「数覚とは何か?」

数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み

数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み


本書は認知心理学者スタニスラス・ドゥアンヌによる数量の認知や計算,そして数学に関する脳の仕組みにかかる本だ.ドゥアンヌはフランスの研究者で数学から認知心理学に転向したという経歴を持つ.原題は「The Number Sense: How the Mind Creates Mathematics」,出版は1997年とやや古い.もっとも訳者の長谷川眞理子先生のあとがきによると,現在でもこの主題についてはわかりやすいまとめとして有用な本だということだ.


ドゥアンヌは,まず動物とヒトに共通の「数を量的に把握できる能力」があるという議論をしている.ヒトの発達心理学的には,ピアジェの「数の認識はすべて学習によって獲得する」という説が通説であったのをくつがえしていく学説史ということでちょっと力が入っている.結局ピアジェが誤ったのはその実験の方法に問題があったということになるが,面白いのは,幼児の数の認識を調べるには言語で尋ねるより,(見つめる時間を計るというのは有名だが)チョコレートで実験した方がいいというくだりだ.さもありなんということだろう.
また認知的に興味深いのは,幼児の認識には1+1が2にならなければ驚くが,ボールが人形に変わったりしても驚かないというステージがあるのだそうだ.それは,数については生得的な理解で問題ないが,あるものが同一かどうかの理解は,同じものが視覚的にかなり異なって見えることがあるので,様々な見え方の学習の後に同一性の認知が発達するということだと説明されている.
次にその数の把握認識の詳細だ.これは量的な計測モジュールによっているので数が4より大きくなると概数的になるし,小さな数より大きな数の方が認識時時間がかかる.そして空間認識と密接な関連があり,また基本的に対数的に働く.
またこのモジュールは無意識的にスイッチが入る.だからヒトは8と9が同じ数字かどうかを判別というタスクについて,2と9のときに比べて時間がかかる.これは文字の色と単語の色を変えたとき(例えば赤いインクで「緑」という言葉を印刷する)に文字の色を答えさせるタスクが非常に難しくなるという認知現象とパラレルなものだろう.


ここからドゥアンヌはヒトがこのような原始的な数の量的把握モジュールからスタートして,発達的に,あるいは文化史的にどのように,数を拡張し,計算をし,数学を作っていくのかを議論する.


まず通文化的に数をどう表しているのかをみていく.指などの身体と対応させ,文法的にはまとまりを作って組み合わせ,大きな数は概数で表すというユニバーサルが強調される.*1


計算については幼児の発達の面から見ていく.まず数を順番に数えるということを始める.しかし興味深いことに最初は数え上げても,それがその集合体の数を表しているという認識が薄いそうだ.そして5歳ぐらいから足し算のアルゴリズム的な理解が始まる.だから就学当時はこの2つのアルゴリズムがコンフリクトしてなかなか難しい認知タスクになるのではないかと示唆されている.

また難しい認知タスクであることの関連として,かけ算表(九九)が何故覚えにくいのかという話題にも触れている.ここではヒトの記憶モジュールが連想型であるために,九九のような記憶は様々な連想と干渉してしまって難しいという説明している.*2


ではラマヌジャンや,サヴァン症候群のような数学の天才はどう考えればいいのだろうか.ドゥアンヌは,しかし彼等をよく見ていくと,彼等には共通して数への執着,集中心,そして訓練がみられるという.遺伝的な要素は確かにあるが,その上に情熱と訓練が必要なのだ.ドゥアンヌは「彼等には数に対する愛と苦悩,希望と絶望がある」と表現している.数学のような進化環境で直接問題にならなかったような能力の開花には(言語能力などと異なって)ドリルが必要だというのは納得できる主張だと思われる.


ここからドゥアンヌは様々な数学的な認知能力がさらにモジュールになっているという説明を脳損傷患者の例,fMRI, PETにおける知見などから説明している.ここは詳細がなかなか興味深いもので,数字や文字の認識,その量の認識,空間との関連,計算,読み上げ,代数的アルゴリズムそれぞれが異なる部位のネットワークによって処理されているらしいことがわかる.また計算でも足し算とかけ算ではネットワーク処理が異なるようだ.このような細かなサブルーチンの存在は私の事前の想像を越えるもので面白かった.


ドゥアンヌはここで数学的な認知能力に関する「機能主義的アプローチ」を批判している.ここでいう「機能主義的アプローチ」とは,脳をコンピュータに見立て,認知心理学はソフトウェア的なアルゴリズムだけを考えればいいという主張だ.確かにニューロンを使ってノイマン型のコンピュータを構成することは可能だが,しかし脳はそうはなっていない.脳の処理はアナログ的で,感情という要素も重要なものだという主張だ.これは脳が進化的に構成されたハードウェアであれば当然のことだろう.


ドゥアンヌは最後に「数学とは何か」という議論をしている.ドゥアンヌによれば,「数学は美しい体系が既に存在し,ヒトがそれを発見するのを待っている」とか,「全くどのようにでも定義できるの記号操作のゲーム」だとか考えるべきではないという.それは動物と連続したヒトの生得的な量的認知からスタートし,様々な拡張があり得るなかで,ヒトにとって役立つ拡張が淘汰を受けて残っていった結果だというのだ.いかにも進化的な見方で面白いが,なお疑問は残るだろう.そもそもこの主張は第一の主張と排他的であるようには思えない(ヒトの認知が美しいと感じる数学体系が物理世界の成り立ちと親和的であることが必ずしも不思議だとは限らない)し,先に美しい体系として選ばれた数学の拡張が,後になって物理学的に有効だったという事例の方が多いのではないかとも思われるところだ.


本書は全体としてヒトの数学的な認知がどのように働いているのかを示してくれていて,特に詳細は大変面白い.そして進化環境の様々な問題を解決するための適応が働くと,脳はどのような形でその解決方式を実装するのかということについて直観的な見取り図を与えてくれているように思う.
また実用的な観点でいうと子供に数学を教えるにはどうすればいいのかということについても示唆に富んでいると思う.ドゥアンヌは,子供の自然な数的認知の発達をよく考えたカリキュラムを考えるべきだと主張し,ブルバギなどの体系論理重視の数学者たちが「新しい数学」の授業を通じてフランスの初等数学教育を破壊してしまったことを嘆いている.ちょっと面白いのは,算数でかけ算や割り算のドリルと延々とやらせるよりも,電卓を導入して子供に数字の面白さを発見してもらう方がよいのではないかという主張だ.数学教育についても認知心理学進化心理学の応用可能性は広がっているということだろう.


関連書籍


原書

The Number Sense: How the Mind Creates Mathematics

The Number Sense: How the Mind Creates Mathematics

*1:なおこの部分では,数をもっとも合理的に言語表現しているのは中国語であるとし,数え方が恣意的で複雑な印欧語を使っていると数学能力獲得において(アジア人に対して)不利であるという主張がなされている.ドゥアンヌはフランス人なので特にそう感じるのだろう.なにしろ93をquatre vingt treize(よっつ「はた」と「みつとお」というぐらいの感じか)というのだから大変だ.私達は古代中国人に感謝すべきなのだろう.なお大和言葉の93は「ここのそあまりみっつ」ということで,「あまり」という不要な単語を使わなければならず,20は特有の単語「はた」,30から90までは10のことを「とお」といわずに「そ」というという複雑性がある.また大きな数も「もも」100,「ち」1000,「よろず」10000,までということのようだ

*2:ここでは九九を音韻として覚え込ませる日本式の学習がうまいやり方だと賞賛されている