的なことがわかっていなくても記述を迫られることがあるという問題がある.魔法禁止法はまさにこの例だ.立法者はとにかく魔女の迫害を止めなければならないのだ.なおこの個別事例では,最終的に魔女としてimputationを行ったとは言えないとして無罪評決となったようだ.


次に共通の要素がないにもかかわらず単一の用語で呼ばれているものがある.カッツはウィトゲンシュタインが「Game」と例として説明していたことを紹介している.これらは互いに似ているいわばFamilyのようなものだという.
刑法では「Theft」がよい例としてあげられている.


ここで参考書でお勉強してみた.英米法での「Theft」は辞書では「窃盗」とされていることが多いが実はかなり異なる.大まかにいうと日本でいう窃盗と横領と詐欺をあわせたような犯罪類型だ.(窃盗はlarceny,横領はembezzlement,詐欺はfalse pretenseと呼ばれる)

これは歴史的経緯からそのようになったようである.もともとコモンローには窃盗であるセフトしかなかった.しかし18世紀末に不誠実な銀行員がセフトで訴追されたが,不法奪取がないとして無罪になったことをきっかけに,横領が制定法で犯罪となった.しかしその前に封印されている小包を着服した配達人は封印を開ける行為が不法奪取に当たるとしてセフトであるという判例が定着していたので,セフトと横領の切り分けはかなり技術的になってしまった.またやはり制定法で詐欺が成立した後に,この3罪を統一した訴追ができなければ,不法奪取や欺きがあったかなかったかによって(罪名が変わるということだけではなく)無罪になってしまう(札束を数えてやるといって受け取り,そのまま脅して逃げた例が実際にあったそうだ)という訴訟技術的な問題が生じた.そこで3罪を合わせてセフトとして訴追可能にしたという背景があるようだ.
カッツによればこれは似たような犯罪のfamilyのような名前ということになる.ただこれはかなり訴訟技術的な問題だろう.コモンローでは訴追の際に被告に何の罪名で訴追を受けているかを告げなければならないそうだ.日本では予備的な訴追ができるからこのような問題は生じないということなのだろう.


さてカッツは定義が混乱する3番目の理由として,立法者に定義の衝動があり,定義しすぎてしまうという問題があると指摘している.コモンローにはreasonable, good faith, relevent などのあいまいな用語が多く,立法者はこれを定義せずにいられなくなるという.そしてそのような試みは混乱を生むだけだということだ.
ここでもカッツはウィトゲンシュタインの「ある意味すべてのルールは空虚だ」という言葉と「68+57=127」というときの+の定義を巡る議論を引いている.+が帰納的に定義される限り常に正しいとは限らないというものだ.
そしてこれは刑法上の用語の解釈に大いに関連がある.凍結胎児の破壊は殺人(謀殺)を構成するのか.これは凍結胎児が人かどうかを決めなければならないし,それまで考えられたことがなければどう決めても間違いとは言い切れない.

カッツは,この問題は結局多くの人がその解釈で是とするかどうかという問題に帰着するのだという.そして実際にreasonableという言葉の意味は多くの人で一致するのだと主張している.


日本の刑法の世界では,まず明確な制定法主義なので,コモンローのあいまいな用語の解釈という問題は生じない.しかし当然ながら刑法典の条文の解釈の問題は残る.まず罪刑法定主義があり,規定は明確でなければならないという原則がある.しかしやはりすべてを完全に明確に記述できるはずもなくどのように解釈するべきかが争われる.
参考書を読む限りでは,日本では,具体的な事例解決としての妥当性を考慮してある程度柔軟に解釈するという運用がなされてきたようである.言葉の意味を哲学的に考えるという部分を飛び越えて事例解決を優先している部分があるのかもしれない.このあたりは現場の裁量を広く認めるという法文化ということだろうか.前回見た起訴便宜主義とも通じるものがあるようだ.